36−横取り
いよいよ出発の朝がやって来た。今日が新たな旅立ちの日でもあり、亜美の卒業式でもある。
しばらく故郷京都ともお別れになる。夏休みにこちらに戻ってくるが、長期間離れるのは初めての
ことになる。亜美は窓から京の町並みを覗き込みながら、お別れをしていた。
「まだ来ていないね、尚人。あれだけ来るように言ったのに」
ヒデが心配そうに言う。だけど亜美はこういうことも覚悟していた。失望などはなかった。
「大切な用事でもあるんじゃない、きっと。時間もないし、そろそろ行こうか」
スーツケースを持って、予約しておいたタクシーに乗り込む。同乗者にはヒデのほかに、亜美の
父である正芳もいた。
「出発していいんだな?」
「うん」
亜美の一声で、タクシーは一路関西国際空港へ向かって、走り始めた。タクシーはしばらく市内
の国道を走っていたが、すぐに高速道路に入った。
乗車中ヒデは何か話した気であったが、言葉を発しようとして喉元でグッとこらえている感じだ
った。亜美は尋ねてみようとも思ったが、空気がさらに重くなることを恐れて話し掛けなかった。
「何だよ、水くさいな。しばらく会えなくなるんだぜ。何か二人で話しておきたいことはないのか?」
見かねた正芳が二人に尋ねた。ヒデと亜美はお互い顔を合わせて苦笑いしたが、結局話すことは
しなかった。重い沈黙のまま、タクシーは高速を海沿いに走り続けた。
関西国際空港に降り立った亜美。中では重いスーツケースを持った外国人や、これから海外に出
掛ける日本人の姿で活気があった。空港は出発の場でもあり、ある人にとっては別れの場でもある。
今ヒデは何を考えているのだろう。亜美は尋ねてみた。
「今、胸に去来するものは何?」
「僕にインタビューするの?残酷なことするな、全くもう。今は亜美に向こうで頑張って来てほしい
と思うだけだよ」
「本当に?」
「本当だよ。この言葉に嘘偽りはない」
「ありがとう、ヒデ。私のわがままを聞き入れてくれて」
二人は抱擁する。亜美の中で湧き上がっていたヒデに対するモヤモヤ感。出発する前に答えを見
出したかったが、結局見つからなかった。これは次回の帰国までの課題だ。
出発までにはしばらく時間があった。二人は話をしようと、近くのフードコートに移動した。空
港内はさすがに広い。空港内の案内図で確認しながら、目的の場所まで移動するのは大変だった。
とんとん。とんとん。
とんとん。とんとん。
肩を叩く音。亜美は後ろを振り返った。そこには何と来る予定のなかった尚人が立っていた。驚き
の表情の亜美。薄ら笑いのヒデ。表情は対照的だった。
「どうしたの、急に。今日は来ないんじゃなかったの?」
「今日は亜美の卒業式なんでしょう。呼ばれたのに参加しないわけにはいかない」
「やっぱり来ると思っていた」
尚人はうんうんと頷く。ヒデはわかっていると言いた気な仕草で。
「二人は十分話をしたんでしょ。なら亜美と少しだけ話をさせてくれないかな、ヒデ?」
半ば強引に亜美を連れて行こうとする尚人。亜美は非常識な行動に、強く抵抗する。
「ちょっと、二人で話したいことがあるんだから。離してよ」
「僕は別に構わないよ」
「悪いな、ヒデ」
尚人は亜美の左手を掴んで、どこか別の場所に連れて行く。ヒデはその姿を、大きなため息をつ
きながら眺めていた。そしてこう呟いた。
「あいつはいつもオレの邪魔をしやがる」と。
亜美は抵抗したものの特に強くということではなく、むしろ尚人の自然な腕力によって導かれて
いくといった感じだった。亜美自身も不思議な感覚だった。出発まで時間は限られているにも関わ
らず。
尚人は吹き抜けになっている渡り廊下のような所で立ち止まって、手を離した。二人は互いを見
つめ合う。尚人は呼吸を整えると、手を胸に当てて自らを落ち着かせている様子だった。それは
ピンチを迎えているピッチャーのように見えた。緊張感がこちらに伝わってくる。尚人は何を話す
のだろう。
「亜美は外国なんて似合わないと思う。だって京都の田舎娘なんだぜ。海外留学して、英語をちょ
っと勉強するくらいで上達出来ると本気で思っている?」
「はあ、何よそれ。私をバカにしているんじゃない?英語猛勉強したの、知らないくせに」
久々の新鮮な会話に、亜美の心は弾んだ。
「猛勉強したからって、向こうで成功するとは限らないよ。つまり亜美にはアメリカは似合わない
ってこと。それに英語は日本でも使えるよ。言葉に困っている人は国内に多くいるし、それに翻訳
家にだってなれるしさ。だから日本に残れよ」
「私の人生だよ。私が何しようと勝手じゃん。尚人に止められるような資格はないんだから」
いつもならここでケンカになって会話は途切れる。だが尚人は表情変えずに、しばらく考え込ん
でいた。こんなにも苦しそうな彼を亜美は見たことがない。何か思いつめているようでもある。
「三年前も僕は亜美に日本へ残ったらと言った。そして三年後の今日もこうして同じ事を君に話し
ている。行くな、亜美。日本に残れよ、京都に残れ。僕は亜美がいないと、どうしようもなくなるん
だ。胸が引き裂かれるくらい、苦しくなる。君と離れてみてよくわかったよ。僕は傲慢だった。反省
している。だから……」
人目もはばからず、尚人は号泣していた。亜美はそんな彼を優しく抱き抱えた。果たして返事は?