32−新たな展開
感動する映画を観たわけじゃない。悲しい出来事があったわけじゃない。
けれども。ひとすじの涙が右頬を伝わったことを、尚人は確認する。不思議なことだった。
亜美にうざいと言われて怒るはずなのに、それに反して涙が出てくるとはどういうことだろう。
尚人はこの二ヶ月を振り返ってみた。亜美に距離を置くと宣言されて、気を紛らすために勉強を
重ねてきた。すべてはこのセンター試験で高得点を取るために。
試験は勉強した成果があって、うまくいった。おそらく二次試験に有利に働くだろう。けれども
終わった後の満足感は得られなかった。もっと喜んでもいいはずなのに、喜べない。
そうだ。喜びたくても一緒に喜んでくれている人がいないからだ。今までうれしい事や、悲しい
ことがあった時に、仲間や家族がいた。彼らが自分のことのように、喜んだり悲しんだりしてくれ
たからだ。だから実感できた。
しかしどうだろう。今回のセンター試験の場合、成績が良かったからといって両親やヒデに報告
したところで、尚人自身も喜べるだろうか。いや喜べない。
尚人は亜美によって生かされていたことに今さら気づかされる。彼女が一緒に喜んでくれるから、
自分も喜べた。彼女が一緒に悲しんでくれるから、本気で涙を流せた。どうしてもっと早く気づけ
なかったのだろう。尚人は強く後悔した。
自分は強い人間ではなかった。孤独に耐えうるだけの人間ではなかった。亜美に完全無視
を決め込まれた二ヶ月間、相当なダメージを負っていたのだ。亜美と話した瞬間に、ピリピリして
いた緊張感が一気に研ぎほぐされていくのを感じて理解した。その結果として涙が出てきたことに
尚人は気づいた。
尚人は亜美の存在の大きさを一人になって認識する。この先彼女がいない生活は考えられない。
こんな我侭な自分を、亜美は許してくれるだろうか。
「尚人と話出来た?」
ジムでのトレーニングを中断して、近くの公園やって来たヒデ。一番気になるのは尚人と亜美の
関係だった。
「明日香さんと一緒にいた。二人はまたヨリを戻したみたい」
「そうか」
「この二ヶ月間ヒデには面倒掛けたね。尚人ともさっき電話で仲直りしたし、今後はヒデだけを見
て生きていくから」
「無理しなくていいよ。尚人は尚人だし、僕は僕だ。いつものようにやってくれたらそれでいいよ」
「無理なんかしていない」
亜美がヒデに抱きついてきた。その強さにヒデは驚く。
「さっき運動してきたばかりだから、体臭くない?」
「ううん、大丈夫。ヒデの胸板、とても厚いね」
「今日私の家に来ない?私が夕食作るから」
「いいの?ご馳走になって?」
「当たり前だよ。私達付き合っているんだよ、何遠慮しているの?」
亜美の劇的な変化に、ヒデは再度驚く。亜美から誘ってくるなんて、今までなら考えられなかった。
ここぞとばかりにヒデは即答する。
「ありがとう、お邪魔するよ」
「じゃ私は買い物に行くから。練習終わったら、携帯に連絡入れてね」
午後からの練習はいつにも増して、熱を帯びたものになった。
午後3時。雨が強くなってきた。亜美とヒデが新たな展開を迎えたその日、尚人は明日香を駅前
の喫茶店に呼び出した。復縁したいと言う明日香に対して、尚人の返答は既に決定していた。
「もっと返事に時間がかかるかと思っていた」
明日香ははにかみながら言った。緊張感は感じられない。
「この間の件ですけど……復縁は……無理です」
なるべく小さな声で、ゆっくりと尚人は言った。彼女を傷付けないように。
「尚人君も私に言われた時、こんな気持ちだったんだね……」
「……」
沈黙が流れる。まわりの客の話し声が不思議と入ってきた。旦那の悪口や、彼氏自慢など話題は
色々だ。
「亜美ちゃんね。亜美ちゃんのことが好きになったんだ?」
「好きかどうかはわからないですけど、あいつがいないと僕はどうにも落ち着きません」
尚人は亜美と二ヶ月間全く連絡が取れなかったことを話した。明日香は真剣に耳を傾けてくれた。
「二ヶ月ぶりに再会したのが、あの日だったんだ。ちっとも知らなかった」
「僕も亜美が来るとは考えていなかったんです」
「私から亜美ちゃんに話そうか?」
「いいえ、大丈夫です」
明日香はひどく落胆していた。自分が尚人と亜美の仲を切り裂いたのではないかと。尚人はこれ
を強く否定した。
「亜美には僕からちゃんと話をします。だから心配しないでください」
尚人は明日香にそう告げると、店を出た。何だか返事をするというより、明日香に相談しに来た
みたいになった。腕時計で時間を確認する。午後4時だ。今なら大丈夫かもしれない。尚人は今か
ら会えないか連絡を取ってみることにした。
「もしもし、亜美だけど。何の用?」
「今からちょっと会えないか。大事な話があるんだけど」
受話器の向こうで、タイムセールを告げる店内放送が流れている。どうやら亜美は買い物をして
いるようだった。