1話
大陸西方にあるル・トラヴァ王国。物流の防衛の要である南北二本の大河の間に建てられた王都から西進。見晴らしのいい草原地帯の先にかすかに見える、上背のある丘を二つ越えたところで現れる深い森の中を、一台の荷馬車が蛇行する細い道に沿ってさらに西へ西へと向かっていた。
道と言っても、王都より離れ、さらには大陸の中心から外へ向かうこの進路はさして重要視されているわけではなく、木々によって薄い天蓋の張られて昼間だというに薄暗く、荷馬車が離合するには中途半端な道幅で、路面のあちこちに木の根が飛び出し這っている。
当然、そんな道を進む馬の牽く幌のない荷台は凹凸によって浮き上がり、そのたび軋むような音を立てながら激しく揺れた。
通りなれない道の悪さと、のたうつ座席に尻を打たれ、馭者である若い男は相場の三倍の報酬を前払いで貰っていなければ引き返しているところだと、不機嫌そうに顔をしかめる。
速度を落とせばもう少し揺れを減らすこともできるが、依頼主にできるだけ早く届けてほしいと言い付けられていた。
己の尻がアザだらけになる前に、それを無視して速度を落としてしまいたい衝動に駆られる。
普段なら、そうしたかもしれない。
だが、できない。
そうした悪条件に対しての報酬額でもあるし、なにより——今回の荷である依頼主当人が背後に乗っているのだから。
己が生真面目ではないと自負する彼だが、客を前にしてそこまで厚顔にはなれなかった。
「ふぅ……」
溜め息を車輪が暴れる音に紛れさせながら、馭者は広い荷台に載せた唯一の荷である男を横目でそろりと見る。
東の国からの荷を降ろしてすぐに舞い込んだ今回の依頼。
面倒なあまり、ついふっかけて請求した代金をあっさり払った依頼主の男。だというのに一部が破損した剣を提げ、防具のみ真新しい革鎧に身を包むその出で立ちは、馭者の男に首を傾げさせた。
あれだけの金を、ぽん、と出せる者がなぜ壊れた武器を新調しないのか、と。
さらに、傍らには遠出するには少なすぎる荷物を置き、荷台の端に背をもたれかけ座る男は、これだけ大きく揺れているのに顔色一つ変えず、不吉とされる黒髪を振動のままに跳ねさせ、どこを見ているともつかない濁った髪と同じ色の視線は虚空へ投げだしたまま微動だにしない。
生気の窺えないその様子が、男の眼にはただただ不気味に映った。
男性の存在など噂にも聞いたことがないが、これでもし耳が長く、尖って居ようものなら——。
「気味が悪いな……。——ん?」
目を眇め、知れず口の中で呟いてから目線を正面に戻すと、馭者の男は疑問というよりは、驚きに近い色を含んだ吐息を漏らした。
道が弧を描いているからだろう、わずかに視線を外した間に視界の角度が変化し、道の向こうに先ほどまではなかった影が現れていた。
別にありえない話ではないのだが、この片田舎へと続く道で誰かと出くわしたことに、彼は一瞬意外だと感じてしまった。
あちらは足を止めているのか、距離がぐんぐんと迫っていく。
背の高い角ばった輪郭から、それが同業者の荷台であることが男には分かった。
だが、なにか様子がおかしい。
脱輪でもしたのか、荷馬車は大きく傾いでしまっている。この悪路だ、ひょっとしたら荷の加重と衝撃に車軸が折れてしまった可能性は大いにありえる。
——いや、違う。それは彼の感じている違和の本質ではない。
馭者の男の無意識は、気がつかないふりをしようとしていた。
目と鼻の先で起きている現実から、せめて彼の心だけでも守るために。
「——あ、あ」
彼の口から漏れ出した、意味をなさない震えた音が妙にはっきりと彼自身の耳に残響する。
荷台の傍にわだかまる影。
それは傾いだ荷馬車の修理に苦心する人影ではない。
蠢く異形の影の群れ。
馬の脚がいつまにか止まっている。
さっきまで彼を苛んでいた騒音も痛みも、今はない。