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彼女がバイクに乗る理由  作者: 田代夏樹
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ペーパーライダー

 胸がどきどきしていた。これは興奮したときの鼓動ではない。強く緊張を感じた時や、怖さや不安を感じたときのものだ。ぎゅうっ、と胸の奥を締め付けられるような苦しさと共に、動悸が激しい。

「皆、ちょっと手を休めて。注目!」

部長の身長は180cmくらいだろうか。太い骨格の、分厚い胸板。少しお腹が出ているものの、筋肉質な体型をしている。大きな窓を背にしてまっすぐ立ち、フロアを見回しながらよく通る声で自部署の皆に話し掛けた。隣にいる私は、ぎこちない笑顔を作りながら脚に力を込めていた。

「今日から配属になった、新入局員の真鍋洋子さんだ」

部長は一瞬私に目を落とすと、私に言った。

「じゃ挨拶して」

「はい」

部長に言われて私は改めて部署の皆さんの顔を見回した。広いフロアの、遠くまで声が届くように息を吸い込んだ。

「真鍋洋子です。今日からお世話になります」

既に研修の時に一度挨拶をしているものの、その時は本当にこの部署に配属されるとは思っていなかった。それはこの部署にいる誰もが。

「吉野課長!」

「はっ!」

吉野と呼ばれた中年の男性も、やはり高身長で体格がいい。圧倒的に男性の多いフロアで、体育会系のノリで怖い反面、ちょっと心地良い。私も中学高校大学とバスケットボールをやっていた。先輩の威厳も、部長、コーチの厳しさも、むしろ懐かしい。ここは部活の場ではないけれど。

 しかし一瞬、吉野課長の名前でフロアが揺れた気がした。

「三課、ですか? 一課じゃなくて?」

遠くで質問の声が上がった。吉野課長は部長の前まで歩いて来ると一礼し、質問には答えず、大きな声で、でもにこやかに言った。

「真鍋君は三課で預かることになりました。一課、二課の皆さんも、サポートをよろしくお願いします」

はい、了解、わかりました、様々な声が響き、次の瞬間、全員が一斉に自分のデスクに戻って行った。

吉野課長の目に促されて、私は課長の後ろをついて歩いた。フロアの一番奥まで歩くと、裏口に一番近いパーテーションで区切られた一角が三課、工務課だった。

「浅見君!」

その人は、どちらかと言えばずんぐりむっくりだ。部長や課長より小柄、と言っても私よりももちろん身長は高い。ただ、横幅も凄いのだ。きっとこの人は柔道か水泳、いや水球でもやっていたに違いない、私は勝手にそう思い込んだ。浅見さんは自分のデスクで顔を上げると、すぐさま席を立ち、はい、と大きな声を上げた。

「真鍋君の指導員は君にお願いします」

「・・・はい? 私ですか? 榊原はどうするんです?」

「榊原君は赤井君とペアを組んでもらいます」

「また新人の御守りっすか」

その瞬間、課長の目が大きく開き、怒ったように見えた。びくっと私が緊張した。でも課長はまたすぐ柔和な顔に戻ると。

「そんなこと言わないで。ね。榊原君も君の下で二年指導を受けたんだ。そろそろ他の人と組まないとね。ほら、ジョブローテーションってやつだよ」

そう言われて浅見さんは、ふてくされたような顔をしたが、天井を向いて深呼吸すると、解りました、と返事をした。表情は、怒っているようにもふてくされているようにも見えない、普通の顔だった。

「じゃあ、後は浅見君に聞いて。彼は十年選手、中堅のホープだから」

そう言うと、課長は奥の自席に戻って行った。私は浅見さんのデスクの前に立ち、よろしくご指導下さい、頭を下げてそう言った。私、まだ緊張している。

 ふーっと息を吐くと、浅見さんは横の榊原さん(?)に声を掛けた。

「バラ、席替え。赤井さんの横に移れ」

「イエッサー」

バラと呼ばれた青年は威勢のいい返事をすると、デスクの引き出しを抜いて私の前を横切って行った。私はどうしていいか判らず、ただ立ち尽くしていたが、我に返って言った。

「お手伝いします」

「大丈夫。デスクの中身は少ないから。ほら、パソコンもノートだし」

そう言いながら、てきぱきと荷物を移動させ、私の目の前を三回往復すると、榊原さんのデスク移動は終わった。最後に目の前を通るとき立ち止まると、彼はこう言った。小さな声で。

「浅見さんはちょっとクセが強いけど、良い人だから」

クセガツヨイ? 私にはその意味が解らない。その浅見さんは、課長の机の前で何か話し込んでいたが、二枚の書類を持って戻って来た。

「これ書いて」

「え?」

「業務に必要なものは全て支給されるから。書いたら総務課へ取りに行くから」

私が言われた通り用紙に記入すると、浅見さんは間髪入れずに歩き始めた。


 今朝IDカードを受け取った総務課で、今度は制服とヘルメット、ワークブーツと更衣室の鍵を受け取った。

「更衣室は西館の地下一階ね。私が案内するわ。浅見さん、ちょっと待ってて」

総務課の松原女史は、先に立って私を案内してくれた。

「三課は現場の実働隊だから、今まで女性局員はいなかったの。貴女も大変だと思うけど、頑張ってね」

「はい。ありがとうございます」

そうは言ったものの、正直不安でしかない。廊下を歩く、二人のヒールの音がコツコツと響いた。


 着替えを終えて総務課に戻ると、浅見さんは静かに、でもはっきりした声で言った。

「制服で通勤はしないように。面倒でも毎朝私服で出勤して、更衣室で着替えてから課に来なさい」

私は、こんなダサい服で通勤なんて、いくら車通勤でもごめんだわと思いながら、はいっ、と返事をした。三課に戻る途中から、浅見さんのレクチャーは始まった。

「解っていると思うけど、我々の使命は市民の皆様に安全で美味しい水を供給することだ。何と言っても水が無ければ人間は生きていけないのだから」

「はい」

浅見さんの歩くペースが速い。私は一生懸命後をついて歩いた。これじゃあメモも取れない。

「あ、あの!」

浅見さんは立ち止まって振り向くと、

「メモはまだいい」

私の言いたいことが判るみたいだ。

 課に戻ると、既に半分以上の席が空いていた。

「皆さんどちらへ?」

「外回りだ」

浅見さんは一言だけ私に答えると、課長のデスクまで歩いた。

「課長、彼女のパソコンは?」

「まだ着いていないんだ。今日届くのは間違いないんだが・・・」

浅見さんはちょっと眉間にしわを寄せると、

「よし、じゃあ我々も巡回に出よう。パソが来ていないんじゃ、設定も何もできない」

浅見さんは自分のノートパソコンと、充電器に刺してあった携帯電話を持ち上げた。

「課長、巡回に行って来ます」

「うん。気を付けて」

私も挨拶をした。

「行って来ます」

私はヘルメットを抱えて浅見さんの後に続いた。


「仕事は基本的にOJTで教える。解らないことはその場で聞いてくれ」

車を運転しながら、思っていたより丁寧に仕事の内容と進め方を教えてくれた。

一か所巡回ポイントを見る度に機器の説明をし、使い方を説明し、車の中では私の質問に答えてくれた。

へえ、意外と優しいんだ。ぶっきらぼうな言葉使いとは逆に、仕事は丁寧な人なんだ。そんなふうに感じた。

市街を抜ける前に昼食を済ませ、食後のお茶をゆっくりとすすりながら私は頭の中を整理していた。

「どうした? 静かだな。もう疲れたか?」

「疲れたっていうか、初めて見る機械と、初めて聞く専門用語で頭がぐちゃぐちゃです」

「まあ最初は皆そんなもんだ」

「あ、あの。もし漏水箇所を見つけたら、工事も我々が行うんですか?」

「今は工事業者さんと連携しているから、直接我々が地面を掘り起こしたり、埋めたりということはしない。昔はやっていたらしいけどな。ただ、工事の申請や監督は我々の仕事だ」

私は土木作業まで業務範囲かと思っていたから、少し安心した。

「水道管は経年老朽化が進むから、計画修繕も必要だ。ブロック単位で計画を立て、予算を申請して定期的に工事を行う。これも我々の業務だ。これは計画事業だから特にどうということはない。問題は地震や津波、大雨による地盤の緩み、沈下、あるいは他の工事で水道管が傷付けられてしまう、イレギュラー事案だ。監視対応があるから休日、夜間待機もある。業者さんとの連携、工事申請書の作成、電気、ガス、通信網の周囲確認を素早く行い、正確な情報と依頼を出す。上水復旧を一分でも早く行うんだ」

「・・・大変ですね」

浅見さんは少しだけ怒ったような顔になった。

「断水で困っている市民の生活を考えたら、そんなことは言っておれん」

怒ったような、は私の誤解だったようだ。厳しい責任感。なんとなく父親を見ているような気がした。

私は正直、大変な部署に配属されたと思った。でも。今は男女共同参画、男女雇用機会均等法、働き方改革、男女で業務の不平等などはないのだ。それに、女性だからという理由で職務を制限されるのは嫌です、そう希望したのは私自身なのだ。

「さて、次行くぞ」

腕時計をちらりと見た浅見さんは、伝票を持って席を立った。


「ここは?」

「来週の工事予定場所だ。ちゃんと告知看板が出ているか、確認しておかないとな」

看板には工事の計画と区間、工事業者と局の届け出番号が掛かれている。これが区間前後の道路に置かれる訳だ。浅見さんが車を降りた。

「固定もしっかりされているか、確認するんだぞ。車から降りて、自分の目と手で確認するだ」

「はい」

私は言われた通りに看板の後ろに回り、ワイヤーでしっかり括り付けられていることを見た。看板を手で揺すってもびくともしない。

「固定良し!・・・あれ? 浅見さん?」

浅見さんは、車とは反対方向を眺めている。

「浅見さん?」

「ああ、固定良し、だな。・・・ちょっとすまん」

大股で路肩に止めてあったバイクに向かって歩き始めた。

「何ですか?」

私は慌てて後を追った。

 浅見さんは黒い、大きなバイクの横に来るとメーターを覗き込んで。それからバイクの前から後ろから覗き込んだ。そしてさらに一周バイクの周りを回った。一体何をしているのだろう? これも仕事なのだろうか?

「あのー?」

「このバイクが常時ここに駐車されているとしたら、工事の邪魔になるからな」

そう言って車に戻ると、工事告知の紙を持って来てバイクのシートに貼った。

そうか、こんなことまでするのか。放置車両に関しては警察の業務範疇だと思っていた。あれ? でもさっき、ちょっとすまん、って言ってた。あれは一体・・・?

「次、行くぞ」

促されて、私は浅見さんの後を追った。


 局に戻ったのは四時半だった。

「真鍋さん、金曜日の夜は空いていますか?」

榊原さんがにこにこしている。

「夜ですか?」

「真鍋さんの歓迎会を企画しているんですが」

「ありがとうございます。大丈夫です。空いています。でも」

良いのだろうか? 緊急事案に備えて夜勤もあると聞いたのだけれど。

「真鍋さんの都合が良いなら決定なんです。勿論、夜勤の人や都合のつかない人も何人かいますけどね」

「なんか悪いですね。夜勤の方もいらっしゃるのに」

「こればっかりは・・。ローテですからね、夜勤や休日出勤は。真鍋さんもそのうち順番が来ますから」

「真鍋。パソ来てるから、初期設定済ませるぞ」

指導員が背中から声を掛ける。うーん、忙しい。

 浅見さんが今日の巡回データをサーバーにアップする傍ら、私のノートPCの設定をしてくれた。私は自分のIDを入力してパスワードを設定しただけ。あとは全て浅見さんがやってくれた。ごつい体格の割に仕事は細かいし、パソコンにも詳しいみたいだ。

「できた。計測器用のソフトは入れたし、サーバーとの接続設定も完了」

「ありがとうございます」

「よし、定時だ。上がるぞ。お疲れさん」

「お疲れ様でした。あ、あの。私のシフトは?」

大きな目がじろりと私を睨んだ

「当分は俺と一緒だ。でなければ指導、OJTができないからな」

これはちょっとショックだった。顔は悪くない、というよりイケメンの部類だろうけど、ずんぐりむっくりの、言葉遣いが乱暴な男性と四六時中一緒にいるなんて。

「そう露骨に嫌な顔をするな」

顔には出していないつもりだったけれど、しっかりバレている。

「女性の局員はほとんどが一課なんだ。三課に配属された女性は真鍋が初めてじゃないか? 俺だってセクハラだのパワハラだの、そう言われないように気を使うのもしんどいんだ」

そうか、この人はだからぶっきらぼうな言葉使いを、わざとしているのか。だけどその言葉使い、命令口調は逆効果じゃないのか? 偉そうな態度も鼻につく。

 浅見さんはパンツのポケットから財布を取り出すと、折りたたんだ細長い紙を取り出し、コピーを取って戻って来た。

「今月のシフト表。真鍋からすれば急な話だろうから、駄目な日は言ってくれ」

私はざっと目を通す。自分のスマホを取り出してスケジュールを見ていると、浅見さんは明日聞く、そう言って帰って行った。

「クセが強いけど、良い人だから」

榊原さんはもう一度そう言うと、苦笑いした。


「皆グラスは持ったかな? 乾杯するぞ! よし、それじゃあ真鍋君の三課配属を歓迎して、かんぱーい!」

グラスのぶつかる音が賑やかで嬉しい。

「ありがとうございます! 頑張ります!」

 駅に近い居酒屋、吉野課長以下十一名の、私の歓迎会という名の飲み会が始まった。既にテーブルには大皿料理が大量に載っている。

「真鍋さんは、お酒はよく飲むの?」

「たしなむ程度ですけど」

「たしなむのか、そりゃあいい。何でも好きなの飲んでくれ! 沢山食べてくれ!」

「あ、ありがとうございます」

本当に部活、大学の体育会系部活の飲み会のノリだ。シフトの関係で三分の一の人数しか来ていないがこの人数でも圧が凄い。

「ビールおかわり下さい!」

「こっちもね~」

私の飲食には関係なく、大量のビールがグループ内で消費されていく。榊原さんは歳が近いせいか、今日の幹事役のせいか、しきりに私に話し掛けて来る。

「ええと、今日で四日目だけど、仕事は慣れた? わかんないことがあったら、なんでも聞いてよね」

「ありがとうございます」

 しばらくして。

「そおいや洋子ちゃん、趣味は何なの?」

早くも酔いが回ったのか、名前をちゃん付けで呼んできた。

「バラ! そりゃアウトだ。セクハラ」

「え?」

浅見さんの一声に、一瞬榊原さんの顔が固まった。

「あ、大丈夫です。名前で呼んでいただいても。私、平気です、気にしません」

慌ててその場を取りなす。榊原さんの顔が緩む。

「ほらー、いいって。浅見さん、堅物なんだから」

そう言われて浅見さんはビールを煽った。

「女子局員の名前も呼べないとは、変な時代になっちゃったよねえ」

吉野課長もしみじみと言う。そこからしばらくハラスメント談議になった。

会話が途切れて、吉野課長が話を私に振った。

「で、真鍋君の趣味は何なの?」

「今はあまり趣味って言えるものはなくてですね・・・。学生時代はずーっとバスケットボールをしていたので、体を動かすのは好きなんですけど・・・。社会人らしく、海外旅行って言うのはどうですか?」

「どうですか? って、私に聞かれてもねえ」

「キャンプとか、釣りとか。最近の女子の流行じゃないの?」

「ああ、ユーチューバーね。若い娘がソロキャンとか、釣り女子とか多いよね」

「あ、アウトドアも好きですよ。小さい頃、キャンプには連れて行ってもらいました」

「ご家族で?」

「いえ、友達の家族キャンプに呼ばれて」

「お父さんはアウトドア、しなかったの?」

「父はいないんです。うち、母子家庭なので」

「あ。ごめんね、変なこと聞いちゃった?」

「それも大丈夫です。もう慣れっこなんで」

「ごめんね、ガサツな連中ばかりで。男所帯だからすっかりデリカシーなくしちゃって」

吉野課長の顔も赤い。

「車の免許は持っているのか?」

不意に浅見さんが口を挟んで、また話題が変わった。

「持ってますよ、普通自動車」

「よし、来週から運転もしてもらおう」

「解りました」

「あ、浅見さん、急に止めろ! って言うから気を付けてね」

榊原さんが口を挟んだ。

「え?」

「この人、路駐しているバイク見つけると、覗き込む癖があるから」

癖? そんな癖があるの? あ、そう言われてみれば、巡回の最中に何度かバイクを覗いていたっけ。工事予定箇所とか、水圧計測所とか、業務の邪魔になる放置車両の確認をしているわけじゃあないのか。

「浅見さん、それって、どんな癖ですか?」

浅見さんは黙っている。その横で榊原さんが解説をしてくれた。

「浅見さんはねえ、昔バイクの盗難にあって、それが放置車両なのか、盗難車なのか、確かめなくちゃいられないようになっちゃったんだって。ねえ課長」

「ん。まあ、巡回のね、計測ボックス付近にある放置車両なら、警察に言ってどかしてもらう必要もあるから。浅見君の趣味を認めている訳じゃないよ。職務中だから」

「趣味じゃないですよ。癖です」

私も少し酔いが回ったのか、ケラケラと笑ってしまった。

「浅見さん、変な趣味ですねえ」

「癖だって言ってるだろ。趣味はバイクに乗る方だ」

「そうなんですか? バイクは面白いですか?」

「面白いさ。とは言ってもバイクに乗らない奴には解らないだろうがね」

「あ、私。バイクの免許も持ってまーす」

その後別の話題に変わって、目まぐるしく変わる脈略のない話に私の思考はついて行けなくなり、適当に合わせて相槌を打っていた。


 月曜日、午後。私は浅見さんを隣に乗せて浄水場にやってきた。門の前で警備の人にIDを見せると、車の駐車場所を指示された。基本的に車両は場内には入れない。門の外にある駐車場に車を停めて建屋に入ると、玄関の横に別の警備員が二人いた。私たちはそれぞれIDを渡した。浅見秀彦です、隣で浅見さんが氏名を口にした。

 IDの写真と私の顔を見比べ、お名前を、と渋い顔をした警備員に聞かれた。

「真鍋洋子です」

厳しい目が、ふっと緩む。

「新人さんですか? ここは厳重警戒区域なんで。気を悪くしないで下さい」

そう笑いかけた。

「そうそう。ここは俺の顔パスも効かないところだから」

「すみませんねえ。規則なもので」

浅見さんとは顔馴染みのようだが、それでも厳しいチェックは変わらない。

「で。本日のご用件は?」

「三神所長さんにご挨拶。アポイントは取ってあります。それと新人に設備の見学」

「では手荷物を拝見します。浅見さんはこちらにご記帳下さい」

浅見さんが入場手続きをしていると、階段から初老の男性が降りて来た。

「あ。所長!」

そう呼ばれた小柄な男性は笑顔で手を挙げた。

「よう! いらっしゃい!」

陽気なおじさんという感じだ。私たちは近づくと、階段を降り切るのを待って挨拶をした。

「ウチの新人の真鍋です」

「真鍋洋子です。宜しくお願い致します」

「いいねえ。初々しくて。こっちまで新鮮な気持ちになれそうだ」

「こちら、所長の三神さん。ここのボス。おっかねえぞお」

「こら。仕事に厳しいと言え。九万三千世帯、十九万人超の命を預かっているんだ。生半端な気持ちでやってられっか」

その言葉には重みがある。私の体にも緊張が走る。三神所長は私の方に向き直って丁寧に言った。

「三神です。カミの字は上じゃなくて神様のカミ」

空中に指で字を書きながら説明をし、

「じゃあ、案内しましょう」

そう言って歩き始めた。

三神所長は浄水場の仕組みとざっくりと、ここでの仕事を丁寧に説明してくれた。つまりは浄水の各工程管理と水質検査、管理がここの仕事で、ほぼデスクワークと言っていい。もっとも、もし異常が検出されたらとんでもないことになる。何と言っても市民の口に直接入る飲料水なのだ。菌や異物なんてもってのほか。完璧に浄化されなくてはならないし、かと言ってカルキ臭くてはならない。今どきの水道水は美味しくなくてはいけないのだ。三神所長の責任と重圧は相当のものだろう。想像するに難しくない。


「どうだい? 今度の異動でこっちの仕事やってみないか?」

「・・・所長。真鍋はまだウチのド新人、入局一年目ですから。そうあからさまに口説くの、止めてもらっていいっすか」

「三課より女の子向きだと思うがな・・・。いや今のは失言。気を悪くしないでくれ」

「真鍋、今のはハラスメントか?」

「違うと思いますけど」

「そうか。もうパワハラだのセクハラだの、言葉一つに気を使ってな。大変なご時世だよ」

そう言って三神所長は苦笑いをした。

「ウチの吉野もぼやいてましたよ」

「ところで浅見、週末は来るのか?」

いきなり何のことだろう? 話題が変わったようだが。

「ええ。シフトは空いてますから。行きますよ」

「そうか、儂はタイヤを履き替えたんだ。プロダクションレース用。今度のタイムは期待できるぞ」

「ガミさん、それはコースを間違えなきゃ、でしょ?」

ガミさん? タイム? コース?

 二人は顔を見合わせ、きょとんとしている私に言った。

「いやあ失敬! 儂と浅見はバイク仲間でな。ちょっとしたレースをしているんだ。仕事の話とは関係ない」

「三神さん、ガミガミうるさいから。仲間内ではみがみさん、通称ガミさんって呼ばれているんだ」

「おいおい! 昔は神様って呼ばれていたレジェンドだぞ! 少しは敬え」

「自分で言うかね、普通」

なんだ、遊びの話か。しかし男っていうのは、どうしてこう遊びの話を始めると子供っぽくなるのだろう。さっきまでの三神所長の厳しい仕事に対する顔つきとは打って変わって、まるで少年のそれだ。そしてそれは浅見さんも。

 ひとしきり二人はバイク談義に興じた。いいのかな、仕事中なんですけど。私は会話に入れず、そこに立ち尽くすしかない。手持無沙汰だ。

「そういや、真鍋もバイクに乗るんだったな」

浅見さんの言葉に三神所長の顔が輝く。

「そうか。君も乗るのか。何に乗っているんだ?」

あれ? どうしてそんな話になっているの? 私は記憶を辿った。先週の歓迎会だ。

「いえ。免許を持っているだけで。ペーパーライダーなんです。バイクも持っていないし、公道じゃ乗ったことないんです」

「買わないのか?」

「別に乗る気もなくて」

「おかしな奴だな。乗る気もないのに免許を取ったのか?」

「あれは雅美に誘われて。勢いって言うか、ついでって言うか」

はっとした。つい口をついて出た、雅美の名前。

「もういいです。業務中ですから、バイクの話は止めましょう」

 私がそう言うと、二人は黙り込んだ。あれ? そんなに強く言ったつもりはないけれど。二人とも何か言いたげな顔をしたが、でも何も言わず、しん、とした空気が流れた。

「すみません。新人が偉そうに」

私は気まずくなった空気をどうにかしようと、取り敢えず謝った。

「雅・・・」

浅見さんの口がそう動いた気がしたが、定かではない。

 三神所長は私の顔を見ていたが、浅見さんの顔色を窺うと急に態度を崩した。

「あ、コーヒーにしよう。休憩だ。な、コーヒーブレイク。働きっぱなしじゃ判断が鈍る。仕事の効率化のためにも適度な休憩は必要なんだ。な、真鍋君、休憩中なら趣味の話も良いよな? な?」

「はあ」

「自販機、こっちだから。真鍋君は何が良い? カフェ・オレか? 浅見はブラックだよな?」

三神所長は強引に自動販売機の前まで私たちを連れて行くと、さっとコインを販売機に落とした。

「好きなの押して」

促されて私はアイスティーのボタンを押した。自販機の中で小さな音がして、カップに氷の落ちる音、そして液体が注がれる音、少しして完成を知らせる音。小さなドアを開けて私がそれを取り出すと、間髪入れずに三神さんはコインを入れた。

「ほら、浅見も」

「いただきます」

浅見さんはボタンを押す前にお礼を言った。いけない、私、お礼がまだだ。

「ありがとうございます。ご馳走になります」

三人分の飲み物が出てきてから、私は口を付けた。

 大きな窓から見える、初夏の緑。風が吹いて木漏れ日が揺れる。建物の内側にいても、それは爽やかに思える。気まずさも爽やかな風が吹き飛ばしてくれたらいいのに。でも窓を開ける訳にもいかず、私は何を話していいか判らない。

三神所長は何事もなかったかのようにバイクの話を続け、段々と浅見さんもその話に釣られて口を開き始めた。

 でも何か腑に落ちない、ちょっとした小骨が引っ掛かったような違和感があった。それが何のか私には解らなかった。

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