34−聞いてみたかったこと
肌と肌が触れ合ったら、その人となりがわかると誰かが言っていた。確かにヒデのそれは暖かくて、
ごつくて頼もしかった。いつまでも触れ合っていたい、そんな気分にさせてくれた。
でも朝になると、高揚していた気分はどこかに吹き飛んでいた。亜美の横ではスヤスヤ寝ている
ヒデがいる。亜美は起き上がると、手鏡で自分の顔を見てみた。寝不足のせいか目が赤い。何度も
見てきた顔なのに、今朝はとても酷く見えた。
春になったら離れ離れになる。その前に一度確かめ合っておきたかったというのが亜美の本音だ
った。だとしたら今巡っている思いが、ヒデに対する気持ちなのだろうか。頭を冷やすために、洗面
場で顔を洗った亜美。幾分すっきりしたが、モヤモヤした思いまでは消えなかった。日本を旅立つ
までには、このモヤモヤの原因を解明しなければならなかった。
「起きていたんだ?」
目を覚ましたヒデ。とても幸せそうな顔をしている。亜美は何だかホッとした。
「すぐに朝食用意するから待っておいて」
買っておいた食パンを袋から取り出して、トーストを作り始めた亜美。ヒデはその様子をじっと
眺めていた。
「何をじっと見ているの?」
「幸せだなと思って。好きな人といるって素敵だね」
背伸びをしたヒデ。整った筋肉はとても美しい。亜美は急いで準備を終えると、テーブルにトー
ストと昨晩に作っておいた野菜サラダを並べる。
「うわ、とてもおいしそう」
満足そうな顔で夕食と同じように平らげるヒデを、亜美はじっと観察していた。実際のグルメ
レポーターよりおいそうに食べているように見える。
「また作るから、食べに来てね」
「もちろんだよ。楽しみに待っているから」
次の機会があるのか無いのか、亜美には予想がつかなかった。自分のしたことは正しかったのか、
誰かに聞いてみたくなった。
卒業式まで二週間を切ったある日のこと。亜美の家に尚人が初めてやって来た。何度か亜美から来
るように誘ってみたのだが、勉強中ということで断られ続けていたのだ。
尚人が来るということで、亜美はドキドキしていた。同居していた時には考えられなかった尚人
に対する緊張。自分でもおかしかった。
「今日は報告があって来ました。じゃーん」
亜美の顔の前に出された「合格」という文字。文字通り、合格証書だった。
「志望校合格したんだ、すごい」
両手をパンパンと叩いて喜んだ亜美に、尚人は改めて合格した喜びをかみしめた。
「このお守りのおかげだな」
ポケットから取り出したのは、亜美が弥生にこっそり頼んで尚人に渡したあの北野天満宮のお守
りだった。
「弥生から聞いたのね?弥生ったら、もう」
そう言いながらもまんざらでもない様子の亜美。本来は尚人をぎゅっと抱きしめたかったが、今
の立場をわきまえて冷静に努める。
「報告は以上。僕はこれで帰るから」
「せっかく来たんだからさ、ちょっとくらい寄って行って」
尚人は弥生から二人の交際が順調であることを、聞かされていた。何だかこのアパートは二人の
聖域のような気がして、入るのをためらったのだ。
「随分とキレイにしているんだね。前の亜美の部屋とは全然違う」
「自分ですべて配置を決めたから。アメリカへ行っても、こんな雰囲気にするつもり」
家具から食器まで生活用品は白で統一されていた。その中におそろいの歯ブラシと、マグカップ
があるのを目ざとく尚人は発見した。
「コーヒーがいい?それとも他の飲み物にする?」
「別に飲み物はいいよ。すぐにお邪魔するから」
アウェイな感じがする亜美の家。とても落ち着かなかった。
「ヒデとは順調?」
「ええ、まあ」
あれから何度かヒデを自分の家に招待した。尚人の希望する夕食を作り、夜も共に過ごした。彼と
一緒にいれば何か変化が訪れることを期待した亜美だったが、期待したことは起きなかった。翌朝
に起こる感情はあの時と全く同じ。そのたびに努めて明るく振舞う演技を、ヒデの前で披露しなけ
ればならなかった。
「愚直な質問だったかな、アハハハハ」
尚人が聞いてきたくせにと亜美は思う。尚人に明日香のことを突っ込んで聞いてみたかったが、
やめておくことにした。
「英子さん、元気?」
「元気だけど、亜美が来ないんで心配している。アメリカへ行く前に、一度顔を見せてあげてよ」
「もちろんよ、お世話になったんだから」
尚人と過ごす時間はとても軽やかで、不思議な落ち着きと安らぎを与えてくれる。ヒデが包む
優しさとはまた別のものだ。
「再来週は卒業式か。全く早いものだね」
「そうね。ずっと受験だったから卒業って感じがしないね」
卒業後、尚人も亜美もそれぞれの進むべき道に旅立っていく。今は直前の休暇のような気がして
ならなかった。
「ねえ、一つ聞いてみたかったことがあるんだ」
何なのと亜美が聞き返した。「卒業」というフレーズで尚人は急に聞きたくなった。
「日本に残って良かった?京都に残れて良かったって思っている?」
亜美の答えは果たして。尚人はゴクッと唾を飲み込んだ。