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彼女がバイクに乗る理由  作者: 田代夏樹
2/15

泣き虫の日

 佐倉雅美。私の親友だった女性だ。家が近所であった、ただそれだけの理由で幼稚園、小学校、中学校を同じ校舎で過ごし、そして学力がほぼ同じだったおかげで高校も同じ学校に通った。

 私は十四年間、ほぼ毎日私は彼女の容姿を目にし、彼女は私の名前を呼んだ。何度も喧嘩し、そのたびに仲直りをして、この子には隠し事はできないな、そう思える親友になった。

 雅美とは家族ぐるみの付き合いで、私には父親がいなくて母親が看護師だったせいか、佐倉家の家族イベントにもよく誘ってもらった。雅美のお父さんは商社マンで、度々渡航して留守がちではいたけれど、家族の団欒をすごく大切にする人で、正直それが羨ましかった。雅美のお母さんは生け花の師匠で和服の似合う、凛とした女性だった。私の、少しガサツな母親と比較して、やっぱり羨ましいと思ったことが何度もある。

 私は中学生からバスケにハマり、彼女の中学時代は吹奏楽部、高校時代は美術部と部活だけは離れた。放課後の僅かな時間だけが、雅美とは別に過ごした時間だ。

 短い髪でいつも日焼けしている私と、長い黒髪がいつもしっとりとしている、色の白い透き通るような肌をした雅美。趣味も性格も容姿も全く違う彼女を、もう一人の自分だと思ったこともある。

 しかし、雅美はもういない。


 高校二年の冬、私たちは進路指導の後で自分たちの進学について話をした。学校からの帰り道、ハンバーガーショップのコーヒーにミルクをたっぷりと入れて飲みながら。

 芸大に進みたいという雅美と、化学と生物学が好きで、理系を選択した私。暖房がよく効いた店の中で、窓の外を木枯らしに吹かれて寒そうに歩く人を横目に、お互いの極近い将来の夢を真剣に話した。その言葉にほんの少しだけ寂しさを感じたものの、私にはまだ何の実感もなかった。そうか、高校を卒業したら私たちは別々の大学に通い、別々の生活が始まるのか、そうぼんやりと考えただけだ。

 三年生になって八月まで部活をし、人並みの受験勉強を経て二月、私たちは高校を卒業した。卒業しても高校の自習室に通い、予備校の自習室に通い、二人の距離はまだ近かった。そして三月、受験。合否発表を確認して、私たちはお互いを褒めて喜んだ。

「さあ、忙しくなるわ。住むところを決めて、荷造りをして引越し屋さんを頼んで」

「雅美は東京の女になるのね」

「夏休みには帰って来るわ」

「ゴールデンウィークは?」

「洋子が遊びにおいでよ。TOKIOを案内するから」

私たちは肩を叩いて大笑いした。地元の国立大に進学する私。母親を一人にしたくないという大学の選択理由を、私は誰にも言ったことはないけれど雅美は知っている。

 彼女の引越の日、はつらつとしている彼女の後ろに、心配そうな彼女の父親の姿があった。娘の旅立ちを喜んでいいのかどうか、笑顔の間に悩みが見え隠れしていた。

 私はというと、彼女が一足先に故郷と実家を巣立って行くようで、切ない気持ちになっていた。そして、そんな彼女と彼女の家族がやはり羨ましい。

「わざわざ見送りなんて、良かったのに」

うん、でも・・・。何故か言葉は出なかった。胸が熱い。

「じゃあね。連休には遊びに来てよね? 約束よ?」

「勿論よ。バイトに精を出してお小遣いを貯めておくわ」

春らしい明るい陽射しの中で、彼女のパステルカラーのブラウスが眩しかった。


 芸大に近いワンルームの学生マンション。約束通り遊びに行くと、雅美は思いがけない言葉で私を迎えた。

「洋子、免許取りに行こう。車の免許!」

「え?」

「合宿免許! 清里の高原、今年の夏は避暑地で過ごすの。どう?」

突然の提案にびっくりした。普段物静かでおとなしい彼女は、時々突飛なことを言う。もの凄く真剣な目で私の顔を覗き込んでくる雅美。確固たる決意の目だ。このパターンは過去に何度も経験している。

「ぃ、いいわね。考えとく」

意表を突かれた私はとりあえずそう応えた。雅美はにっこりと微笑むと、私を部屋に招き入れ、話題を変えて明日からのデートプランの復習を始めた。すっかり雅美のペースだ。仕方がない、ここは雅美のテリトリーと諦めた。

 六本木ヒルズ、渋谷、お台場、そしてディズニーリゾート。目一杯遊んでくたくたになり、それでも夜遅くまで話し込んだ。たった一ヶ月離れただけ、それでも毎日スマホでメッセージと写真を送って、お互いの髪の色が変わったり、メイクが変わったり、知っているはずなのに、話は尽きなかった。あっという間の五日間を過ごし、私が地元に帰って数日後、彼女から合宿の申し込み用紙が送られてきた。マニュアルの普通自動車とマニュアルの普通二輪に丸印が着いてある。間違えたのかしら? マニュアルの免許はオートマチックに比べて授業料が高いし、二輪の免許は私には必要がない。バイトが終わって、いつもならチャットアプリでやり取りをするのだけれど、私は雅美に電話を掛けた。

「ウェイ、ニーハオ! ウォシーヤンズ」

「・・・ウォシーヤーメイ」

冗談で習ったばかりの中国語を話すと、雅美もノリ良く返して来た。

「免許合宿の申し込み用紙届いたのだけれど、変なところに印が付いているの」

「間違いじゃなくわ。四輪はMT。二輪もMT」

「オートマじゃないのね」

「世の中には自分でギアチェンジしなければ走らない車もあるのよ」

「世の中に存在しても、私がそんな車を運転するとは思えないわ」

「でももし運転する機会に恵まれたらAT限定免許じゃ乗れないの、解るでしょ? せっかくお金を出すのだからオールマイティなのにしよう。教習所に二度通うなんて無駄だわ」

「・・・うーん、その考え、解らなくもないけれど・・・。でも二輪は? それこそ必要ないでしょ?」

「洋子」

「はい?」

「世の中にはまだ貴女の知らない事が沢山あるのよ」

「それはそうでしょうけど」

「知るという楽しみを、自分から放棄してはいけないわ」

よく解らないままにしっかり丸込まれてしまった。話の途中から、私は費用が気になって、頭の中の貯金通帳をめくっていた。


 避暑地とはよく言ったものだ。教習の期間中、夏の陽射しはきつかったけれど、涼しく、爽やかに快適に過ごせた。そして普段の生活の場とは異なる空間で過ごす時間も楽しかった。思わぬ発見だったのは、私が車もバイクも、運転に向いているということに気が付いたことだ。教習所の先生に褒められて、すっかりのぼせ上ったけれど、バックの車庫入れも、上り坂の一時停止も、クランクコースも、難なくこなせた。そしてバイク。低速バランス、通称一本橋は得意の課題だった。

 私たちは規定の時間で全ての教習と試験を終えて、電車で地元に帰って来た。そしてその翌日、二人で一緒に教習所の卒業証明書を運転免許証に変えた。雅美は免許証の番号が続き番号であることを喜び、私はそれを笑った。

「洋子。ありがとうね、付き合ってくれて」

「なに言ってるの。楽しかったし免許も取れたし。雅美が誘ってくれたおかげで有意義な夏休みになったのよ。私がお礼を言いたいくらい」

彼女は首を横に振った。

「これが洋子と通う、最後の学校だから」

「・・・確かにそうなるわね。でもこれからも一緒に過ごす時間はあるわ。最後の~なんて言い方は止めて」

 大学一年の夏は、楽しい思い出と運転免許を残して終わった。


 大学のクラブ活動とアルバイト。卒業までの必要単位数と必修科目を計算しながら組んだスケジュールは、結構ハードなものだった。私は雅美と過ごす時間が減ったにも関わらず、それほど寂しさを感じなかったのは、忙しい毎日の中でもスマホで毎日のように雅美とやり取りをしていたから。それはきっと雅美も同じだったと思う。

 前期が終わり、試験だのレポートだのに追われ、瞬く間に秋になってコートがなければ通学がきつくなった頃、母親がバイト募集のチラシを持ってきた。年始に巫女さんのアルバイトだ。時給が思いのほか高額だったため、すぐに決めた。普段は居酒屋でアルバイトをしているが、年始は休みだから丁度良い。雅美も年末には帰省してくるのだろうか、一緒にやらないか、チャットで聞いてみた。

「ごめん! 年末年始は両親とモルディブ!」

そんな返答がすぐに来た。

「洋子も行かない?」

誘いも受けたけどバイトを決めた直後だったし、正直お小遣いに余裕はなかった。

「ごめんねえ。あたしゃ働くよ」

絵文字を添えて断った。


 雅美はモルディブに行く前から、大いにはしゃいでいるのが判った。空港から送られてくる写真の山は、笑顔の自撮り写真ばかりだ。そしてそれは現地に着いても。異国の街並み、綺麗な海岸線、エメラルドグリーンの海、テレビでしか見たことのない熱帯の魚たち。そして両親との仲良さ気な写真。それでも私はそれを妬ましいとは思わなかった。雅美はもう一人の自分。彼女が嬉しいと私も嬉しい。そんな気持ちに嘘はなかった。


「やっちゃったよ! エーン」

そんな書き込みが届いたのは、彼女が帰国する一日前、正月の終わり四日の事だった。深夜寝ぼけた私は、どうしたの? とだけ返し、すぐにまた眠ってしまった。

 朝起きると、スマホには足に包帯を巻いた雅美の写真があった。パンパンに膨れているのが包帯越しでもわかる。メッセージも届いていた。

「浅瀬のシュノーケリング、水着で潜っていたら何かに触ったか刺されたか」

私は慌てて返信した。大丈夫なの? 時計を見て、時差を計算し、まだ飛行機には乗っていないと思ったのだけれど、返信はなかった。

 佐倉一家が帰国したであろう時間になってもメッセージは来なかった。何か悪い予感がした。胸の奥がどす黒いもので覆われるような、心臓を掴まれるような、そんな鈍い痛みがあった。


 翌日、私は雅美の家を訪ねた。きっとスマホが壊れただけよ、そう自分に言い聞かせて。彼女の家に近づくにつれて、嫌な気持ちだけがどんどん大きくなった。冬の午前中の陽射しはどこか透明感があって、でも私の周りだけ空気が重くなっているように感じた。

雅美の家に着くと、何か異常な雰囲気がそこにあった。私は震える手で呼び鈴を鳴らすと、出てきたのは雅美のお父さんだった。日に焼けた顔は、げっそりとして目はどこか虚ろだ。生気が感じられない。

「・・ああ、洋子ちゃん。今、連絡しようと思っていたところだった・・・」

「どうしたんですか? 雅美は? 何かあったんですか?」

「・・・雅美は・・・」

大きな瞳が揺れて、顔がぐしゃぐしゃに歪み、大のおとなが肩を震わせて泣き始めた。

「亡くなった・・・死んでしまった・・・」

いきなり目の前が真っ暗になって、私は揺れる膝に力が入らず、その場にしゃがみこんだ。

 その後、雅美のご両親と何の話をしたのか、どうやって家まで帰ったのか、私には全く記憶がない。子供のように泣きじゃくり、夜勤明けで寝ていた母がびっくりして起きて来た。

「洋子! どうしたの? 何があったの?」

身を引き裂かれるような、というのはこういうことを言うのだろう。私は苦しくて、胸が痛くて、そして涙腺が壊れてしまったように涙が流れ続けた。


 お通夜の席は、本当に重く、悲しみで満ちていた。大勢の弔問者の中で、私たち同級生も皆泣いていた。葬儀の手伝いをしていた母が、内情を聞き取り、教えてくれた。

 海で怪我をした雅美はホテルまで足を引きずるようにして戻ったが、腫れがひどくなったので地元の病院に行った。毒のある魚のヒレに触ったに違いない、そう診断されて血清と抗生剤を投与された。毒には血液の凝固を妨げ、出血が止まらなくなる、そんな性質があったらしい。血清と抗生剤の効果は十分あるということだったのでそのままスケジュール通りに帰国することにしたのが、帰りの便の中で症状が一変したらしいのだ。警察の司法解剖の結果では傷口の近くで血液の塊ができて、それが気圧の変化で剥がれ、動脈を塞いでしまったらしい。フライトを見送って現地で様子を見るべきだった、雅美のお父さんは泣きながら話したそうだ。悔やんでも悔み切れない、と。

 その翌日の本葬、初七日、初盆、佐倉家に行く度に私は涙した。真っ赤な目で帰宅すると母にこう言われた。

「雅美ちゃんのご両親も、あなたを見ると辛いかもね」

 姉妹のように、いやもう一人の自分のように時を重ねて来た親友の死は、私には受け入れ難いものだった。雅美からの、メールもチャットも電話もない日々は、私にとって拷問の様な苦痛の日々だった。が、それでも時間だけは過ぎて行った。

 大学の三年生になって、ようやく私は立ち直ることができた。きっかけは一周忌法要だ。ワンルームマンションから引き揚げられた雅美の荷物は、自宅の部屋に戻され、雅美の部屋は生前と同じように整理整頓されていた。法要の後、私は雅美のご両親にその部屋に招かれた。

「あの頃のままですね。高校生の頃の雅美の部屋。こうしていると高校生に戻ったみたい」

「私たちもね、いつまでも悲しんでいられない、そう思うことにしたの。いつまでも泣いて暮らしてたら、あの子に叱られるから」

「洋子ちゃん。君もそうだ。いつまでもそんな顔をしていたら、雅美に叱られるよ。君は、君には雅美の分まで幸せになって欲しい。大学生活を、そんな暗い顔して過ごして欲しくなんだ」

私は頭を下げるのが精一杯だった。

「それからね。もし良かったら、時々大学生活のこと、話をして欲しいの。雅美が生きていたら、大学の授業のこととか、アルバイトのこととか、きっと私たちに話をしてくれたと思うの。お願い」

「おばさん、大丈夫ですか? それ、返って辛くありませんか?」

おばさんはゆっくり首を振った。

「洋子ちゃんは、私たちのもう一人の娘みたいなものだから。娘を二人失う方が辛いわ」

ハンカチで涙を拭いながら話す二人を交互に見て、私には断れなかった。

 それから、月命日には都合がつく限り佐倉家に通うようになり、私は自分の母親に話すようなことを二人に話した。


 目が覚めると枕が涙で濡れていた。久しぶりに見た雅美の夢。何故か一緒にバスケットをしていた。雅美は、運動神経は悪くないのに運動部には入らなかった。

 彼女は高い腰でドリブルをしながら目線でパスルートを探り、ひとたび体制と低く構えるとフェイントを織り交ぜながらサイドステップを繰り返した。器用にロールターンでディフェンスを交わすとノールックで私にパスを出す。私は阿吽の呼吸でゴール下に切り込み、一瞬止まって相手をかわす。ジャンプをしながらのシュート。リングに当たって逆サイドに流れたこぼれ玉を雅美が拾って、低いドリブルで内に入り、反転して私にパス。私はそれを受け取ってゴールに向けて体を捻り、シュートフォームからノールックで雅美返す。マークを振り切った雅美は落ち着いてシュートを決めた。ハイタッチと笑顔。もう一本行こう! そう声を掛けてポジションに戻ると、あれ、雅美がいない。

 雅美? どこ? ねえ! どこ? 慌てて周囲を探しても彼女の姿が見えない。長い黒髪をシュシュで束ね、ポニーテールにした彼女。コートの中ではどこにいてもすぐに見分けがつくのに。彼女を見失ったことが不安でたまらない。大きくなる胸の鼓動、ドキドキしている。自分の心臓の音にびっくりして目が覚めた。この前雅美の名前を口にして、記憶の蓋が少し開いたみたいだ。

 しばらくそのままでじっとしていたが、やがて頭がはっきりとしてきた。今日は夜勤のシフトだ。朝六時に目が覚めて、朝食を取って洗濯物を干し、朝の家事のひと仕事が終わって仮眠を取ったのだ。時計を見ると同時にアラームが鳴った。

リビングにはお母さんがいた。

「ねえ洋子。水道局の夜勤なんて、何をするの? 電話番?」

「緊急事案対策待機勤務。電話番じゃないわ。それと工事計画の立案作成。老朽化の進んだ水道管を計画的に交換することでトラブルを未然に防ぐの」

「夜間は内勤なのね」

「工事が入っていなければね。シャワー浴びて来るわ」


 出局すると、総務の松原さんに会った。

「今日はこれから?」

「ええ。三度目の夜勤です」

「大変ね。どう? 浅見君は? 怖くない? 何かあったらすぐに課長に言うのよ。課長に言い難かったら、私でもいいわ」

「ありがとうございます。・・・あの、今度話を聞いて下さい。周り、男の人ばかりで汗臭くって、私、女性と話すの、飢えているんです」

ちょっと驚いた顔をした松原さんは、すぐににっこりと笑うと、いいわ、私で良ければ。いつでも総務課にいらっしゃい、そう言ってくれた。

 三課に行くと、日勤の人と夜勤組が入り混じり、その一角は混雑していた。私はデスクでパソコンを立ち上げ、起動する間に自動販売機にコーヒーを買いに行った。吉野課長と浅見さんが立ち話していた。がっしりとした体格の男性二人が、紙コップを片手に立ち話っていうのも、なんだかシュールだ。ああ、そうだ。

「課長!」

私は声を掛けた。課長は私の一言に片手を上げて答えてくれた。私は浅見さんに遠慮しつつ。

「あの、来月の四日、というか、毎月四日はなるべく夜勤を外して欲しいのですが。お願いできませんか」

「毎月決まった日を夜勤から外すというのはちょっとねえ。他の局員の都合だってあるのに、特定の人の希望だけを聞くわけにもいかないし・・・」

二人は顔を見合わせた。

「真鍋。仕事のことはまず俺に言えって、言っているだろ」

「勤務シフトを組むのは課長だからって、昨日おっしゃいました」

その言葉にカチンときたのか、大きな目が一層大きく見開く。

「まあまあ。・・・何か特別な用事でもあるのですか?」

課長は人格者らしく、静かに聞いた。

「あの。友達・・・親友の、月命日なんです。その日はご家族の所でお線香を上げさせてもらいに行くので」

浅見さんの顔色が変わった。課長の顔も少しこわばった。課長は重ねて聞いた。

「月命日・・・お友達が亡くなったんですか?」

「ええ、幼馴染が三年前に」

「名前は?」

青白い顔になった浅見さんが、静かに聞いた。震えるような声だ。

「その、三年前に亡くなった人の名前は?」

「浅見君!」

課長は少し大きな声を出した。なんだろう? 何故、雅美の名前を聞くのか、訳の分からないまま私は答えた。

「さくらみやび って娘ですが、何か・・・」

「桜雅だって? お前が・・真鍋が雅の親友?」

「え? 浅見さん、雅美のこと知っているんですか?」

これには私が驚いた。紙コップを持つ浅見さんの手が小刻みに震えた。

「ちょっと! 浅見君、落ち着いて」

課長が慌てて両手で浅見さんを抑えるようにして、その手から紙コップが落ち、茶色の液体が浅見さんの制服を濡らした。

「あ!」

「ああっ」

二人は同時に声を出し、浅見さんは濡れた制服と吉野課長の顔を交互に見ながら、それでもなんとか体裁を整えて言った。

「だ、大丈夫です」

私は二人の男性を、不思議なものを見るように見つめた。


「真鍋君のお友達のお名前、さくらさん、みやびさんって言うの?」

会議室に場所を移し入り口に近いテーブル、角の三つの椅子に並んで座って。吉野課長が真剣な面持ちで尋ねた。

「ええ。さくらっていう字は人偏に左、倉庫のくら。みやびは雅やかの字に美しいを付けて二文字でみやび。字画はその方が良いんだって言ってました」

二人はほっとした顔になった。本当に、なんだと言うのだろう? 浅見さんは席を立った。

「着替えてきます」

「浅見さん?」

私の声を無視して会議室を出て行った。私は課長に向き直った。

「どういうことでしょうか? お二人とも、さくらみやびの名前をご存知なんですよね?」

課長は黙ったまま、天井を見上げて数秒。顔を戻して静かに言った。

「花の方の桜。春に咲く、さくら、ね。みやびは優雅典雅のみやび一字。名前の通り美しく上品な娘さんだった」

「だった、とは?」

まさか・・・。

「三年前に亡くなったんだ。四月の四日が彼女の命日。偶然だね、月命日が同じだ」

「お二人のお知り合いの方だったんですね」

「・・・浅見君の、婚約者だった人だ。僕は仲人を頼まれていた」

私は声を失った。

「浅見君、当時はすごくショックを受けて落ち込んでねえ。二週間無断欠勤が続いて、まあ、事情は知っていたけれど。僕は彼が後追い自殺をするんじゃないかって、気が気じゃなかった」

何と言えばいいのだろう。ぶっきらぼうな態度、横柄な言動の浅見さんに結婚を約束した人が居たなんて。いいえ、そんなことより恋人と死別した、そんな過去があったなんて。

「彼にとっても、僕にとっても、さくらみやびって名前は忘れられない名前なんだよ」


 デスクに戻ると、浅見さんは普通に仕事をしていた。その横に座ると、私は話し掛けた。

「あの・・、すみません・・・」

「お前が謝る必要はない。というか、謝るようなことではない。・・・友達のこと、残念だったな。同い年か」

「ええ、幼稚園から高校まで、毎日一緒に通学した仲でした」

それ以上は何も聞かず、浅見さんは仕事に集中した。私も古いファイルを棚から持ち出して、工事履歴の照合を始めた。


 浅見さんと組んで、二ヶ月以上経った。相変わらずの乱暴な言葉遣いにもすっかり慣れた。巡回の最中、バイクを見る目はどこか優しいことにも気が付いた。彼は本当にバイクが好きなのだ、そう思わせるに十分だった。その横顔を見ていると、その彼が、結婚しようとしていた女性のことも釣られて思い出した。私の親友と字は違うけど同じ名前の女性。どんな人だったのだろう。課長は美しくて上品な、って言っていた。美女と野獣かな。

「なんだ? 何かおかしいか?」

いえ。私は思っていることが顔に出るのだろうか。巡回車の中。ここは二人きりの空間。男女が二人きりでこんなに長い時間を一緒に過ごすなんて。頭の中で取り留めのないことが繋がる。その女性は、桜さんは、一体浅見さんのどこに惹かれたのだろうか。

「何でもありません。次、行きます」

車を出すと、フロントガラスに雨粒が乗った。

「ちっ、また降って来たか」

梅雨の真っただ中。降ったり止んだりを繰り返し、この一週間、晴れた日はない。ワイパーのスイッチを入れた瞬間、連動しているかのように無線が鳴った。緊急通報だ。

「至急至急。山間地区で断水連絡。エリア担当は応答してください」

オペレータさんの声がスピーカーから流れた。

「こちら浅見。場所の詳細下さい」

「浅見さん? 山間B地区C地区です。漏水箇所不明」

山間地区はセンサーの設置が遅れている。人間が検圧しに行かないと漏水箇所を探すことができない。

「了解。C地区から回ります」

「こちら赤井。今A地区です。榊原が作業中。終わり次第B地区に向かいます」

「真鍋、急げ」

私はアクセルを踏んだ。今いる場所からC地区の端まで二十分掛からない。浅見さんは水道管のマップを見ながら、行先を指示した。

 指定された検圧場所。パネルを開くまでもなく、圧力計の針が振れていないのが判った。水圧ゼロ。バルブを閉めたが感なし。急いで車に戻ると本部に向かって報告する。

「C地区十三、水圧なし。これより上流に向かいます」

「真鍋、運転替われ」

「はい、お願いします」

私たちは雨合羽を着たまま車に乗り込んだ。

県道の山沿いの道を走っていると、右のカーブを抜けた所で浅見さんが急ブレーキを掛けた。慌ててクラブバーで体を支える私。前方の道が土砂で塞がれている。崖が崩れたのだ。

「これが原因でしょうか?」

「さあな。この先二百メートルでC地区十二だ。そこを見ればはっきりするだろう」

「でもこれじゃあ進めませんよ」

「馬鹿たれ。歩いて行くんだよ」

浅見さんは無線に手を伸ばした。

「こちら浅見。C十三からC十二へ移動中。県道にがけ崩れあり。車両通行不可。警察と市の土木課へ連絡頼ます」

私たちは機材の入ったバッグを肩に、歩き始めた。


「浅見さん、これ危ないのでは?」

山から崩れた土砂が、往復一車線の県道を半分以上塞いでいる。

「土の上は歩くなよ。崩れるかも知れないからな。アスファルトの上を歩くんだ」

私は山側を見上げ、これ以上崩れないことを祈って足早に県道の端を歩いた。土砂が掛かった個所を過ぎると、その先にもカーブ。その向こうは路肩が崩れている。

「どうやら、本当の原因はこっちだな・・・」

所々路面にヒビが見える。長雨の前から入っていたヒビなのか、それともこの雨でできたヒビなのか。やっとの思いで検圧計の入ったボックスに辿り着き、パネルを開ける。圧力があることは解った。だがもの凄く低い。正常値の十分の一だ。

「下に行ってバルブを閉めて来る。真鍋はここで待機。圧力を見てくれ」

浅見さんはバッグをたすき掛けにして崖の階段を下って行った。私は言われた通りその場でじっと圧力計を見ていた。ヘルメットから滴り落ちる雨の雫が、襟元から雨合羽の中に入って来て不快だ。しかしそんなことは言っていられない。お願い、上がって。私は祈る気持ちで圧力計の針を見つめた。すると、ふっと針が動いて正常圧まで上昇した。やった。このバルブの下流、たぶん路肩の崩れた個所で水道管は破損したのだろう。漏水箇所がわかれば後は工事で壊れた上水管を交換するだけだ。復旧できる。

「圧! 振れました! 水圧上昇、正常値です!」

私は大声を張り上げると浅見さんが上がってきた。

「よし、本部に報告だ。車に戻るぞ」

 私は一つ大きな仕事をやり終えた感じがして誇らしかった。少し浮かれいて、どこか遠くで大きな破裂音がしたことに全く気が付かなかった。土砂崩れの場所に通り掛かったときも、道を覆う土砂の量が増えていることに気も留めなかった。

 あれ? 私、揺れている? 異変に気が付いたその時、後ろから浅見さんが私を追い越し、私の手を掴んで引っ張った。

「何するんですか!」

腕を引っ張られて、反射的に私は踏ん張った。

「馬鹿野郎!」

浅見さんの怒鳴り声。何が起こったのか理解できない私。見上げると山が迫って来る。違う、土砂が山から降ってきたのだ。身をすくめる私を、浅見さんは綱引きのように強く引っ張り、私は土砂から逃れることができた。しかし、私を強く引っ張った反動で浅見さんはバランスを崩し、土砂の中へダイビングしてしまった。そこに直径一メートルはあろうかという大岩が転がって来て・・・、私は恐怖のあまり声が出せない。夢の中にいるようだ。いくら叫んでも声が出せない。

「逃げて! 避けて!」

やっと絞り出したその声は、叫びとは程遠い擦れた声だったが、浅見さんは勢いよく飛び起きると、体を捻って大岩の直撃を避けた。私には避けたように見えた。そして再び倒れ込んだ浅見さんが体を起こすのを見て、ほっと安心したのだが、彼の右腕が変な方向を向いている。右肩を抑えてふらふらと立ち上がる彼に私は飛びついた。

「大丈夫ですか⁈ あ、あの」

体を支えたいが、どっちから支えればいいか、判らない。

「大丈夫じゃない。完全には躱せなかった。右腕がぶつかったんだ。折れてるかもな」

彼の右側に付こうとして回り込むと。

「そっちじゃない。左から・・・。いや、いいから本部に連絡してくれ。報告と救急車の要請」

「は、はい!」

私の泣きながらの報告をオペレータさんはきちんと聞き取り、本部への報告と救急車の手配をしてくれた。

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