10−明日香の嘘
部屋の前に立つと、亜美は思いきり扉を叩いた。中から何だという尚人の声が聞こえる。
「亜美だけど。中へ入るよ」
中に飛び込むと、ベッドに横たわって尚人は欧州サッカーを観ていた。亜美が突然入ってきた
ので、尚人は立ち上がる。
「随分早く帰ってきたんだね。もっと遅くなると思っていたのに」
「どうして?」
「そのまま二人でホテルに行くかと思っていたから」
「ひどい、ナオ。私、そんなに軽い女じゃないよ。今日はただ誘われて……」
亜美は顔を真っ赤にして怒っていると、尚人はゲラゲラと笑い始めた。
「ジョークだよ。ところで何か用?」
亜美は我に返る。尚人を見た瞬間、明日香の一件を言うべきか言わざるべきか、迷いが生じた。
なぜだろう、彼女にもよくわからなかった。
「いや、何でもない。サッカーの試合観ていたのに、邪魔したね」
そそくさと部屋を出る亜美。再びサッカー観戦に戻る尚人。部屋を出た後、亜美は深くため息を
ついて自室へ戻った。
「マジで?それで尚人君に話したわけ?」
甲高い声を出して、まわりにいるお客から白い目で見られたのは清水弥生。亜美と同じ高校に
通う亜美の親友だ。
「ちょっと、大きな声出さないでよ。誰が見ているかわからないんだから」
「やっぱ大変だね、亜美の恋は。居候に成功したとはいえ、あの鈍感な尚人と付き合えるように
なるとは思えない。幼なじみのような友情で終わってしまいそうな気がするな」
昼下がり、亜美は弥生と高校近くのカフェでくつろいでいた。
「私、どうすればいいんだろう。このまま見過ごすべきなのかな?」
「家庭教師の方を心配してどうすんのよ、亜美。大切なのは亜美の気持ちなんだから」
「何かいい方法ある?」
「思い切って尚人に自分の気持ちをぶつけてみる。それが一番じゃない?」
弥生の言葉を噛み締める亜美。しばらくして首を二、三度振った。
「無理無理。それは絶対無理」
「やっぱりね。今の状況だと望みは薄いし、パパのいるアメリカへ語学留学するわけにはいかな
いしね」
「そうそう。少なくとも高校卒業までは今のままがいいのよ」
自らに言い聞かせるように話す亜美を、弥生はさらに冷やかす。
「この間、ヒデとデートしたそうじゃない。既に目撃者がいるんだ。真相はどうなのよ」
亜美達の高校で、ヒーローであるヒデの存在は、弥生も一人の女子として気になる。
「あれはヒデが試合で得点したら、デートに誘うって約束で……決めたのは私じゃないし」
「ということはヒデは亜美のこと、ぶっちゃけ好きなんだね。だったら付き合ってみればいいじゃ
ない?」
弥生は英樹と付き合うことを、薦める。亜美は困惑した表情を見せる。
「でも亜美に出来るわけないか」
「そうかな……」
「あっ、そろそろバイトの時間だ。悪いけど、私行くね」
手を振って出て行く弥生。今度彼の誕生日があるとかで、張り切っている。亜美は注文してい
たレモンティーを、ストローで飲み干した。
ヒデか。とても気遣いできるし、センスはいいし、最高の人ではあるのだが。尚人がいなけれ
ば、間違いなく付き合っていただろう。亜美は髪を両手でくしゃくしゃ掻いた後、まとまらない
考えを何とかまとめようと、それからさらに一時間カフェで自らと格闘した。
今晩も明日香が家庭教師として、尚人の部屋にやって来ている。隣からは二人の楽しそうな会
話が聞こえてくる。どんな会話かはわからないけど、いちいちそれが気になる。
「ねえ、一つ聞きたいことがあるんですけど」
「私のこと?」
尚人は頷く。さっきまで互いの好きな映画の話題で盛り上がっていた。さらに明日香のプライ
ベートを突っ込もうと、尚人は尋ねた。
「明日香さんって、彼氏いるんですか?」
一瞬、静寂になった。明日香がすぐ我に戻ると、即答した。
「いないよ、今彼氏募集中」
体中から安堵の思いがこみ上げてくる。尚人は一段とやる気になった。
「そうなんだ。てっきりいると思っていました、明日香さんみたいな素敵な女性だと」
「そう?そういう風に言ってくれるのは尚人くんだけだよ」
二人は楽しそうに笑った。こうして笑えるのも、尚人の成績が徐々に上がっているからだった。
自らの成績を上げなければ、明日香さんの教え方が悪いと思われてしまう。明日香さんの評価を
上げるのも尚人次第なのだ。それがいい相乗効果を生み出していた。
「何の話をしているんだろう。ちゃんと勉強しているのかな?」
明日香の家庭教師以外の行為に、亜美は不満を募らせていた。紹介したのは亜美なのに、彼女を
紹介したことを後悔していた。