3話
陽が沈み、森は深々とした闇に包まれていた。
今夜は月の機嫌が悪いのか、それとも闇雲のいたずらか、繁茂した蒼い天蓋からは一片の光さえ差し込んではおらず、彼らの目の前でぱちぱちと小気味よい音をたてながら燃える焚き火の赤だけが、彼らの世界を照らし出す色だった。
夜闇にぽっかりと浮かぶ淡く光る空間には影が大小ひとつずつ。
大きい方は焚火の傍らで唯一の光源を絶やさぬよう、日が暮れるまでに拾い集めた薪を放り込みながら番をしつつ、彼があらかじめ持ってきていた荷袋の口ひもを解き、その中身を取り出しては足元に丁寧に並べていた。それらは塩漬けされた干肉と革製の水袋。
つまりは食事の準備をしていた。
本来ならば今ごろは目的地であった森を抜けた先にある町に着いているはずだったので、食料の準備などしていなかった彼は迷わず信仰者たちの荷からそれらを購入し、それを自らの荷袋に入れた。
——そう、購入だ。決して盗んだのではない。きちんと埋葬した彼らの墓前に代金を置いてきたのだから、と彼は誰にともなく心中で断言する。
形だけだったとはいえ、もはや義に生きる立場などではないのに、そんな言い訳じみた行動をしてしまったことが今さら恥ずかしくなってきて、彼は一つ頬を掻く。
とは言っても、水以外では用意している食料は一人分。
それらは、彼自身が食べるためのものではなかった。
「ほら、おなかが空いただろう。そんな端にいないで、こっちへ来てごはんを食べないか?」
食事の準備が整い(取り出しただけだが)、ヴィドは正面の、焚き火をはさんだ向こう側、炎が照らすギリギリの縁に佇む小さな方の影へと声を掛けた。
「……」
しかし、返事はない。小さな影の少女は立ったまま様々な感情の入り混じった瞳でヴィドを見つめ、淡い影を炎に合わせて揺らめかせるだけだ。出会った昼間から変わらない。
ヴィドは数時間前の光景を思いおこす。
死んだ信仰者たちの懐から鍵を探りだし、檻の鍵を開けても外へ出ようとはせず、話し掛けても今と同じように返答はなく、近づけば逃げ場のない檻にそれでも逃げ場を求めて柵に体を押し付けるようにして怯える少女。
彼はどうしたものかと、いったん距離を取ると、いつのまにか少女は檻の外に出ており、一応、害意が無いことも伝わったようで、それからずっと一定の距離を保ちヴィドの後ろをついてきた。
それでもやはり幼い少女。圧倒的に体力が勝る大人についていけるはずもなく、すぐに差が開き始めてしまう。
置き去りにすることもできず、わずかに馬車から離れただけで夜を迎えた。
(これほど他人を警戒するまでに、酷い目に遭ってきたのだろうな……)
今は赤い光に染まり分かりにくいが、少女の薄汚れたみすぼらしい衣服からのぞく肌は土埃と擦り傷と打撲の痕に塗れていた。
ほとんどが白い髪の端に、黒い色が混じっているのは元々なのだろうか。
安い同情や偽善だという自覚はある。だがそうだとしても、彼はなぜか少女を放っていくことができなかった。
そんなことを考えながらヴィドが少女を見つめていると、こくり、と喉元の影がゆっくりと上下する。
明確な少女の空腹を見て取ると、彼は横に置いた袋からもう一枚の干肉を取り出す。
わずかに白い塩の粒が光る赤黒いそれを、半ば無理矢理、義務のように自らの口に押し込み、咀嚼して飲み込んで見せてから、少女に向かってこう口にした。
少しもそうは見えない無表情で。
「……美味しいぞ?」
「——ふふっ」
そのとき。わずかに。ほんのわずかにだが、確かに少女が笑みをこぼした。
少女はそのことに自分でも驚いたのだろう。目を丸くしてから隠すようにして、さっと小さな両手で口を覆う。
それを見たヴィドは、すかさず口を開く。
「すまないな。本当のところ、今の俺には味がよく分からない。だがきっとこれはお前の腹を満たしてくれるはずだ。だから食べてくれ」
彼は静かにそう言って立ち上がる。そして少女とは反対側に歩き出し、少女と同じように光と闇の縁へ辿り着くと、背を向けたまま腰を落とす。
せめてこれ以上の余計な警戒心を与えないようにと、武器も荷物もすべて残したまま。
「しばらくしたら火の番にそちらへ戻る。火を絶やせば間違いなく魔物か獣に襲われるからな。距離を取ってくれて構わないが、そのときは食料と、あとはそこに置いてある荷袋を持って行って枕代わりにするといい」
相変わらず返事はない。
だが、ややあって背後で近づく小さな足音。
齧りつくような気配に時折かすかな嗚咽が混じる。
十分に時間を空けてからヴィドが振り返ると、少女は再び焚き火の向こう側に戻り、荷袋を頭の下に敷いて仰向けとなって、薄い胸を上下させていた。
きっとささいな音でも少女は目を覚ますだろう。そんな予感めいた感覚に、気配を殺してヴィドは火の前に戻り、再び薪を炎にくべる。
(……こんな感覚は久しぶりだ)
あの日、己の命よりも大切なものを奪われた日から、まともに眠ることもできないでいる。ついに限界を迎え眠りに落ちれば悪夢に苛まれ、起きていれば黒い感情が身を焦がす。
——今夜、穏やかなまま心のまま朝まで過ごせたのは、炎の向こう側に少女の寝顔が見えていたからだろうか。
そんなことを思いながら、森が薄明を浴び始める時刻に、彼はわずかな間だけ緩い微睡みに身をゆだねた。