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ひとひらの雪  作者: 杉 淳
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小夜香と十和子の物語

『もういい・・』

 勝てるはずもなく、逃れることさえもできない、夜ごと繰り返される戦いに自暴自棄に陥ってゆく。大好きなあの人が招いている、こちらへおいでって・・

『もう、いい・・』

 その想いは、日ごとに強くなる。それでもなんとか抗っているのは、禍々しい闇への嫌悪と、自分が消えてしまう恐怖から・・でも、もう、いつまで抗えるのかわからない・・


 轟音で闇を払ってくれていた飛行機の発着が終わった、と認識した途端に、今夜もあの人の顔の輪郭を形どる漆黒の闇が、目の前に現れる。

 また、戦いの夜が始まる。

 彼女に味方するものは、部屋を照らす照明の明るさと、低く流れ続けるテレビの音だけ。その中で彼女は、ベッドに膝を抱え身を固くして闇に抗う。目を閉じ闇から触手が伸びてこないうちに意識を集中して、あの人の笑顔という蓋を、闇に被せ押さえつける。笑顔の蓋がぶれないように、集中する。集中する。集中する・・・

 カチャ・・異質な音が、その集中を壊す。

 『みっちゃん・・』浮かぶ叔母の名に、怒りが纏いつく。途端に、蓋がズレ、隙間から黒い触手が伸びてくる。慌ててズレた蓋に意識を集中し、元に戻し押さえ込む。

 その間も、かすかな異音が続き集中を邪魔する。湧き起こる怒りに闇が調子づく。怒鳴り声が口をつくその時、再び、カチャと扉の閉まる音が鳴り、そして玄関が開き閉まる音が続く。ホッとして、再び蓋に集中しようとしたその時、テレビの音をかき消す異音が、部屋を満たす。

 (何をした!何をした!あいつは何をした!)

 噴き出した怒りに我を忘れた瞬間、闇の触手が目の前にグワッと迫り、あの夜の記憶の中へ彼女を飲み込む!叩きつけられ引き裂かれる痛み!鉄の味!黒く浮かびあがる顔の輪郭!暗闇に閉じ込められた記憶が弾け、パニックが彼女を襲う。声にならない声が喉を震わせ、吐き気が込み上げる。胃液が喉を焼く痛みが、彼女を恐怖の記憶から引き出す。彼女は、体の震えを無視して、また闇に抗う。抗う。抗う。

 必死に、漆黒の闇に笑顔の蓋を押しつけ押え続ける。

 どれくらいの時が過ぎたのか、彼女は汗で濡れ冷えた体を震わせながら、笑顔の蓋を闇にしっかりと被せ直す。

 それでも、異音はまだ鳴り続ける。

 (落ち着け・・落ち着け・・)

 そう自分に言い聞かせ、部屋の隅に置かれ異音を出し続けるCⅮプレーヤーを確認する。彼女は膝を抱えた手を解き、ゆっくりと足を延ばしベッドを下りた。

 (邪魔だ・・邪魔するな・・)

 そんな心に揺らめく怒りを静め、闇に被せ続ける蓋に意識を配り、ゆっくりゆっくり異音を発する元凶へすり寄る。誰にも助けを求められず、求める術も分からず、この半年、彼女は人を遠ざけ、一人闇に抗い続けてきた。自身の本当の想いさえ心の奥の奥に閉じ込め、狂気の淵で一人彼女は闘ってきた。

 そんな戦いの場に、何も理解せず異音を持ち込む叔母に再び怒りが込み上げる。すぐ、心乱すまいと闇に被せた蓋に意識を集中する。ゆっくり異音を流す元凶へ近づき、そして辿り付く。スイッチへ指を伸ばした一瞬、ホッと気が抜け、集中していた気持ちが途切れ・・闇が!と怯えたその刹那、異音は、歌に代わる。

    ・・ずっと そばにいるよ・・♪

 歌に込められた詞が、すっと胸に染み込む・・ 

    ・・ひとひらの雪は 

    無数の粉雪を招き あなたを包むの 

    だから 少しだけでいい その手を伸ばしてみて・・♪

 スイッチの前で、指は氷つく。歌詞に込められた想いが、心に、体に、彼女の全てに染みてゆく。彼女は、その場に膝をつき体は歌に合せ揺れる。恐怖と狂気に、厚く硬く閉ざされていた心の壁に、歌に注がれた想いが鋭い錐となり小さな穴を穿った。

 そして、心の壁に穿たれたその穴を中心に、無数のヒビが何とも言えない心地の良い痛みを伴って奔る。

 ゴオヴァ!

 体を震わす衝撃と共に、恐怖と狂気の壁は崩れ去る。 

 何ヶ月もの間、どうすることもできなかった恐怖!狂気!そして心に溜まりに溜まった苦しみ、悲しみが黒い澱となり流れ出る。

 一粒の涙が頬を伝い、その手を濡らす。手を濡らすものが自分の流す涙だと気づいた時には、涙はもう止めどなく溢れていた。それはこの一年、泣くことを忘れた彼女が、自らの中にただひたすらに溜め続けていた涙。体をはちきれんばかりに満たし続けていた涙が、一気に溢れ出る。涙が、止まらない・・・

 どこか遠くから歌声に重なり、声が聞こえてくる。

 ・・私の・・声・・?

 口から洩れる呻き声。やがて、それは体中から溢れ出す喚き声に変わり、それと共に、心を閉ざしていた壁から流れ出ていた苦しみ、悲しみ、狂気の黒い澱がはじけ、飛び散る。心に残された深く大きな穴には、カラカラに乾燥した大地に雨が浸み込んでゆくように、体を包む歌から注がれる心地のいい温もりと優しさが、ちくちく刺す痛みとともに、ゆっくり、ゆっくり、ゆっくりと満ちてゆく。

 彼女の体に、心に、染み込む歌は、闇に囚われていた彼女に再び光を与え、そして人と繋がる世界へと彼女を導き、その扉を開ける。

 

 番組収録の打ち合わせを終えて、控え室へ戻って来た十和子の携帯に、社長の大井戸から伝言が届いていた。

 『仕事終わったら、事務所に寄ってくれ。』伝言は、それだけ。

 「えっ?社長から?何かあったの・・?まさか!事務所が潰れるって話じゃ・・ないよね?」

 十和子は携帯を見つめながら、その考えに眉を顰める。

 まさか、と思っても一度浮かんだ不安は簡単には拭えず、十和子はつい、事務所の内情を考えてしまう。

 彼女の所属する事務所『オーイドスターエージェンシー』は、二十年ほどの歴史はあるが、所属しているタレントでそこそこ稼いでいるのは四人。指折り数えてもそれ以上指は折れない。これからテレビに顔を出すことになる自分を勘定に入れて、やっと片手が閉じる。そんないつ潰れてもおかしくない弱小プロダクションだ。

 十和子は、事務所に入って一年半が経つが、これまでグラビア、エキストラ、イベントのアシスタントと、言われるがままにいろんな仕事をやってきた。その合間には、テレビに関わるいろんなオーディションをいくつも受け、そして落ち続けてきた。その度に挫けそうになる自分を、『彼女』に会いたいという想いと、社長の叱咤激励を支えに気持ちを奮い立たせ、これまで頑張ってきた。

 そして、奇跡が起き、秋の新番組のアシスタントに抜擢された。

 「だから、今は事務所を潰さないで、社長。ようやく『彼女』に一歩近づいたんだから・・」

 そんなことは無いと否定しても、ざわつく不安が纏わりつき、心の中でつい手を合わせてしまう。そこへスタッフの声がかかり、十和子を物思いから引き戻した。

 「はーい、行きます。」

 十和子は、気持ちを切り替え控室を後にした。

 緊張した面持ちで、初収録のスタジオへ向かう十和子の頭からは、もう先ほどの不安は消えていた。


 地下鉄の出口で、初秋の冷たい風に身を震わせた十和子は、薄いコートの襟を合わせ歩き出した。ただ、寒さにもかかわらず、十和子の気分は、初収録を無事に終えたという安堵と満足感で高揚して、その足取りは軽かった。

 今、彼女が向かう港区にあるオーイドスターエージェンシーの事務所は、駅から十数分の築三十年を超える八階建の細長いビルの五階にある。高揚した気分のままに、事務所が入るビルの前へ来た十和子は、足を止め上京以来初めてゆっくりとビルを見上げた。ビルは、事務所が入る五階以外、もう明かりは消えていた。ふと、ビルの先を見上げた十和子は、五階より上がその明かりで夜の闇に溶け込み、ビルがどこまでも闇の中を伸び続けているような幻覚に襲われる。それは、ビルと共に自分までもが闇に引き込まれる気がして、十和子はぞっと身を震わす。高揚感は消え、上京したてに初めてこのビルを前にした記憶が蘇える。

 十和子は一年半前に、キャリーバック一つで、福岡から上京してきた。上京したその日、彼女は道に迷いに迷ってようやくこのビルにたどり着いた。すでに陽は沈み、辺りは暗くなっていた。暗がりに佇む建物の威圧感に圧倒された十和子は、中に足を踏み入れることもなく、その場を逃げ出した。それから何日も経って、ようやく覚悟を決めた十和子は、事務所のドアを叩き飛び込んだ。後のことはあまり覚えていないし、思い出したいとも思わない。ただ、その日事務所にいた社長の大井戸に必死に売り込み、気づいた時には置いて欲しいと泣きついていた。

 (あれから、まだ一年半か・・なんだか、ずっと昔のことに思えちゃう。本当にあの時は必死だったんだよね。がんばったね、私。) 

 十和子は、少しは成長した自分を感じとりながら、十月の冷たい空気を胸にゆっくり吸い込んだ。そして、懐かしくも恥ずかしい記憶を、吹き飛ばすように大きく息を吐き出し、今はもう通い慣れた、古びたビルの中へと入って行った。

 事務所はビルの五階のフロア全てを占めている。とは言っても広さは二十坪ちょっとしかなく、エレベーターを出るとすぐ正面が、事務所の入り口になっている。

 「おはようございます、ただいま戻りました。」

 十和子は、心の隅に燻る不安感を消すように、元気良く事務所に入ってゆく。

 「お疲れ様。」

 返事が返ってきた事務所には、見慣れない女の子とマネージャー二人、あとパソコンとにらめっこしている、経理の青木さんの姿があった。そして社長の大井戸は、暗い窓を背に黒い革製の椅子に埋まるように座っている。社長の大井戸は、中肉中背で今年五十一歳。結婚したことはあるらしいが、離婚後は独り身を通し、頭が薄くなったことを機会に潔く頭をつるつるに剃り、以降それが彼のトレードマークになっている。

 十和子が入ると、大井戸が顔を上げ、

 「おお、十和子。お疲れ様。収録はうまくいったか?」

 そう尋ねながらも、早く来いと手招きをする。

 十和子は、社長の元気な姿にここが潰れることはまだなさそうと、ほっとしている自分に苦笑いを浮かべた。

 「おかげさまで、無事収録できました。それより、社長から連絡をもらうなんて、本当に久しぶりですよね、どうしたんですか?」

 十和子はコートを脱ぎ、それを近くの椅子の背に掛け、大きめのバックは椅子に置き、社長の元へ急ぐふうもなく向かった。

 大井戸は、そんな十和子を少々じれた様子で待っている。

 「初収録、ご苦労さん。一年と半で、少しは自信をつけてきたか?ずぶ濡れの子猫が、野良猫に成長したかな。」

 「社長、それって褒めてもらっているんですよね?」

 眉を顰めた十和子は、社長の机の前で足を止めた。

 「もちろんだとも。りっぱに生きる力を身につけた野良猫だ。これほどの褒め言葉はないぞ!これからバンバン稼いでくれよ。おっと、それで今日、寄ってもらったのはだな。レギュラー番組獲得のお祝いが届いたから、それを渡そうと思ってな。」

 大井戸は、嬉しそうに引き出しから一枚のカードを取り出した。

 「ほら、お祝いだ。」

 十和子が、眉を顰め訝しい気に受け取ったカード、それは『小夜香』のファンクラブの会員証!

 心臓が、ドクン!と高鳴る。同時に溢れ出す喜びに胸が躍る!

 『すごい!すごい!すごい!小夜香さんの会員証!』

 彼女は、喜びに舞い上がる・・!でも、

 『何故・・?』

 ふと疑問が湧く。というのも『小夜香』のファンクラブが立ち上がると聞き、十和子はすぐに自分で申し込みをしていた。だから、何故社長からこれを渡たされるのかと、疑問が表情に出る。

 「会員番号をよく見てみるんだ。」

 大井戸は、十和子の表情を楽しむように、そう促す。

 「会員番号?」

 十和子は、会員証を見直し、そこに『1』の文字を見つける。

 「・・一番?ええっ!どうしたんですか社長!これ、会員番号一番!ってなってますよ!えっ!えっ!すごい、すごい!すごい!」

 十和子はカードに記された、『会員番号1』の文字に驚き、あらためて喜びに舞い上がり、周りがびっくりする大きな声を上げていた。その姿を、大井戸は組み合わせた両手に顎を乗せ、ニコニコと嬉しそうに見つめる。

 「ここへ来た時に、お前は『小夜香君』に会いたいから芸能界に入りたい。そんな、訳の分からないことを言っていただろう?そんなんじゃ、長くは続かないと思っていたが、まっ、よくここまで頑張った。だからそのご褒美だよ。『アクネス』の社長に、特別に都合をつけてもらったんだよ。どうだ?少しは俺を見直したか?」

 十和子は、この事務所に飛び込んだあの時に、確かにそんなことも言ったと、初心だった自分を思い出し恥ずかしさに胸が疼く。だから純粋に心からの感謝の気持ちと、さらには疼く恥ずかしさを打ち消そうと、十和子は机を回り込み社長に駆け寄った。

 ちょうど椅子から立ち上がり、何か言おうと顔をあげた大井戸は、駆け寄る十和子に、

 「よせ!やめ・・!」

 その言葉は無視され、彼女の両手は大井戸の首に廻される。

 「社長。最高です!本当にありがとうございます!」

 「おいおい、そんなたいしたことじゃないさ。さっ、離れろ!」

 大井戸は、いつものことながら困り果て顔を背ける。焦る姿に十和子はますます煽られ、首に回した右手が躊躇うことなく、つるつるの頭をペチペチと叩く。

 「よくやってくれました!社長。感謝、感謝です。」

 「お前はガキか!こら!なんだその言い方、感謝の気持ちが、全く伝わらんぞ!調子こいて、人の大事な頭を叩くんじゃない!」

 大井戸は、首に廻された十和子の腕を取り、さらに頭を叩く手を引き離そうと苦闘する。

 十和子が、初めて大井戸に抱き付いたのは、雇って欲しいと頼み込み、何とかここに置いてもらえると決まった時のことだった。その時は、ぐしょぐしょの泣き顔のまま抱き付いたので、今以上に大井戸に引かれてしまった。そして、そこで偶然触った頭が、ベトベトしていないのに驚き、かえってその冷たさが心地良く、それからはたまにこうして触るのが、彼女の楽しみ?趣味?になっていた。

 「いい加減に離せ。離れろ!」

 その声に重なり、背後からくすくすと笑い声が聞こえてきた。

 (あっ、そうだ。初めての子がいたんだ。) 

 そう気づいて、十和子は首に廻していた腕を離した。

 解放された大井戸は、椅子にどさっと腰を落とす。

 「社長、最高のお祝いです。本当にありがとうございます。」

 十和子は、大きく息を吐き出す大井戸に、何事も無かったかのように頭を下げ、さっさとコートとバッグのところへ戻ってゆく。

 「感謝してもらうのはいいが、本当に俺のことを社長だと思っているのか?いいか何度も言うが、ガキじゃないんだから、人目も気にせず抱き付くな!気安く頭を触るな!忠告はこれが最後だ、よく覚えとけ!まったく。お前が野良猫に成長したっていう、俺の判断は間違いじゃなかった。お前はりっぱな野良猫だ。これからもっと常識を弁えろ。いいか俺が教えて・・」 

 十和子は、安全地帯に戻り小言を言いだした大井戸を無視して、『小夜香』のファンクラブの会員証を、一心に見つめる。さらには手を伸ばし会員証をかざし、また口元を緩め嬉しそうに眺める。にやけっぱなしの十和子を見て、大井戸は諦めたように口をつぐんだ。周りを忘れて楽しむ十和子に、背後から声がかかった。 

 「十和ちゃん。楽しんでいるところ悪いけど、ちょっといい?良い機会だから今度うちに入った、小川麻貴ちゃんを紹介するよ。」

 そう言ってチーフマネージャーの横井が、事務所に入る時に目にした、ちょっとぽっちゃりして背は低いが、肩までの髪をカールさせ、ぱっちりした目が魅力的な、かわいい女の子を紹介してきた。

 「小川麻貴です。よろしくお願いします。」

 紹介された女性は、少し甘えた声で挨拶して頭を下げた。

 「十和子です。よろしくね、大変だけど、頑張って。」

 「はい、頑張ります。いろいろと教えてください・・でも、十和子さん。社長にあんなことして大丈夫なんですか?」

 身を寄せてきた麻貴は小さな声で、十和子に尋ねた。

 「あっ、あれ?あれは、私流の感謝の表現なの。いつものことだから大丈夫よ。」

 「麻貴ちゃん。皆があんなこと出来るって思わないでよ。十和ちゃんは、社長の『愛人一号』だから許されてるんだからね。」

 横井が、ニッと笑って口を挿んだ。

 「えっ?十和子さん、愛人なんですか?社長の?それに一号って、他にも社長さんの愛人がいるんですか?」

 驚いた麻貴は、横井と十和子を交互に見た後、最後に恐る恐る大井戸を振り返る。

 「横井!バカなことを彼女に吹き込むな!麻貴ちゃん、今聞いたことは冗談だから。十和子も、人前で抱きつくとこんな誤解をされるだろうが、本当にいい加減にしろよ!」

 大井戸の怒鳴り声が、焦り気味に三人の会話に割り込む。

 「社長、わかりました。これからは二人だけの時にしますね。」

 そんな大井戸に、十和子はにっこり笑って品をつくり応える。

 「バカ!二人の時も、ダメに決まってるだろうが!そんなこと言うと、本当に麻貴ちゃんに誤解されるだろうが!」

 焦る大井戸は、さらに声を張り上げる。

 「社長。若い子に抱き付かれるなんて、良いじゃないですか。羨ましい事ですよ。十和ちゃん、僕にも抱き付いてきていいよ。」

 青木がパソコンを打つ手を止めて、会話にくわわる。

 「残念!青木さんは、タバコ臭いから無理です。それに社長みたいに抱き付いても、嫌がらないでしょう?」

 十和子は、青木の誘いに澄まし顔で答える。

 「確かに。青木さんは本気になっちゃうからね。社長みたいにからかいがいがないよね。」

 マネージャーの桑田も、にやにや笑って話に加わる。

 「何とでも言ってよ。悪かったね。どうせ俺なんか、夜のお姉ちゃんしか相手にしてくれないよ。あーあ、もう仕事辞めた。」

 青木はさっさとパソコンの電源を落とし、帰り支度を始めた。

 「十和ちゃん。紹介が途中になったけど、麻貴ちゃん、東華大学のまだ学生なんだ。何か良い話し耳にしたら売り込んどいてよ。」

 「へえ、頭良いんですね。でも、麻貴ちゃん。本当にうちなんかでよかったの?」

 十和子は、『東華』と聞いてあらためて心配顔で彼女を見つめる。そんな十和子の言葉を聞いた大井戸が、情けない顔をして、

 「こらこら、十和子。お前はもう少し、自分の事務所に自信を持て。それと頼むから、もうそれ以上口を開くな、お前が何か言うと胃が痛んでしょうがない。」

と、頼み込んだ。

 「あっ、社長。胃薬ありますよ。飲みます?」

 「バカ!お前の胃薬なんているか!逆に腹が腐るわ!」

 「あははは、くっ、くっ、くっ・・」

 それまで、我慢して聞いていた麻貴は、抑えられずに体をよじって笑いだした。

 「・・・すみません。おかしくって・・」

 笑いをなんとか収めた麻貴は、気まずそうに誰にともなく言う。

 「しょうがないよ。こっちはもう慣れているけど、あんなコント見せられたら笑っちゃうよね。」

 横井が、麻貴をフォローする。

 「まったく。最初にここを訪ねて来た時の姿が、信じられん。」

 大井戸の口から、十和子へのそんな恨み言がボソッと零れる。

 「で、十和子は、これから特に予定はないんだよな?」

 「ええ、社長。今日はもう帰るだけです。今晩はこのカードを抱いて寝ちゃいます。」

 十和子は、嬉しそうに頷く。

 「それじゃ、抱っこして寝る前に、お前のレギュラー番組、初収録のお祝いをしようかな。青木も慌てて帰ってもしょうがないだろう?麻貴ちゃんは大丈夫かな?」

 「あっ、はい。ありがとうございます。誘って頂けるなんて、嬉しいです。」

 麻貴は少し躊躇いをみせたが、それでもその誘いに頷く。

 「横井も桑田も、今日の仕事はおしまいだ。さっさと片付けるんだ。」

 大井戸の言葉に、皆はバタバタと帰り支度を始め、社長自身もむっくりと椅子を離れ、コートを着込んでいる。

 コートに手を通す十和子に、麻貴はそっと近づき尋ねた。

 「十和子さん、社長さんの愛人って、本当に冗談ですよね?」

 十和子は、麻貴を面白しそうに見つめる。

 「もしかして麻貴ちゃん。愛人にされないかって心配してる?」

 「えっ・・あっ、はい。少し・・。」

 「そうか、でも安心して。社長は若い女性は嫌いだって。確かに何回抱き付いてもなびかないしね。それに私もおじさんは嫌いだから、愛人関係にはならないの。」

 「でも。それじゃ、さっき抱き付いてたのは?」

 「あれはね。社長が嫌がるからつい、からかっちゃうの。」

 「本当にいいんですか?社長さんをからかうなんて。それに人前であんなことすると、やっぱり愛人に間違えられませんか?」

 「だって、人前でやらないと面白くないもの。それにこの事務所の中だけだから大丈夫よ。私もちゃんと考えてるのよ。」

 「はあ、そんなもんなんですか?」

 まだ納得できない顔つきの麻貴に、十和子は続けた。

 「じゃあ、麻貴ちゃんにだけ、本当の事を教えてあげる。実はね、初めて社長に抱き付いた時に、懐かしい匂いがしたの。」

 「匂い?社長さんの?」

 「そう、社長の匂い。私は父がもういないんだけど、社長はね、父と同じ匂いがするの。整髪料や香水とかとは違うその人の持つ匂い。父と同じ深い森の中のほっとするような匂いなの。だからね、たまにその匂いを嗅ぎたくなると抱き付くの。」

 「あの・・社長さんから?」

 「そう。あの社長から。でも、誰にも言わないでね。変態だって言われるのがおちだから。だったらまだ、からかってるって思われてる方が良いの。」

 「ええ。もちろん誰にも言いません。約束します。でも匂いですか、そうなんだ・・」

 納得したのかしないのか、麻貴はそのまま口をつぐんだ。

 十和子は、コートを着込んでいる大井戸を見つめ、事務所へ入りたての頃を思い返した。

 当時は、無理矢理にこの事務所に居座った十和子だったが、実際に何をすればいいのかもわからず、周りにうまく溶け込めないままに、ただおろおろするだけの日々が続いた。社長はそんな彼女を、厳しくも親身に面倒をみてくれた。社長直々にあそこへ行け、これをしろと指示され、動く中で十和子は次第に揉まれ、なんとかこの世界に溶け込み、要領のようなものも身に付けてきた。

 (ごめんなさい、社長。仕事はしっかり頑張るから、私の抱きつき魔は諦めてね。) 

 十和子はそんな謝っているような、開き直っているようなことを思いながら、こちらへ来る大井戸に言った。

 「社長。早く行きましょう。私、『游玄亭』が良いです。」

 「ばか。お前には百年早いわ。」

 大井戸は、軽く十和子の頭を小突くとドアを開けた。

 

 コンサートは終わった。

 つい先程まで、眩く輝き観客席を照らし出していた照明は、もう全て落ちている。今はただ、ステージを照らす照明が、誰もいない観客席を、ぼんやりと闇に浮かび上がらせるだけ。ほんの三十分前まで、千二百人のファンがいた観客席は、静寂に返っている。

 「小夜、片付けの邪魔だよ。打ち上げ行くのに、皆待っているよ。急ぎなさい。」

 ステージ袖で待つマネージャーの木下が、呼びかけてくる。

 「はーい。すぐ行きます。」

 彼女の立っているステージの周りでは、片付けが進んでいる。

 (邪魔してごめんなさい。でももう少しだけ、ここにいさせて。) 

 小夜香はそう呟き、片付けの作業をしている人たちへ、心の中で手を合わせた。それでも、自分がさっきまで立って歌っていたステージにどうしても、もう一度立ちたくて、彼女は急いで着替えを済ませここへ戻って来た。

 今日のコンサートは、小夜香の二十歳の成人のお披露目も兼ねた、彼女にとって大切なファーストコンサートだった。

 小夜香はあらためて立つステージから、観客席をゆっくり見渡し、そして瞼を閉じる。すると、そこにまだファンが詰めているかのように、地を揺るがすような歓声が、脳裏に鮮明に蘇ってくる。

 (耳に残こる皆の歓声。この感激をずっとずっと忘れない! 私の初めてのコンサート。夢のようなひととき。今もまだ、体が震え興奮がおさまらない!)

 コンサートが始まるまでは、あれほど不安と緊張で体が震えていたのに、今は高揚感に包まれ、その感動で体が震えどうしようもない。始まる前の不安が嘘のように、今は、まだ歌いたい!歌い足りない!そんな溢れだす想いを抑えきれない。

 (皆。コンサート、楽しんでもらえた?満足してもらえた?今日は私の歌を聞いてくれて、本当に、本当にありがとう。) 

 小夜香は、今日このコンサートへ来てくれたファン一人一人を思い浮かべ、そんな問いかけと感謝の言葉を呟き、ゆっくり瞼を開けた。そうして名残惜しさを、今は胸に仕舞って、舞台袖で待ってくれている木下の元へ向かった。

 戻る途中、観客席からの引き止める声に、小夜香は足を止め振り返り、観客席に頭を下げて呟いた。

 「また、絶対、戻ってくるね。」


 「小夜、大丈夫だよね?」

 マネージャーの木下の、チェックが入る。

 「ええ、大丈夫です。」

 小夜香はそう答えたものの、本当はまだコンサートの余韻が残り、気持ちはふわふわと漂っている。だから、つい木下の言葉は耳を素通りしてしまう。五日も経つんだから、頭を切り替えなければと思っても、まだコンサートの余韻に浸っていたい、という想いをどうすることもできないでいた。

 「映画の撮影が終わってから、沢井さんとの共演は始めてだから、挨拶も失礼の無いようにきちんとしてね。」

 浮つく小夜香を、いなすように木下のチェックは続く。

 「ええ、きちんと挨拶に伺います。大丈夫です。」

 『沢井』の名前に、小夜香もピッと気持ちが引き締まり、コンサートの余韻から現実に戻る。小夜香は、最後に沢井の姿を目にしてから、五ヶ月経ったことに新鮮な驚きを覚え、同時に封印していた彼の笑顔、声が記憶の中からどっと蘇える。さらには会場へ届けられた、花束とメッセージを目にした時のときめきまでも蘇る。沢井と共演した映画『あやかしの里』の撮影の後、小夜香はコンサートの準備、CDの収録、そしてレッスンとこの五ヶ月間忙しく過ごした。その間沢井への想いは、胸の奥にずっと封印してきた。それが今、『沢井』と言う魔法の言葉で、胸に封印していた想いの全てが解き放たれた。

 彼と共演した『あやかしの里』は、小夜香の初めての映画出演作になる。小夜香は二か月近い撮影期間中、ヒロインの『舞姫』として、ロケ地やスタジオで沢井と過ごした。それは彼の演技を間近で目にするとともに、彼の素の表情を見ることにもなって、演技への真剣な想いや周りの人への気遣いを感じ、いつしか小夜香は、沢井の人柄に魅かれている自分に気づいた。

 クランクアップが近づくにつれ、小夜香の胸には、映画に出ている俳優は、役を演じている間の恋人同士としての感情を、撮影が終わった後どう切り替えているのだろう?とそんなどうしようもない疑問が積もっていった。誰に聞くわけにもいかず、今もそれは彼女の胸に解決されずに残っている。今になって、そんなもやもやまでが胸に蘇り、彼女をもてあそぶ。

 「小夜ちゃん。コンサートへ行けずに申し訳ない。」          

 不意に、背後から懐かしい声が、耳に飛び込んできた。           

 小夜香は、心臓が飛び出るほどの驚きを必死に抑え込み、足を止め冷静に振り返り、足早に向かって来る沢井に頭を下げた。

 「おはようございます。沢井さん、コンサートの時には花束を頂き、ありがとうございます。とっても素敵な花束でした。」

 興奮する気持ちとは裏腹な、冷静な自分を演じる。

 「とんでもない。せっかく招待してもらっていたのに、行けなくて悪かったね。本当に残念だったけど、コンサートは盛り上がった?楽しめた?」 

 「ええ、とっても。」

 小夜香は強張る笑顔で、近づいて来る沢井へ高まるときめくと少しの期待感を胸に短く答えた。

 小夜香が密かに心惹かれる沢井は、まだ独身でこれまでに多くの女優と浮名を流し、他にも噂は絶えず、世間では遊び人と言われている。三十九歳という年齢ながらも、つやのある肌と若々しい顔だちで少なくとも十歳は若かく見えた。その顔はやや長めで、顎はすっきりと絞まり、すっとした高い鼻、黒くてちょっと太い眉と切れ長で鷹のような目、両端が持ち上がって優しげな口元が、目元のきつい表情を和らげている。一八〇を超える体はぐっと引き締まり、常にスーツを着てスマートに決めている。

小夜香は、久しぶりに目にする姿にうっとり見入ってしまう。

 「次のコンサートには、必ず行かせてもらうよ。」

 マネージャーを従えた沢井は、そう言って立ち止まることなく笑顔を残し、彼女の横をあっけなく通り過ぎていった。 

 「後からご挨拶に伺います。」

 小夜香の期待感もときめく想いもパチンと潰れ、何とも言えない拍子抜けした思いで、沢井の後ろ姿に声をかけた。

 「待っているよ。」

 沢井は右手を軽く上げ、振り返ることもなく去って行った。

 ふーっと小夜香の傍で、木下が大きく息を吐いた。

 「どうかしました?」

 「ちょっと気押されたかな、さあ行きましょう。」

 珍しく木下が、弱気なコメントを口にする。                  

 今、小夜香とマネージャーの木下は、東阪テレビの楽屋へ向かう廊下にいた。小夜香は初出演の映画、『あやかしの里』の宣伝を兼ねて、沢井とクイズ番組の収録のためにここへ来ていた。

 小夜香に付き添う木下は、小夜香のデビュー以来、ずっと彼女のマネージャーについているが、他に二人のタレントのマネージャーも兼ねている。小夜香にとって、そんな木下はちょっと口うるさい、姉みたいな存在になる。年齢は三十歳、一五五センチのぽっちゃりした体だが、常にエネルギーが溢れ出ている。ポジティブなその性格は、何事にも前向きに取り組み、てきぱきと行動して無駄がなく、周りをぐいぐいと引っ張ってゆく。三人のマネージャーを務めながら、彼女の口から忙しいとか、疲れたとかそんな愚痴を一切聞いたことが無い。少し沢井の存在感に圧倒されたとはいえ、すぐにいつもの木下に戻りチェックが再開された。

 「挨拶は、沢井さん以外にもちゃんと忘れずにね。それと今日は『あやかしの里』の宣伝なんだから、楽屋に着いたら話さないといけない事、もう一度確認しておいて。沢井さんがうまくやってくれるとは思うけど、司会の村瀬さんが話題をふってきたら、小夜もちゃんと答えるのよ。気を抜かないでね。」 

 小夜香はコンサートの時もそうだったが、今、テレビの出演を前にして緊張していた。だから木下のこの言葉は、小夜香にとって逆に結構プレッシャーになってしまう。もうわかったから止めてと言いたかったが、その言葉をぐっと飲み込んで、黙って頷いた。 

 その時、また小夜香の背後から、うわずった声がかけられた。

 「あの・・・すみません。小夜香さん、ご挨拶させてください。『クイズ日本発掘』のアシスタントを務めています、十和子と申します。今日はよろしくお願いします。」 

 小夜香が振り返ると、同世代のすらっとした、どこか外人っぽいきれいな顔立ちの女性が立っていた。振り返った小夜香に、彼女は興奮したように勢いよく話しかけてきた。

 「今日は番組に出演されると聞いて、お会い出来ることを本当に楽しみにしていました。先日のコンサートも素敵でした。小夜香さんの生の歌が聞けて、とっても感激しました。あの、握手してもらってもいいですか?」

 「ええ。」

 彼女の勢いに、おもわず差し出した小夜香の右手を、彼女は両手で強く握りしめてきた。その手は、微かに震えている。驚いた小夜香は、目の前の顔を覗き込んだ。見つめられた彼女は、わずかに視線を外しながらも話し続ける。

 「こうしてお会いできて、本当に嬉しいです。あの、何て言っていいか・・とっても感激しています。」

 言葉から興奮がにじみ出て、十和子は小夜香の手を握りしめ離そうとはしない。

 「ごめんなさい。準備があるのでこれくらいで。また、スタジオでお世話になります。」

 木下が、二人の間に入ってきた。

 「あっ、すみません。そうですね。小夜香さん、スタジオでお待ちしています。」

 彼女は、名残りおしそうに手を離し、頭を下げ去って行った。

 「さあ、これ以上邪魔が入らないうちに楽屋へ入りましょう。」

 木下はそう言って、小夜香を促す。

 (えっ?沢井さんも邪魔者扱い?ひどいよ、木下さん!それに十和子さんだっけ?彼女にも、コンサートのお礼を言えなかった。) 

 小夜香は、心で反発しながらも黙って楽屋へ向かう。

 「小夜、いい?さっきみたいに近づく女には注意しなさい。ニコニコ笑って人を踏み台にする人間は、この業界にはいっぱいいるからね。」

 木下は楽屋に入いると、すぐに注意する。

 「でも木下さん。彼女、この番組でアシスタントもやってるし、他でも見かけますよ。彼女の方が、私より売れていませんか?」

 小夜香は、今の現状をつい口にしてしまう。

 「もう、何を言ってるの!いい小夜。あなたは今度の映画ではヒロインを演じているのよ。歌もヒットしてる。コンサートも成功したじゃない。これからテレビの露出も、どんどん増えるわ。今年はね、あなたが一気に売れる年なの!あんな子となんか比べないで!あなたはもっと自信を持ちなさい!」

 木下のそんな力強い言葉が、小夜香を飲み込む。

 (やっちゃった。反論しちゃうと、十倍になって返ってくるってわかってるのに、つい口が滑っちゃった。でも、十和子さんだっけ。彼女そんなに悪い人には見えなかったもの。) 

 小夜香はまた、心の中で反発しながらも、今度は黙って頷く。

 木下は小夜香の反応を見て、さっと手帳を開くと、明日のスケジュールのチェックに話を移した。

 「それじゃ、私はここで抜けるけど、収録が終わったら真直ぐ家へ帰えるのよ。今晩はゆっくり体を休めてね。明日は朝十時から三戸先生のところで、午前中いっぱい、ボイストレーニングだから遅れないように。その後、午後四時には京葉テレビのスタジオ収録。その時は小夜一人で『あやかしの里』の宣伝をするから、うまくやってね。とりあえず三時までには局に入って。私もその時間に合わせて行くから。そして夜は太陽ラジオの生出演。これは午後八時半から十五分くらいかな。何か質問ある?」

 小夜香が、首を振ると木下は手帳をパンと閉じた。

 「それじゃ、私はこれで行くから、出演者の方々への挨拶忘れないで。何かあったら連絡してね。」

 木下は、小夜香を一人残しさっさと楽屋を後にする。小夜香は、そんな時間を無駄にしない姿を感心しながら見送っていた。

 司会の村瀬と番組の出演者への挨拶を済ませ、最後に、小夜香は沢井の楽屋へ廻ってきた。小夜香は沢井の楽屋を前に、先程の挨拶でつれなかった沢井の態度に、気後れしている自分を意識してしまう。ロケの途中から、少しは親しく話せるようになったと思っていたのに、五ヶ月という時間は、彼をまた雲の上の人にしてしまったと、小夜香の胸はチクリと痛む。小夜香は深呼吸をすると、気後れする想いを押し込め、顔に笑みを浮かべドアをノックした。

 「どうぞ。」

 沢井のよく通る声が返ってくる。小夜香はその声に緊張しながらも、ときめきまでもが顔を出すのを慌てて抑え、ドアを開けた。

 「おはようございます。沢井さん、先程は失礼しました。今日はよろしくお願いします。」                      

 「おいおい、どうした?小夜ちゃん。なんだか他人行儀だね。」

 沢井は、茶化すような言葉で小夜香を迎える。小夜香はそれに(冷たく通り過ぎたの、沢井さんじゃない!)と唇を尖らせる。

 楽屋は、沢井だけで、彼は雑誌を手にしてパイプ椅子の背にもたれ座っていた。

 「小夜ちゃん、時間ある?和菓子だけど食べていかない?有名処の和菓子だからおいしいよ。お茶もあるし入っておいで。」

 沢井は、体を起こし雑誌をテーブルに置きながら言った。

 「ありがとうございます。頂いてもいいですか?」

 小夜香は、誘われるままに中へ上がり、沢井の向かいに腰かけた。テーブルには、おいしそうな和菓子が皿に盛られている。

 「沢井さん、和菓子、お好きなんですか?」

 小夜香は、和菓子との意外な組み合わせに興味を抱き尋ねた。

 「そうなんだよ。あんこ物が特に好きだね。小夜ちゃん、遠慮せずに好きなものを食べて。好きとは言っても、こんなには食べられないからね。」

 沢井は、小夜香の前に紙コップを置くと、慌てて自分で注ごうとする小夜香を遮って、ペットボトルのお茶を注いだ。

 「すみません、ありがとうございます。沢井さん、最中を頂いてもいいですか。」

 小夜香は手にした包みを開け、早速一口、最中を口にした。

 「小夜ちゃん、誕生日は確か九月だったよね。撮影の時十九歳だったから、もう二十歳になったんだね。」

 「はい、ようやくお酒も飲めるようになりましたから、いつでも誘って下さい。」

 小夜香は、また顔を出し始めた期待感に、返事にも気持ちが込もってしまう。

 トントン。そこに、二人の会話を邪魔するノックが入る。

 「どうぞ。」

 沢井の返事に、ドアが開くと、

 「おはようございます。番組のアシスタントを務めます、十和子と申します。今日はよろしくお願いします。」

 先程、小夜香と言葉を交わした女性が、ドアを開け中へ一歩入って、沢井に頭を下げた。頭を上げた彼女は小夜香に気づき、手にした最中が目に入ったようだ。

 「あっ、私も最中、頂いてもいいですか?」

 十和子はその場の雰囲気に気づく様子も無く、沢井に尋ねた。

 「ああ、どうぞ入っておいで。」

 沢井は、苦笑しながらも優しく答えた。

 「すみません。ずうずうしくって。最中、大好きなんです。」

 十和子はそんなことを口にして入って来ると、すっと小夜香の隣に腰を下ろした。

 「小夜香さん。さっきは忙しいところを引き止めてしまって、すみませんでした。」

 椅子に座った十和子は、小さな声で小夜香に一言告げると、

 「おいしそうですね、最中いただきます。」

と、あらためて沢井に断り最中に手を伸ばした。小夜香はそんな十和子に、沢井との二人の時間を邪魔され苛立ちを覚える。

 (やっぱり、ずうずうしいの?沢井さんにこんな風に気軽にお願いが出来て、躊躇いもなくお菓子を口にできるなんて。木下さんが言うように、見かけでは人はわからないの?)

 小夜香は木下の警告の言葉を思い出し、最中を口に運ぶ十和子を盗み見る。

 彼女は、小夜香より少し背が高く、百六十ちょっとはありそうで、スレンダーな体なのに胸は大きく、髪はショートカットにして彼女に良く似合っていた。そして鼻筋はすっと通って高く、きりっとしっかりした眉に、二重瞼とアーモンドのような形の良い目は魅力的で、口は少し大きめだけどかわいい形をしている、それぞれが小さな顔にきれいに纏まり、その顔立ちは、外人と言ってもいいような美人だ。日本人形みたいと言われてきた小夜香は、その顔立ちに、少し憧れめいた感情を覚えてしまう。年齢も小夜香より幾つか上のように見えた。

 小夜香が彼女にそんな評価をしていると、十和子がすっと顔を小夜香に向け、見られてることを意識したように、にこっと感じの良い笑顔を見せてくる。

 (沢井さんも、こんな笑顔を見せられたら、好きになっちゃう? 沢井さんは十和子さんの顔の方が好み?) 

 小夜香はついそんなことを考え、沢井の表情を窺った。

 「とってもおいしいです。」

 十和子は、そんな小夜香の気持ちに気付くことなく、最中を味わっている。気分が落ち込んでしまった小夜香は、最中の残りを口に入れるとお茶で流し込んで、すっと立ち上がった。                                  

 「沢井さん、ごちそうさまでした。準備もありますから、これで失礼します。またスタジオでお世話になります。」

 小夜香は、沢井にお菓子のお礼を言うと、ごみを屑篭へ入れてドアへ向かった。それを見て、十和子も残りの最中を、慌てて口に詰め込み、口を手で押さえて立ち上がる。

 「沢井さん、最中おいしかったです。ごちそうさまでした。今日はよろしくお願いします。」

 彼女は、もごもごとお礼を口にして、小夜香の後を追った。

 「それじゃ、二人ともスタジオでよろしく。」

 部屋を出る二人に、沢井は声をかけ見送る。

 「はい、よろしくお願いします。」

 二人は、ハモるように沢井へ返事をして部屋を出た。

 「すみません、小夜香さん。せっかくお二人でお話ししてるところを邪魔してしまって。でも小夜香さんの姿を見たら、そのまま帰れなくなってしまって。ごめんなさい。」

 沢井の控え室を出るとすぐに、十和子は小夜香に頭を下げた。

 「えっ?最中が好きだったんじゃ・・それに沢井さんと、お話ししたかったんじゃないんですか?」

 小夜香の機嫌は治まらず、彼女は足を速める。

 「あっ、最中は好きです。でもそうじゃなく、小夜香さんの横に座れるチャンスって思ったら、つい後先も考えずお二人の間に割り込んでしまいました。本当に小夜香さんに会うのが夢だったんです。だから小夜香さんが番組に出演されると分かってから、今日が待ち遠しくて待ち遠しくって。こうしてお顔を見てしまうと、もう他のことが何にも考えられないんです。でも、今になって、お二人の邪魔をしてしまったって、反省してます。申し訳ありませんでした。本当にごめんなさい。」

 十和子は小夜香に合わせて歩いていた歩みを止め、先を行く小夜香に再び深々と頭を下げた。

 「謝らないで下さい。別に悪いことをしたわけじゃないんだから、気にしないで下さい。」

 十和子の態度に、小夜香は逆に自分が悪いことをしているようで、苛立ちは薄れ足を止めて応えた。

 「それに、さっきはコンサートに来ていただいたお礼も言わないままで、こちらこそごめんなさい。」

 小夜香の態度に、十和子はほっとして笑顔を見せ、二人は並んで歩き出した。

 「私の夢は、小夜香さんにこうしてお会いすることで、そのために芸能界に入ったようなものなんです。その夢がこんなに早く叶って、それにこんなにお話もできるなんて。今でもなんだかふわふわと雲の上を歩いている気持ちなんです。ああ、それとコンサートでの小夜香さんの生の歌は本当に素敵でした。小夜香さんの生の歌声が聴けて、その夜は興奮して眠れませんでした。また、九月のコンサートも楽しみにしています。」

 小夜香はデビューして三年目、その間にCDを八枚、アルバム一枚を出して、つい五日前に初コンサートが終わったばかり。そしてこれから封切られる映画に初出演しているが、知名度はまだまだだと自分でも自覚している。そんな自分の熱狂的なファンが、こんな近くにいることに苛立ちは完全に消えて、逆に戸惑ってしまう。頭の隅でまた、『注意しなさい。』と、木下の警告が蘇る。

 十和子は、小夜香の気持ちに気づく様子もなく話し続ける。

 「私、一人暮らしなんですけど、部屋ではいつも、小夜香さんの歌を聞いて、気持ちを癒してもらっています。私にとって『あなたにできること』は、大切な歌になっているんです。今でも何度も何度も、繰り返し聞かせてもらっています。」

 気恥しくなる十和子の賞賛の奔流も、小夜香の楽屋の前に来てようやく収まった。

 「ごめんなさい。一人でしゃべってしまって。今日はよろしくお願いします。それと、九月のコンサート絶対に行きます。」

 十和子は自分の思いを吐き出し、興奮も落ち着いたのか、それだけ言うとすっと離れて行った。

 「あっ、十和子さん。こちらこそ収録ではお世話になります。九月のコンサート、私も精一杯頑張りますから、楽しみにしていてください。」

 小夜香は慌てて、十和子の背中越しに声をかける。

 「はい、楽しみにしています。それじゃスタジオでお待しています。」

 彼女は立ち止まり振り返ると、にっこり微笑み去って行った。


 収録は滞りなく終った。

 小夜香は初めての宣伝もしっかりこなし、ほっと胸を撫で下ろし村瀬や十和子、番組のスタッフにも挨拶を済ませ、スタジオを後にした。時刻は夜の八時を廻っていた。

 (このまま帰えるの、もったいないな。久しぶりの自由時間だものね。渋谷でウインドショッピングもいいな・・そう言えば、夜は雪が降るとか言ってたけど、降ってるのかな?) 

 雪が見れるかもと、小夜香が期待して楽屋へ戻っていると、先にスタジオを後にした沢井の姿が目に入った。

 「小夜ちゃん、今日はお疲れ様。これからまだスケジュール入っているの?」

 沢井は、小夜香を待っていたかのように声をかけてきた。

 「沢井さん、お疲れ様でした。今日は、もうこれで終わりです。このまま家へ帰ります。」

 驚きを隠した小夜香は、まじめさを装い答えた。

 「だったら、少し時間もらえないかな。さっきはゆっくり話せなかったから、二人で食事でもどうだろう?帰りは送るから。」

 「いいんですか?嬉しいです。ぜひ、ご一緒させて下さい。」

 思わぬ誘いに、小夜香は嬉しさを隠すことなく、すぐにOKの返事をする。

 「じゃあ、地下の駐車場で待っているよ。二〇分後でどう?」 

 「はい、わかりました。」

 小夜香がそう答えた途端、

 「はい、わかりました。」

と、横から別の声が割り込んできた。二人がびっくりして横を見ると、そこには満面の笑みを浮かべた十和子がいた。

 「お二人の邪魔はしませんから。私もご一緒させて下さい。」

 十和子は先程、沢井の楽屋で見せたように、何の躊躇もなく沢井に少し媚びた声をかけてくる。 

 「えっと、十和子さんだったね?」

 思わぬ展開に戸惑う沢井に、

 「沢井さん、本当にお二人のお邪魔はしませんから。ぜひぜひ、ご一緒させて下さい。お願いします。」

と、十和子は彼を拝むように、両手を胸の前で合わる。

 「うーん。今回は申し訳ない。せっかくの美人の申し出だけど、今日は小夜香さんとゆっくり話をしたいから、また次の機会にしてもらえないかな。」

 沢井は、やんわりと断りを口にした。

 「えー、だめですか?じゃあ、本当に次にお会いした時は、ぜひ誘って下さいね。約束ですよ。」

 十和子は、小夜香に見せつけるように、沢井に甘えてみせる。小夜香は、まんざらでもなさそうな彼の表情に、気持ちが沈む。

 (十和子さんみたいな美人に、あそこまで言われたら、男の人だったら悪い気持ちはしないよね。) 

と、ついそんなことを考える。

 「ごめんなさい、お邪魔しました。沢井さん、次の機会にはぜひ誘って下さいね。」

 十和子は、意外なほどあっさりとその場を後にした。

 「ああ、そうだね、次の機会にね。」

 沢井が軽い気持ちで返した言葉は、小夜香の気持ちをさらに落ち込ませた。心にさした嫉妬の思いを、小夜香は抑えられず表情を曇らせる。振り返った沢井は、そんな小夜香の表情に気づき、十和子が去った二人の間には気まずい雰囲気が漂った。

 「今どきの女性の大胆さにはまいるね。どう対応していいか、わからなくなるよ。」

 沢井は弁解じみたことを口にして、腕時計に目を落とし、

 「じゃあ、二〇分後、車で待ってるよ。」

と明るく、気まずい雰囲気を振り払うように言った。

 「はい、地下の駐車場ですね。出来るだけ早く伺います。」

 さっきまでの胸が高鳴る喜びが萎んでしまった小夜香は、なんとか笑顔を作り応えた。

 「慌てなくても良いからね。」

 そう言い残して、沢井も去って行った。

 (十和子さんのおかげで、せっかくの雰囲気も台無し。どうして彼女は、こんなに邪魔をするの?確かに沢井さんは、久しぶりに会ったから、気を使ってくれてるだけかもしれないけど、それでも沢井さんに誘われたんだもの、もっとうきうきできたはずなのに。あなたは何をしたいの?やっぱり私のファンなんて嘘なんでしょう?ただ、沢井さんに取り入りたいだけでしょう?)

 小夜香は、沢井との楽しい雰囲気を台無しにされた悔しさに、楽屋へ戻る間もずっと、十和子への文句を繰り返していた。


 小夜香は、すっきりしない気持ちのままに地下駐車場へ向かい、エレベーターホールのドアを開けた。ヒュッーと身を切る冷たい風が吹き込む中を、コートの襟もとを握りしめ外に出た小夜香が、辺りを見渡すとすぐにハザードランプを点けた車が目に入った。

 「小夜ちゃん、こっちだよ。」

 窓から顔を出した沢井が声をかけてくる。小走りに駆け寄った小夜香は、

 「お待たせしました。失礼します。」

と言って、助手席へ滑り込みドアを閉めた。車はすぐに動き出す。

 「どういたしまして。ところで小夜ちゃん、今日は焼き鳥とビールでもいいかい?」

 沢井が、ハンドルを切りながら尋ねた。

 「えっ、はい。焼き鳥大好きです。」

 小夜香は思わずそう答えたものの、沢井さんに焼き鳥?と少し意外な感じを受け、沢井をちらっと見てしまう。

 「楽しい女将とおやじを小夜ちゃんに紹介したいし、焼き鳥もうまいから、ぜひ食べて欲しいんだ。」

 そう口にする沢井から、嬉しそうな雰囲気が伝わってくる。

 「あの・・沢井さんに焼き鳥ってイメージに合わないんですけど、よく行かれるんですか?」

 彼の雰囲気に引かれた小夜香は、感じたままを口にした。

 「意外?」

 「ええ、少し。」

 「そうか、じゃあ、俺の意外な姿を見てもらおうかな。そこは売れてない頃からの行きつけで、汚いけど・・・えっと、小夜ちゃん、汚いとこ大丈夫?」

 沢井は困ったように眉を寄せる。小夜香は、そんな表情を見れたことが嬉しくなり、急に沢井と二人ということを意識してしまう。小夜香に、またうきうきした高揚感が戻ってきた。

 車は地上へ出て、テレビ局の敷地を抜け通りへと向かう。すると彼の車を待っていたかのように、後を追って一台のタクシーが動き出した。前の二人は、それに気付くことなく話し続けている。

 「沢井さんの行きつけのお店なら、ぜひ連れて行って下さい・・でも、一つだけ気になります。」

 「汚い以外で?」

 「沢井さん、何回も汚いって言うと、お店の方に怒られますよ。だって、汚いって言っても、これまでそこへ女性の方を連れて行かれたんでしょう?」

 小夜香の返事に、沢井は鼻に小じわを寄せ下唇を突き出す。

 「沢井さんどうしたんですか?沢井さんもそんな表情されるんですね。初めて見ました。」

 小夜香は、顔を崩す沢井を見てくすくすと笑ってしまう。

 「まいったな。」

 沢井はそう呟くと、ポリポリと頭を掻きだした、

 「実を言うとね、そこに女性を連れて行ったことはないんだ。汚いって嫌がられると思ったからね。でも、小夜ちゃんだから、そこに連れて行ってもいいと思ったとか誤解して欲しくは・・・あっ、いや、そうじゃなくって、小夜ちゃんだから連れて行きたくって・・ああ、くそっ、あっ、ごめん。訳が分からなくなった。」

 混乱し困惑する沢井を、小夜香は嬉しそうに見つめる。

 「ごめん。とにかく小夜ちゃんを・・いや、おやじと女将を小夜ちゃんに紹介したいんだ。」

 小夜香は、困り果てた沢井に助け船をだした。

 「言いたいことはわかりました。でも、私が気になるのはそれです。」

 「それ?それって?」

 「お二人に紹介されることです。今から緊張してしまいます。」

 「あっ、そうか。緊張する?」

 「しちゃいます。」

 「そうだな、店は汚いし、緊張させるのも不味いな。」

 「沢井さん、また汚いって言ってますよ。でも、今更中止しないで連れて行ってください。緊張はするかもしれないけど、沢井さんの行きつけのお店には、ぜひ行きたいです。」

 沢井は、ほっとしたように笑顔を見せる。

 「ありがとう。期待されるのも困るけど、おやじも女将も素敵で楽しいし、焼き鳥もおいしいから、小夜ちゃんにも気に入ってもらえると思うよ。」

 「はい、楽しみにしています。それにさっきは焼き鳥が好きだって言いましたけど、そんなに食べたことないので、沢井さんのお勧めの焼き鳥が楽しみです。」                  

 「そう言ってもらえて、ホッとしたよ。最初っから静かな店で二人だけで過ごすよりは、ちょっと賑やかな方が良いかなとも思ったけど、そっちがよかったかな?」

 「いいえ。二人だけだと、私きっと緊張して何も話せないと思いますから。あの、沢井さん、コート脱いでいいですか?」

 「暑くなった?温度を下げようか?」

 「いいえ、コートを脱ぎますから。」

 「どうぞ、慌てなくていいからね。」

 悪戦苦闘しでコートを脱いだ小夜香は、その姿を見られなくってよかったとそっと沢井を見た。そして、そんなことまで楽しんでいる自分に気づき笑みが零れる。                           

(うん!やっぱり、沢井さんに誘ってもらえてうれしい!) 

 うきうきと弾む気分の小夜香は、もうすっかり十和子のことを忘れてしまう。車は、首都高速へ入りスピードを上げ三軒茶屋へと向かう。会話が少し途絶えた車内に、音楽が流れる。ボリュームが押さえられていた曲を、小夜香はおしゃべりの間は聞き逃していた。

 (えっ・・?私の歌?) 

 小夜香の耳に、自分の歌う歌が流れ込む。 

 「私の歌、聞いて下さっているんですか?」

 それは、小夜香を驚かせそして喜ばせた。

 「そうだよ。共演してからずっと、小夜ちゃんの歌は聞かせてもらっているよ。俺も今ではすっかり、小夜ちゃんの歌の虜さ。本当にコンサートに行けなかったのは、残念だったよ。だから、俺も小夜ちゃんのファンの一人として、認めてもらえると嬉しいな。」

 「認めるなんてとんでもないです。沢井さんにファンだって言ってもらえるだけで、本当に嬉しいです。私の歌をこうして聞いてくださって、ありがとうございます。」

 (二〇才も年が離れているんだから、沢井さんにとって、私の扱いなんて掌で転がすように簡単だよね。でも、それでもいい。沢井さんが誰を好きでもかまわない。少しだけでも私を見てくれるのなら、それで・・) 

 小夜香の胸は、経験したことのないぎゅっと絞られるような痛みに襲われ、体の火照りに頬まで熱くなる。小夜香は火照りを抑えようと、流れる夜の風景へ目を移した。するとヘッドライトが照らす闇から、すっと一筋の白い流れがフロントガラスに向かってくる。それを合図に、幾筋もの白い流れが押し寄せてくる。

 「あっ、雪。」

 小夜香は、思わす嬉しそうな声を上げた。

 「今夜、雪が降るだろうって予報で言っていたけど、本当に降ってきたね。」

 「積もるでしょうか?」

 「朝まで降れば、積もっているかもしれないね。」

 「明日、積もっていると嬉しいな。子供の頃、雪が降ってくると嬉しくって、飽きもせず雪が掌に落ちて来るのを眺めていたんです。それに朝、目覚めた時に雪が積もっていると、飛び跳ねてずぶ濡れになって、マ・・母に良く怒られてました。」

 小夜香は流れてくる雪に、小さい頃を思い出し呟く。

 「今でも、変わらないみたいだね?」

 「ええ。今でも、雪を見るとわくわくします。子供の頃って皆、雪は大好きじゃないですか。私の場合は、それに母が話してくれたちょっとした話しも影響してると思います。」

 「お母さんから?おとぎ話とか童話とか、そんな話?」

 「ええ。小さい頃雪を見ると、母は空には小さな妖精たちが住んでいて、彼らは雲の上で小さな氷の粒をくっつけて、大きくてきれいな雪の結晶を作り、それを地上に降らせるんだよって、話してくれました。最初のひとひらの雪を手にした人には、懐かしい人の声を届けてくれて、積もった雪を最初に踏んだ人には、歌を届けてくれるよって、教えてくれたんです。だから、心のどこかにその話が残っているんだと思います。」

 「へえ、初めて聞く話だけど、素敵な話だね。」

 「すみません。つまらないこと話してしまって。」

 「とんでもない。素敵な話だし、素敵なお母さんだね。小夜ちゃんのことはいろいろと知りたいから、今みたいな話をもっと聞けると嬉しいな。」

 車は、首都高速のランプを下り、一般道へと入って行く。後を追うタクシーも、続けて一般道へと入って行った。

 沢井は、すぐに信号を右折し車を道路脇のコインパーキングへ入れ込んだ。あれほどフロントガラスに押し寄せていた雪は、静かに舞い降りる雪に変わった。車を降りた小夜香は、温もりを一瞬で奪う寒さの中コートを着込み、すぐ嬉しそうに雪に手を伸ばし受け止めた。

 ドアが閉まる音に、小夜香はドアを開けっぱなしにしてシートに薄っすら雪が積もってることに気づき、慌てて雪を払いドアを閉めた。その時、ふっと疑問が浮かんできた。

 「あの・・沢井さん、今日、お酒を飲むんですよね?」

 「そうだよ、飲むけど、変なことはしないと約束するから安心して。ところで傘がないから、これで我慢してね。」

 質問の意味はそうじゃなくって、と小夜香が言う前に、彼女の傍へやって来た沢井は、小夜香の頭と肩にわずかに積もる雪をやさしく払い、手にしたコートを頭から被せた。そして戸惑う彼女の肩に腕を回し、彼女の体を引き寄せ駐車場を出た。

 「沢井さん。沢井さんが風邪をひいたら大変ですから、コートを着て下さい。それにさっきは、お酒を飲むと帰りの運転はどうされるのか、お聞きしたかったんです。」

 小夜香は沢井に頭を触られ、そして今、肩を抱かれ体を寄せ合っている状況に、また疼きだした胸の痛みに抗いながら、誤解された質問を何とか尋ね直した。

 「あっ、一言足りなかったね。車はこのまま一晩パーキングに置いとくから、明日誰かに取りに来てもらうよ。帰りはタクシーで送るから安心して。ほら、コートはそのままでいいから。」

 小夜香がコートに手を伸ばし、それを取ろうとするのを見て、沢井は肩に廻した手に少し力を入れた。

 「あの沢井さん。私は本当に大丈夫ですから、コートを着てください。沢井さんが風邪をひかれたら大変ですから。」

 「大丈夫だよ。店はすぐそこだから。」

 バス通りから路地に入り込むと、沢井は一軒の店を指差した。

 「ほら、あそこだよ。」

 路地には小さな居酒屋、スナックが並び、沢井の指はその先の、焼き鳥の看板がかかる店を指していた。

 

 路地に入る二人を見て、タクシーは歩道に寄せて止まった。店へ入って行く二人を、十和子が心配そうにじっと見つめていた。

 「ついては来たけど、どうしたらいい?何ができる?」

 十和子はイラつき、とりとめなく独り言を繰り返す。

 「お客さん、どうします?降りられますか?」

 タクシーの運転手が、尋ねた。十和子は、その声に我に返る。

 「すみません。このまま待ってもらってもいいですか?」

 「待っている間も、メーターは上がりますけどいいですか?」

 タクシーの運転手がそう確認する。

 「ええ、構いません。このままお願いします。」

 そう答え、十和子はあらためてどうしようと考えを巡らせる。沢井が女にだらしないことは、十和子も耳にしている。だから余計な事とはわかっていても、大好きな小夜香がそんな男と二人でいることが心配でしょうがなくって、ここまでつけてきた。憧れ続けた小夜香と初めて会った日に、彼女はあんな男の毒牙に捉えられ、目の前から連れ去られてしまった。そしてそんな小夜香の危機に、何もできない自分がここにいる。十和子はそんな自分に腹が立ち、許せなかった。だからこそ、ここにいればきっと、彼女をあの男から救うために何かできるはずと、自分に言い聞かせる。

 十和子は再び、二人が消えた店に目を凝らした。

 

 左側に五・六軒の雑多な店がひしめくように並ぶその路地は、店々の灯りに照らされ賑わいでいる。そんな路地に『焼き鳥鳥正』はあった。下半分の照明が切れた看板は、近づかないと『鳥正』の文字が見えないが、店内の酔客の賑やかな声が表に漏れ繁盛ぶりが見て取れた。

 沢井は、暖簾をくぐり戸を開けて、小夜香にかけていたコートを取り中へ招き入れた。中へ入った小夜香を騒がしい声と、焼き鳥のおいしそうな匂いが満ちた温もりがもわっと迎える。店内の喧騒は、客が彼女の姿を目にすると、静まりかえった。静寂は、小夜香を場違いなところへ来てしまったと怖気づかせたが、それも沢井が、焼き鳥を忙しく焼いている店主に、

 「おやじさん、ごめん、遅くなった。雪が降って寒いよ。」

と、掛けた気楽な声にさっと払われる。

 「待ってたよ。そうだろう、雪が降り出したんで心配してたよ。奥の座敷を取ってるから、お嬢ちゃんとまずは温まりな。」

 店主は、手を休め二人を迎えた。

 「ありがとう。とりあえず生二つと、何か体の温まるものが欲しいな。」

 顔見知りの客に挨拶をして、沢井は奥の座敷へ小夜香を誘い、店の喧騒も戻ってきた。ただ二人を、特に小夜香を見つめる一つの視線は残った。

 用意された座敷は、唯一の四人掛けの座れる席で、ブーツを脱いで座敷に上がった小夜香は、沢井のコートとスーツの上着を預かり、自分のもハンガーに掛けると、ほっとして沢井に向かい合う。

 「足を崩したらいいよ。」

 そう声をかける沢井に頷き、

 「お客さん多いですね。いつもこんな感じなんですか?」

と、小夜香は足を崩すことなく店内を見渡す。

 店内はカウンターに六席、その後ろに二人掛けのテーブルが二つあるだけ。今はそのテーブル席の一つを一人で使って、片方の椅子が空いているだけで、他の席はすべて埋まっていた。ただ女性の姿は無く、全て男客ばかり。そしてカウンターの中では店主が、一人で黙々と焼き鳥を焼いている。

 「そうだな。この時間はいつもこんな感じかな。」

 店内をさっと見て、沢井は頷く。店内のチェックを終えた小夜香は、気にかかっていたことを尋ねた。

 「沢井さん、新宿に住まれてますよね?この後送っていただくと逆方向になりますから、帰りは一人で大丈夫です。」

 「それは気にしなくていいよ。誘ったのは俺だから、きちんと送らせてもらうよ。まずは楽しもう。」

 沢井は立ち上がると、店のサンダルに足を突っ込み、慣れた様子でおしぼりを取ってくる。

 「あっ、すみません。」

 おしぼりを受け取った後も、小夜香はまだ拘る。

 「でも、登戸へ廻って新宿へ帰ると、遅くなってしまいます。そんなこと申し訳ないです。」

 「きっと、小夜ちゃんを送る時間も楽しいと思ってるんだけど、俺が送るのは心配かい?」

 腰を下ろした沢井は、表情を曇らせる。

 「そんな、とんでもないです。そんなこと心配していません。」

 慌てる小夜香に、沢井は笑顔で言った。

 「じゃあ、もうこの話はおしまいにしよう。ほら、ちょうどビールも来たよ。」

 「はいよ。生二つと、温かいもつの煮込みね。」

 店主が、ジョッキともつの煮込みを持って来た。

 「かずちゃんよ、女の子を連れて来るなんて、珍しいこともあるもんだね。それもとびっきりの別嬪さんをさ。そんなことすっから、雪が降るんだぜ。」

 「雪?そんなの俺たちのせいじゃないよ。そんな言いがかりをつけるよりさ、小汚い店でも構わないからまた誘って欲しいって、彼女が言ってくれるような、おいしい焼き鳥を出してよ。」

 「まったく、小汚いは余計だぜ。お嬢ちゃん、味には自信あるからさ、楽しみに待っててよ。すぐにおいしい焼き鳥出してあげるよ。それを食べたら、きっとまた来たくなっちゃうよ。」

 店主は満面の笑みを浮かべ、

 「じゃあ、とりあえず焼き鳥はおまかせだな。」

と、勝手に注文を決め込んでしまう。 

 「あの、ご主人。沢井さん、お店が汚いなんて一言も言ってませんから。おいしい焼き鳥のお店があるから、ぜひ食べてほしいって誘っていただいたんです。」

 「おっ、嬉しい事言ってくれるね。」

 店主は満足そうに、右の眉をくいっと上げる。

 「まったく、女性がいると傍を離れないんだから。女将さんに『美人の傍で、鼻の下を伸ばしてた。』ってタレ込むからな・・そう言えば女将さんの姿が見えないけど、どうしたの?」

 「へっ、鬼の攪乱だよ。あいつ、今な、風邪で寝込んじゃってんだよ。まっ、明日くらいには店に出てこれるかな。おかげでこの二、三日は、こっちはてんてこ舞いだぜ。」

 「そうか。そりゃ大変だね。女将さん、風邪か。残念だけど、風邪じゃしょうがないな。無理せずお大事にって言っておいてよ。ほら、呼んでるよ。じゃあ、おまかせでいいから、よろしく。」

 「しょうがねえな。お嬢ちゃん、楽しみに待っててね。」

 店主は、呼ばれた客に声をかけ残念そうに戻って行った。

 「ご主人、一人で大変ですね。こんな時に伺ってよかったんですか?」

 「そうだな。女将さんがいないと大変だけろうけど、常連さんが手伝っているみたいだから、まあ、なんとかなるよ。ただね、小夜ちゃん申し訳ない。ここは焼き上がるの遅いから、今日はもっと待たされるかな。お腹減ってる?とりあえず、もつでも食べてお腹を宥めといて。これはこれでおいしいし、温まるよ。」

 「大丈夫です。今は胸がいっぱいで、お腹のこと考える余裕もありませんから。」

 小夜香は、ごめんと右手を上げる沢井に笑いかける。

 「気を使わせるね。でも焼き鳥はどれもおいしいし、種類も多いから、そうだな、次はカウンターでネタを見ながら、焼いてもらうのもいいね。まあ、取りあえずは何が出て来るか、楽しみにお腹すかせて待っててね。」

 (えっ?次も誘ってもらえる?)

 何気ない一言に、ときめきまた彼女の胸がズキッと痛む。

 「ええ、いつでも待ってますから、声をかけてください。でも、このお店には、本当によく来られているんですね。」

 「そうだな、ロケとかなければ月に一・二度は顔を出してるかな。若い頃近くのボロアパートに住んでて、おやじさんと女将さんにはお世話になってね。もう二十年近くの付き合いになるな。おっと、泡が無くなってきてる。まずは乾杯しよう。」

 小夜香は、沢井に合わせてジョッキを持ちあげた。

 「それじゃ小夜ちゃんの二十歳のお祝いと、『あやかしの里』のヒットを願って。」

 「ありがとうございます。『あやかしの里』が、ヒットしますように。」

 カキン、小気味良い音を鳴らしジョッキを合わせる。小夜香は、ビールを口にして喉が渇いていたことに気づき、そして昂る気持ちを冷まそうという思いで、一気に三分の一程を喉に流し込んだ。

 「おいしい!」

 喉を潤す冷たい感触に、思わず声がでる。

 「小夜ちゃん、そんなに飲んで大丈夫かい?二十才になってから、そこそこ飲んでるの?」

 「いいえ。マネージャーと一緒だと、コップ一杯で止められるし、家では飲んでないです。こうして自由に飲むの、今日が初めてです。だから少し、わくわくしちゃいます」

 気持ちを冷まそうとした一口が、逆に小夜香の自制心のタガを外し、沢井と過ごす喜びに気分は舞い上がる。

 「それじゃあ、もつでも食べてゆっくり飲もう。二日酔いなんて最悪だよ。経験者の・・・」

 「はい、おまたせ。」

 店主が沢井の言葉を遮るように、焼き鳥の串がおいしそうに並べられた大皿を、テーブルの真中にどん、と置いた。

 「えっ?早っ!最速じゃないか。」

 「美人を待たせちゃいけないじゃん。」

 驚く沢井を無視して店主は、へらへらと笑い嘯く。

 「早いのはありがたいけど、これからもこんなだと嬉しいね。」

 「お嬢ちゃん、熱いうちに食べて。それが一番おいしいから。」

 店主は、またも沢井を無視して、小夜香にだけ笑顔を向ける。

 「おやじさーん。まだ?」 

 カウンターの客が、焦れたように店主に叫ぶ。

 「待ちな。待ちな。慌てちゃおいしい焼き鳥食べれないぜ。」

 店主はしょうがないなと、名残惜しそうに焼きに戻る。

 「そうか。これからは絶対に、小夜ちゃんとくるべきだな。俺一人だと平気で十五分、二十分待たせるからね。」

 沢井は、一人納得して店主を見送る。そして、小夜香に見せたその表情は、悪ガキのようににやついていた。

 「沢井さん、もしかして、この焼き鳥他のお客さんが注文されてたものですか?」

 「間違いないね。そうでないとこんなに早くは出てこないよ。」

 「大丈夫ですか?注文されたお客さんに悪くないですか?」

 沢井は、ニヤリと笑う。

 「大丈夫さ、皆にはビールを奢らせてもらうよ。それに小夜ちゃんが、『お先にすみません。』って、にっこり笑って挨拶したら、文句言う奴はいないよ。」

 「えっ、そうなんですか?うまく笑えるかわかりませんけど」

 小夜香は、その場ですぐに立とうとする。

 「ちょ、ちょっと待った!小夜ちゃん、挨拶は冗談、冗談だ。」  

 慌てた沢井は、テーブル越しに彼女の肩に手をのせ、そして、

 「裕ちゃーん。悪いけど、おやじの代わりに皆にビール注いでくれ。おやじさん、俺につけといて。」

と、入る時に挨拶をしていた客に呼びかけた。

 「おー。何か知らんけど、かずちゃん、ごちそうさん。かわいい女の子連れて来てもらったうえに、奢ってもらって悪いね。」

 そう言って、裕ちゃんと呼ばれた客がごそごそと席を下りる。

 「どうした?もう酔ったのか?まだ早いんじゃないのか。」

 沢井は、店主を無視しておもむろに立上がった。

 「あー、皆さん、申し訳ない。皆さんが頼んだ焼き鳥は、そこのおやじのご厚意で、今ここに出されてます。」

 「バッ、バカ言ってんじゃないよ!」

 店主が、慌てて否定するように声を上げる。

 「おやじの事は、ほっといて。」

 沢井は、また店主を無視して続ける。

 「皆さんには、先に我々が頂く代わりに、本当に気持ちだけ、ビールをご馳走させていただきますので、申し訳ないそれを飲んで、もうしばらく焼き鳥ができるのを待って下さい。よろしくお願いします。」

 そう言って、沢井は頭を下げた。

 「一杯じゃ足りないぞー。」

 ビールを注ぎながら、裕ちゃんが叫ぶ。

 「別嬪さんのためだ、我慢するよ。ご馳走さん。」

 別の声も上がり、店内はさらに賑やかになる。

 客へ挨拶をする沢井を、赤らんできた顔で見ていた小夜香は、ジョッキを手に持ち覚悟を決めるとまた三分の一程をぐぐっと流し込み、その勢いで立ち上がった。立ち上がった瞬間、くらっと眩暈が襲ったが何とか持ちこたえて、

 「皆さん、ごめんなさい。お先に頂きます!」

 沢井に合わせ頭を下げた。頭を上げた時、再び眩暈に襲われてふらついた小夜香を、沢井が慌てて支え席に座らせた。

 「おー、大丈夫か?」

 店内から、一斉に声が上がった。

 「大丈夫?小夜ちゃん。急に動いたら酔いが回るよ。」

 「沢井さん、すみません。すこしふらついただけですから、もう大丈夫です。ありがとうございます。」

 「彼女、大丈夫だから。それじゃ温かいうちにいただきます。」

 沢井は、振り返り客の方へ声をかけ腰を下ろした。

 「さあ、皆への禊は済んだから、本当に温かいうちに頂こう・・・どうしたの?やっぱり気分が悪いのかい?」

 沢井は、下唇を突出し顔をしかめている小夜香に気づいた。

 「・・本当は、ちゃんと皆さんににっこりするつもりだったのに・・・出来なくて、ごめんなさい。」

 小夜香は、そう呟き頭を下げる。

 「うん?小夜ちゃん、何を言ってるの?さっき俺が言った挨拶の話しは本当に冗談だよ。挨拶しただけで十分だよ。」

 笑いを堪えた沢井が、小夜香の頭へ手を伸ばしかけた時、

 「はいはい。おじゃまさん。ほら、二人にもビールね。かずちゃんの奢りだよー。」

 裕ちゃんが、ビールを置き邪魔をする。

 「俺たちには、いらないだろう?」

 「残念。かずちゃんさぁ、店の皆って言ったもんね。皆って二人も入るんだよ。」

 そう言って、裕ちゃんはニッと笑う。

 「それよりさ、かずちゃん。今度、山野ゆかりさん連れて来てよ。かずちゃん、女優さんだーれも連れて来ないんだからね。」

 「あのな、裕ちゃん。女優は、スクリーンの中の姿を見て憧れているのが一番いいんだよ。それに素直な彼女、あっ、彼女、小夜香さんね。小夜ちゃん、彼は腐れ縁の裕ちゃん・・しまった、おやじさんに紹介忘れてる。小夜ちゃん、ごめん。」

 「いいえ。ご主人にはまた後で紹介してください。裕ちゃんさん、よろしくお願いします。」

 普通に受け答えしている小夜香だが、アルコールの影響と友人を紹介されたことに、心は異常に舞い上がる。

 「おお、おおっ、こ、こちこそ。」

 そして裕ちゃんも、舞い上がり訳の分からない返事を返す。

 「とにかくさ、小夜ちゃんみたいに素直な子じゃないと、誘ったとしても誰も、こんな汚い店には来ないよ。ね?」

 「えっ、は、はい。」

 沢井の急な振りに、小夜香はつい頷く。

 「そうだよねー。こんな汚くっちゃ、無理かぁ。」

 「汚ねえ、汚ねえって悪かったな。そこ!、聞こえてるぞ。」

 二人の会話に店主の声が、割り込む。

 「おっと、やべえ。じゃ、かずちゃん。俺は三杯で、全部で一五杯、チェックしてるからよろしく。」

 「うん?おいおい、計算おかしくないか?それに考えてみると、おやじさんに半分は持ってもらわなきゃ割に合わないよ。裕ちゃん、チェックは半分の七杯分でいいからな。」

 沢井は笑いながら、戻って行く裕ちゃんの背中に声をかけた。

 「どうせ酔っ払って、払っちまうんだから。かずちゃん、細かいこと言うんじゃないよ。」

 再び店主の茶々が入る。

 「俺はいつも酔わないよ。おやじさん、変なこと言うなよ。」

 (おっかしい、沢井さん、ここでは素になれるんだ。それに、焼き鳥のお肉も、大きくてジューシーでおいしい。シイタケも肉厚で シイタケのおいしい味がちゃんとしてる。) 

 小夜香は沢井たちの会話を楽しみながら、一人焼き鳥に手を伸ばし、ビールも一杯目のジョッキを飲み干し、目の前にある二杯目に手を伸ばしていた。

 

 才賀の携帯が鳴った。

 もぐり込んでいた布団から、腕だけを出して携帯を掴むと、さっと腕を布団の中へ戻し、暗がりの中で携帯をチェックする。

 俳優の沢井が三茶の店に女連れで来ているという内容を、才賀は布団から頭を出し再度確認する。隣で寝ていたナオが、

 「寒い!何なの、誰から?仕事?」

 半分寝ぼけたように呟く。

 「ああ、友樹の奴から連絡が入った。スクープ撮れるかもしれないから、三茶まで行ってくるわ。」

 「今日は休みじゃないの。雪降ってるし、一人じゃ寒いよ。」

 ナオは布団の中で、手足を引き寄せ丸まり、甘えた声を出す。

 「飯のタネだ。しっかり布団、暖めて待ってな。」

 才賀はかっこをつけて、勢いよく布団を飛び出したが、

 「おわっ、さぁぶっ。」

と、あまりの部屋の寒さに声が出る。慌てて服を着込み最後に革ジャンのジッパーをきっちり上げると、 商売道具一式を抱え、ドアを開けた。雪混じりの冷気が吹き込み、才賀を襲う。

 「寒―い。」

 背後でナオの悲鳴が聞こえる。

 「頼むから、しっかり、布団温めといてくれ。」

 才賀はそう言い残し、革の手袋を嵌めながら、雪の舞う中に飛び出して行った。


 沢井が、二杯目を手にして焼き鳥を食べてる小夜香に気いた時には、もう彼女の顔は真っ赤になっていた。

 「小夜ちゃん。ビールはもう終わりにしよう。顔、真っ赤だよ。気分悪くない?」

 沢井は、本気で心配になってきた。

 (ん?気分?気分はすこぶる楽しいですよぉ。体も軽るいしぃ。あれ、体が真直ぐできないのはなぜ?うんっ?皮ってこんなにおいしかったっけ?ふにゃふにゃしてそうで、外はパリッとしてる。口に残る脂も、ビールがすっと流がしてくれる。おいしいー!あれれっ?私、お酒飲みになっちゃったの?でも、いいよね。沢井さんといるんだもん。楽しいんだもん。) 

 小夜香の思考は支離滅裂で、体もふにゃふにゃしている。

 「大丈夫ですよ。」

 それでも、答えだけはしっかりと返す。

 「そう?でも、無理しないで。どう、焼き鳥おいしい?」

 「ええ。どれもとってもおいしいです。あっ、すいません、先に頂いてます。」

 「気にしなくていいよ。小夜ちゃんにおいしく食べてもらえれば、それで十分だよ。」

 「だめですよ。沢井さんも温かいうちに食べて下さい。はい、あーん。」

 小夜香は食べかけの串を、何の躊躇もなく沢井に差し出す。

 「え・・っと、」

 沢井は差し出された串に、一瞬戸惑いを見せたがすぐに、それをパクッと口にした。

 「沢井さん、おいしいですか?」

 嬉しそうに、小夜香が尋ねる。

 「間違いないね、おいしい。小夜ちゃん、本当に大丈夫?」

 「どうしてですか?とっても、大丈夫ですよ。こんなに楽しいんですもん。」

 今回の返事は、少々怪しげになっていた。

 「はい、沢井さん。今度はシイタケどうぞ。あーん。」

 小夜香は、シイタケの串を手に、また沢井の前へ差し出す。

 「ありがとう、小夜ちゃん。」

 沢井は苦笑しながら、シイタケを口に入れた。

 「いいなー。僕も、小夜ちゃんにあーんしてもらいたいなー。」

 沢井は、二人を見ている裕ちゃんを睨みつける。

 「裕ちゃん、何見てんだよ。そんなに食べさせて欲しけりゃ、今から奥さん呼べよ。」

 「目に入いんだもん、しょうがないじゃん。ねえ、おやじ。」

 「裕ちゃん、ここはがまんしな。最初っくらい目をつぶってないと、次からお嬢ちゃん来てくれないぜ。」

 「うーん。でもよぉ。かずちゃん嫌味だよね。自分だけ若いきれいな娘連れて、俺にはばあさんで我慢しろなんてさぁ。」

 「愚痴んじゃないよ。ほれ、ハツとネギマ上がったよ。」

 「うーん。やっぱり、あーんして欲しい。かずちゃんお願い、小夜ちゃんに頼んでよ。」

 彼を無視して、ビールを飲んでいた沢井はむせかえり、小夜香が差し出したおしぼりで口を拭う。

 「初っ端からここって言うのは、ちょっと選択ミスだったな。女将さんがいないのもまずかった。小夜ちゃん、ちょっとごめん。」

 沢井は、小夜香に声をかけ立ち上がった。

 「わかったよ、裕ちゃん。じゃあ俺が、食べさせてやるよ。」

 (えっ?沢井さんだめだよ。沢井さんと離れるくらいなら、私があーんしてあげていいのに。) 

 小夜香が、しかたなく二人の姿を見ていると、急に胸に秘めていたもやもやが、すーっと浮き上がりパチンと弾けた。

 (そうよ。私はずーっと、舞姫の気持ちを引きずってるのに、きっと沢井さんは、頼光の気持ちなんて演技だけのことだって、もう忘れているんだ。ロケの時はあんなに優しかったのに!沢井さん、一人だけ平気な顔をしてずるい!)

 その途端に、ぽん!と上半身裸で頼光役の沢井に、抱きしめられたシーンが鮮やかに蘇る。

 小夜香は、アルコールで熱くなってる顔が、もっと赤く燃え上がる気がして、それを冷まそうと目の前のジョッキを両手に持ち、半分ほど残っているビールを一気に飲み干した。

 (うえっ、にがーい!) 

 口にしたビールは、苦くおいしくはなかった。その上さらに顔は熱くなる。小夜香のとろんとなった目に、裕ちゃんがこっちを指さして何か言ってる姿が映る。沢井は、あわてて駆け寄って来た。

 (遅―い。もう飲んじゃったぁ。早く戻って来ないからだぉ。)

 そう声にしようとした小夜香の体から、すーっと力が抜けてゆく。戻って来た沢井が、小夜香の体を支える。

 店主が、水を持ってきて沢井に渡した。

 「ほら、飲ませてあげな。」

 「横にしてあげよう。」

 「そうだね。しばらく寝かせてあげないと。」

 小夜香の周りで言葉が飛び交う。 

 (声が頭の上を飛んでいる。おっもしろーい。声って飛ぶんだ。)

 そう思ったのが最後で、小夜香の記憶は闇へと沈んでいった。

 

 十和子が、タクシーで待ち続けて二時間が経つ。十一時を過ぎても、まだ二人が店を出て来ないことにイライラが募る。二人が店に入って三十分程は、周辺を廻ってもらい降りやまない雪のために傘を買ったりしたが、後はひたすら二人を待って過ごした。

 今、タクシーが止まる場所からは、直接店は見えないけれど、タクシーを拾うにはここまで出てくるはずと、タクシーの運転手に言われそのままずっと待っている。待つ間に十和子の考えは、二人が見えたら小夜香だけをタクシーに乗せ、そのまま彼女を安全に家まで送ろうと固まっていた。ただ、沢井がここではなく、反対側の狭い通りにタクシーを呼ぶかもしれない。いや、もうそうしてるかもと不安は膨れ上がり、いてもたってもいられなくなってきていた。

 「十和子さん、あそこを見てください。」

 ふいの声に、物思い耽っていた彼女の体はビクッと反応する。

 タクシードライバーの名前は柏木といい、待っている間に彼を名前で呼び始めた十和子は、『お客さん』と返されるギャップに、自分のことを芸名の十和子で呼んでもらうようにお願いしていた。

 「ほら、あそこに止めたバイクの傍の男性ですが、カメラマンじゃないですか?」

 柏木は、通りの向こうに止まるバイクを指した。

 十和子は、十メートル程離れた道路の反対側に止められたバイクと、その傍らに佇む男性を見た。

 「もう四、五十分はあそこにいるんで、気になってはいたんですよ。あそこだと、店も見えますし、あっ、ほら、手にしたのはカメラじゃないですか?」

 「柏木さん。今から二人を向こうの路地に連れ出します。そちらへ車を廻してもらってもいいですか?」

 「わかりました。車を回して待っています。」

 柏木は、少し楽しそうに答える

 「よろしくお願いします。」

 十和子は、バッグと買ったばかりの傘を手にしてタクシーを降りた。まだしんしんと降り続く雪で路面は白く覆われ、身の凍えそうな冷気が十和子を包み込む。タクシーは、すぐに走り去った。

 十和子も、傘を広げちらっと男を確認して路地へ歩き出す。

 才賀もまた、停まったままのタクシーを、沢井が待たせているのかと気にしていた。でも、タクシーは女を降ろし走り去った。

 (勘繰り過ぎか?)

 ただ、才賀は女がちらっとこちらを見たのがわかり、その動きを追った。その時、才賀の目の前をタクシーが横切った。

 (えっ?さっきのタクシー・・?)

 才賀の目は、右折するタクシーを追い、すぐはっとして女の姿を求め路地を見た。その目に、視線を遮るように広がる真っ赤な傘が飛び込む。赤い傘は、前を隠すように路地一杯に広がっている。 

 沢井の携帯が鳴る。携帯を取り出しボタンを押す。

 『今、出る。』簡潔なメッセージが現れる。

 「どけ!このアマ!邪魔だ!」

 そう叫ぼうとするが、口はかじかみ唸り声しかでない。

 (一時間も凍えながら待ってたんだ!邪魔するんじゃねえ!)

 しかたなく、胸の中で毒づき道路に飛び出すと対向車線を走って来た車に、思いっきりクラクションを鳴らされた。通り過ぎる車から、男の怒鳴り声が聞こえた。才賀は走り去る車に、律儀に軽く頭を下げて道路を渡り、冷たい手に氷のようなカメラを構えた。

 それを待っていたかのように、女の赤い傘がスッと下ろされた。構えたカメラのファインダーに、振り返った女の顔と、ちょうど店を出る沢井の顔が納まる。

 (何だ、そりゃ!くそっ、女が違う!)

 そう毒づきつつ、才賀はシャッターを切った。


 「小夜ちゃん、起きて。立てる?」

 小夜香は肩を揺すられ、目を開けた。

 「ふぁい。らいじょうぶれす。」

 口がうまく動かず、返事をするのも億劫だ。

 「小夜ちゃん、起きれるかい?」

 沢井にまた声を掛けられ、ようやく小夜香は体を起こした。

 (あれ?私、いつ横になった?)

 起き上った小夜香に、少し思考力が戻る。

 (そうだ。沢井さんに食事に誘われて、焼き鳥屋さんに来てたんだ。そして・・あーもう、考えるのが苦しい・・!) 

 それでもなんとなく状況が見えてきた小夜香は、恥ずかしさに立ち上がろうと焦るが腕に力が入らず、結局、沢井に手を貸してもらって立ちあがることになった。

 「小夜ちゃん、帰るよ。送るから。歩ける?」

 小夜香は頷き、動こうとしてふらつき沢井の腕にすがりつく。

 (もう最低!私、酔っぱらってる?沢井さんの前で?恥ずかしい・・!でも、ふふっ。こうして沢井さんと、体が触れているのは嬉しい・・違う!あーもう!こんな時に何考えてるの!沢井さんに嫌われちゃうよー。)

 思考は、支離滅裂に乱れ頭を駆け巡る。

 「大丈夫かい?これに懲りずに、また来てよ。」

 沢井に支えられ出口へ向かう小夜香に、店主が声を掛ける。さらに沢井に向かって釘をさす。

 「送り狼になるんじゃないぞ、ちゃんと送ってけよ。」

 「もちろんさ、大切な娘だからね。」                             

 「また、おいでねー。」

 二人の背後から裕ちゃんの声がする。 

 (こんな姿、皆に見られちゃったんだ。) 

 小夜香は、穴があれば入りたいと心から思った。ただ、その一方で沢井が今口にした『タイセツナコダカラネ』という言葉が、何故か酔った頭に引っ掛かり、その言葉が頭の中を楽しそうに飛び廻る。飛び回るうちに『コダカラ』は『子宝』、『赤ちゃん』と、どんどん姿を変えてゆく。

 (・・赤ちゃん?沢井さんの?私、沢井さんの赤ちゃん?すっごーい!沢井さん、赤ちゃん産むんだぁ。) 

 意味もなく、おかしさが込み上げてくる。

 店の引戸が開き、外へ出た小夜香の体を真冬の冷気が包み込むが、その寒さと言うより、今も頭を駆け巡る、                         

 (沢井さんって、赤ちゃん産むんだぁ。どこからぁ?)

 そのおかしさに笑いが込み上げ、しゃがみ込んだ。

 その時、彼女を隠すように傘が被さってきた。

 「あれっ?何でここに?」

 沢井が、十和子を見て驚いた瞬間、ぱっと周りが明るくなり、シャッターの音が、喧騒の音を圧して響いた。

 「あちらにタクシーに待ってもらってます。急いで!」

 沢井に十和子の指示が飛ぶ。その言葉に沢井は、自分のコートを脱ぐと小夜香の頭からかけて、しゃがみ込んでいる彼女を抱き起した。沢井が気分でも悪いのかと彼女の顔を覗き込むと、小夜香楽しそうには笑っている。

 (何で?) 

 沢井が不思議に思っていると、店内から、 

 「大丈夫か?」

 店主の声が聞こえる。

 「大丈夫。心配ない。迷惑かけてごめん。入口閉めといて。」

 沢井は小夜香を抱え、カメラマンに背を向けタクシーへ向かう。十和子は、傘を肩に掛け背後から二人を隠すように後を追った。

 路地と交差する狭い道の左に停まっていたタクシーは。三人を確認すると前に出てドアを開けた。沢井は小夜香を乗せると、反対側に廻った。すると,その席にはすでに十和子が座っている。

 「後は私が、小夜香さんを送りますから。」

 十和子は、素気なく沢井に告げた。

 「いや、それは出来ない。彼女に送ると約束したんだから、俺が送らせてもらうよ。」 

 ちらっと路地を見た十和子は、

 「言い争ってもしかたありません。どうぞ乗ってください。」

と、体を真中へ移し、そこに沢井が乗り込むと行き先を告げた。

 「柏木さん、すみません。登戸までお願いします。」

 「芸能人って、大変ですね。」

 柏木は誰に言うともなく、そう呟き車を出した。


 店主がタクシーが出るのを見送っていると、彼の脇を、

 「ちょっと、ごめんよ。すぐ戻るから。」

と言って 男が外に出た。

 「よお、撮れたか?」

 才賀に声を掛けてきた友樹に、才賀は答えを一瞬躊躇する。

 (女が・・まっ、しょうがない。ツーショットは撮れたんだ。)

 「撮れなかったのか?」

 焦れたように、友樹が言う。

 「いや、ちゃんと撮れたよ。」

 才賀はそう返事すると、凍える手でズボンのポケットから、しわくちゃの一万円札を取り出し、

 「助かったよ。」

 そう言って、友樹に手渡した。

 「ありがとよ。寒そうじゃないか、飲んでいかないか?」

 「いや、バイクなんだ。今度奢るわ。じゃあな。」

 才賀は友樹に背を向けると、バイクに向かう。ただ気分はすっきりしないし、体は目茶苦茶冷えきって、芯から凍えていた。

 (バイクで帰るのは、無理か。ナオ、風呂沸かしといてくれねえかな。) 

 電話を入れようと、携帯を取り出していると、後ろから怒鳴り声が聞こえてきた。振り返ると焼き鳥屋の店主が、店内に戻ろうとした友樹の前に仁王立ちになり、彼にジャンバーとセカンドバッグを投げつけ怒鳴っている。

 「てめえの顔は覚えた!二度とうちに来るんじゃねえ!お代は結構だ!とっとと消えな!」

 店主はそう啖呵を切ると、友樹の目の前で引戸をピシャッと閉めた。才賀が見ていることに気づいた友樹は、しょうがないと肩を竦め背を向け去って行った。彼を見送り、あらためて携帯を操作しようとした才賀だが、革手袋の指がすっかりかじかんでいる。

 (ボタンが押せねえ!ちくしょう。凍えて死んじまう!くそっ!本当は誰なんだ?次は必ず押さえてやる!) 

 そう誓い、才賀はバイクへ向かった。


 タクシーは、そのまま下北沢に向かい、代田の交差点で左折し環七へと走る。その中で、十和子が沢井に詰め寄っていた。

 「こんなになるまで飲ませて、小夜香さんをどうするつもりだったんですか。彼女は私が送りますから、沢井さんはもう降りてもらって結構です。」

 十和子は、冷たくきっぱりと言いきる。

 「いや、飲んだといっても、ビールを二杯だけだよ。小夜ちゃんが、こんなに弱いとは思わなかったよ。」

 弁解口調になった沢井は、

 「ところで、君は小夜ちゃんの何なの?何で君は三茶にいたんだい?」

 立場を変えようと、あの場にいたことを問い質した。

 「私は、小夜香さんの一番のファンです。あなたが小夜香さんを送るなんて、認められません。」

 沢井を睨みつけ、十和子は言い放つ。

 (こいつ!いったい自分を、何様だと思ってるんだ?) 

 沢井は、その言葉と態度にカチンと頭にくる。

 「ただのファンだと言う君が、小夜ちゃんを送る意味がわからないな。俺が送り届けて家人に、きちんと事情を説明するのが道理じゃないのかな?」

 沢井は、丁寧な言葉遣いに反発心を滲ませ言い返す。その時、ぐったりとシートにもたれていた小夜香が、何か呟いた。

 「大丈夫?小夜香さん。気分悪いの?」

 すぐに十和子は、小夜香の背中を擦り声をかける。

 すると小夜香は重たげに目を開け、

 「私ぃ・・のわぁ・・赤ちゃん・・」

 もつれる声で言うとくすくすと笑い、また目を閉じた。

 一瞬に、車内が外とは違う冷気に凍える。運転手の柏木は、思わずルームミラーで後ろに視線を向ける。

 彼女の呟きは、三人の耳に『私の赤ちゃん。』と流れ込む。

 「最低!」

 十和子が、沢井を睨みつけ言葉を叩きつけた。

 「違う!ちょっと待って。今日が初めてのデートだぞ。俺じゃない!ちょっと、落ち着け。」

 (私の赤ちゃん?誰だ相手は?いや、まずは確認だ。) 

 こんなに慌てるのは、久しぶりだ。すぐ本人に確かめたいが真中に陣取る十和子が邪魔だ。

 (殴るなよ。) 

 そう願いつつ沢井は、十和子を避けるように身を乗り出し、小夜香に声をかけた。

 「小夜ちゃん。君、お腹に赤ちゃんいるの?」

 沢井の問い掛けに、小夜香は再び怠そうに眼を開ける。

 「あん?違いますよぉ。沢井さん、言ったじゃないですかぁ。私がぁ、赤ちゃんって。沢井さんの赤ちゃんって。おっかしー、沢井さん、どっからわたしぃを産んだんですかぁ?おしりー?じゃあ私はう・・もごっ。」

 十和子が、慌ててその口を押えた。

 「あっぶない。酔っちゃって何を言いいだすか。」

 「確かに。」

 沢井もつい頷く。十和子が口から手を離したところで、もう一度尋ねる。

 「小夜ちゃん、俺、なんて言ったっけ?」

 「えぇ?忘れたんですかぁ。お店のおじさんにぃ、『タイセツナァコダカラァ』って、言ったじゃないですかぁ・・」

 小夜香は責めるように答えに、戸惑う沢井はつい十和子を見たものの、彼女はすっと冷たく顔を背ける。小夜香のお喋りは続く。

 「コダカラッて、私ぃいつ、沢井さんの赤ちゃんになったのぉかなぁ?赤ちゃん嫌だぁなー。沢井さんの・・がいぃ・・」

 尻すぼみに言葉は消え。そして、小夜香は窮屈そうな態勢のまま、十和子の膝枕で、気持ちよさそうに眠ってしまった。

 (コダカラ・・?子宝?いつ俺はそんな言葉を使った?おじさんに言った?おやじさんのこと?) 

 このままでは、十和子に弱みを握られるようで癪に障るし、蔑むような視線も何とかしたい、それにバックミラー越しに、ちらちらと見てくる運ちゃんの視線も気に障ってしょうがない。

 沢井は、必死に記憶を手繰り寄せる。    

 (『コダカラ』?くそっ、どこで俺はそんな言葉を使った?) 

 四面楚歌の中、必死に記憶を辿る沢井だが、原因をつくった小夜香を責める気にはならない。それどころかこの状況をどこか楽しんでもいる。沢井は、十和子の膝で眠る小夜香を見てつい微笑む。映画の撮影の際の凛とした舞姫の姿と、今の酔いつぶれた姿とのギャップが本当に面白いしかわいくもある。

 (俺の大事な・・あっ!『俺の大事な娘だから。』そう!確かに言った!まったく。小夜ちゃん、楽しませてくれるよ。) 

 つい沢井は、ニヤリと笑ってしまう。

 「何をにやにやしているんですか。気持ち悪い!」

 十和子は、沢井から体を遠避ける。

 (おっと!こいつには、周りに変なことを言われる前に、きっちり納得させないと。それにだ、運ちゃんもよく聞いとけよ。)

 一旦、そう毒を吐いて、沢井は説明を始めた。

 「笑ったのは、小夜ちゃんの発想が面白くて笑っただけだから、そんな汚いものを見るような目つきは、止めてもらえるかな。ところで、小夜ちゃんがなぜあんなことを口にしたかわかったよ。」

 沢井は、十和子の冷たい視線が和らぐかと、顔を見たが表情は変わらない。沢井は、説明を続ける。

 「まず、小夜ちゃんが口にしたあの言葉だけど、『私の赤ちゃん』って俺には聞こえけれど、きっと君にもそう聞こえたと思う。だがそれはそうじゃなくって、『私は赤ちゃん』って、小夜ちゃんは言ったんだ。『の』じゃなく『は』だ。彼女のろれつが回らなくってそう聞こえたんだ。」

 ここまでは理解できたかと、また中断する。相変わらずその表情に変化はない。それも結構と話を続ける。

 「ただここのところは、よく理解してもらわないといけないが、けっして小夜ちゃんのお腹に、赤ちゃんがいるわけじゃない。彼女が言った『私は赤ちゃん』って言葉だが、それはさっきの店で俺が口にした、『大切な娘だから』って言葉が、小夜ちゃんには、酔っていて違った意味に聞こえたみたいだね。」

 十和子はようやく興味を示したのか、目線が次を促してくる。

 「ここからは俺の推測になるけど、彼女には『大切な娘だから』が『大切な子宝』に聞こえたらしい。『娘だから』が『子宝』だ。ここまではいいかな?」

 沢井の確認の言葉に、十和子の眉が上がる。

 「後はもう想像の世界だが、『子宝』って言葉は、小夜ちゃんの酔った頭の中で、『赤ちゃん』に変化したんだ。ただ何で、彼女が俺の赤ちゃんになったのか、それも俺が生んだことになったのかは、もう神のみぞ知るところだよ、俺にはこれ以上はわからない。いいかい、もう一度言うけど、彼女のお腹に俺の赤ちゃんがいる訳じゃない。そのことだけはしっかり理解しといてくれ。」

 説明を終えた沢井は、つい誠実そうな顔を取り繕ってしまう。

 (運ちゃん、誰かに俺が赤ちゃんを孕ませた、なんて言うなよ。)

 心で呟き、ルームミラーをチェックするのも忘れない。

 「・・・おもしろい娘。」

 沢井の説明に十和子は呟き、その寝顔を愛おしそうに覗き込む。

 十和子の反応は、沢井に肩透かしを食らったような不満を抱かせる。別に、謝罪の言葉を期待していた訳ではないが、とりあえずは納得したとかもっと違う反応を期待していた。それが思いがけず、その一言とは。納得がいかない不満と同時に、十和子が呟いた言葉に、小夜香のかわいらしさおもしろさは俺だけのものという、反発心が掻き立てられる。沢井はもやもやした想いの中、十和子が三軒茶屋にいた理由を聞いてはいないことに気づいた。

 「ところで君が何故、三茶にいたのかを聞いていないが、どうしてあそこにいたのかな?」

 気持ちに余裕ができた沢井は、十和子に問い質した。

 「後を、つけさせてもらいました。」

 十和子は、別に大した事ではないとさらっと答え、沢井の不満をさらに募らせる。沢井がルームミラーに目をやると、運転手があわてて目を逸らした。

 (『つけろ』、と言われて、喜んでそうしたな。) 

 そう推理していると、十和子の声が耳に入る。

 「小夜香さんが、あなたみたいな男に遊ばれて、傷つけられるなんて、ファンとして、絶対に見過ごせません。あなたと映画の共演をされると聞いた時から、心配でしかたがなかったんですから。」

 責める言葉に、沢井は腹が立つというより呆れてしまう。

 (彼女の抱く、俺のイメージはどんなエロい遊び人なんだ。)

 「ちょっと待ってくれ。俺もたいした人間ではないが、それでもそれなりの見識を持った大人だとは思っている。女性に対して理性ある接し方も心得ているし、実際にそのように接しているつもりだ。これまで、相手の気持ちを傷つけたことも無いと思っている。君のイメージは、週刊誌か何かで植えつけられたものだろう。そんなイメージだけで、人を簡単に判断して欲しくはないな。」

 諭すように冷静に反論した沢井は、すぐに後悔する。

 「それじゃ、週刊誌を読んでいる全ての読者に、皆さんが抱いているあなたのイメージは、嘘っぱちですって証明してください。書かれるからには、それなりの理由があるはずです。違いますか?」

 十和子は、キッ睨みつけ責める手を緩めない。

 「だいたいさっきも私がいなければ、酔った小夜香さんとの姿が撮られていたんですよ。『二人は、ホテルへ消えた。』なんて書かれたら、小夜香さんの将来はめちゃくちゃになっていたはずです。それでも相手を傷つけてないって言われるんですか?いい加減な言い訳をする前に、あなたの行動を反省してください!」

 沢井は、十和子の反撃にぐうの音も出ない。

 (運ちゃん、その同情の目は止めろ。)

 沢井は、その視線を拒絶するようにルームミラーを睨みつける。

 (確かに、下手したら小夜ちゃんの芸能人生を、台無しにしかねなかったな。認めたくはないが助けられたのは、事実か・・うん?)

 沢井は、さっきの状況を思い返し見逃していた事実に思い当る。

 「ところで、十和子さん。君はあの時、俺と二人撮られた格好になってしまったけど、大丈夫かい?それこそ君を巻き込んでしまって、悪いことをしたね。」

「別に気にしないでください。あの時、カメラマンがそれ以上追ってこないように、彼が望む沢井さんと女性の姿が撮れるようにわざとカメラに顔を向けましたから、覚悟はできてます。」

 (りっぱだ!) 

 沢井は十和子の男っぷりの良さに、それまでの彼女に対する悪感情を忘れ、思わず心の中で拍手をしてしまう。

 「それに取材が来たら、しっかり利用させてもらいます。」

 (ますますりっぱだ!運ちゃん、同情はやめろ!)

 沢井は、さっき彼女を称えた自分を詰り再びミラーを睨む。

 「もうすぐ登戸ですが、どうされますか?」

 気まずい雰囲気の中、柏木が尋ねる。車は多摩川の橋を渡る。

 「それじゃ、柏木さん。小田急の登戸駅へ行ってもらえますか、駅まで行ってもらえれば、後は案内します。」

 「駅のロータリー側でいいんですか?」

 「ええ、そちらです。」

 タクシーは、雪が降る黒い墨を流したような多摩川を渡り、登戸の駅へと左折した。

 沢井は運転手を名前で呼ぶ十和子に、何故かイラッとしながら、

 「何で、小夜ちゃんの家を知っているんだい?」

 小声で尋ねると、十和子は真直ぐ前を向いて、

 「ファンですから。」

 その一言で、彼の質問を片付けてしまう。取り付く島もない。

 (こいつ!) 

 沢井のイライラは募るが、それ以上追求するのは止める。どこに地雷が埋まっているかわかったもんじゃない。

 (彼女は本当にファンってだけか、おかしいぞ。) 

 沢井はそんなことを考えながらも、黙って十和子が道案内をする声を聞いていた。やがて十和子は告げた。

 「柏木さん、そこです。」

 十和子は、二階建ての一軒家を指した。静かな住宅地の中の家は、リビングから洩れる明かりが周りを囲む植栽の垣根を照らしだしていた。タクシーを降りた沢井は、身震いをする冷気にすぐコートを着込む。雪はいつの間にか止み、エンジンの音だけが静かな住宅街に響いている。

 「小夜ちゃん、家に着いたよ。歩ける?」

 十和子の膝で寝ていた小夜香は、冷気に触れ目を開ける。

 「寒い!」

 「家に着いたよ。」

 沢井はもう一度、小夜香に声をかけた。

 「あっ、は、はい。すみません。降ります。」

 沢井の手を借りてタクシーを降りた小夜香は、そのままふらつく体を沢井に支えられる。十和子は小夜香のバッグを手にすると、

 「柏木さん、すみません。待ってて下さい。」

と言って、二人の後を追い小夜香の右腕に手を添えた。

 「小夜香?」

 その時、家のドアが開き、名前を呼ぶ声がした。十和子は、小走りに玄関へ向かい、呼びかけてきた女性に、

 「小夜香さんのお母さんですか?夜分にすみません。小夜香さん、少し酔ってしまったので送らせてもらいました。これを。」

と言って、バッグを手渡すと、また小夜香を支えに戻る。

 「まあ、小夜香。こんなに酔って。わざわざ送っていただいて。本当にありがとうございます。ご迷惑をおかけしました。」

 「あん?酔ってない。」

 小夜香は母親の声に反応し呟くが、ふらつき一人では立てそうにもない。十和子は、彼女を上がり口に 座らせブーツを脱がせた。

 「もう、大丈夫だから。うん、大丈夫。」

 立ち上がった小夜香がふらつき、母親が慌てて支えのるを見て、

 「失礼します。」

と、十和子もブーツを脱ぎ玄関に上がった。

 「小夜香さん、倒れないように支えてあげるから。」

 小夜香は、頷き体を預ける。

 「お母さん、どちらに?」

 小夜香の母は、右手のドアを開ける。

 「ソファーにしばらく横にしましょう。すみません、もう少し手伝ってもらえますか?」

 十和子は、小夜香をソファーへ座らせて横にした。小夜香の母がストーブのスィッチを入れている間に、玄関へ戻った十和子はブーツを履いた。小夜香の母も、後を追い玄関へ戻って来て、

 「ご挨拶、遅れてしまって申し訳ありません。小夜香の母です。今日はわざわざ娘を送っていただいて、ありがとうございます。よろしければ、コーヒーでも召し上がりませんか?」

と、声をかけた。

 「沢井と申します。今日は私から小夜香さんに食事でも、とお誘いさせてもらいました。すみません、あんなに酔わせることになってしまって。どうか彼女を叱らないでやってください。全て私の責任ですから。それと、今日は遅いのでここで失礼します。小夜香さんには楽しかったと、お伝え下さい。」

 沢井は、軽く頭を下げ答える。

 「ええ、沢井さんのことは、よく存じております。娘も今日は沢井さんにお会いできると、楽しみにしておりました。それに映画の撮影の際も、本当にお世話になりました。何も知らない娘に、いろいろとお心配りいただき、ありがとうございました。あと、目が覚めたら、娘も十分に反省しているでしょうから、あんまり叱らないようにはいたします。」

 彼女はそう答え、十和子に顔を向けた。

 「今日はありがとうございます。本当に助かりました。ところで、お名前聞かせてもらってもいいかしら?」

 「あっ、十和子と申します。私こそ突然に失礼しました。小夜香さんによろしくお伝えください。それじゃ、これで失礼します。」

 玄関を出ようとした十和子に、声がかかる。

 「十和子さん、家は遠いの?家の方、待っているの?」

 「いいえ、経堂だから近いですし、一人住まいですが・・」

 十和子は、質問に少し戸惑ったように答えた。

 「そう。それなら、今夜はお泊まりなさい。もう遅いし、寝る所はいくらでもありますから。」

 「えっ?」

 その誘いに、十和子は狼狽える。

 「あっ・・あの、初めてお伺いして、泊めていただくなんて。そんな、ご迷惑・・・」 

 「迷惑なんて、そんなことないですよ。遠慮はいりませんから、お泊まりなさい。」

  重ねて誘われた十和子は、おもわずとした視線を沢井に向ける。

 (ほー、いじらしいところあるじゃないか。) 

 沢井は、気分良く十和子の背中を押す。

 「それがいいね。もう遅いし、泊まらせてもらうといいよ。」

 「あの、本当に泊まらせていただいてもいいですか?」

 そう答えた十和子は、いまさらながら湧き出る喜びに震えだす。

 「どうぞ、お上がりなさい。」

 「・・それじゃ、荷物を取ってきます。」

 「待って。俺が取って来よう。」

 十和子を遮った沢井は、おどおどとした彼女の意外な一面に違和感を感じながら、ほっとしてタクシーへ向かう。

 「もう少し待って。」

 沢井は、運転手に声を掛け十和子の荷物と赤い傘を手にした。

 「あの・・。」

 沢井は、運転手が声を掛けるのを手で制して、引き返し十和子に荷物を手渡した。

 「今日はありがとう。おかげで助かったよ。」

 沢井は、複雑な感情は一旦置いて、助けてもらった感謝の言葉を伝え、頭を下げた。

 「こちらこそ失礼なことを言って、申し訳ありませんでした。」

 十和子は、今更ながら自分の言動に冷や汗をかき、深々と頭を下げた。

 「それじゃ、私はこれで失礼します。夜分に失礼しました。」

 沢井は、彼女の態度の変化に気を良くしてタクシーへ向かう。

 「待たせて申し訳ない。新宿まで、よろしく。」

 沢井は、温かさに一息つくと今夜のことを振り返った。

 (女将さんもいなかったし、まだ彼女を紹介するのは早すぎたな・・って、おやじにきちんと紹介してない!全く、散々だ・・取材も大変だが、まあ、小夜ちゃんを巻き込まずに済んだことは、彼女に感謝しないとな・・・)

 反省しきりな沢井を乗せたタクシーは、新宿へと走り出す。


 「あっ、タクシー代!」

 キッチンに案内された十和子は、椅子に腰かけようとした時、思わず声を上げた。

 「どうしたの?」

 小夜香の母が、声を耳にして尋ねてきた。

 「タクシーの料金、払うのを忘れていました。」

 「あらあら。でもそれは、沢井さんに任せて良いでしょう?」

 (違うんです。待っていた料金とか・・沢井さんすみません。) 

 十和子は、事情を口にできず、こっそりと沢井に謝った。

 

 「大変でしたね。」

 タクシーの中では、柏木が沢井に声を掛けていた。

 「あっ、ああ。」

 沢井は曖昧な返事を返したが、柏木は、

 「あの、申し訳ないのですが、実は先程のお客さまと、二時間ほどお二人をお待ちしておりまして、その分とか、首都高速の料金とか合わせてお支払、お願いしてもよろしいでしょうか?」

と、申し訳なさそうに言った。沢井は、思わずシートからずり落ちそうになり、

 (そんな落ちか!あいつに感謝した俺はバカだ。) 

と、十和子に感謝した自分を反省する。

 「わかりました。まとめてお支払いします。新宿に近くなったら声をかけてください。」 

 彼は、しばらくはタクシーに乗らないぞと決心し目を閉じた。

 (本当に、最後までさんざんな日だ・・だが、小夜ちゃんには楽しませてもらった。『子宝』か、おもしろいな・・ゆっくり話せなくて残念だったな・・それも俺のせいか。) 

 沢井は、そんな物思いに耽りながら、体に染み込む心地の良い温もりに包まれ眠りに落ちていった。


 



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