異変と異常
翌日の朝、リアンは甲高い目覚ましの鐘の音を聞いて眼が覚める。
「ん、んん⋯⋯⋯⋯。」
唸り声を上げながらゴロゴロと布団に潜り込み、その時計の音を止める。
同居人の少女達に配慮して新しく購入しておいた小さい音の鳴る目覚まし時計の針が午前六時を指している事を確認するとベッドから転がり落ちるように布団を抜け出す。
「⋯⋯仕事⋯⋯⋯⋯するか。」
季節的には春の終わり頃だが、それでも朝は肌寒く、寝巻きである白いTシャツの上にもう一枚ジャージを羽織って最初の仕事場へと向かう。
「朝飯は⋯⋯何にすっかな。」
(無難に卵とパンでも焼いて果物でも切ればいいか?)
そんなことを考えながら階段を降りていると、リビングのソファの上で寛ぎながら本を読む女性が視界に入る。
「おお読書女、早いな。」
「貴様こそ、随分と早起きじゃな。」
馴れ馴れしい呼び方など全く気にする様子も見せずに「読書女」ことオリヴィアは適当に会釈をする。
「あいつら起きてくる前に朝飯でも作ろうと思ってな。」
ジャージに手を突っ込みながら薄く開いた目でオリヴィアを見据えると、彼女の姿は既によそ行きのものへと変わっていた。
「昨日は寝るのが遅かったし、彼奴らはまだしばらく起きてこないと思うぞ?」
当の本人も同じくらい、いや、もっと遅くに寝たはずだが、それでもオリヴィアは一切眠たそうな態度を見せずにそう問いかける。
「レイチェルとノアは後三時間は起きてこないじゃろうの。」
「マジか流石に自由過ぎるだろ冒険者⋯⋯。」
「他のギルドならいざ知らず、ウチはそういった決まりは良くも悪くも緩いからのう。」
軽く戦慄するリアンに、オリヴィアは仕方ないだろうと言わんばかりにそう答える。
「⋯⋯まあいいや。とりあえずあんたの分だけ作るわ。何が食いたい?」
「妾は朝は少食じゃ、何も要らん。」
リアンの問いかけにオリヴィアは退屈そうに答える。
「身体に悪過ぎるだろ。なんか入れとけって。」
「⋯⋯なら林檎を一つ頼もうかの。」
「おう、任せとけ。」
言われるがまま適当に答えると、リアンは意気揚々とキッチンへと向かっていく。
数分後、リアンは片手に二枚の皿を、片手にコーヒーの入ったカップを持ってキッチンから戻ってくる。
「⋯⋯ほい。どうぞ。」
テーブルに置かれた二枚の皿を見てオリヴィアは思わず頬を引攣らせる。
「⋯⋯貴様、随分と女子力高いの。」
「仕事上こういうのも覚えてた方が便利だったからな、普通に切ったって味気ねえだろ?」
なんとも言えない表情でウサギ型に切られた林檎を見つめるオリヴィアにリアンはトーストを頬張りながらそう答える。
「別に切り方などどうでも良い。味が変わる訳でもなし、労力の無駄じゃろう。」
「小さい女の子とかには好評なんだけどな。」
辛辣な意見を聞き流しつつ、昔の仕事風景を思い浮かべる。
「マリーナ辺りは喜ぶかも知れんの。」
オリヴィアは苦笑いを浮かべたままそう言ってリンゴを頬張る。
「つってムシャムシャ食ってんじゃねーか。」
「味に変化があるわけでは無いからの。」
切り方の方は微妙な評価であったが、リンゴ自体はどうやら問題なかったようである。
「⋯⋯さて、しばらく起きてこないなら掃除でもするかな。」
コーヒーを飲み干すと、リアンはその場から立ち上がる。
「キッチンのか?」
「いいや、風呂だ。」
二人が食事を終えると、その無駄に広い風呂場に足を踏み入れる。
「ほんっと広いな、ここの風呂は。」
「女ばかりじゃからの。広いに越したことは無いじゃろ。」
そうは言われても正直、リアンには理解が出来なかった。
「それで、一体道具もなしにどうやってするのじゃ?」
「当然、魔法だ。」
そう言うとリアンはジャージの両腕をまくってお湯の張られた湯船に手を伸ばす。
『——水流よ、穿て』
詠唱と共に、湯船のお湯が渦を巻いて汚れや水垢を落としていく。
「ほう⋯⋯器用なものじゃの。」
その横で、オリヴィアは物珍しそうな顔でその光景を眺める。
「もうちょい離れといた方が良いぞ、水飛ぶから。」
「構わん、盾を張っておる。」
よく見ると、びちゃびちゃと飛び散った水はオリヴィアの身体に当たる前に、見えない壁によって弾かれていた。
「障壁魔法か。それも無駄に過剰な。」
目に見えない壁に阻まれて床に滴り落ちる水滴を見て、苦笑いを浮かべる。
「それにしても、もったいないのう。」
「何がだよ。」
短いその呟きに、リアンは首を傾げて不思議そうに問い返す。
「それだけ繊細な魔法操作が出来るのにもかかわらず、攻撃に全く使えんとは⋯⋯。」
「魔力が少な過ぎるんだからしょうがないだろ。俺にとっちゃ魔法なんてせいぜい便利グッズ程度のもんだからよ。」
リアンはそのまましゃがみ込むと、水流が渦巻く湯船に手を入れて浄化魔法を発動させる。
すると風呂の水は少しずつ浄化され、綺麗になっていく。
「⋯⋯魔法が泣いておるぞ?」
「泣かせとけよそんなもん。そもそも傷つけるだけが魔法じゃねえだろ。」
そもそもその程度の魔法しか使えないリアンにとっては、この使い方が最も自分に合った使用法だと思うのも当然であった。
「じゃが、冒険者はそうはいかぬぞ?もしもの時に自分の身は自分で守れなくては、彼奴らの足を引っ張るやもしれぬ。」
「分かってるよ。努力はする。」
掃除が終わると、リアンは額の汗を拭いながら風呂の栓を抜きその場に座り込む。
「まあ、ほどほどに励むがよい。その年で精霊の秘術が使えるのであれば、二十年もすれば案外妾を超えることもできるやもしれぬぞ?」
「そいつは無理だろ。」
オリヴィアがそう言うと、リアンはその可能性を一言で否定する。
「その心は?」
「⋯⋯俺もさ、この魔法使えるようになった頃、自分は天才かもしれないって思ったんだけどな⋯⋯伸びなかったんだよ。」
「伸びなかった?」
端的なその表現に、オリヴィアは首を傾げて問いかける。
「ああ、いつかもっとでかい魔力も使いこなせるようになるって思ってたんだけどな。結局中学に入る頃には魔力の方の成長は止まっちまって、そんで、渋々普通科に入った。」
自らの過去を語りながら、その視線は少しずつ下へ下へと下がっていく。
「ほう、ただのヘタレじゃと思っていたが、色々理由があるようじゃの。」
「誰がヘタレだ⋯⋯ってどっか行くのか?」
オリヴィアはリアンに毒を吐きながらクルリと踵を返して背を向ける。
「ああ、今日は早くから仕事での。」
「仕事、お前がか?」
「妾のでは無い、アリシアのじゃ。」
小馬鹿にする様な態度で問いかけると、オリヴィアは呆れた様子で切り返す。
「それより貴様も早くした方が良いぞ?もう三十分もせぬうちにマリーナが起きてくる。」
「マジか!早く言えよ!」
それを聞いてリアンも慌てて立ち上がる。
「それでは行ってくる、帰りが遅くなるから昼飯は要らぬぞ。」
「おう、気をつけて行ってこいよ。」
小さく微笑みながら浴室を出て行くオリヴィアを同じような笑みを向けて送り出す。
同時刻、冒険者ギルド〝フェンリルナイツ〟ギルドハウスにて——
「お呼びでしょうかクイン様。」
屋外から聞こえる戦士たちの喧騒を聞きながら、コーヒーを啜る女性に、胸元にブローチを付けた一人の女性が声をかける。
「ああ、うん。いきなり呼び出してごめんなさいね。ウェンディ。」
他の冒険者よりも一際大きなブローチを付けたその女性は申し訳なさそうに両手を合わせてウェンディの問いかけに答える。
「いえ、それよりご用件は?」
「先日の報告書の件なんだけどね。」
クインは胸元から一枚の報告書を取り出し、ウェンディに手渡す。
「魔物退治のですか?」
「そう、その時の大魔法。」
「放った本人は確か、攻撃魔法は苦手だって聞いたんだけど。」
クインは頬杖をつきながら、雰囲気をガラリと変えてそう問いかける。
「ええ、それどころか回復魔法も条件付きでしか発動できないほどの⋯⋯。」
「ポンコツ、か。」
半分ほど聞き流すと、ウェンディが全てを言い終える前に辛辣な評価を口走る。
「その言い方はちょっと⋯⋯。」
ウェンディは思わず引き攣った笑みを浮かべてその言葉を紡ぐ。
「いいじゃない、本人は聞いてないんだし。
それで、原因は分かったの?」
「調査した結果、一人の男の存在が浮上しました。」
ヘラヘラと笑みを浮かべるクインに、ウェンディはため息混じりに返事を返す。
「⋯⋯誰?」
短く、そして先程よりも鋭い表情で問いを投げかける。
「リアン・モングロールという名の男です。」
「⋯⋯!?」
クインはそれを聞くと、一気に表情を硬化させてその場から立ち上がる。
「モングロールって⋯⋯まさか——」
「——リアン!?」
ガタガタと椅子が鳴る音と共に、ウェンディの背後の扉が開かれる。
音に反応してドアの方を向くと、そこには茶髪でタンクトップ姿の若々しい女性が木刀を手に立っていた。
「⋯⋯!?エリン、貴女なんでここに?」
「あ、えと⋯⋯。」
ウェンディがビクリと驚きながら声をかけるとエリンと呼ばれる女性は落ち着きを取り戻して、もじもじと俯いてしまう。
「戦闘訓練は終わったの?」
クインは大きな訓練場で激しく斬り合う冒険者達に目を向けながら優しい口調でそう問いかける。
「はい、本日のノルマが終わりましたので報告に⋯⋯。」
エリンの言葉を聞いて再び外にいる冒険者達に目を向けると、真剣に木刀を打ち合う傍で数人が空を仰いで伸びているのが見えた。
「そう⋯⋯それで、どうしたの?」
「いえ、なんでもないです、申し訳ありませんでした。」
エリンは伏し目がちにそう答え、深々と頭を下げると、そそくさと部屋の外へと飛び出していく。
「相変わらずの強さですな。」
「⋯⋯流石、ペルフォードが誇る史上最高の才媛ね。」
「無理にでも引き入れて正解でしたね。」
外で倒れる複数人の冒険者を見て二人は苦々しい笑みで最高峰の賛辞をエリンに送る。
「それにしても⋯⋯何か知ってそうね?」
「あの様子では口を割らないでしょう。」
エリンの態度に違和感を感じた二人は、数秒もしないうちに雰囲気を変えると、すぐさま話を続ける、
「じゃ、探りを入れさせて。探せば暇そうにしてる奴なんていくらでもいるでしょう?」
「御意。」
短く返事をすると、ウェンディは小さく頭を下げて部屋を出る。
「⋯⋯⋯⋯なんで⋯⋯。」
「なんであいつが⋯⋯?」
ドアにもたれかかりながら、エリンは誰もいない廊下で、小さくそう呟く。
ギルドハウスを出て五分ほど歩き、アリシアの屋敷へと到着すると、オリヴィアは屋敷の入り口にある石版に触れることなく直接自動ドアに手を伸ばす。
すると、そのドアはまるで正常に稼働しているかのごとくひとりでに開き始める。
開いたドアの先にはよそ行きのドレスを纏ったアリシアが待ち受けていた。
「⋯⋯待たせたの、アリシア。」
「いいえ、むしろ少し早いくらいですわ。オリヴィア。」
互いに名前を呼び合うと小さくアイコンタクトをしてオリヴィアはアリシアの手を取る。
「前回は少し遅れてしまったからの。」
二人は並びながら朝日を見上げ高級住宅街の道を歩く。
「会議にも遅れてしまいましたからね。」
アリシアはオリヴィアの発言に苦笑いで返事をする。
「⋯⋯最近多いのう。」
「事態が事態ですからね。」
二つの深いため息が重なる。
「てことは今回もあれか。」
「前回同様、例の件ですわ。」
アリシアはオリヴィアに一枚の書類を手渡すと、再び深いため息をつく。
「⋯⋯魔物の異常発生、か。」
書面に書かれたその文字を見て至極面倒くさそうにオリヴィアはそう呟く。
次回の更新は二月十八日になります。