2話
己を運んでいた荷馬車が止まっていることにヴィドが気づいたのは、鼓膜と体を叩く騒音と振動がいつのまにか止んでいたからではなく、つんざくような絶叫が彼の耳を打ってからだった。
「——ぁぁあああああっ!」
「……?」
王都を発ってからというもの、彼の瞼は開いてこそいたがそこに景色を映してはおらず、どれだけの時間が経過し、自分が現在どの辺りを移動しているかさえ曖昧であった。
つまるところ、いつの間にか薄暗い森の中で馬車が停止し、なぜか馭者の男が尋常ではない叫び声を上げている。そんな状況に困惑した彼が音の方向へと緩慢な動きで顔を向けた直後だった。
「あああああああ——あっ……?」
森に響く喚声が一瞬だけ途切れたかと思えば、それきり声がぷつりと止む。
ヴィドの目の前で、肘から先を失った右腕から飛沫の柱を生やして狂ったように叫んでいた馭者の男の頭部が一瞬で掻き消えた。
やや間があって、ヴィドが動いてもいないのに荷台がかすかに揺れる。
大きさの割に重さのありそうな鈍い音とともに眼下にごとりと落ちて転がる丸みを帯びた影は、今しがたまで魂が宿っていた何か。
「……」
無言でそれを見下ろしながら、ヴィドはおもむろに顔の真後ろを右腕で横薙ぎにした。
いつのまにかその右手には抜身の剣が握られており、剣身から黒い液体が滴っている。
その剣は、己の命を武器に預ける者が目にすれば、正気を疑いたくなるような状態だった。
控えめながらも瀟洒な意匠を施された白と銀の剣。元はロングソードと呼ばれる長さであったであろう剣身は三分の二ほどの長さを残して半ばで折れ、いびつな切っ先が覗く。
握手を守るための鍔も片方が失われており、長さも形も中途半端なありさま。唯一剣としての体裁を保てているのは鋭い切れ味だけであった。
少しおくれて、先ほどの頭よりも重い何かが倒れるような音と振動がある。
ヴィドが振り返ると、そこには予想通りの光景。
人の大人ほどの体躯の、四足の黒い毛並みの獣が上顎から上を切り飛ばされて絶命し倒れ伏した姿がある。
彼はただ闇雲に剣を振るったのではない。意図的に食い千切った頭部を獲物の手前に落とし、振動と音に紛れて背後に何かが着地したのを、彼の肉体は確かな感覚として捉えていた。
(魔物。それも魔狼か。単独の襲撃に失敗。なら次は——)
ぐっと身を低く構え、一斉に気配が湧き上がった刹那、飛び出す。
「——群れ全員での襲撃」
荷台の上にいるヴィドに襲い掛かるために飛び上がった最も近い二体の首を一息で斬り落とし、バックステップで距離を取る。残るは三匹。
数秒前まで彼の居た場所に仲良く着地した魔物たちに向かって、掴んでいたそれを緩く抛る。
(わるいな……)
心中で詫びつつ、投擲された馭者の頭を避けて二手に分かれ、すかさず単騎となったそれとの距離を詰め、胴体を袈裟懸けに一閃。残り二匹。
「グルルルルウゥ——…………」
牙を剥き唸る二匹の魔狼。しかし、瞬く間に数を減らされ、もはや形勢不利と判断したのか赤い燐光を放つ瞳からは戦意が失われていき、次の瞬間には転身し逃走。森の薄闇に消えた。
「……ふぅ」
それを見届け、周囲に他に気配がないことを確認してから魔物の黒い血を払い剣を鞘に納めると、ヴィドは小さく息を吐く。
汗一つ浮かべていない彼のそれは、呼吸を整えるというよりは嘆息に近かった。
視界の端で頭を失くして倒れ伏す男をちらと見やってから天を仰ぎ、木漏れ日の淡い眩しさに目を細める。
「夜でもないのに魔物が襲われるのは初めて——、いや、そうは言い切れないか……」
続く言葉を呑み込み、彼は自嘲気味に口の端を薄く歪めた。
ときおり時流に生じ、世にさまざまな災いをもたらす『魔女』と呼ばれる存在たち。その中でも特に悪名高いのが、この世に夜を作ったとされる、原初に生じた〈夜の魔女〉ヴァルプルギス。彼女が撒いた際限なく世界を呪う悪意が形を得たものが魔物だと言われている。
そんな魔女から出でた存在だからだろうか、彼らの動きが活発になるのは夜を迎えてからというのが人々の共通の認識でもあった。実際、昼間に魔物の姿を目にすることは極端に少ない。
今回、馭者の男が危険を伴う森を抜ける荷運びに傭兵を雇わなかったのも、夜以外に魔物に遭遇したことがなかったからだった。
しかし、すぐに魔物の生態などどうでも良くなった彼は、周囲の状況の確認を始める。
先を急がなければならない理由が彼にはある。
(馬は……やはり魔狼にやられてるな。 ん、なんだ?)
ヴィドは前方にもう一台の荷馬車があることに気づき、近づく。
そこには、散乱した荷と、夥しい血だまりの中に馭者の男のように体の一部を欠損した死体が無造作にいくつか転がっていた。
(俺が聞いた叫び声は一つだった。つまり先にこの荷馬車が襲われていたのか。この服装……珍しいな信教徒が荷を運ぶなんて)
血で汚れ、あちこち千切れているため分かりにくいが、どの死体も同じ服装で、信仰者のような黒と白を基調とした衣服を身にまとっていた。
死体を意味もなく眺める趣味はないので、早々に視線を切ろうとすると、ふと衣服の胸と腹の間の高さに刻まれた、血で赤く染まった丸い模様に目が留まる。
それは、世界にいくつかある信仰の対象の一つであり、この国では特に崇められている太陽の刺繍に見えた。
「気のせいか」
なにか違和感のようなものを覚えた気がするが、信仰心など持ち合わせていない彼とって、信仰の象徴などどうでも良いため、やはりこれもすぐに切って捨てる。
そのままぐるりと馬車の周りを一周。
案の定殺されてしまっていた馬を尻目に、徒歩で進むほかないと諦めの吐息を零しつつ、死体があれば埋葬しようと最後に幌に覆われていた荷台の中を確認し——、
「——な、」
ヴィドは言葉を失った。
視線の先には崩れた荷に埋もれるようにして、小さな檻が静かに佇んでいた。そこまではいい。
「……」
恐らくは、これを隠すための荷と幌だったのだろう。
檻の中で白と黒の少女が、細い鉄の柱の向こう側から怯えた瞳で彼を覗き返していた。