ハラスメント
朝八時十五分に現場に着くと、既に業者さんたちは着ていた。
「おはようございます」
「おはようございます。あれ? 浅見さんは? この現場、浅見さんだろ、監督」
「浅見はちょっと怪我をしまして・・・、私が代わりに努めます。・・・あの、社長さんは?」
私はきょろきょろと村山社長を探した。見当たらない。現場には来ているはずなのに。
「おやっさんはギックリ腰やっちゃてさ。今日は休み。何か話、あった?」
「いえ別に。・・・大丈夫ですよね?」
目の前の大男の、顔色が瞬時に変わった。声色も。
「何が? おやっさんの腰か?」
「工事、大丈夫ですよね?」
「おいおい、ねーちゃん。俺たちゃプロだぞ? 仕事に穴、開けるわけないだろう。それとも何か? おやっさんがいなけりゃ信じられないってか?」
そこに榊原さんが飛び込んで来た。
「おはようございます、佐々木さん。真鍋はそんなつもりで言ったんじゃないですから」
「どんなつもりだよ」
「人数が一人減ると、その分他の人の負担が増えるじゃないですか。オーバーワークを心配しているんです。今日は暑くなりそうですし、水分補給と休憩は適度に取って下さいね。それでも時間厳守で。この区間、水道止められるのは九十分ですからね」
「わーてるよ。ったく、役所っているのはイチイチうるせえなあ。おーい集まれー! 作業前点検始めるぞお」
榊原さんは私の腕を引っ張ってそこから離れ、顔を近づけて小さい声で言った。
「佐々木さんは短気だから。下手なこと言わないで」
「だって、社長さんがいない現場なんて」
「彼らはプロの集団だから。実作業は任せよう、ね」
九時ちょうどに工事は始まった。重機を操り、アスファルトを剥がし、地面を掘る。土砂を救ってダンプカーに移す。小型のシャベル機はオペレータの手足のようだ。凄い。私は気が付くとすぐ近くまで寄っていた。へえ、上手いもんだ。
「おい、ねーちゃん! 危ないから離れろ! 事故になったらお互い困んだろ!」
重機に負けない怒鳴り声だ。私も負けずに叫び返す。
「お上手なんですね」
「ったりめーだ。何年やってると思ってんだ」
「あの! この現場ガス管も埋まっているんで、慎重にお願いしますね!」
「わーてるって! 素人じゃあるまえし。そんなチョンボ、すっかよ! ほらねーちゃん、そこどけって」
見るみるうちに配水管露出し、若い作業員たちが手作業で管下を掘り下げる。私はその場を離れ、車に戻った。
「洋子ちゃん、僕らも配置に付こう」
私たちは車に乗り込み、工事現場から上流と下流のバルブを閉めに行く。下流の場所に私を下し、榊原さんは上流へ。時間は九時半。まず榊原さんがバルブを閉めて上水を止める。その後、水圧を確認して私もバルブを閉止する。そこからは時間との勝負だ。土中から古い水道管を外し、新しいものと交換する。土を戻すのはゆっくりでもいいが、パイプ交換の時間、つまり断水の時間は限られているのだ。私たちが配置について、無線で連絡を取り合う。
「こちら榊原。上流弁準備良し」
「真鍋です。下流弁準備良し。佐々木さん、現場準備良いですか?」
無言だ。返事がない。
「佐々木さん、現場準備良いですか?」
スピーカーから佐々木さんの声が聞こえない。まだなのだろうか?
「佐々木さん!」
榊原さんも叫ぶ。と。
「聞こえてんよ。いつでもいいよ。こっちは準備万端、待ってんだ」
ならさっさとそう言えば良いのに。村山社長の温和な顔を思い出す。社長ならこんな態度、取らないはずなのに。
「・・・ゼロキュウサンマル、上流弁閉止」
「・・・水圧低下します。九、八、五、三・・・。下流弁閉止。交換作業始めて下さい」
無言の返事。一体どうゆう態度なの? 私は頭に来ていた。
現場に戻ると、既に最初のパイプの交換は済んでいて、二本目が取り外されるところだった。
「ちょっと佐々木さん。なんで返事をくれないんですか? 弁閉鎖のタイミング、待ってたんですよ?」
「時間になったら閉じたらいいだろ? こっちはそれに間に合うように作業してんだ」
「その進行状態が見えないから、無線を持って連絡取り合っているんじゃないですか」
「浅見さんなら阿吽の呼吸で止めてんよ」
「あなたねえ!」
「まあそんなに熱くなんなよ、ねーちゃん」
「真鍋です! ねーちゃんなんて、呼ばないで下さい」
「なんだ、最初に呼んで文句がなかったから、それでいいのかと思ったぜ」
ヘラヘラというか、ニアニアというか、気持ち悪い笑い方だ。私はその場にいると喧嘩になりそうな気がして、榊原さんと合流した。
「作業は順調だよ。なんだかんだ言ってもやっぱり村山組だな。社長の後進指導はちゃんと出来てるよ」
「性格に難あり、ですよ。何ですかあの人! 他人を見下しているというか、小馬鹿にしているというか、私、ああいう人大っ嫌いです」
「浅見さんとは違うよね。浅見さん、言葉使いは乱暴でもああいう態度は取らないもんね」
私は水を飲んだ。ふう、落ち着け、私。あれ? なんで浅見さんが引き合いに出ているのだろう?
「こちら榊原、上流弁開放します」
「・・・真鍋です。流入確認、・・・安全弁閉めます。水圧上昇」
「佐々木だ。工事個所にリークなし」
「了解。下流弁、開放します」
現場に戻ると、埋め戻しが始まっていた。
「ちょっと佐々木さん、勝手に進めないで下さい。写真撮らなきゃならないのに」
「撮ってあるよ、勿論。ちゃっちゃと埋めて次に渡さないとね。午後の工事もあるから」
午後はそこから西に移動した場所だった。断水は午後の二時半から四時半までの二時間。蒸し暑い夏の日の午後。朝はまだ曇りがちでそうでもなかったが、陽射しが差し始めると気温はぐんぐん上がり、屋外作業はきつい。
「水分補給と休憩は適時して下さいね」
「それでも時間厳守、だろ? わーてるってっ」
一時から始まった作業で七割方のアスファルトは剥がせたが、配水管は二割しか露出していない。暑さで作業ペースが落ちているのか、これが通常ペースなのか。
「あっついなあ」
ペットボトルの水をゴクゴクと飲んで、佐々木さんが声を出した。
「順調、なんですか? 私たちそろそろバルブの場所に移動しますけど」
「ちっと、遅れ気味、かな」
「時間厳守ですよ? 断水時間は百二十分しかないんですから。あと二十分で閉めますよ?」
額から汗が流れる。制服の下は汗でびっしょりだ。私はハンカチで額の汗を拭う。
「ねーちゃん、そんな暑そうな作業着着ていないで、脱ぎゃあいいのに」
「作業着じゃなくて制服です。職務中の制服着用は規則ですから」
「かー。固いなあ。ウチの連中も、ねーちゃんがタンクトップやビキニで監督してくれりゃ、張り切るのによお」
周りで大きな笑い声がする。駄目だよこのねーちゃん、ボリュームねーから。誰かの大声でさらに笑いは大きくなった。
「それで?」
病室で私は浅見さんに工事報告をしていた。工事から二日後、休日。
「榊原さんがバシッと言ってくれて。結局作業は定刻に上がったんですけどね」
「・・・ったく。あそこの若い衆、社長がいないと羽目外すなあ」
「村山社長が来なかったのは誤算でした。来週も工事予定入っているんですよねえ」
「ギックリ腰なら一週間も掛からないだろ。で、今日はわざわざその報告か?」
「いえ。バイクの話を、もう少しアドバイスしてもらおうかと」
私は先日選んだFZRの見積書を見せた。今日の午前中、家に近い中古車チェーン店でもらって来たのだ。
「これって、妥当な金額なんでしょうか?」
「フルノーマル、走行距離が五万切ってこの価格ならまあまあかな。事故歴もないんだろ」
「ええ、確認しましたから」
「タイヤと車検、税金でまだちょっと掛かるな」
「はい。それも聞いてきました」
ひとしきりバイクとウェア、ギアの話をした。ここのメーカは品質が良いとか、ここのはコストパはいいけどデザインはイマイチで、とか。スマホで検索しながら見せ合って。看護師が部屋に入って来たのに気が付かなかった。
「あら仲の良いこと! 浅見さん、検温ですよお」
彼に体温計を渡す。
「もう明後日には退院ですからね」
あ、そうか。もう退院なんだ。じゃあこれが最後のお見舞いになるのね。私はふと思った。職場に戻ると私は彼とこんな距離感でいられるだろうか。仕事中にバイク談議をするのは駄目だよね。いや、休憩中ならいいか。いつかのガミさんを思い出した。
「じゃあ私、これで帰ります。住民票取って、契約してきますから」
「おお。決断早いな」
「はい。ありがとうございます。後押し頂きましたから」
私は病院を後にした。そしてその言葉通り、コンビニで住民票を取って、その足でバイク屋に戻り、契約書を作った。
契約者に日付を書き込むとき、今日が四日であることに気が付いて、あっ、と思った。そうだ、今日は佐倉の家に行く日だ。先週電話をして確認したのに、記憶からこぼれていた。お母さんは夜勤だから、佐倉家で晩御飯をご馳走になる日だ。考えてみれば私は幸せ者かも知れない。二人のお母さんに愛情を注いでもらって。雅美の分まで、そう思うことにした。
晩御飯を一緒に作っている最中は仕事の話をして、そして食べながらバイクの話をして。食後の紅茶を飲みながら、何故雅美はバイクの免許を取る気になったのか、そんな話になった。その理由をおじさんもおばさんも知らなかった。
「好奇心の強い子だったからねえ」
西洋仏壇の、静かに微笑む雅美の写真。夏の切り花。私には不思議な気がした。私の知らない雅美がいたなんて。私は彼女のことを何でも知っていると思っていたけれど。
「世の中にはね、貴女の知らない事が沢山あるのよ」
雅美の言葉が甦る。あの子は私の知らない何を知っていたと言うのだろう。
「で、洋子ちゃんはオートバイを買うんだ」
「いえ。もう契約しましたから。納車待ちです」
「決断早いねえ」
あれ? この言葉。
「どうしたの?」
「いえ、昼間もそう言われたもので。浅見さんに」
「また浅見君の話か・・・」
「え?」
二人は顔を見合わせた。
「洋子ちゃん、今日はその浅見さんって人の話ばかりね」
「いや今日だけじゃないさ。ここ数ヶ月、何度もね。僕らもその浅見君のこと、結構詳しくなったよ」
「恋かしらねぇ」
「ち、違いますよ。ガミ、三神さんにも言われましたけど、それ、誤解です。私は浅見さんのこと、好きになったりしていません。恋なんてしていません」
「洋子ちゃん?」
「はい?」
おばさんが静かに微笑んだ。まるで雅美の微笑みだ。
「恋っていうのはね、するものじゃなくて落ちるものなのよ」
「ほら、フォーリンラブってね」
おじさんも同調している。流石長年のパートナー。
「恋をするなら華やかに、愛をするなら慎重に。って、誰の台詞だったかしら?」
「ご迷惑をお掛けしました」
吉野課長のデスクの前で頭を下げる、浅見さん。まだ右腕にはギブスが巻かれ、三角巾で吊った状態だ。
「仕方ないさ。でもその腕じゃ、外回りは無理かな?」
「いえ、車の運転は真鍋がやってくれますし、大丈夫です」
「バルブの開閉できるのか?」
「左手、鍛えてありますよ」
「解った。じゃあ無理しないでな」
「ありがとうございます」
浅見さんは私の横に戻ると、早速データのチェックを始めた。
「ふう。二週間分のログチェックは大変だ、こりゃ・・・」
「明日は朝から計画工事ですけど、行けますか?」
「当り前だ。なんだ真鍋、ちょっと見ないうちにナマ言うようになったじゃないか」
「? 三日前に会ってますけど?」
「仕事の話だ」
お見舞いに行って、仕事の話しなかったっけ? まあいいわ。私も自分の仕事に集中した。
翌日、朝七時半に出局して浅見さんと待ち合わせ。工事現場に出発した。業者さんたちとは八時半に現場で待ち合わせ。重機の騒音を考慮して作業の開始は九時から。村山組は上下水道の配管業者で、ここでは掘削と配水管の交換を請け負う。その後のアスファルト舗装はまた別の業者さんだ。車の通行を止めなくてはならないから、警備会社から交通誘導員にも来てもらう。一つの現場に複数の業者さんたちが入るが、その監督と作業責任は私たちにある。
八時半を過ぎても村山組は現れなかった。舗装業者さんはあと作業だから現場入りはもっと遅い。警備会社が通行止めの看板を用意して、そろそろ止めますよ、と声を掛けた。
「おかしいですね。村山社長、時間は守る人なのに」
「何かあったかな? 電話してみよう」
浅見さんが電話を掛けると、相手は直ぐに出たようだ。話し声が漏れ聞こえる。
「え? またですか? そうですか・・・。解りました。はい・・・はい。もう少し待ちますが・・・。・・・お大事に。失礼します」
「何ですか?」
「またギックリやっちゃったって。現場は佐々木に任せてあるからって。謝られてもなあ」
「でも来ていませんよ?」
「もう少し待ってくれって。仕事に穴開けることだけは絶対にないからって」
今朝は朝から暑い。すでに気温は三十度を超え、ただ立っているだけで汗が噴き出す。四十分を過ぎ、四十五分になった。私もイライラしているが浅見さんはそれ以上だ。怒りモードにスイッチが入っているように見える。五十分になろうかというとき、トラックとワンボックスが到着した。
「よお! わりい!」
真っ黒に日焼けした佐々木さんが運転席から一言叫んで。
「おらあ、さっさと準備しろー! あと十分しかねえぞお」
「ちょっと佐々木さん! 何してたんですか? 遅いですよ、遅刻です」
私は浅見さんより先に苦情を言った。浅見さんに任せたら喧嘩になるんじゃないか、咄嗟にそう思った。
「なんだよ、謝ったじゃねえか。作業は九時開始だろ? あと十分で準備済ませりゃ問題ないだろ?」
「集合は八時半、連絡してありますよね?」
「っせーなあ、ねーちゃんは。浅見さんは何にも言わねーじゃねーか。あ、そうそう。浅見さん怪我したって、これかあ。折っちゃったの? 大変だねえ。大丈夫?」
佐々木さんはヘルメットを被って空調服のスイッチを入れる。モーターの回転音がして服が膨らむ。
「お役所さんも空調服にすりゃあいいのに。このクソ暑いのに作業服の時代じゃないでしょうよ。ああ、ねーちゃんは空調服じゃない方がいいな。タンクトップかビキニだな」
ヘラヘラ笑ってる。私の頭の中でプツンと音がした。
「真鍋です。ねーちゃんなんて呼ばないで下さい。それから」
私の言葉を浅見さんが制した。
「佐々木さん、セクシャルハラスメントって言葉、ご存じですか? 真鍋が訴えたら、あなた、村山社長に迷惑が掛かりますよ? 社長には恩義があるんでしょう?」
「なんだあ? セクハラだあ?」
瞬間湯沸かし器のように一気に頭に血が上ったようだ。
「それから。作業開始前には重機の作業前点検が必要なの、忘れてませんよね? 作業員の健康状態の確認も。現場で事故が起きるのはまずいんですよ、お互いにね」
「わーってるよ。ったく、うっせーとこだな。点検も点呼もちゃんとやんよ」
「一連の作業を、我々は全て監督する責務があるんです。そんな態度なら次回の入札から外れてもらいますよ。いいですね?」
その言葉に、佐々木さんの態度が一変した。
「な、なんだよ。脅しかぁ? 村山組の実績があって、工事から外せるのか? グダグダ言うなら、今、この現場、引き上げてもいいんだぞお」
言葉に力がないのが判る。それができっこないことも。
「そうですか、現場放棄ですか。なら契約違反としてこちらも対処します。違約金と他の業者さんへの弁済、工事遅延の補償、積算すればすぐに億近い金額になりますよ」
どうしよう、止めるべきか。浅見さんの淡々とした口調は冷静を装っているものの、逆に怒りの沸点に近い。というより既に爆発しているんじゃないのか、これは。私は二人の間に割って入った。
「まあまあ。二人とも冷静になりましょうよ、ね。佐々木さん、準備進めて下さい。九時を過ぎてもいいんで、あと二十分でオールスタンバイ、できますよね?」
「お、おお。できる」
「浅見さん、閉栓を十分遅らせましょう。掘削は慎重にしてもらわないと、そこの時間で雑に作業されたら破損事故になる恐れも。その代わり、開栓は予定通りヒトヒトマルマル」
浅見さんはヘルメットを持ち上げ、空を見上げた。真夏の青空。それから佐々木さんに向いて。
「閉栓ヒトマルヒトマル、開栓ヒトヒトマルマル、できますか?」
「や、やるよ。いや、やります」
村山組が作業に入ると、それを遠目に見て私は浅見さんに話し掛けた。
「喧嘩になるんじゃないかって、冷や冷やしました」
「あれはポーズだ。こっちが本気で怒ってるって態度見せないとな。事務的に規則を言い並べてもああいう奴には効かないのさ」
「入札の話、本当なんですか?」
「ああ、土木課でもそうだけど。業者は出入り禁止になったらおまんまの食い上げだからな。一番効くよ」
「パワハラですね」
「馬鹿言え、言ってることは正当だ。さ、そろそろバルブへ移動するぞ」
佐々木さんに無線を渡し、私たちは車に乗り込んだ。
週末、郊外のバイク用品店に出掛けた。品揃えはいいから、たぶんお目当ての物は大抵揃うはずだ、浅見さんにそう教えてもらった店だ。そこでヘルメットからブーツまで、プロテクタと合わせて一式全て揃えた。一応店員さんにもいろいろ相談したけれど、もらえたアドバイスは浅見さんとほぼ一緒だった。
それにしても、結構な出費になった。バイク代は結局半分、お母さんから借りることにしたけれど、海外旅行に行くつもりの貯金があっさりと消えてしまった。それでも、これでスタートラインに立てる、そう思って自分を納得させた。
ガミさんに連絡を取ると、明日浄水場においでと誘われた。私はおニューのヘルメットやブーツ、まだ全然馴染んでいない革のパンツを車に積んで浄水場の第三駐車場に向かった。そこにはガミさんと、マリナちゃんの家族がいた。
「おはようございます」
朝の挨拶を済ませると、じゃあ始めますか、というガミさんの言葉で、本当に清掃が始まった。箒できっちり端から端までは掃いて、小石や落ち葉を集めた。
「カモフラージュじゃないんですね?」
「バンク中に砂噛んでコケたくないでしょ?」
清掃が一通り終わると、パイロンの設置だ。これは駐車場の一角に積まれていた。引っ張り出して、ガミさんの指示で並べる。
「午前中は縦に一列、オフセットスラロームとしそを並べて時計回りで。こっちには八の字パイロンとクロススクエアのセクションを作ろう」
設置が終わると、マリナちゃん母娘が早速走り始めた。
「上手いもんですねえ」
「まあね、渡辺一家は中央の大会でも有名だよ。親娘三人の家族エントリーも珍しいし、親父さんはB級、奥さんと娘はC2級だし。・・・さて、バイクを降ろそう」
ガミさんのワンボックスからVTRを降ろし、エンジンを掛けてアイドルさせる。私は車の陰で、皮パンに履き替えブーツを履いた。
「皮パン、ブーツにモトクロスジャージかあ。モトジム定番スタイルだね。プロテクタは?」
「ジャージの下に着込んでいます」
「よし。じゃあまず八の字から行ってみよう」
「はい」
私はゆっくりクラッチを繋いだ。パイロンにはあんまり近づき過ぎないように、この前の練習を思い出し、二メートルから倒し込んでクルっと回る。堪えて我慢して、向こうのパイロンが見えたらアクセルオン。バイクが起きて加速する。ブレーキ、バンク、旋回、加速、ブレーキ。グルグル回っていると目が廻る。風神、雷神、龍神の赤いオフジャージに着替えたガミさんの所に戻って来た。
「どうですか? 教わったこと、出来てますよね?」
「うん、まあね。バイクにも慣れて来た感じ、するよ」
「ありがとうございます」
「でもね、これは教習所レベルの乗り方。基本のキの字だからね。これからちょっと応用編に入ってみよう」
ちょっとワクワクした。どうするんだろう?
「今はパイロンを中心に旋回してるよね? 入口が三メートルなら出口も三メートル」
私は頷いた。
「入口で速度を作ってパーシャルで入って行くから、入口から出口までが定常円、つまりまん丸のレールの上を走ってる」
私はまた頷いた。教習所ではそう習った。
「ちょっと見てて」
ガミさんはヘルメットを被るとVTRに跨り、さっと走り始めた。向こうのパイロン、走っている方向がちょっと違う。四メートル以上離れた所から倒し込みを始めた。えっ? あそこが入口なの? 気のせいか、バンク角が旋回するに連れ深くなっているようだ。ジャッと音がして、パイロンの横数センチでバイクが立ち上がる。加速、まだブレーキが始まらない、エンジンブレーキの音と同時にテールランプが点灯、こっちのパイロンに横に来てもランプは消えない。それが消えた瞬間バイクはバンクを始め、旋回を始めた。
ガミさんが戻って来た。
「どお? 違い、判る?」
「ええ、ガミさんの、パイロンへのアプローチ、遠いところから始まって、出口が近いんですね。それからブレーキがタイトでアプローチの奥まで続いて」
「よく見てるねー。素晴らしい。じゃあやってみて」
やってみて、と言われてもそれがすぐに出来るわけじゃない。自分の手足でさえ、不慣れな動きは思うように動かないものだ。ましてやそれがバイクともなれば、自分の意思通りに動かすには練習どころか訓練が必要だ。それでもなんとかガミさんのラインはトレースできた。
「タイムを詰めるときはもっとタイトに突っ込むんだけどね、今はまだそれでいい」
「ありがとうございます。あの、ブレーキのリリースのタイミングなんですけど」
「バイクはさ、加速している時が一番車体が安定するんだよね。つまり逆にいうと加速中のバンク開始は滅茶苦茶難しい。ってことは、車体の不安定な状態を意図的に作りだせれば、バンクの開始、つまりターンは入りやすいってことさ」
「はあ」
「減速でアクセルオフのタイミングとかがそれだ。バイクの挙動が不安定になるから倒しやすい。で、バイクを安定させるためにアクセルを当てる」
「はあ。でもブレーキを握ったままだとバイク、倒せないですよ」
「それは直線区間でフルブレーキしてるからさ。フロントのフォークが収縮して荷重が前に入っているからね。ブレーキ中にターンのための体重移動を行って、リリースしてごらん、前の荷重が抜けた瞬間に一気に倒れるよ」
「なるほど。ブレーキリリースのタイミングは、イコール倒し込みのタイミングなんですね?」
「それが全てじゃないけどね。ターンの初期動作って言うか予備動作はいくつもあるし、ブレーキは減速させるのが目的だから、そのターンに適した速度に到達したらリリースしていいんだ。で、それができるようになったら、完全にリリースするのではなく、ブレーキを掛けたまま少しだけ荷重を抜いて減速を継続させながらターンに入るんだ。フロントに荷重が残ったままターンに入るとグリップ力が増すからな。俗にいうタイヤを潰す感じ、ってやつだ」
「そんなの、初めて聞きました」
「普通のツーリングライダーが一般公道で使うテクニックじゃないからね。儂らはブレーキングだけでもいろいろ使い分けているんだよ。フロントもリアもね」
「よおし。練習します!」
私は休憩を挟みながら延々と八の字を回った。ブレーキの強さとバンクとの関係は手探りだ。ガミさんには申し訳ないけれど、VTRは二回倒した。
昼休み、私たちは場所を国道のファミリーレストランに移した。陽射しとバイクの運転で体力をかなり消費している。この前の練習でも薄々感じていたけれど、バイクを本気で操ろうとすると、心身共に疲れる。
「話変わるけど。真鍋君は、バイクは決めたの?」
「はい、決めました。今週納車予定です」
「何にしたの? 新車?」
「いえ、中古で、FZR400Rって、ヤマハのを選びました」
ガミさんの表情が固まった。マリナちゃんのお父さんも。
「それ、浅見も知っているの? って言うか、あいつのアドバイス?」
「ええ。いいんじゃないかって言われましたけど」
「そうか・・・」
「駄目なんですか?」
「いや、駄目じゃないよ。ただ、向いているかどうかと聞かれたら、ジムカーナ向きではないな。エンジン特性も、ポジションも。・・・まあいいさ。バイクは自分の好きなバイクに乗るべし、だよ」
「あの年代のレプリカにエンジンガードあるのかな」
「ちょっと探してみましょう。スライダーなら有りそうだけど・・・」
渡辺さんがスマホで検索を始めてくれた。
「スライダーってなんですか?」
「転倒したときにマシンをコースの外に滑らせる物なんだよね。本来はレーサー用のパーツで。公道じゃ立ちごけのお守りくらいしかならない」
「うーん・・・。ないな。FZR専用じゃなくて、別のヤツから改造流用するしか・・・。」
「エンジンガード、ないと駄目なんですか?」
「転倒時のダメージがまるで違うし、ライダーもね、挟まれずに済むから、あるに越したことはない」
「見た目は格好悪いから、まず公道でレプリカを乗っている連中は付けないけどね。私たち事務屋には必須アイテムね」
「ジム屋、ですか」
「あ、そうか。真鍋君が本格的にジムカーナ選手になるかどうかはまだ判らないものね」
「ちなみに、浅見さんの忍者って、付いているんですか?」
「勿論」
「知り合いに聞いてみてあげるよ。大丈夫、きっと見つかるさ」
少し落ち込んだけれど、仕方ない。私はあのフォルムにインスピレーションを感じたのだ。週末には納車だ。それまでに私も調べよう。
エアコンの効いたレストランで、私はメモを取りながら先輩諸兄にアドバイスをいただいた。ジムカーナのコースをそれなりに走るためには、他にもFZRには手を入れなければならないようだ。でも何をどのようには、私がFZRで走り込まないと判らないと言う。
「ポピュラーな改造としては、ポジション、ギア、タイヤ、サスペンションの四っつだけどね。まあゆっくり順番にやって行こう」