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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

けふも巫女は巫女騙る

作者: ソラ



 一。



 わたしは空腹だった。

 それはもう、空腹だった。

 一体どれくらい空腹なのかと言うと、比喩抜きにお腹と背中がくっついてしまうくらい。腹の音がぐぅぐぅいつまで経っても治まらないくらい。


 ……いやまぁ、こんなご時世?

 毎日お腹が空いているというのもそう珍しくない訳ではあるし、みんな苦労してんだよ、とか言われたらわたしだって答えに困ってしまう。

 しっかーし、こんな美少女(わたし!)がお腹を空かしているのだ。

 黙って飯の一つも恵んでくれるのが、人情というものではないだろうか?


 だがしかし、わたしが今まで出会ってきた人達は、どうやらその人情というものが欠けているものばかりだったらしく、誰も、飯を恵んでくれる者はいなかった。

 まったく、賭場で摩ったから飯を頂戴って言っただけなのに。

 ……あんな怒り心頭にならなくても良いじゃないの。


 まぁ、過ぎたことをぐちぐち考えても仕方ない。

 とならば、心機一転!

 自分でお金を稼ぐ他あるまいと。

 そう決意したわたしは、綺麗な綺麗な湖からしばらく歩いた後にある、山の麓の小さな村にまで訪れていた。


 立地が良いんだろうか、暖かな陽光が水田に降り注ぎ、きんきらと綺麗に光り輝いていた。

ふぅと吹く風がどこか心地良い。

 人口は建物の数を考えてみるに……百人を少し超えたくらいかな? そんなに大きくない、まさに小村と言った感じの小さな規模だ。とは言え、そんな小村を歩く村人達は、ふっくらと血色が良いように思える。


 ……これは、期待できそうだと、わたしは、無意識に唇を舐めていた。

 腹の虫が強く空腹を主張する。

 されど、駆け出しそうになる足を、わたしは根性で抑えつけて、村の前で突っ立ってみる。

すると、そんなわたしに気づいたのか、良い感じに日に焼け、そして良い感じに歳を取った男がわたしのところまで近づいてきた。


「こんな所で突っ立って、一体どうしたんだ嬢ちゃん?」


 ……よし、来た、釣れた!

 心の中でほくそ笑む。表に出すような愚はしない。

 こくっと数瞬だけ不自然にならないように黙り込む。

ついつい焦りそうになるが、この間が演出において必要不可欠なので、必死に我慢だ。

 それから、男が不審に思うか思わないかくらいまで間を溜めておいてから。


「……嬢ちゃんじゃないわ」


 男の言葉を否定した。

 できるだけ低く、不自然にならず、威厳があるように。


「――わたしの名前は、神楽。歩き巫女よ。妖怪を退治しに来たわ」



 二。



 それから、わたしはその巧みな話術で男を説き伏せて、この村を纏める村長さん家のところまで案内して貰った。

 案内しながらも、男はわたしの挙動を隈無く盗み見ている。ばれてないと思っているのが、少しだけ憐れだ。


そんなにわたしのことが気になるのかな?


 という冗談はひとまず置いといて……まぁ、どうせ先ほどのわたしの話が気になって仕方がないのだろう。

 当然だ、わたしがこの村には妖怪が取り憑いていると不安を煽ったのだから。

 いや、ごめんね。それ、ただの嘘なの。


「ここだ」


 男は家の前に立ち止まり、声を発した。

 ここが、村長さんのお宅。

 家の大きさは他とそう変わらない。

 正直、案内がなければそこが村長さんの家とはわたしには絶対に分からない。良く言えば、質素。悪く言えば、没個性な家だった。

 いや、贅沢しないのは好感が持てるんだけど。

 わたしは、村長さん家にお邪魔した。


「村長! お客さんだ、巫女だ!」


 少々、大きな声を出して男は村長を呼んだ。

 そこまで、大声を出さなくても良くない?


「そんな大声を出さんくても、ちゃんと聞こえとるわい!」


 あ、やっぱり。でも、あんたの声もでかい。

 わたしは、ばれないように小さく耳を塞ぐ。


「いや、最近あんた耳が遠いだろう――って、今回はあんたの話に付き合ってやれる余裕がない。……巫女が、来たんだ」


 男が、低い声で言った。


「……何の話をしておる?」


 男の本当に余裕のなさそうな真剣な声を訊いて、村長さんも態度を改め、顔を引き締めた。

具体的に言えば、女を誤魔化す為に言い訳をする男の顔だ。あれって、普通にばれてるんだよね。

 え、何の例になってないって?


 そんなことを言われても、わたしがそう思ってしまったんだから仕方がない、と誰々に言い訳をしていたら、視線の矛先が限りなく他人に近いわたしに向いた。

 じーっと、刺さるような視線だ。

 誰だよ、そんな副音声が聞こえた気がした。

 だから。


「話をするから、茶を頂戴」


 だから、取りあえず小さな要求してみた。


* * *


 ずずっと、茶を一服してから訊いた。


「えーと、何処まで話をしたっけ?」


 すると、気を悪くしたように村長さんは短く言った。


「……ぬし様が、ある妖怪を逃したってところまでだ」

「あ、そうそう、それね」


 村長さんの言葉に、わたしはおざなりに返した。

わたしはある妖怪を逃し、それからずっとその妖怪を追いかけている――という設定。

 さてと、それをどう繋げたもんかなぁ。

 この、わしこそが村長だ! と言わんばかりの容姿とお髭をされた、このご老人を騙くらかすのは、そう簡単にはいかなさそうに見える。

 うーん、ちょっと話を濁してみるか。


「さっきわたしは、自分は巫女だと語ったけれど、実はちょっとばかし他の巫女とは違うの。あんたは、歩き巫女って知ってる?」

「あぁ、存じておる」

「さっすが~、歳を取ると知識を多いのね」

「…………」


 ……いや、そこで黙らないでよ。

 せっかく、この美少女が調子良くおだててあげたと言うのに……何でそんなにご機嫌斜めなんだろう?

 やっぱり、遊女のようにいかないって訳か。


「歩き巫女について簡単に説明すると、特定の神社に所属せず、全国各地を渡り歩き、祈祷・託宣・勧進などの主に三つの活動を行って生計を立てている――ってのは表向きの話」

「は?」


 村長さん――ではなく、その傍に立っていた男が呆けた声を上げた。これが、年の功ってやつか。

さりとて、村長さんは声を出さなかったようだけど、それでも、どうやら驚いているようだ。


「わたし達、歩き巫女はね、全国各地を遍歴し、神様の手が届かぬ地に救いをもたらす為に存在するのよ。ぶっちゃけて言っちゃうと、妖怪退治の集団って訳」


 行脚僧とは、まるで逆。

 あれが、自身の修練の為に旅をするのだとしたら、わたし達は妖怪を退治し、誰かを救う為に旅をしている。

勿論、歩き巫女の全員が誰かを救う為に行動する訳じゃない。卑下したくはないけど、わたしなんてその典型だ。


 だから、どちらが優れているのか、という論争は面倒くさいからしないように。


「……歩き巫女については、分かった。しかし、儂が神楽殿に訊きたいのは、一つ――妖怪を逃したというのは、一体何時のことなんじゃろうか?」


 村長さんは、重々しい声音で訊いた。

うん、誤魔化されてはくれなかったみたいである。

 さて、どうしようか。

 先ほど、わたしは妖怪を逃したという話を、それはもう存分にどばどばと誇張して語った。

一つの話を作れるくらいには、物語っぽく語った。


 あらすじっぽく言うなら、巫女は昔に逃した妖怪を、探し、退治する為の旅に出たって感じだ。

勿論、嘘だけども。

 まぁ、そんな作り話を作ってしまったんだから、数日前やそこらじゃ効かないのは当然だろう。

そうなるなら――


「――三年前のことよ」

「なんと……!」


考え込み、慎重に出した渾身の返答。わたしとしては適切な時間帯だと確信しているくらいなんだけど。

 しかし、呻くように叫んだ村長さん。

そして、その傍に立つ男も、声を発していないのかが不思議なくらいに、驚愕に表情を震わしている。


 わたしは嫌な予感を抱きつつも、しかし、吐いた唾は飲み込めないように、さっきの時間には巻き戻らない。

 だから、ちょっとした覚悟を決めて、続けて言った。


「報酬は求めない、それが、わたしの償いだから。けれど、もしかしたら長丁場になるかもしれないし、拠点の一つは貸して欲しいかな。何なら、監視付きだって構わないから」

「……あ、あぁ、相分かった」


 村長さんは了承し、そして続けて言った。


「この村には、早くに主人を無くし、一人で暮らす女の家がある。ぬし様は、そこに住まうがよかろう。……おい、案内せい」

「承知した」


 村長さんの言葉に、男は応えた。

 文句を言える立場ではないことは分かってるけど、だけど未亡人の家を選ぶというのは、当て付けか何かなんだろうか?


 まぁ、考えてもしょうがないか……と現在のわたしはそう思ったけど、しかし、後から考えれば、もっと考えるべきだったかもしれない。

 ……どうせ、結果は変わらなかっただろうけどさ。


「ついて来てくれ」


 男の声に、わたしはこくりと頷いて従った。

 村長の家を出る。

 男はどすどすと、わたしはとことこと歩いていた。

 男はまたちらちらと横目で見てくるのだけど、生憎わたしにそれに気を使っていられる余裕は無い。


 何故なら。

 さっきわたしは、この村に妖怪が取り憑いていると、そう語った。

 しかし、それはただの嘘だ。嘘っぱちだ。

 わたしは今まで妖怪を取り逃がしたことは一度もない。これでも、かなり優秀なのである。

 よって、先ほどわたしが語った話は全部、ただの作り話だ。いや、歩き巫女については嘘じゃないけどね。


 まぁそんな訳だから、この村には何の妖怪も取り憑いていない……筈だった。


 いや、これは本当にどうなってるんだろう?


 巧妙に隠されていて、わたしでさえ村に入るまでは気づかなかったんだけど、しかし、どうやら本当に妖怪はこの村に潜んでいるらしい。

 村にこびりつくような妖気が、それを証明している。


 ……いや、これは本当にどうしたもんかな?


 予定としては、数日くらいだらだらとただ飯を食らって、そして妖怪を倒すふりをしてから、自作の妖怪の死体という証拠品を見せて、報酬代わりに食料を頂くつもりだったんだけど……いや、ほんとにどうしよう?

これじゃだらだらもできない。


 ……何てこった。


 そうやって落ち込んで、どれくらい歩き続けたか。

 多分、一分もいかないと思う。

 人口百人ちょいの村で、そう何分も歩き続けていられる訳がないからである。

 故に、目的地にはすぐにたどり着いた。


「ここが、女の家だ」


 そうして、案内の男に連れて来られた家の第一印象は、何というか……寂しそうな家だった。

ボロい訳じゃないし、使い込まれてもいそうなのに、しかしどこか生活感というものを感じられない。

 一人で使うには少し大きいような――そんな家。


 しかしそこから、あまり予想もしていなかった大きな声が家屋を揺るがしたってのは、勿論比喩表現。

 荒げる男の声だ。何かに怒っているように聞こえる。


「この声は?」


 わたしは、疑問の声を上げた。

 未亡人の家じゃなかったっけ?


「あぁ、多分“あいつ”だろう」


 男は答えた。答えたけど……いや、分からないわよ。

 主語に「あいつ」と使われても、「あいつ」を知らないわたしに分かる訳が無いだろうに……馬鹿かこいつ。


「悪いが、この話し合いが終わるまで、少し待っちゃくれねぇかい?」

「……別に良いけど」


 話を聞かせて貰うわよ、とわたしはじろりと視線を向けて言った。

 男は観念したかのように、小さく溜め息を吐いた。

 いや、溜め息を吐きたいのはこっちだっての。



 三。



「あーあ、どっから話したもんかな。……そうだな。昔、ていうか今もだが、この村にはそれは美しい女がいたんだ。こんな辺境の農村には似つかわしくないって、そんな美しい女がな、名は蓮子。おうさ! この家の女だ!」


 語り手の男は、元気良く語った。


「当然、村の若い男どもはみんな、その女を求めた。今、この家で言い争いをしてる男も、そん中に入ってる。……しかしなぁ、蓮子はどうもそういうものに抵抗を持っていたらしくてなぁ。それで、他の男共はみんな蓮子のことを高嶺の花だと諦めたが、あいつだけは蓮子のことを諦めなかった。……だが、結果は残酷なもんだ。そんな一途な男の想いも、蓮子には届かなかったって訳だからな」


 それは、まぁ何とも有りがちで、残酷な話である。

 わたしはその男に同情した。

 続けて、男は言う。


「だがしかし、一人だけ、例外がいてな。四郎って言うんだがな――そいつだけは、蓮子を求めることはしなかったんだ。……それが、蓮子には心地良かったんかねぇ。電光石火の勢いで結婚しちまったよ。まさに、四郎が男から横から掻っ攫うって形だった」


 ……ふーん。

何でその男を、蓮子は選んだのか。

 わたしには、良く分からないな。


「そりゃ、そうだろう。どう見てもあんたは、恋愛するって面には見えねぇからな」


 むかっ!

 いや、落ち着け。

 ここで男の頬をぶん殴っても、わたしの気が晴れるだけだ。

 ……あれ、結構良いかも?

 いや待て待て、落ち着こう。

 ……ひっひっふー、ひっひっふー。


「……続き、良いか?」


 何に対してかは分からないけど、引き気味な男はわたしに訊いてきた。

 どうぞ、どうぞ。


「……あ、あぁ。そうして、四郎と蓮子は結婚して仲睦まじく暮らしていた訳なんだが、一つの悲劇が男を襲う。……四郎がな、死んだんだ。それはもう、ぐしゃりって、元の形が分からなくなるくらいにな。間違いなく、四郎は妖怪に殺された。だって、こんな死に方、他に考えられないだろう?」


 男の糾弾するような疑問の声に、わたしは辛うじて頷いた。

 ……そ、そうね。

 しかしながら、男は構わず話を続ける。


「それが、三年も前の話だ。……俺達は、これをとても恐れた。当たり前だ、もしかしたら四郎以外に犠牲者が出るかもしれないからな。しかし、幸い――これを言っちゃ蓮子は怒るかもしれねぇが、幸いにも他に犠牲者が出なかった。それから、四郎を早くに亡くした蓮子を、男はまた求めるようになったって訳だ」


 ……なるほど。

 それが、さっきの怒号の混じる言い合いに繋がると。

 ……あれ、三年前ってどこかで聞いたような……?


「あんたの言を村長が信じたのも、ひとえに時間が一致していたからだ。……だがな、あんたが妖怪を逃さなければ、四郎が死ぬことはなかった――肝に命じておくことだな。俺は……少しだけあんたを恨んでる」


 …………


「……分かってるわよ」


 ……分かってないわよ。


 いや、ほんとにこれは、何が何だか分からない。

 なんか知らぬ間に、誰々の恨みを買っていたんだけど。

 ていうか、わたしの作り話と村の四郎って男の残酷な死に方が、奇跡の連携を見せているんだけど⁉️


 ……さっき感じた悪い予感ってのこういうことか!

 そりゃあ、する訳だ。

だって、勝手に因縁付けられてるもの!

 未亡人の家に住ませるのも、本当の意味で当て付けの一つって訳か!


 ……うわぁ、うわぁ。

 わたしはどうしようもない絶望感に、頭を抱えしゃがみ込んでしまった。


「……おいおい」

「おいおい、じゃないわよ!」


 男は呆れた声を上げたけど、叶うならわたしがその声を上げたい。


「ふざけないで! 間接的とは言え仇のような奴を、その被害者の家に泊めるなんて……頭がおかしいわ!」


 いや、別にわたしは何もやってないけどね!

 むしろ、被害者と言っても良いくらい!

 そうやって鷹の如く荒ぶるわたしに、男は少々的外れな発言を行う。


「心配すんな、あの女は逆恨みするような人間じゃない」

「いや、そういう問題じゃなくて……」


 いや、その問題も勿論あるんだけど……

 わたしは更に文句を言おうとして――


「――そんなにもあの男の方が良いのかッ⁉️」


 ――若い男の怒号の声に、掻き消されてしまった。

 ……びっくりした~。

 あんまり、でかい声は出さないで欲しい。

 ていうか、これ……


「……大丈夫なの?」

「大丈夫、大丈夫、これが日常みたいなもんだから」

「いや、それはそれで駄目でしょ」


 こんな大きな声、わたしは何ともないけど、普通の女だったら怖く感じるんじゃないだろうか。

……いや、これが日常なんだから大丈夫なのか。何か論点がずれているように感じるけど……


「……また来る」


 若い男の絞り出したかのような声が、つい耳を研ぎ澄ましてしまったのか、特に意識せずとも耳に入ってきた。

 ……隠し切れぬ激情、そして嫉妬かな?

 ただの推測だから、正解なのかは分からないけど。


 数秒経って女の家から、何者が出た。

 そいつは、さっきの声を荒げていた男だった。

 彫りの深い、精悍な顔立ちをした男だ。

 一瞬だけ、視線が交わる。


 ――時が止まった。


 馬鹿みたいだけど、そんな感覚だった。

 ゆっくりと、刻々と、少しずつ刻まれる時間。

 ……こいつだったか、とわたしはこの男から感づいたし、この男もわたしから何かを感じたことだろう。


 そして、視線は男の方から外される。

 時間が、正常に戻った気がした。

 そのまま、男は去っていく。


「……挨拶も無し、ね」


 わたしの悪態の言葉に、男は反応した。


「まぁ、あいつにも色々と事情があんだよ。できれば、気を悪くしないでくれ」


 いや、わたしは大して気にしていないから、良いんだけど。

 でも、あんたは……って関係ないか。

 ていうか、いい加減、男、男ってややこしい。

だけど、今さら名前を訊くのも何かあれっぽいし……まぁ、要するに出遅れたってこと。


「入るぞ、蓮子」


 男は、そう声を掛け女の家へと入る。わたしも、続けて入った。

 内装は印象どおり、広々とした寂しげな空間だった。

いや、事実はそう広くはない空間だと分かってはいるんだけど、たった一人しかいないと、どうもそんな印象が強まってしまう。

実際には、四、五人くらいで窮屈になりそうな空間だった。

 まぁ、だけど、そんなことは割りかしどうでも良い。


 わたしが目を奪われたのは、床に座する女性。

 一本芯の通ったかのような美しい背筋は勿論のこと、その顔立ちが……ほぉと息を吐きたくなるくらいに、美麗な容姿をしていた。

 涼やかな目元、桜色のふっくらとした唇、白魚のように白い肌、特に黒髪の艶やかな美しさと言ったら、正直わたしでさえ嫉妬しそうだ。

これで、髪を纏める為の紐が無かったら最高だったのに……髪紐なんて邪道、偉い人にはそれが分からんのである。


「……あなたですか。何の用に……いえ、そちらの方は?」


 凛とした、強い意思の感じさせる声。


「あぁ、用ってのはこの嬢ちゃんのことだ」


 そう言って、わたしを指差す男。


「この嬢ちゃんの名前は、神楽。歩き巫女ってやつらしい。三年前に逃した妖怪を追って、遠路はるばるここまで来たんだってよ」


 ……うっ。

 分かってはいたけど、妖怪のせいで男に先立たれた女の前で、「その妖怪を逃したのはわたしなんです」と言うのは気分が重い。

 いや、わたしは何の因果関係も無かったんだけど。

 ……勝手に作っちゃったの、悪い?


「それで、私にどうしろと?」


 ……あれ?

 思ったよりも、とても冷静だ。

 正直この際「人殺し!」くらい罵られるのは覚悟していたのに。

 ちょっと拍子抜けと言うか、呆気に取られたわたしなんてお構い無しに、男は続けて言った。


「あんたの家に泊めて貰いたい」

「……それを、私に持っていきますか……」


 あ、やっぱりそうだよね、当たり前だよね。わたしだって嫌だわ。


「……まぁ、それ自体は構いませんが」


 ――構わんのかいッ⁉️

 はッ!

 つい、旅した地方の方便が!


「すまんな」

「……謝らないでください」


 脳内でおちゃらけるわたしは意に介さず、というか気づかず、重たい雰囲気で当事者にしか分からない話を展開していた。

 こうなると、部外者は路傍の石っころになるしかない。


「じゃ、嬢ちゃんを頼むわ」

「えぇ、任せて貰った以上は責任を持って世話をしましょう」


 え、世話って?

 もしかして、ご飯とか作ってくれるだろうか?

 そう意識してしまうと、さっきまで我慢に我慢を重ねてきた影響か、ぐぉおおお! と叫び声のような音がわたしの腹の中から響き渡る。


「…………」

「…………」


 ……沈黙が痛くて、顔が熱かった。

 どうやら、わたしも人並みの羞恥心は残されていたらしい。

 ……無くなってしまえ、そんな羞恥心。


「……さ、早速だけど、ご飯を用意しましょうか」

「あ、あぁ、俺も腹減ったから家帰るわ」

「……うん、気遣ってくれてどうもありがとう。だけど、もう遅い……」


 ……死にたい。



 四。



 がつがつ!

 それはもう、がつがつと!


 わたしは、食物を噛み締め、そして喉に強引に流し込む。ここ数日ろくなものを食べてなかったから、どうも食べっぷりが激しくなる。

 うん、やっぱり人の手の入った食べ物は素晴らしい!


 あまりの感動に涙が出てしまいそうだ。

 もしかしたら、もう出てるかもしれない。

 これだけで、村を騙くらかす価値があるってもんだ。

 奇しくも、その嘘が本当になってしまった訳だけども、こういうのを何て例えてるんだったっけ……えっと、あれだ、嘘から出たまことって言うんだ。


「良い食べっぷりですね。見ているこちらも、気分が良くなります」


 そんなどうでも良いことを止め処も無く考えながらも、しかし箸の動きを決して止めないわたしに、蓮子は好感高くそう言ってきた。

 ちょっと驚いて、わたしは話をする為に箸を置いた。


「わたしの食事を見て、そう言ってくれたのはあんたくらいのものよ」


 自分でさえ意地汚いと、心の底でちょっと、ほんのちょっと、爪先の先っぽくらいまでは思っているのに、この女は真逆の意見を有している。

 少しだけ、興味を誘われたのだ。


「……そう、でしょうか。良く食べる子は、良く育つと聞きますが」

「女の子がはしたないとか思わないの?」

「思いませんよ。それも、あなたの味だと私は思います」


 蓮子は間髪入れず、わたしの言を否定した。

 ……理想のお母さんかよ。お母さんなんて、いたことないけど。

 まぁ、それは置いといて。

 わたしが気になっているのは、もうちょっと別だ。

 だから、少しだけ踏み込んでみる。


「……ねぇあんた、わたしを恨んでないの?」

「恨む、とは?」

「ほら、例えば、わたしが三年前に妖怪を逃さなかったら、四郎って名前で合ってるっけ? そいつは死ななかったんだー! がおぉおおお! みたいな?」

「……良く分かりません」


 わたしの自分で言ってて良く分からない言葉は、蓮子にも良く伝わらなかったようだ。

特に、がおぉおおお!

 だとしても、ちょっと鈍すぎるように思うけど。


「いや、だから……」

「だから、良く分からないのです。突如やって来た、ようやくわたしが恨むことのできる存在に対して、わたしはどう接すれば良いのか」

「…………」



思わず、わたしは無言になってしまう。

 そんなの恨めば良いじゃん、とわたしなんかは思うけど、どうやらこの女はわたしの考えとはちょっと逸れているらしい。


「少しばかり、恨みをこの身に溜め込みすぎました。もはやこの恨み、他の方向には向けることはできないようです。それに、三年前に妖怪を逃したと聞きましたが、もしかしたら、うちの妖怪と、あなたの逃した妖怪というのは別物だという可能性とあります。……故に私は、あなたを恨むことはできません――だから、好意に接してみようと」

「待って待って、それはどこかおかしい……」


 ――どうして、そうなった?

 辛うじて、本当に辛うじてだけど、この女が、わたしに恨みの感情を向けない前者の理由は分かった気がする。後者の理由は、わたしにとって都合が良い。

 ありがとね。

妖怪が別物だとか、そう思ってくれたのはこの村であんたが初めてだよ。


 しかし、だからと言って、どうしてこの女はわたしに好意的に接するのか、そこが分からない。


「間違っていますか?」


 なのに、蓮子は、疑問そうに首を傾げた。

 そんな簡単なことも分からないのですか?

 言外に、そう語っているような気がした。

 ……うん、分かった、どうやらこの女は天然さんらしい。

 そう納得しかけたんだけど、しかしこの話には続きがあるようで。

 蓮子はできるだけ、咀嚼して分かりやすいように言ってくれた。


「――あなたは、巫女として妖怪を倒してくれるのでしょう? であるならば、それが、私があなたに好意的に接する理由にはなりませんか?」

「……は?」


 この一日で、一体わたしはどれだけ思考を停止すれば、気が済むんだろう?


 ……う、うん、ちょっと待って、落ち着いて、考えてみよう。


 蓮子の言葉をわたしでも分かるように解釈するとして……つまりこの蓮子は、わたしがこの村に巣食う妖怪を退治しようとすることに、積年の恨みとか、そういう負の感情は抜きにして、純粋に感謝しているということか。

助けてくれる相手に、負の感情をぶつけるという行為は失礼に当たるから。

 だから、本気の感謝の印として、好意的に接しようとしている、ということ?


「――ぐぉおおおおお……!」

「ど、どうしましたかッ⁉️」


 蓮子が心配してくれたけど、それに対応する余裕が、わたしには無かった。


 ……こ、心が痛ぇえええええええ!


 ごめんなさい!

 実は、最初は村を騙くらかそうとやって来ました!

 ていうか、今でも少しはそう思っています!


 と暴露し懺悔したい衝動に駆られる。だけど、言わない、言えない、


 ……言ったら殺される。その未来を想像して、わたしは冷や水を浴びせられたかのように顔が真っ青に染まった。あ、でも、おかげで少しは落ち着けた。


 ……もしかしたら村長さんは、これは、ただの希望的観測でしかないけれど――妖怪を逃し一人の犠牲者を出してしまったわたしを気遣う為に、この女と同居させたのかもしれない。

 可能性は、限りなく低いだろうけど、そういう考え方はある。

 だってこの女、底無しの善人なんだもの。

 気に病むとか、そういうしみったれた行動はできなさそうだ。

 村長さんにとって誤算だったのは、その善意がわたしには痛恨の一撃だってことか。……滅茶苦茶効いた。こっちが悪いのに、泣きたくなった。


「……だ、大丈夫」

「ほ、本当に大丈夫なんですか? なんだか、顔が青くなってますけど」

「い、いや、ほんとに大丈夫だから」


 そして、気がつくと、無意識に頭を下げていた。

 ……うわぁ、気分がものすごい鬱だ。

 さっきより、死にたくなってきた。


 ……あぁ、このまま話を終わらせたい。食事を、再開させたい。

 だけど、あのさっきすれ違った男の話をしないと。

 本当に申し訳なくなってきたから、今回だけは本気でやる。

 今すぐ本気を出す。


「……だから、大丈夫だから、話を聞かせて頂戴」

「話、ですか?」

「あのさっきあんたと言い争っていた、男の話。名前、何て言うの?」


 そう訊くと、蓮子はさっと表情が変わった。

 しかし、それは嫌悪や怒りとかではなく、ばつの悪そうな顔だ。


「……名前は、信太郎と言います。私とは、同年代です」

「……信太郎、ねぇ」


 こりゃまた、蓮子が置かれている状況からすると、随分と皮肉に満ちた名前だ。

肝心の蓮子が、それに気づいていないんだけどね。

 ……はぁ、と蓮子には気づかれぬように、わたしは小さく溜め息を吐いて、そして訊いた。


「あんたは、その信太郎って奴と付き合ったりはしないの?」



 五。



 蓮子は、固まった。かっちーんと固まってしまった。

 予想だにしていなかった問いなのだろう。完全に、かちっこちだ。かちこみ山である。

かちこみ山って、かちこみ山を知らない人からすると、山にかちこみにでも行くのかって、そんなこと思っちゃうよね。え、思わない?

……あっ、そう。


 まぁ、その議論は置いといて、蓮子は未だにかっちこちに固まっていた。

まぁ、それも当然。

だって……こんなの、礼に扮しすぎる。

 部外者がして良い質問じゃない。

 正直、今すぐ家を放り出されても仕方がないと納得できるくらいだ。ここで怒るでもなく、固まったのが、いみじくも蓮子の善性を表している。

怒られなかったのは、奇跡だ。

 しかし、それが一番楽なんだから、面倒くさくても、訊くしかない。


「……あ、あの、それは絶対に答えなければいけませんか?」


 硬直から解放された蓮子は、そう訊いてくる。

 まぁ、当たり前だ。

 むしろ、どうして申し訳無さそうなのか、それを問い詰めたい。

 その底の抜けた善人のような態度に、わたしはちょっとだけ苛立ちそうになる。

 ……怒りなさいよ。

 しかし、その気持ちは今は必要無い。

 だから、無理やりにでも飲み込んで、わたしは言った。


「絶対では、無いけど。だけど、答えて欲しい。」


 矛盾するような言い方になってしまったけど、そう答えるしか無かった。

 この行動を、正当化する方法をわたしは知っている。

 何の隙も無い理論を展開することだって、できる。

 美麗辞句の限りに装飾することも、できなくもない。

 だけど、この女にはそれができなかった。

 したいとも、思わなかった。

 これが、人徳というやつなのかもしれない。

 男共がこの女に熱を上げたのも、頷ける話である。

 この女を見事捕まえた四郎って男は、きっと日の本一の幸せ者だろう。


 そう思って、わたしは言葉にはせず、蓮子の目をじっと見た。

 視線に想いを乗せて、と少しばかり詩人のように。

 けど、この想いは決して飾り付けるつもりはない。


 ――やがて、ゆっくりと、桜色の唇が花開いた。


「……信太郎君には、申し訳無く思っています。あの人が、どれだけわたしに想いを送ろうと、きっと私は死ぬまでその想いを受け取ることはしないでしょう」

「それは、己の男に操を立てたから?」

「……あぁ、それもあるかもしれません。わたしが誰かとくっ付いちゃったら――あの人、嬉しそうに悲しむんですから」


 心嬉しそうに、蓮子はそう語った。

 わたしには、それが惚気のように感じた。

 いつまでも惚けて訊いていたくなるような、そんな惚気話に。


「だけど、そうですね。……それは、ただの言い訳にしかなりませんね。わたしのこれは――そんな美しいものじゃありませんから」


 しかし、蓮子はその言をばっさりと切った。

 ただの言い訳だと、否定した。

 わたしの願望は、こんな美しいものじゃない、醜いものだと。

 ……そう、なのだろうか?

 そんなものには、とても見えないけれど。


「あなたは、ここに来るまでの道中、湖を見ませんでしたか?」

「見た」

「綺麗でしょう?」

「うん。……とても、綺麗だった」


 蓮子の言葉を、わたしは噛み締めるように肯定した。

 ……あれは、本当に、綺麗な湖だった。

 あの湖を見てから、この村に住む人が羨ましくて仕方が無かったくらいだ。


「あの湖はね、夜はもっと美しくなるんです。特に、雲一つの無い満月の晩はね、二つの月が空に浮かんで……とっても、綺麗で……」


 懐かしむように、蓮子は瞳を閉じる。

 うっとりとした声の響きは、その光景を思い返しているように思える。

 ……あぁ、それはとっても美しいだろう。

 二つの月が浮かぶ空、美しい湖、その傍で佇むあんたの姿は……目に浮かぶよう。

 だって、あの湖には、あんたの黒髪はきっと映えるから。


「……あの人と、四郎さんと、一つの約束をしました」


 閉じた瞳は、ゆっくりと開かれた。


「次の満月の夜、二人で一緒に湖を見に行こうと。二人だけの、秘密だよ、と指切りの約束を交わしました」


 暖かくも優しい声には、狂おしいまでの強い意思が窺える。


「――馬鹿みたいな話ですけど、もしも信太郎君に寄り添ってしまえば、その約束が……その、永遠に訪れないように感じてしまって……」


 こんな理由で信太郎君の想いを無下にしてしまって、本当に申し訳無いです――と、そう蓮子は心底申し訳無さそうに恐縮していた。

 恐縮って――縮こまるって……もしかしてわたしに、怒られてしまうとでも考えていたりするの?

 なら、逆だ、怒る訳が無い。

 ていうか、わたしにそんな資格は無い。


 ……久しぶりに、綺麗なものを見た。

 美しくないだって?

 冗談じゃない。

 誓いでも、約束でも、どちらでも良いの。

 どちらであろうとも、一つのことを貫くというのは、とても美しく貴いものだとわたしは思うから。


 ……あぁ、ったく、わたしはそういうのに、本当に弱いんだ。涙を誘う話は、本当に苦手なんだ。


 だからなのかは知らないけれど、わたしは、心底この女性を助けたいと思ってしまった。

 信太郎と、蓮子がくっ付くのが、一番手っ取り早い解決方法の一つだったんだけど、それが理由なら仕方がない。

 むしろ、こっちの方が、やる気が湧くというものだ。

 あ、けれど、その前に。


「……その約束、叶えば良いね」


 おためごかしでも、おべっかという訳でもない。


――心底、叶って欲しかったから。


素直にその想いをわたしは蓮子に伝えた。

 すると、わたしの想いが伝わってくれたのか、蓮子はこの年齢からも、美しい容姿からも、到底考えられないような子供みたいな笑顔で、笑って返事をしてくれた。


「――はい」



 六。



 そうして、またご飯を胃に掻き込んで、取り留めも無いような雑談を日が暮れるまで続けて(……あれが、女子会)、そして布団に入った。

 数分も経たずに、夢の世界に浸り落ちる。

 早寝は、わたしの数多い魅力の一つだ。


 言っておくけど、さぼりでは断じて無い。

 今日じゃなく、明日からやった方が効率が良いのだ。

 何故なら、妖怪の世界でもある夜よりも、昼間の方がこちらもやりやすいからだ。後手に回る心配もあるけど、しかし蓮子の傍に居れば心配は無い。

 とまぁ、そんな感じで色々と考えて布団に入っていた訳だよ。


 しかし、わたしは夜遅く目を覚ましてしまった。


 誰かが、わたしを呼んでいた。

 具体的に説明すると、何だか鬱陶しい囁き声に、わたしは無理矢理気味に意識を覚醒させられてしまったのだ。

 ほんとは行きたくなかったけど、その声からは微かに、本当に微かにだけど、あのこびりつくような妖気が感じられる。

 誘いなのかも、しれない。


「……はぁ」


 ……罠かもしれないけれど、行くしかない。


 ちらっと眠気眼で視線を蓮子の方へと向けると、蓮子はわたしに背中を向けてすぅすぅ寝ていた。

 おうおう、気持ち良さそうに寝てらー。


 ……羨ましい。


 そんな気持ちを、無理やり騙くらかして、暖かい布団から何とかどうにか抜け出したわたしは、寒風が走る深夜の世界に外出した。


 人は寝静まり、無音状態、視界は不良好と言った深夜のなかで、わたしはわたしを誘う声に耳を澄まし、その声の主に向けて足を進めている。


 一寸先は闇どころか、自分の手足すら見えない暗闇。


 これじゃ歩くことすら儘ならない。

 だから、わたしは何処ぞで拾った小枝の先端に霊力を灯し、松明代わりにする。

暗闇に、ぼんやり薄く光る蒼光。

 しかしそれではどうも心ともなくて、わたしは何度も転びかけては、乙女の意地にかけて必死に堪えていた。


 もう、私の心はイライラで爆発寸前だ。

 仏様ですか? と訊かれたことがあるような無いようなわたしと言えども、やっぱり限度というものがある。

 いつ堪忍袋の緒が切れてもおかしくなかった。


 しかし、その前に。

 ぽちゃん、と。

 前に踏み出した右足が、頼りない水の中に沈んだ。


「……ここは?」


 そう疑問の声を出して、はたと気づく


 ――ここは、湖だ。


 知らぬ間に、わたしはあの綺麗な湖に辿り着いていた。

 しかし、その湖は昼の頃の、あの太陽の光をきらきらと反射していた綺麗な湖とは違い、光の一切見えない……不気味なものに感じさせる。

 これが、本当にあの湖なのか……


 そして、その湖から何者かが現れた。

 当初予想した、妖怪ではなかった。

 そして、人間でもなかった。

 そいつは……


「へぇ、自分から退治されに来るなんて、あんたは良い亡霊の鏡ね」


 ……亡霊だった。


 わたしは洒落た冗談を交えながら、いつも背中に預けている、梓弓を構えた。


 持ち運びがしやすいように、大きさはそれほどでもない、短弓にも似た作りの梓弓ではあるが、他の短弓には無い特徴として、梓の木が使用されている。


 理由は知らないけど、梓の木が使用された梓弓は霊的干渉力がとても強く、巫女を目指す者ならば誰であろうと、おすすめの一品である。

わたしが使っているという事実が、最も足る例だと思ってくれて構わない。

 これに掛かれば、幽霊なんて一発だ。

 わたしはそんな梓弓の照準を、亡霊に合わせていた。

 すると、この亡霊は、焦ったように声を張り上げてくる。


「ま、待ってくれ! 僕は村の誰にも危害を加えていないし、あなたにも危害を加えるつもりはないんだ! 僕はただ話がしたい、だけ……」

「悪いんだけどね、今わたしはあんたに構っていられる余裕は無いの」


 亡霊はそうやって必死に訴えかけてくるのだが、しかしわたしはそれを簡単に切り捨てた。

非情に見えるかもしれないけれど、優先順位の問題である。

 今を生きている生者、そして、今も死んでいる死者――どちらを優先するのか、簡単な問題だ。

 滅ぼさないだけ、慈悲のある対応だと思っていただきたい。


「分かったなら、さっさと退きなさい。あんたの心意気に免じて、退治はしないであげてやるわ。どうやら、そう悪いものでもないらしいし」

「…………」


 分類的には、地に縛られた亡霊の類いかな?

 地に縛られた亡霊ってのは、どれも辛気くさくて自身の死を認識できていない者ばかりだったりするけれど、どうやらこの霊は違うみたいだ。

 恐らくだけど、この亡霊は、この湖に特別な理由を有して宿っているものだと思う。

 どうも悪い気は感じられない。


 ……うーん、こういう亡霊を滅ぼすのは、少しだけ抵抗がある。理由があれば問答無用に滅ぼすけど、理由が無ければしたくない、そんな感じだ。

 だから、提案した。

 退くなら、放っておくと。

 しかし、亡霊は退かなかった。

 通せんぼでもするかのように、両腕を広げてわたしの通路を塞いでいる。


「……あのね、正直あんたの、その意地のようなものは嫌いじゃないんだけど、邪魔をされるのは鬱陶しい。いい加減にしないと……本気で滅ぼす」

「……ッ!」


 ……殺す、とそう殺気を込めて睨みつける。

 亡霊でも、人間の意識がまだ残っているのか、こういう脅しは結構――効く。


 ……ひゅぅ、と亡霊は息をするでもないのに、その喉から、情けない風が吹くような音が漏れ出した。そして、その音は、恐怖に染まっている。

 まぁ、ただの亡霊が、殺気を放たれたら怯まない筈が無い。

 見る限り、何の力も持たないような、ただの亡霊。亡霊になる前も、ただの一般の人間だったんだろう。


けれど。

 それでも。

 それでも、退こうとしないのは……一体どんな理由があるからなのか?


 と、普段のわたしなら暇に明かして聞いてみるという可能性も、無くは無いんだけど、さっきも言ったように生憎わたしには余裕が無い。

 ……割りと、そこそこ、苛立っている。


「……お、お願い、します……! 話だけでも! 話だけでも……!」

「…………」


 肉の殻なんてとうに脱ぎ捨てているのに、縋りつくように頭を下げ、膝小僧は地面にくっ付いている。しかし、その手は当然わたしを掴めない。


 亡霊なんて、そんなもんだ。

 強い未練を残し、その未練のみでこの世に何とか留まっているのに、しかしその未練を叶える術は亡霊には無い。何時だって、願うことしかできない。

 ……残酷な話だとは思う。

しかし、残酷じゃない話なんて、この世界には一体如何ほどあるのかって話でもある。


 はぁ、とわたしは、これ見よがしに大きく溜め息を吐いた。

 ……わたしも、甘い。


「……分かった、話だけ、話だけなら聞いてあげる」

「……ッ! ありがとうございます……!」


 話だけなら、大丈夫だと、そうやって心中で自分を誤魔化してはみた。

 けれど、本当に話だけで終わるのか、正直不安だった。



 七。



「……えーと、まず最初に訊きたいんですが、あなたは、蓮子の家で食事して、そして、布団に入って一緒に寝た、間違いないですよね?」


 さっきの縋りつくような態度は、まるで嘘のように穏やかに訊いてきた。

 わたしは……こいつも存外肝が太いなと、そう思ったけれど、疑問自体は答えられないようなものでも無かったので、普通に頷く。


「あー、まぁ、そうだけど」


 四郎の言うことは、間違っていない。

 加えるなら、布団は別々だったことくらいか。


 いや、待って。

 ……なんか、嫌な予感がしたんだけど。


「僕はあの家の主人――つまり蓮子の夫なんだ」

「……え?」


 ……何を言っているんだろうこの人は?

 主人? 夫?

 はっはっは、どうやら耳が腐っていたらしい。

もう一度、どうぞ。


「いや、だから、僕は蓮子の夫なんだよ」

「……え、ちょ、ちょっとだけ待って」


 やばい、脳内に宇宙的背景が広がっている。

 つまり、思考が停止している。

 それだけ、今の亡霊の発言は、わたしにとって衝撃的だった。

 いや、でも……もちつけ、じゃなくて落ち着け。

 しっかりとこの状況を認識するんだ。


「……じ、じゃあ、あんたが四郎なの?」

「え、知ってたの?」

「いや、まぁ、蓮子から少しだけ話くらいは……」


 実質、名前しか知らない殆ど他人のようなものだけど。

 ……というか、こいつが四郎だったんだ。

 何て言うか、想像とは違った。想像よりずっと凡庸な顔立ちだ。

 あんまりかっこよくない。


 まだ、あの信太郎の方がお似合いに見える……けど、それはわたしの主観だし、わたしには到底わかんないけど、蓮子が好く理由があるんだろう。

 ……うむ、良く見れば、優しげで安心できそうな気がしなくもない。


 あー、何となく、何を話すのか見えてきた。


「取りあえず、話を聞いてあげるから、ちゃっちゃと話しなさい」


 わたしはそうやって男を急かした。


「僕は――」


 そうして、現世に残した未練を、四郎は語る。


「――もう一度、もう一度だけ、蓮子と会って話がしたい」


 悲痛にまみれた声で、自らの願望を訴えた。

 ……あれ?


「……約束、は……?」


 呆気に取られたような、そんなわたしの声が暗闇に響いた。

 四郎は――それも知ってたんだ、と驚いたような顔をしていたが、しかしすぐに顔を引き締めると、平静な声で、しかし何らかの感情を抑え切れない声で言った。


「……あなたは、何かとても急いでいるから、あまり要求するようなことは言ってはいけないと思ったんだ。僕の用事は、それが終わってからで全然構わない。気が向いたらで良いんだ。僕のことを覚えていてくれるなら」

「……あのね、わたしがそれをやるとは、まだ何も言ってないんだけど」


 堪らずわたしは、そんなことを言った。


「――確かにそうだった。……なら、お願いします。もしあなたの用事が終わって、気が向いたなら、僕と蓮子が話をする機会をください」

「……呆れた」


 蓮子と四郎、とんだ似た者夫婦だ。

 四郎の言う用事とは、ずっと待ち望んで焦がれてきたもの、そう簡単に譲れる訳が無い。

後回しならまだ待てるかもしれないけど、しかしわたしはそれを明言していない。

本当に、ただ――話を聞くだけ。

 馬鹿正直にも程がある。


 ……腹が痛い。

 なんで、今日わたしが出会う人達は、こっちが申し訳無くなりそうな善人ばかりなんだ。罪悪感が、身体にまで影響が出てるんだけど。

 いや、わたしは何もしてないけどね!

 ただ、騙くらかそうとしただけなんだからね!

 ……辞めて、何も言わないで。


「……分かった、分かったわよ!」


 罪悪感に負けてしまって、わたしは決意した。

 元々、やることは決まってたんだ。

 今更そこに、一つや二つ増えたって、構いやしない。

 全部やったげる!

 蓮子を救うし、妖怪は退治する!

 そして、約束を守らせる!


 ――ぱんッ!


 頬を叩いた音が、湖の底まで響いたような気がした。

 つまり、それだけ痛かったってこと。

 大丈夫?

 頬、腫れてないよね?

 いや、気にするのはそこじゃない。

 ……うん、痛いけど、ちゃんと気合い入った。


 そうして、無理矢理吹っ切ったわたしは、強く地面を踏み鳴らす。

 四郎は呆気に取られたような顔をしていたけど、わたしにその情状を酌量する余地は無い。有り体に言えば、イラついていた。


「……これ」


 ほいっと、親指と人差し指で作ったわっかと同じくらいの大きさの、綺麗な蒼の水晶のような球体を、わたしは四郎に向かって無造作に放り投げた。


「わ、わわッ!」


 焦りながらも、何処か余裕そうに受け取った四郎。

 意外と運動はできるのかもしれない。

 まぁ、そんなことはどうでも良い。

 わたしは、この球体について説明する。


「これは、霊力を凝縮して作った玉。生者が口に含めば霊力を回復することができるし、死者が口に含めば溶けるまでの間――生者と同じ活動ができる」

「……つまり、どういうこと?」


 ずこっ!


 と転けそうになるのを、何とか我慢した。

 いや、まぁ、霊力とかそういうのを知らない奴には、ちょっとばかし難しい説明だったかもしれない。

でも、ちょっとでもそういうことを知る奴だったら、本気でおったまげる代物なんだけどなぁ……


 だって、霊力とは人の根元的な力、生命力。

 この霊力玉は、その生命力を分け与えることができる。

 故に、死者は――


「――この玉を口に入れている間は、息ができるし、触れ合えるし、話すことができるってこと。あんたの未練を叶えるのには、うってつけの代物ね」


 失くさないでよ、とそう注意をして、わたしは四郎に背を向けた。

 ちょっと時間を潰し過ぎた。

 最初は妖気を感じられたから、追ってみたけれど、しかし、ただ妖気が付着しているだけだった。殺された時の妖気が、しぶとくこびり付いているんだろう。


 なら、わたしは早く蓮子の元に戻った方が良い。


「――すぐに蓮子を連れていく。あんたは、待ってなさい」



 八。



 僕に背中を向けて、勇ましく疾走する紅と白の特殊な服を纏った少女。

 この少女を初めて目にした時、一目で僕は、この少女が巫女であることに気づいた。気がつけば、僕はこの少女に縋りついて、そして頼っていた。

勝手な理由で、その人の行動を邪魔してまで……

それなのに、そんな身勝手な人間の言葉なのに……


 ……少女は、力強く頷いてくれた。


 ――そして、こんなものまで。


 僕は蒼い玉を、掌に乗せて眺めてみる。

 美しい宝石にも似た蒼い玉。

実物を見たことはないけれど、しかしその玉体はこの世のどんな宝石よりも美しいものであるとさえ思える。


 これがあれば、蓮子に会える。

 その光景を夢想して、僕は地面が揺れているのかと錯覚するほどに、鮮烈な感動がこの身を震わせた。

 死者の身であるのに、生者のように暖かな炎が内側で燃えていた。

 今にも叫び出したくなるほどに、強い歓喜の情が湧き上がっていた。


 無理もない。

僕は星々を見上げて、苦笑する。

 何せ、三年もひたすら足掻き続けた。

 それを多いと見るか少ないと見るかは人の勝手だけど、けれど僕にとって、それは地獄に数百年堕ちた方が、まだマシだったかもしれない。

……それほどの、苦痛だった。


 そんな僕を、この少女は救おうとしてくれるのだ。

 いや、救おうとしているのは蓮子か?

 どちらでも構わない、どちらでも嬉しいから。

 だから、恩義を感じない筈もない。

 情けないことに、僕は安心感さえ覚えていた。


 巫女である前に、少女でもあるのに、僕は情けなく縋って、そして安心してしまったのだ。

 自己嫌悪してもおかしくないのに、僕はしなかった。この人に頼れば何とかなると、そんな根拠の無い安堵を覚えてしまったから。


 それが理由なのかは知らないが、僕は二年前の、つまりまだ僕が生きていた頃の思い出が、走馬灯のように甦ってくる。

 なに、時間ならまだまだ、そこそこありそうだ。

 だから、待っている間、少し昔のことを懐かしむことにしよう。


  ***


 ――別に、その女が欲しいと思った訳じゃなかった。


 一目惚れなんてしたことないし、まして劣情なんてモノを抱いたこともない。

 あー、確かに綺麗だなぁと、女を――蓮子を見たときそう思ったけど、だが言ってみればそれだけのことで、僕はその後すぐに興味を失った。


 だけど、どうしてだろう?


 何故か僕は、蓮子と行動を共にするようになっていた。

 今だからこそ、息苦しかったのかもしれないと想像できるけど、当時の僕には、何で冴えない容貌の自分と、彼女はいつも一緒にいるのか、正直分からなかった。


 まぁ、けれど、来たいと思うなら来れば良い。

 わざわざ拒絶する理由も見出だせないし、僕は蓮子を受け入れた。


 そして――気がつけば結婚していた。


 いつの間にか、という表現がこれほど似合う事例も他にないだろう。

 僕達は、村の若い者達のような恋愛はしなかった。

 甘くもなく、必要以上にべたつく訳でもなく、想いを告げるでもなく――まるで兄弟、まるで家族、まるで親友、まるで老夫婦。


 冷めているのではない。むしろ、暖かい。

 決して手放したくない暖かさだった。

 それは例えるなら、既に生活の一部になっているような――依存するほどに好き合っているのに、接吻すらしたことも無いような変わった男女関係。


 好きだと思う。

 愛していると断言できる。

 だけど、今さら恋愛事をしようとは思わない。

 恋という感情をすっ飛ばし、真実の愛を知ったような、そんな感覚だった。


 普通の恋愛との逆方向。


 始まりから終わりに進むのが、一般的恋愛だと言うのなら、終わりから始まりを積み上げる。

それが、僕達の恋愛だった。

 愛を知り、夫婦の禊を交わし、そして一からゆっくりと恋を育む。


 歪な形ではあったけど、それは確かに愛し愛される、幸せの一つだったんだ。



 なんで結婚しているんだろうね、と僕は訊いた。

 愛してるからですよ、と蓮子は言った。


 幸せなのかい、と僕は訊いた。

 幸せです、と蓮子は言ってくれた。


 一緒に生きようと、僕は約束した。

 一緒に死にましょうと、蓮子は願った。


 ……僕は、約束を破ってしまった。


 ぐしゃりと胴体を潰された僕の肉体。

 その化物は、ただ握り締めただけなのに、僕の骨太は爪楊枝よりも脆く折れた。柔らかく内臓が破裂した。筋肉は何の足しにもならなかった。

 ……とても、とても、痛かった。

 だけど、それよりも、もっと……心が痛かった。


 約束を破ってしまって、先に逝ってしまって、蓮子を一人残してしまって、心が、肉体の痛みなんて些細なくらいに、強く痛みを訴えた。


 ――その痛みに堪えきれなくて、必死に足掻いて、藻掻いて、悪あがきを繰り返して、肉体を捨て去って、魂だけになっても現世に留まって。

 ……しかし、何もすることはできなくて。


 健気に約束を待ち続ける蓮子を見ていると、無いはずの身体が張り裂けそうなほどに、砕け散りそうなほどに、心が悲鳴を訴えていた。


 ……こんな蓮子を、見たくなかった。


 僕はただ、幸せそうに笑う蓮子が見ていたかっただけなのに。

 ただもう一度、一緒に湖を見たかっただけなのに。


 あの約束を。

 願って、望んで、求めて――そして、奇跡が訪れた。



 九。



 ……ん?

 何だか変なのに割り込まれた気がしたけど、どうやらそれはわたしの気のせいだったらしい。


 さて、気合いを入れなおそう。

 この度、歩き巫女たるわたしは、忸怩たる思いで蓮子の命を救うこと、妖怪を退治すること、幽霊の未練を叶えることに決めた。


「……はっ、はっ、はっ……!」


 現在わたしは、四郎って言う冴えない亡霊を湖に置いてって、とある蓮子の家屋に向かって走っている。

 いや、過去形で表現するなら、蓮子と四郎の家だ。

 一人で使うには広いけれど、二人で使ったらぴったりな家。


 そこに、わたしは向かって走っていた。

 歩いても構わなかった。

 だけど、それでも走っているのは、予感がしたから。

 予感は、とても小さかった。

本当に、ちょこっと、ちょっとだけ、何か不都合なことが起こってしまうような、そんな感覚。

 その予感は、蓮子の家に近づけば近づくほどに、増していった。


 蓮子の家に辿り着いたわたしは、その勢いのまま戸を蹴破った。

 これには、流石に蓮子も怒るかもしれない。

 だけど、怒ってくれるなら、それはそれで構わなかった。その方が、何千倍も、万倍も良かった。

 しかし……


「……遅かった……!」


 家の中には、蓮子どころか誰もいなかった。

 二個の布団があるのみだった。

しかし、その空間には四郎からも感じられた、気持ち悪い妖気がこびり付いている。

 わたしの居ないうちに、妖怪が蓮子を攫いに来たんだ。


 ……わたしが、間違っていた。どんなことがあろうとも、蓮子の傍から離れるべきじゃなかった。

ずっと傍にいるべきだった。

 ……これは、わたしの責任だ。


「はい、反省終わり!」


 よし、取りあえず、反省した。

 え、本当に反省してるのかって?

 うん、蓮子が消えたのは、確かにわたしの責任だ。

 だから、わたしが取り返す。

 湖で、四郎が待っているから――絶対に、約束を守らせる、

 でないと、今度は四郎がずっと待ち続ける、なんてことになりかねないから。


 ぐちぐち後悔する暇は無い。

 なら、行動に起こそう。

 そして、わたしは家屋から夜の闇に――出ることはなく、家の中を漁った。

 その姿は、まるで浅ましい物取りのようであった――ってうっさいわ!


* * *


 家の中を漁った理由は、蓮子に連なる物を探す為。

 ……べ、別にこの隙に、良いものを物色しようかなとか、そんなつもりは毛頭無い。ちょっとしか思ってない。……ほんとだよ?


 わたしはただ、蓮子に繋がる物が欲しいだけ。

 本当に、何でも良い。例えば、蓮子が日々良く使っている物や、愛用している物。

 一番適切なのは、蓮子の一部分、いつの間にか抜けていた蓮子の髪とかが一番都合が良い。


 わたしはそれを探す為に、わざわざ犬のように這いつくばって家の中を漁っているのだ。


 這いつくばって床下を探す時は、中々に屈辱的ではあったけど、緊急事態だから仕方がない。

誰も見てないから問題は無いと、一人無理やり納得する。もしも誰かに見られでもしたら、蓮子をほっぽって首を吊ってたな。


 とは言え、その甲斐があった。

 わたしは、ようやく一本の黒い髪の毛を、見つけることができた。

 この長さ、この艶やかさ、この美しさ――間違いなく蓮子の黒髪だ。

 ……うぇ、自分で言っといてなんだけど……ものすごい気持ち悪い。


 と、とにかく、わたしは蓮子と繋がる物を手に入れた。


 あとは、呪いをするだけ。

 これから行うのは、善なる呪術の一種。

 人を傷つけず、 人を助ける一つの呪い。


「…………」


 唇を開いた。

 言葉は、重要だ、とても重要だ。

言の葉には、いつだって力が宿る。

人の想いが宿る。いつだって、誰にだって、言葉にしなきゃ伝わらないものはあるのだから。

 だから、言葉にする。想いを告げる。世界に伝える。

 そして、それが――わたしの呪術となる。


「《美しく艶やかに女を飾り付けるのは、おまえという一筋の黒の色。おまえがいるからこそ、女は美しく輝かしい。おまえを理由に、女は男を魅力する》」


 歌うように、紡ぐように、わたしの言葉は世界へと綴られる。


「《しかし、おまえは女から離れ落ちた。理由は如何でも良い。離れ落ち、絆は消え失せようとも、おまえと女の共に有った過去は決して消えはしないのだから》」


 かつて一つであったものは、たとえ別かたれたとしても、そこには決して消えない結び付きが存在する。

ならば、その繋がりはたとえ目に見えなくても、有ると分かっているのなら、呪術で干渉することができる。

 見えるようにすることができる。


「《然らば、おまえはわたしの声に耳を傾け、その縁をわたしに見せつけよ》」


 やがて、一本の黒髪はぼんやりと蒼く光り、そして、すぅと少しずつその黒髪に繋がっている線が可視化する。蒼い糸が、見えるようになる。

 これが、縁。

これを辿れば、わたしは女に――蓮子に辿り着くことができる。

 呪いが成功したのを見届けて、わたしは息を吐き、緊張を緩めた。


 ……疲っかれたぁ……


 いや、本当に疲れた。精神力がごりごりと削られた。

 どうもわたしは、この呪いは苦手だ。

適正が無い訳じゃない。むしろ、有り余るまである。とんでもなく過剰だ。あまりに適正が有りすぎて、制御にとても気を遣わなくてはならないほどに。


例えるなら、それは大海をひっくり返して、小さな桶に適正の量を注ぎ込むのと、同等の技術。

現実味が無いとしか思えないだろうけれど、それだけわたしは現実味が無いことをやっているのだ。

……まったく、誉めて欲しいものである。


 しかし、今はそれに愚痴を言っている場合じゃない。

 感傷に浸っている場合でもない。

 この呪いにはれっきとした時間制限が存在するし、それにいつまでも蓮子が無事でいるとは限らない。わたしの予想では、命に別状は無いと思う。

 だけど絶対じゃない。できるだけ、急ぐべきだ。


 わたしは梓弓を手に取った。


 家屋を出て、呪いで可視化した糸が示す先を、わたしは辿る。

 深夜の闇へと出で立ち、全力で疾走する。

 村を出て、鬱蒼と茂る木々の森を、ようやく雲から少しだけ顔を出した満月の、頼りない月光を頼りに、駆ける、駆ける、駆ける。


 月の光と、縁の光が、わたしに行くべき道を教えてくれるから。


 そうして、しばらく走った先の末に、わたしは、木々が一本も生えていないまるで天然の広場のような空間と、そこに立つ二人の存在を目にした。


 その空間の広さは、中々のもの。もし大の大人が二十人くらい三角座りで座ったとしても、まだ余裕がありそうである。蓮子と信太郎の二人くらいじゃ、むしろ寂しそうなくらいだ。


 とは言え、その二人以外には、我こそが妖怪だ! というような容姿をした醜い化物はこの場にはいない。

 さらに幸い、二人ともわたしには気づいていないみたい。


 わたしは自身の幸運に感謝しながら、近くにある樹木に身を潜めて、狩人みたく気配を潜めた。

 そして、気づかれぬように二人の様子を観察する。

 蓮子と信太郎は、激しく言い争っていた。

 まだ始まって、そう時間も経っていないようだ。


「……どうしてだ! どうしてそこまでお前は頑なに俺を拒絶するんだ⁉️ そんなにお前は四郎に義理立てしたいのか⁉️ そんなに過去の方が大切なのか⁉️」


 そうやって、信太郎は声を張り上げる。

蓮子を糾弾する。

だけど、その糾弾は、どうしようもなく的外れだ。

 彼女は四郎に義理立てしている訳でも、過去に固執している訳でも無い。何時だって蓮子は、自身の幸せの為に生きている。

 そんなこと、今日初めて会ったわたしでさえ分かるというのに……


「俺じゃ駄目なのか⁉️ こんなにも俺は、お前を愛しているのに……!」


 結局は認められないのだろう。

 ただ、過去に縋っているだけなら良い。ただ、過去の亡霊を忘れられないだけなら、話は簡単だ。

 亡霊は、所詮は亡霊。触れることはできない。


 けれど、蓮子がその身の内に飼っているのは、四郎の亡霊じゃない。

それが何なのか、今日知り合ったわたしには想像することしかできないけれど、亡霊なんかよりずっと尊いものの筈だ。


「あなたの想いを、私はとても嬉しく思っています」


 蓮子は、そう本当に嬉しいと、心底幸せだと言うように、上擦った声音で言った。しかし、すぐにとても悲しそうな表情になり、告げた。


「……だけど、ごめんなさい」


 そう言って、頭を下げた。

別に、自分が悪い訳でも無いのに、蓮子は心の底から申し訳無さそうに、四郎に向かって謝罪した。


「何度も言いましたが、私は約束を守りたいのです。いつ訪れるかは分からないけれど、必ず訪れるその時間を、私は純粋な心で待ち続けたいのです」

「……だけど、そんなの無理だ! 四郎は約束を守らない! あいつは死んだんだから! そんな奴が、どうやって約束を守れる?」


 信太郎は、どこか恐怖感の混じった声音で、蓮子の言う約束の最大の矛盾を突きつける。

 しかし、蓮子は何も揺らぐことはなく。


「そう、でしょうか? あの人のことだから、幽霊になってでも約束を守ろうとするように、私は思えます」

「……ッ!」


 まさに、取り付く島が無い。

 信太郎はまるで唇を噛むかのように、黙りこくった。


 それは、本来であれば、ただ反論ができずに、口を閉じたようにしか思えなかったけど、しかしわたしの勘は、その沈黙の時間が何か恐ろしいものの為の前準備にしか見えなかった。


そして、信太郎は、口を開く。


「……っち、やはり駄目だったか。まぁ、分かりきっていたことだがな。そこの女は、決して信太郎には靡かない。お前は、四郎に蓮子を掻っ攫われたその瞬間から、既に負けていたんだから」


……いや、信太郎じゃない。

 雰囲気が変質した。容姿は一切変わらないのに、何処にでもいるような村の青年から、禍々しい妖気を醸し出す妖怪の姿へと、変貌してしまう。


「お前は負けたが、対価は頂く――がァッ! ヤ、辞めろ……!」


 信太郎の姿をした妖怪はそう一言呟いて、次に苦痛の叫び声を上げた。

まるで、多重人格のようなその有り様は、互いに体の支配権を取り合っているからなんだろう。

 しかし、人間と妖怪。

 普通に争って、軍配が上がるのは決して人間では無い。やがて、信太郎の声は一切上がらなくなった。


「……あ、あなたは……何?」


 恐れるような響きで、蓮子は妖怪に何者なのか問い質すと、 その妖怪は、傲岸不遜に絶望の名を宣言した。

 

「俺か? 俺は鬼だ!」

「ひっ……!」


 初めて、初めて今夜、蓮子は悲鳴を上げた。


 突然、深夜に信太郎に攫われても、そして大の男に声を荒らげながら迫られても、悲鳴どころか眉一つ動かさなかった蓮子が、悲鳴を上げて、さらには腰を抜かしたかのように、地面にへたり込み、身動ぎ一つせずにかたかたと恐怖に震えていた。


 無理もない。

 鬼とは、それだけ人間にとって恐怖の代名詞だから。


 ――鬼に遭えば、生きることを諦め、死こそ救いと求めよ。


 何処ぞのお偉い退治屋が言った、有名な格言である。

 人の姿を取った、自然災害。それこそが、鬼。

 真実なのか、嘘なのか、それはどうでも良い。ただ、この妖怪は自身を鬼と言い放った。

 それだけで、腰が抜けるほどに……怖い、筈なのに。


「……し、信太郎君は、ど、何処にやったのですか……!」


 恐怖に身を震わせながらも、毅然と蓮子は叫んだ。


 ……わたしは何というか、どうしようもないほどの驚愕にこの身を震わされた。


 怖くない訳がない。真偽のほどは知らないけれど、少なくともこの妖怪が全身から撒き散らす妖気は、鬼と呼ばれても何ら見劣りはしない。


 そんな妖怪を目の前にして、失神しないだけ奇跡とも呼ぶべき偉業で、わたしだって相手にしたくないのに……

人はそれを、無鉄砲と言うかもしれないけれど、わたしには、その勇気が好ましかった。


「くかっ!」


 妖怪は、笑った。

 人間の顔で、良くこれほど醜く笑うことができると驚くほどに、醜悪で極悪な笑みを浮かべて、嘲笑うように嗤った。


「面白い、面白い。うむ、貴様のその勇気に免じて、信太郎の行方について教えてやろう」

「ほ、本当ですか⁉️」

「あぁ、鬼は嘘を吐かないものだからな」


 妖怪はそう疑わしげな言葉を嘯くと、もう一度くかっと特徴的な笑みで醜悪に嗤った。

そしてわたしは、矢を放った。


「ぶぼっ!」


蒼光を纏った矢は顔面に直撃し、矢とは本来突き刺す物であるべきなのに、その矢に直撃した瞬間、顔を起点に妖怪は広場の端までごろごろと吹っ飛んでいき、樹木にぶつかってようやくその勢いを停止させた。


特殊な霊力運用によって、矢と標的との衝撃を何十倍にも高めることができる、わたしの百八ある技の一つである。

嘘、見栄張った。技は百八も無い。


「……はい?」


と蓮子は疑問そうな表情で、吹っ飛んでいった妖怪を眺めている。

自分で言うのもなんだけど、こんなに空気が弛緩してしまったのは、決してわたしの責任ではない。

飛んでいった矢が、悪いのである。

まぁ、それは後々に沢山の議論すれば良い。

取りあえず、樹木からわたしは体を晒し、蓮子に向かって格好良い名言を一言。


「待たせたわね」


「……え、あ、神楽、さま?」


何でここに、とでも言いたげな困惑しきった表情で、蓮子は呟いた。

しかし、わたしにそれを気にする余裕は無い。


「誰だお前は!」


立ち上がった妖怪はこれと言った怪我もせず、土埃にはまみれたが五体無事といった様子で、敵意ありきに叫んだ。

かんっぺきな不意打ちだったのに、かすり傷一つすら負わないんだから、やっぱり戦いたくないって衝動がわたしの中で湧き上がった。


しかし、そんな訳にもいかず、わたしは心ではおいおい泣きながらも、現実では毅然に二本足で立って、そして言った。


「あら、言わなくても分かると思ったんだけど、まっ、知らないなら教えてあげる、わたしは妖怪の敵で――ただの巫女よ」


良し、決め台詞が言えた!


「……巫女、だと。あぁ、信太郎が恐れた奴とは、お前のことか。しかし、そんなに恐れる必要があるのか?

俺の体は、お前では傷一つ付けられやしなかったぞ」

「うっさいわね! 手加減しただけよ!」


嘘。割りと、全力だった。

妖怪もそれが分かっているのか、さっきの矢で大分離れた距離を、無造作に詰めるように歩いていくる。


わたしは、それを止める為に蓮子の前に立ち、しゅっ! と梓弓ではなく、手首の返しを効率的に使って、勢い良く退魔の針を投げた。


「止まりなさい!」


しかし、その針は妖怪の肌に当たって、簡単に弾き飛んだ。


「止まれと言われて待つ馬鹿がいるか、馬鹿」


むかっ!


滅茶苦茶むかついたけど、わたしはぐっと堪える。

ここで妖怪の怒りを買ってもしょうがないからだ。

だから、わたしはぐっと怒りを堪えて、妖怪に向かってある提案をする。


「ねぇ、ちょっとした遊びをしない?」

「遊び、だと?」

「そっ、遊び。だって、あんたが何を目的にしてるのかは知らないけど、このままじゃわたしも蓮子も殺されちゃうんでしょ?」

「まぁ、そうだな」


妖怪は、わたしの言葉を肯定した。

妖怪に土を掛けたわたしは当然として、蓮子も殺す対象に入っているらしい。


「だからさ、さっきあんたが言おうとした内容を一寸狂わずに話せたら、わたし達を見逃してよ」

「駄目だ。俺に屈辱を味会わせたお前を生きては返すつもりは無いし、この女だって俺が殺す」

「……うへぇ、なら、数十秒逃げる時間をちょうだい。ね、それなら良いでしょ? あんただって一人では何にもできない子供じゃあるまいし、まさか、これだけ譲渡して断るなんてことは……?」


わたしの言い分を聞いて、妖怪は腕を組んで考え出した。その様子は、端から見れば人間にしか見えない。


これほど人間に似通った容姿なのも珍しいけれど、しかし別に妖怪が人間に乗り移ったという、ただ、それだけのことなんだから、そんなに気にするほど珍しくも無いのかもしれない。


「……分かった。お前の言葉を認めよう」

「やった! ね、蓮子もそれで良いでしょ?」


わたしはぴょんぴょん跳ねて喜びながら、蓮子にもそれで構わないか訊くと、蓮子は何が起こっているのか分からないと言うような呆けた表情で、それでも「は、はい」と頷いてくれた。


「だが、たとえ一寸でも狂いが見えたのなら……」

「分かってるわよ。その時は、潔くあんたの腹に収まることにする」


よし、じゃあ話しますか。

この一連の騒動は、男の語り、信太郎の気配、亡霊の四郎、そしてこの妖怪が、全て分かりやすく繋がっている。

推理なんて、そう格好付けたもんじゃない。

わたしでなくとも、気づける奴は簡単に気づける筈だ。たとえ、わたしよりも材料が少なくても、ね。


「蓮子、あんたにも繋がってるんだから、耳糞かっぽじって良く聞きなさい。――どうして四郎は殺されたのか」



十。



「蓮子も知ってるだろうけれど、信太郎は蓮子に恋慕の情を抱いていた。けれど、その想いは呆気なくご破算してしまう。恋した対象を、四郎という男に颯爽と掻っ攫ってしまったから」


同情するかのような声音で語ったが、実はわたしは信太郎にそれほど同情の念を抱いてはいない。

知ったような口を効くけど、恋愛なんてそんなもん。


好きになる相手は選べない。

いつだって、暴力的に説明の着かない衝動が襲い掛かってくるのだ。そのくせ、その果ての恋愛が必ずしも成就するとは限らないのだから、恋愛とは理不尽と言う他無い。相手にとっても、自分にとっても。


「想いが狂い出したのは、多分その頃なんじゃないかと思う。好きになった相手は、自分ではない誰かの物になってしまった。だけど、その想いを消すことは叶わなくて、いつまで経っても、未練がましくその人のことを思ってしまうから」


男ってのは未練がましいと聞くけどね。

ここまで未練ったらしい男も、中々いないと思う。わたしは、少なくとも、好みじゃない。


「やがて恋は嫉妬へと、愛は憎悪へと醜く変貌してしまう。……そして、その感情に目を付けた、一体の妖怪がいた」


そして、わたしは目の前の妖怪に指を指した。

するとこの妖怪は、早く続きを言えと催促するように、顎をしゃくった。いらつく仕草だ。


「妖怪は、信太郎に力を貸した。さっきの鋼のような耐久力と、人間を容易く撲殺できるくらいの、馬鹿げた剛力。信太郎はその二つの力を以て、四郎を原型が分からなくなるくらいに……殴り殺した」

「……ッ!」


四郎の死について言及すると、蓮子は声にならない悲鳴を上げた。


その時、蓮子が抱いた感情は、一体如何ほどのことだろうか?


怒り、悲しみ、憎しみ。

全部が正しいように思えるし、混ざり合っているかのように感じる。はたまた、それ以外の感情を抱いているのかもしれない。

どんな感情であろうと構いやしないけど、今その感情に掛かり切りになられると、ちょっと困る。


「あんたが、信太郎の体を乗っ取れたのは、多分何らかの約束事をしたからでしょうね。四郎を殺す力を与える代わりに、蓮子を振り向かせなければ、信太郎の身体を貰い受ける、みたいな」


付け加えると、本来であれば、この妖怪はそれほど強くない。

人の醜くもありふれた感情を糧にするこの妖怪が、ここまで強くなるには、よっぽど人の醜い感情を育てる術を心得ているのか、それとも、妖怪を常識を超えた強化をするくらいの感情を、信太郎は抱えていたのか、そのどちらかが必要になる。

はたまた、両方か。


「結論を言うと、信太郎はまだ生きている。信太郎は遠方から、まるで傀儡師の人形のように操り続けているだけ。けれど、その“糸”を断ち切る術を持つ者は、とても少ない。最低でも、一介の歩き巫女が持てるような力じゃない」

「正解だ!」


妖怪は歓喜の叫び声を上げ、ばちばちと、感激する劇を見たかのように絶え間無く手を叩いている。


しかし、その剛力のせいで拍手の音は、喧々たる騒音となり、妖怪の禍々しい妖気に怯えながらも、しかし、逃げなかった数少ない勇気ある動物すら逃げてしまった。


「お前は、俺の言いたいことを、一字一句何も違えずに、言い切った。まさか、ここまで正確に状況を理解できるとは思わなかった。流石に少し驚いている」

「なら、わたし達を」

「そうだな、うーん……」


妖怪は悩むように、手を組んだ。けど、それは少しだけのことで、妖怪はまるで予定調和の如く言った。


「駄目だ。やはり待てない、すぐ殺す」

「なッ⁉️」


蓮子は驚きの声を上げたけど、わたしは納得した。

まぁ、ですよねって感じ。うん、分かってた。この妖怪の性根が、腐り切っていることぐらい、分かりきっていた。

むしろ、ここで約束を守ろうとする方が、よっぽど警戒する。善意の行動を、妖怪が取るわけが無いからだ。


「ふーん、すぐ殺すの?」

「あぁ、殺す」

「ふーん、どうやって?」


だから、わたしは、平時と何一つ変わらない平坦な声音で訊いた。


「はぁ? どうやってって……どうやってって……」


妖怪は何を言っているんだこいつ、と呆れた表情になりながら体を動かそうとするが、しかし、その体は動かなかった。

いや、動けない訳じゃない。しっかりと、動いている。その動きの速さが、まるで蝸牛に近かったことを除けば。


「お前! 俺に何をした⁉️」

「影縫いよ」


妖怪の深夜の森に響き渡る怒りの咆哮に、わたしは涼やかな声で以て答えた。

影縫いってのは、呪いの一つだ。

物体と影は、相互的関係にある。

物体が動けば、影は動く。

ならば、その逆は無いと何で決めつける?

影が動けば、物体も動く。影が止まれば、物体も止まる。影縫いの術とは、その理論を応用したものだ。


『止まりなさい!』


そう叫んで、妖怪に向かって投げた一本の針。

その針は、妖怪の肌に突き刺さることなく、逆に弾き飛ばされたその針は、しっかりとわたしが狙った通り、影のある地面に突き刺さった。


「……まっ、あんたが知ることじゃないけどね」

「何わけの分からないことを言っている! 早くこれを外せ!」

「嫌だけど。だって外したらあんた、わたしを殺すでしょ?」


そう確信に満ちた事実を訊くと、妖怪は更に怒って、狂ったように叫び出した。まったく、煩らわしくて仕方が無い。


ていうか、今もひやひやして……超怖い。


はっきり言おう……今回のは賭けだった。

影縫いの術は強力な術だ。

しかし、この術は格上には通じず、格下相手にしか使えない。よって、何らかの呪いと併用しなければならないのである。


そして、今回わたしが使用した呪いは、本当に呪いだ。

相手を貶める為に使う、邪悪な呪術。

その効果は、相手の呪いの耐性を徐々に下げるというもの。

まぁ、今回は相手に気づかれぬように、本当に微々たる力しか下げられなかったけども。

しかし、塵も積もれば山となる、だ。

わたしはこの呪いを空間に付与して、少しずつ、本当に少しずつ妖怪の呪いへの耐性を下げていったのだ。


呪いの耐性が下がり、影縫いの術が妖怪に掛かるのか、それとも、わたしの首を握り潰されるのか、どちらが先か?


はっきり言って、分が悪い賭けだった。

時間を稼げなければ終わり、呪いに気づかれたら終わり、相手はいつでも簡単にわたしを殺せる。

勝率は、然程高いものではなかっただろう。

しかし、わたしは賭けに勝った。

勝った上で、この地に立っている。


わたしは、妖怪を見下すように見上げている。本当は見下したかったんだけど、身長が足りなかった。


「……ま、待て! 俺を殺すのか! 俺を殺しても信太郎が死ぬだけだ! それに、俺自身は死なないんだぞ!」


妖怪にとっても、この体は惜しいんだろう。

必死に命乞い(なのか、それ?)をしてくるが、わたしはそれを無視し、声を張り上げた。


「蓮子! お前はこの男を、信太郎を助けたいか!」


問い掛けるように叫んだわたしの言葉は、闇夜を切り裂くように深夜の森林に響き渡る。


「……ッ!」


後ろに視線を向けると、蓮子は顔を強張らせていた。


……まぁ、酷な質問をしたと思っている。


しかし、わたしにはどっちでも良いのだ。


あの男はもう妖怪に変質しているが、完全に変質しきっている訳じゃない。

その人の考え方によって、退治すべき妖怪にも、救うべき人間にも見えるかもしれない。

けれど、妖怪として退治するのも、人間として救うのも、わたしにとってはどっちでも良いことだから。

だから、選択肢は蓮子に委ねよう。


「……わ、私は……」


青ざめた表情、震えるような声音、焦点の定まらない瞳。

想い人を殺めた人を救うのか、それとも殺すのか、わたしが委ねた非情で究極な決断。

どちらを選んでも、彼女は後悔するかもしれない。


だけど、これは彼女がするべき決断だと思った。


お節介で、有り難迷惑かもしれない。

けれど、最後まで当事者である筈なのに部外者で終わるより、辛くても当事者として最後の決断をしないと、新しい一歩を歩めないと、そう思った。


選択しないのなら、それも良い。

それも立派な選択だとわたしは思う。

まぁ、その場合は、わたしは信太郎を殺すけど。


「……わ、たしは……」


斯くして、蓮子は決断する。


「……彼を……信太郎君を、救ってあげてください……」


そうして、蓮子は律儀にも頭を下げる。

表情は隠され、彼女の内側で今も蠢いているであろう感情を伺い知ることはできない。

だけど、けれど――


「――りょーかい、わたしは、あんたの選択を、心の底から尊敬する」


――綺麗だと、そう思った。


わたしは蓮子に背中を向けて、視線を妖怪の方へと向ける。妖怪は今も、足掻くように力を込めている。


「無駄よ。力んだところで解けるような術じゃない」

「……お前は、お前に男を助ける術はあるのか! この男を救うだと? はっ、思い上がりも甚だしい! 一介の巫女にこの男を救えるものか‼️ そもそも、この男の何処に救われる要素がある? 嫉妬のあまりに想い人の男を殺した外道だぞ!」

「救う?」


わたしは嘲笑うように言った。


「はっ、簡単に救ってやるかっての」


嘲嗤う。

信太郎は生きて、そしてこれから苦しんでいくんだから。だから、これは決して単調な救いじゃない。


わたしは嘲笑って、嘲嗤ってから、体の内に眠る人の根元的な力――霊力を二つの眼に注ぐ。


いつだって、目を開けなくても、わたし達には世界の本質は見えている。ただ、それを認識できるだけの素質が無いだけ、見ようとする力が無いだけ。

けれど、わたしの眼にはその力がある。

ゆっくりと、眼を開いた。


その瞬間――世界は糸に覆われた。



「――袖振り合うのも多少の縁とは言うけれど、わたし達は毎日何らかのものに縁を繋げて生きている。食事をすれば食物に縁が宿り、人と会えばその縁を繋ぎ、大地を歩けば、踏み締めた大地とも縁が結ばれる」

「……何を、言って……」



“縁”とはいわば世界の表層で、世界の本質。

誰も見ようとはしないけど、わたしだけは、わたしの眼だけは、問答無用に見えてしまう。


「理解は、できないでしょうね。わたしだけが見えて、わたしだけが視えてしまうものだから」

「……だから、何を言っているんだ、お前は……?」


極論、人間の肉体だって縁の集合体だ。

縁は内蔵を繋げ、骨と骨とを繋ぎ止め、肉を紡ぐ。

魂と肉体は切っても切れない縁が存在するし、そもそもわたし達は、世界そのものと繋がっている。

故に、この眼を開いている時のわたしには、この世界の全ては『縁』という名の糸に見える。


木々も妖怪も、蓮子だって、ただの糸の集合体にしか見えなくなるし、今も踏み締めてる大地が、ただ糸を編んだものだと思うと、わたしは今ちゃんと立てているのかすら、気が狂いそうなくらい不安になる。

空だけ、空だけが、わたしに安心を与えてくれる。


「世界ってのは、こんなにもあやふや。まるで、わたし達が生きている世界は、ただの幻みたい」

「……お前、その眼……!」


そんな感じで、この眼は、おおよそ日常生活には不便になるしか無い、わたしには過ぎた代物だけど、こういう時は――とても、便利だ。


必要の無い梓弓は、何処ぞに適当に放り出した。

これじゃあ、切れないから。

切る為に、わたしは髪を纏めていた簪を、勢い良く引き抜く。


――ばさぁっ、と黒髪が簪から解放されたかのように舞い上がったが、重力に従うようにすぐに落ちていき、強く首もとを打つ。

しかしわたしは、そんなこと意にも介さず、髪から引き抜かれた簪を、右手に持ち直した。


たかが、簪。

されど、簪。

人ではなく、ただ縁を切るだけなんだから、物騒な刃物は必要無い、装飾品だけで、事足りる。


わたしはその意を込め、ゆっくりと歩きながら、ぶらぶら簪を振り回し、睨み付けるように問いかける。


「わたしの眼は、世界の全ての縁が見えるんだけどさ、見えるんなら、触れられるのはむしろ当然の事でしょ? さーて、お前と信太郎の『縁』はどれかなぁ?」

「ま、待て!」

「いいや、待たない!」


息吐く暇も無い。わたしは体型から分かる、おそらく妖怪であろう糸の集合体に向かって、駆け出した。

元々距離はそんなに遠くなく、一瞬で妖怪の懐に潜り込んだわたしは、妖怪と信太郎の『縁』を視認する。


そして――


「解脱術――縁切り」


妖怪と信太郎との縁を――切った。


わたしの刃は、男の体に潜り込んだが、血は出さず、肉体も傷つけず、ただわたしの望むがままに糸を切断する。


どさり、と男は自重で倒れた。


男、信太郎と妖怪の縁は断ち切られ、妖怪は二度とこれと似た干渉を信太郎にすることはできず、それは愚か、これから信太郎という男を認識することもできなくなる。


それは、逆も然りだ。


「助けたよ」


平淡な声で、そう告げた。


「……あ、ありがとう、ございます?」


その返答がどこか呆けていたのは、当然だ。

蓮子の視点では、何が何だか分からずに終わってしまった、みたいな感想が一番似合うのだから。

しかし、疑問気味なのは頷けない。

……ちゃんと、助けたのに……。


まぁ、この際、そんなことはどうでも良い。

何が何だか分からずに終わってしまっても、これは蓮子が選択して訪れた結末だ。

一人を助けたのは、わたしではなく、蓮子の意思だ。


なら、ちょっとくらい贈り物があっても構わないでしょ? これは、人を救った蓮子への、正統な報酬なんだから。


「ねぇ、蓮子」

「は、はい、なんですか?」

「約束ってのは、満月の綺麗な月が映える湖だったっけ?」

「……はい、そうですよ」


さっきまでは、ぼけた老人のように反応が遅れていたのに、四郎と約束について語りかけると、急に反応が正常に戻っていった。

それほど彼は、蓮子にとって愛する人なんだろうか?

だとしたら、ちょっとだけ、羨ましい。


「なら、早く行きなさいよ。今夜は、絶好のお月様よ」


けれど、その想いをわたしは飲み込んだ。

少なくても、今のわたしには必要無い。

必要なのは、背後にいる彼女だから。


「――四郎が、約束の湖で待っている」



十一。



走った。走り続けた。

どんな障害も怪我も気に負わず、ただひたすらに走り続けていた。

しかし、女の身でしかもその中でもいっそう華奢な女には、その道程は過酷という言葉では足りず、もはや息切れや疲労で走ることは不可能な状態になっていた。


それでも、女は走った。走っていた。

肩が痛かった、いっそ両腕を斬って欲しかった。

足が重かった、いっそ取り替えて欲しかった。

心の臓が痛かった、いっそ潰れてしまえば良かった。

今だけは、女の身が酷く恨めしかった。

良く色んな人に、自分の色んなところを褒め讃えてくれたが、その色んなところが全部、肝心な時に役に立たない……ッ!


だけど、そんな文句に意味はない。

そんなことを考える余裕もない。

ただ走る。

走れ、死ぬまで走れ、走り続けろ。

矢のように速く、風のように自由に、狼のように俊敏に。

死んでも走り続けろ!



男は待つ。ただ待ち続ける。

どんな制約にも縛られない。

今だけは、生死の垣根すら男は超えている。


それでも、男はただ無言で待っている。

時間が、とても緩やかで長かった。

一秒一秒が、とても遠々しい。

こんなにも何かを待ち焦がれたのは、初めてのことだった。

一秒が一分に、一分が一時間に、一時間が一日に。一日が一年にさえ感じる。

男は待ち初めて、まだそれほど時間も経っていない筈なのに、もう何十年も待っているような気分だった。


だけど、悪くない。

待てば良い。

待てば、必ず己の愛した女はやって来る。

そう思えば、この待ち時間は何の苦にもなりはしない。

男は巫女の手を借りてあの長い迷路から、やっと抜け出した。

だから、男は待てる。

――女が走り、男が待つ。

いつもとは逆転した配役に、苦笑いしながら。



山の麓の村、そこから下に下へと下り続け、真っ直ぐに走り続けると、其処にはとある綺麗な湖がある。


――暗闇に射す一条の光。


まん丸いお月様は、雲からひょっこりと顔を出し、その綺麗な湖に穏やかな月の光を注いでいた。

湖は月の光を浴びて明々と光り輝き、まるで神々と精霊が共に踊っているかのように美しく――どんな人間もきっと、何時までも見惚れることだろう。


そんな湖の巨樹の下で男が待ち、女が走る。


「……はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」


息が追い付かなかった。

心臓が胸を喰い破らんとばかりに暴れまわり、もっと呼吸をさせろと要求してくるが、しかし自分の肉体がその要求に追い付くことができない。


息が苦しい、煩わしい。

今、自分が何処に立っているのかも判断がつかない。

あと、どれほど走れば良い?

あと、どれくらいで辿り着く?

……分からない。

分からないけど、走らないと、走って会わないと。

会いたいのだ、会って少しでも話をしたいのだ。


だから、女は肉体に“走れ”と命令する。

走り続けろと、指示をする。

けれど、もはや女の肉体はそんな簡単な命令にすら、応えることができなかった。


女の身体は、とっくの昔に限界を超えていた。

超えて、超え続け、限界という概念すら突破し、女はここまで走り続けていた。

けれど、もう走れない。

足が、“走る”という機能を失ってしまったようだ。


「……ぁ」


女の足がその力を全て、一欠片すらも失い、女は地面に倒れ込みそうになり――そして優しく抱きとめられた。


「……こんなに、死にそうになるまで走り続けるなんて――君は、本当に可愛いなぁ」


……誰?

いや、そんなの訊くまでもない。

声を聞いた瞬間ではない、抱きとめられた瞬間に気づいた。

本能で、感情があの人だと、叫んでいた。

顔を上げる。

すると、そこには優しく笑みを浮かべた四郎の姿が、あった。


しかしその瞬間、そんな四郎の顔が水面で波紋が揺れるように、ぼやけて見えなくなってしまった。

どうして?

涙だ。

前さえろくに見えないくらい、涙が溢れていた。


「……ぁ、あぁ、会いたか、った……ッ!」

「うん、僕も会いたかった」


噛み締めるような響きで、四郎は答えた。


「ずっと、ずっと待ってて……! もう会えないかもって、もう湖を一緒に見れないかもって思うと怖くて! とても怖くて……!」


ずっと、隠してた。隠し続けていた。

巫女にも、信太郎にも、家族にも、村の人達にも、信頼できる全ての人達に、弱音を吐くことを決してしなかった。

もしそれをしてしまうと、約束が訪れないと認めてしまうことになる気がして、この三年間ずっと弱音を吐くことができなかった。


だけど。


……あぁ、駄目だ。

我慢なんて……できそうにない。

よしんばできたとしても、すぐに決壊してしまう。

流れ落ちる滝のように、透明色の熱い液体が何度も地面を打つ。

そして、そこにいる、そこにいるんだと、ギュッと着物を握り締めて、四郎の存在を確認する、確認し続ける。


四郎は、微笑んだ。

共にいられる時間は、決して長くない。

これは、言うならば泡沫の夢。

巫女が起こしてくれた、一夜の奇跡。

この一夜が終われば、自分は黄泉へと帰るだろう。

だから、伝えよう。

自分の想いを全て、正直に。

正真正銘、これが最後の機会。

最初の一言は、実に大切だ。時間は一夜しか残されていないのだから、大切に使わないと。

特に、口に含んだ霊力玉が原因で舌を噛むなんて、そんな滑稽なことは絶対にしたくは無い。


さて、何と言おう?

悩んでは思いつき、そして違うと切り捨てて、ふと電撃的に思い浮かんだ言葉が、そのまま口から零れ落ちた。



「――約束を、守れて良かった」



十三。



これは、後日談のちょっと前のお話。


「(……何だあれは! 何だあれは何だあれは何だあれは何だあれは何だあれは何だあれは何だあれは――ッ⁉️)」


――何だあれは⁉️


妖怪の心境は、それ一色に染まっていた、

即ち、未知への恐怖。

理解できないものへの、拒絶の感情。


「(何だあれは⁉️)」


あの時の、自身を見る巫女の瞳。


巫女の瞳は、恐気が走るほどに美しい緑に染まっていた。この世のどんな宝石だって、彼女の瞳に比べれば小石の価値にすら劣る塵となってしまうであろうほどに、美しくおぞましい緑の瞳。

それだけなら、まぁ良い。

いや、それだけなら、どれほどましだったことか。


あの時の、自身を見る巫女の緑の瞳。


「(……何も、見ていなかった……!)」


妖怪を映しているようで、何も映していなかった。

そもそも、あの巫女にとって妖怪という認識すら無かった。

石ころだったなら、どれほどましだったか。

草木なら、どれだけ安心できたことか。

だけど、違ったのだ。

あの時の巫女の瞳は――


「――よっ」


突如、現実に引き戻された。

妖怪を現実に引き戻したのは、未だ年若い少女の声。

そして、その声の持ち主は、紅と白の特徴的な服を身に纏った、恐気が走るほどに美しい緑の瞳を持った――


「――ひっ、ひぃいいいいい‼️」

「あらら、どうしちゃったよ。さっきはあんなに自信満々だったのに、こんなに弱気になっちゃってさぁ」


巫女は、そう呆れた声を上げた。

しかし今、この妖怪に自身を取り繕う余裕は無い。


「ど、どうして! お、お前、が、こ、ここに!」


恐怖に震えた彼の舌は縺れに縺れ、まるで鶏のように何度も同じ言葉を繰り返してしまう。

何を言っているのか分からなくなるほどに、妖怪の言葉はろれつが回らなくなっていたが、それでも巫女にはちゃんと意味が伝わっていた。


「えぇー、分からないんだ。まっ、仕方ないから教えてあげると、ほら、わたしとあんたは間接的だけど、遭ったでしょ、一応。その時に、繋がっちゃったんだよね――縁が」


そう言って、巫女は笑って。


「……は、はぁ、はっ!」


「まぁ、つまり、あんたはどう足掻いても――わたしからは逃げられない」


おぞましき緑の瞳を輝かせながら、酷薄に笑った。


「……あ、ぁ、あァあアアあああアアアアあああアァ‼️」


狂ったように叫び出した、妖怪。

しかし巫女は、そんな妖怪は気にも留めず、勝手にお喋りを続ける。


「取りあえず、多くの人も望んでいることだろうし、あんたのねたばらしを始めることにする」


まるで、見ていないかのように、巫女は妖怪を無視し続ける。


「あんたの正体は、妬鬼。人の感情――嫉妬心を糧とする精神生命体。本来、あんたという妖怪は肉体を持てない筈なんだけど、人に取り憑くという外法を以て、その障害を乗り越えたという訳ね。正直、肉体を持とうとした妬鬼というのは、ちょっと特殊すぎて、しばらくどんな妖怪なのか分からなかったわ」


けど、これではっきりした、と巫女は凄惨に笑った。

妬鬼とは精神生命体、形無き者。

故に、通常の人間はおろか、腕の良い歩き巫女ですら、その姿を視認することは叶わないが、しかしこの巫女だけは例外。


姿形は無くとも、縁は有る。

巫女はただ、今も妬鬼を形作る縁を見ているだけ。

故に真実として、妬鬼を見ることは、決して無い。


「さて、すっきりしたし、そろそろ滅ぼすことにしますか」

「(……辞めろ)」


妖怪――改めて、妬鬼は懇願した。

この世に生を受けて初めて、心の底から懇願した。

妖怪と敵対する数多の神仏にすら、真摯なお祈りを捧げた。


「――解脱術」

「(……辞めてくれ)」


けれど、その懇願は決して届かない。

その懇願が叶うには、嫉鬼はあまりにも多くの無辜の民を傷つけてきたし、何よりこの巫女はあまりにも無慈悲であるから。

しかし、これこそが因果応報。

妬鬼にとってお似合いの結末だろう。


「(……その眼で見ることを――辞めてくれェエエエエエエエ‼️)」

「――縁切り」


あの時の巫女の瞳は本当に何も何者も映しておらず――まさしく虚無だった。



十二。



これが、真の後日談。

まだ、日は越えてないけれど。

けれど……


「……ぐおぉ、頭がちょー痛い……」


わたしは左手で頭部を抑えながら、夜明けに昇る太陽を背に、野原を引きずり歩いていた。


いや、ほんとに頭が痛い。ちょー痛い。

例えるなら、許容範囲ぶち抜けるくらい浴びるように酒を飲んだ後日の、二日酔いで、とんかちで頭を何度もぶん殴られる時のような痛み――を数百倍に増加させたような痛み。


つまり、ものすっごい痛い!

そして、熱い!

へそじゃなくて、頭で茶を沸かせられるくらいに……いや、これ以上熱が上がったら死ぬんじゃないの? てくらいには頭が熱い!


「……あー、やりすぎたー」


妖怪を追いかけるのに、“眼”使いすぎた。

それが、この頭痛の原因だ。


何故なら、わたしの眼は、ほんっとに融通が効かない……!


具体的に説明すると、“見る”と“見ない”の切り替えができなくて、昔、我慢の限界で二つの眼を抉り取ったら、逆に見えすぎて発狂しそうになったくらいには、融通が効かない。


あの景色は眼で見るものじゃなくて、脳で、心の眼で見るようなものだったから、眼は逆に制御弁にも似た役割だったのだとは、後から知った。

そんな制御弁を無理やり引っこ抜いてしまったんだから、まぁ大変。

正直、死んでもおかしくなかったくらいだ。


え、その後どうしたのって?


決まってんでしょ。


代わりに制御の効く眼を知り合いに作って貰って、それを両方の眼窩に押し込んだのよ。

今生きてるのが、その証拠。

それくらいしないと、脳が焼き切れて死んでしまっていただろうってのが、知り合いの判断。


まっ、今は生きて、曲がりなりにもこの“眼”を有効活用できてんだから、儲けものよねー。


とこんな感じで自分を慰めながら歩いてから、ようやくわたしは目的地に辿り着いた。


「……ッ」


太陽の眩しさに、思わず目を細めてしまう。

それから、狐のように細めた目を徐々に開いていくと、美しい景色が少しずつ目に入ってきた。


その美しい景色とは、綺麗な湖のことだった。


眩い太陽の光をきらきらと反射させ、己自身も輝かせることで、湖に光を化粧道具みたく施している。

そんな湖の裾で悠然と構える大樹。

それは、平静であれば、ここに在るべきでは無い不純物のように見えてしまうかもしれない。

けれどわたしは、この大樹があってこそ、湖と大樹は一つの絵画になるんじゃないかって、そんな詩的みたいな感想を覚えてしまう。


そして、そんな湖には、一人佇む美しい女がいた。

いや、佇むじゃ間違ってる。

だって、その女は揺らぎなく構える大樹に腰を据え、まぶたを閉じて――死んだように眠っていたから。


女――蓮子の横には四郎が見えない。

そのことから四郎は、満足して黄泉国にでも行ったんじゃないかと推測できる。


だけど、何でなんだろう……?


蓮子の傍ら、地面に甲が触れた蓮子の左手、そこには四郎が蓮子と同じように腰を下ろして、蓮子の左手に自分の右手を重ね合わせているような――そんな幻覚が見えてしまう。


ちゃんと“眼”で見て、そこには蓮子以外は誰もいないと分かっているのに、どうしても四郎が、蓮子と一緒に眠りこける姿が、目に浮かぶ。


こういうの……何て言えば良いんだっけ?


愛の力は無限大だとか、こんなのただの幻覚だとか、綺麗とか美しいとか悲しいとか、そんかありきたりで陣腐な言葉ばっかり想い浮かんできて、肝心なこの心の動きを表す言葉が、さっぱり浮かんできやしない。


想い浮かんだとしても、言葉にすれば、この想いが穢されてしまうような気がして、どうも口に出せない。


「……あ~、辞め! もう考えるの辞め!」


こんなの、わたしらしく無い!


しみったれた考えを、無理やり頭の中から追い出した。

そして、ずんずんと蓮子の元へと歩いて向かう。

気がつけば、眠りこける四郎の姿も消えて、蓮子の姿しか見えなくなっていた。


そうして、蓮子のすぐ傍にまで近づいたわたしはしゃがみ込み、蓮子の血色の良い頬をぺちぺち叩く。


「起きなさ~い」


耳元には、何ともやる気の無い掛け声が。

それでも一応の効果はあったのか、蓮子一度小さく身震いして、そしてゆっくりとそのまぶたを開いてった。


「……神楽、さま?」

「そうよ、あなたの可愛い可愛い神楽さまがやって来たわよ」


眠気眼で問い掛けられた疑問の声に、わたしはちょっとしたお茶目を込めて、正解だと答えを返した。


そのとろんとした瞳と、ゆめうつつのような態度は、同性のわたしでさえちょっとだけ、ときめかせる。


だって、ゆめうつつでも、この世の幸せ全てを噛み締めたかのような彼女の雰囲気は、まるで自分の幸せでもお裾分けでもするのかと、勘繰りたくなるほどに魅力的だったから。


「……良い夢は、見れた?」


つい尋ねた疑問の言葉。その言葉を聞いた蓮子は、はにかむように笑って答える。


「はい、もう一度見たいくらい……幸せな夢でした」

「……ふーん」


……なら、良いや。

たとえ、もう会えなくなっても、当人同士が幸せだって満足しているなら、部外者たるわたしに口に出せることは無い。精々、ちゃんと霊力玉を使ったんだってそれくらいだ。


あ、そうそう。

本題について話さなくちゃ。


「水を指すようで気が引けるんだけど、今も森の広場でぐうすか呑気に寝てる信太郎を、あんたはどうするつもりなのか、訊いても良い?」


なお、今もぐうすか呑気に寝てる信太郎は、思いの外安全である。

動物達は、あの妖怪の禍々しい妖気に怖がって、広場には当分寄り付かなくなってるからだ。

少なくとも、一日や二日でどうにかなるもんじゃないから、今のところは信太郎は安全だ。


それから信太郎がどうなるのかは、知らない。罰を受けるのか、惚けるのか、殺されるのか。

正直、あたしにとっちゃどうでも良いことなんだけど、気になる人もいるだろうし、ここは決意表明ってことで一つ。


「……今は、分かりません。けれど、彼に罪を償おうとする善性があるのなら、一生を懸けて彼の死に贖って貰えれば、とそう夢想しています」

「…………」


……い、意外と厳しい……

いや、実際はそれほどのものを懸けても、人の死に贖うことなんてできないかもしれない。

だけど……あの状況で「助けてあげて」と言える甘ちゃんでも、しっかりと罰を下すことはできるのだと、改めて認識させられた。


まぁ、けど、それなら安心できる。

彼女なら、憎しみで瞳を曇らすことはしないだろう。

だから、信太郎に罪を償おうとする気概があるのなら、蓮子は赦すことはしないかもしれない……けれど、時間を掛けて受け入れてくれるのかもしれない。


それが、どんな関係になるのかは、神様ならぬわたしでは皆目見当も付かないけどね。


うん、妖怪もちゃんと退治できたし、信太郎の今後について蓮子に訊くこともできた。

心残りはもう無い。

いや、実際はそこそこの心残りはあるような気がしないでも無いけれど……無いったら無いのだ、うん。


「じゃ、わたしはもう行くわ」


畳んだ足を伸ばして、わたしは立ち上がった。すると、下から蓮子は上目遣いに訊いてくる。


「行くって……何処にですか?」

「うん? 旅だけど?」

「もうお行きになるのですか?」

「うん、行く」


絶対に退かないと、決意を込めて頷く。

決死の覚悟だ。正直、妖怪を倒す時よりも強い決意を滲ませている。それくらいの、強い覚悟だ。


それほど、わたしはこの村から離れたい。


確かに、この村では良い出会いがあった。

蓮子も四郎も……おっさんと村長は知らんけど、けど良い出会いをしたと思っている。

平時ならば、それは良き関係も期待できた。


――そう、平時ならなぁ!


旅の資金を稼ぐ為にと、苦渋の決断っぽい感じで、村を黙くらかそうと訪れたのに、何故か(自業自得で)間接的な加害者となっていた!


そして。

憎悪をぶつけられる方が、そりゃむかつきはするけど、まだ気は楽になるってのに、何故かここの村は良い奴ばっかりで、どいつもこいつもわたしの腹に恨みでもあんのかと……罪悪感で腹がががぁ!


特に蓮子は聖人も斯くやって漢字に良い人すぎて、わたしが生きているのが申し訳なくなるくらい。

そろそろ、胃薬も無くなりそう。


こんな村にいられるか、わたしは帰るぞ!

もうおさらばだぁ!


「……寂しくなりますね」


蓮子は、そう悲しげに俯いた。


……あのね、その善人の好意的な態度が、世にいる悪人になりきれない小悪党どもに罪悪感を抱かせ、結果的に何故か自分を犠牲に死地に赴くきっかけになるの。


分かったなら、悪人には。

小石をぶつける。

罵倒を浴びせる。

関わらない。

はい、これ三つの鉄則!


……いや、わたしは悪党じゃないわよ? まして小悪党なんて馬鹿にするのも大概にしてよって話である。


取りあえず、ここで返事をしないのは躊躇っちゃうし、一応の返事は返しておこう。


「また、会えるわよ」


そんな無責任な言葉にも、落ち込み気味だった蓮子の機嫌は急上昇し、その瞳を輝かせた。


「そうですよね、また会えますよね」

「会える会える、ちょー会える。むしろ会いすぎて飽きるくらい」

「はい! 飽きるくらい会いましょうね!」

「…………」


……しまった! 墓穴を掘ったか……!


まっ、どうせ口約束なんだし、ことさら守ろうとしなくても良っか。

うん、これ以上墓穴を掘らない為にも、そろそろ行きますかね、無言で。

食糧は雀の涙ほどしか無いし、お金も何も無い一文無しだけど、それでも生きてりゃ何とかなる。


「またー! また会いましょうねー! 絶対ですから

ねー!」


後ろから、蓮子の大声が耳に入ってくる。返事をしないのも気が引けたので、振り返らずに適当に腕を振る。


やがて、その声は蓮子の姿が豆粒に見えるくらいに、声が聞こえなくなるくらいに続いた。

もしかしたら、その声が聞こえなくなっても、ずっと蓮子は声を張り続けてるのかとしれない。


「……気が向けば、ね」


気が向けば、また会いに行くのかもしれない。

女の移りゆく心は、秋の天気の晴れ模様。

わたしの移り気は、つむじ風にすら勝る。

当のわたしにだって、わたしの心は分からない。

会いに行くかもしれないし、会いに行かないかもしれない。

蓮子には悪いけど、そう思うだけでわたしは十分あの女に絆されているということを、知っておいて欲しい。



太陽が天高く昇ろうと、恵みの光を大地に降り注ぐ。

草原を揺らす風は何処までも自由で心地良く、踏み締める大地はとても頼もしい。


暖かな太陽が昇り始める黎明の下で、わたしは黙々と、されど機嫌良く歩いていた。



――わたしの旅は、まだまだ終わらない。


 

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