第一章 『“神”との取り引き』⑦
三分後。
吉川長官から渡されたファイルの表紙を、黒崎はぼうっと眺めていた。彼の目には、ファイルが映っていたが、心は、脳裏に浮かぶ十五年前の出来事を見ていた。そのため、ドアがノックされる音に気づくことはなく、その後、ひとりの女性が室内へと入ってきたことにも気づかなかった。
「何ですか、貴女! その恰好は!」
ヒステリックに叫んだ小山田大臣の声で黒崎は我に返った。
大臣の視線を追い、振り返る。入口のすぐ近くに出迎えの女性が立っていた。
しかし、黒崎は、目の前の彼女が出迎えの女性と同一人物だとすぐには認識できなかった。何故なら、先ほどのスーツ姿と異なり、ピンクのビキニを身に着けていたからだ。
「申し訳ありません。次に会う時はこれを着るようにと、黒崎先生が……」
困り顔で女性は俯いた。
「黒崎先生。貴方、何を考えていらっしゃるの?」
呆れ口調になる小山田大臣。
その隣で、韮沢総理が笑った。
「まぁまぁ、そのくらいでいいじゃないか。それにしても、黒崎君。君もなかなかやるねぇ。彼女に出す初めての命令が、まさか、“水着になれ”だとは」
総理の頬は、まだ笑い足りないのか小刻みに震えていた。
「冗談やて言うたとに……」
ばつが悪そうに頭を掻く黒崎に、総理は言った。
「彼女には、君の命令を全て受け入れ、従い、もしもの時には命を懸けて守るよう厳命してある。だから、君が“水着になれ”と言えばなる。それが彼女の仕事だからな。何はともあれ、これで彼女が、どれだけ君に忠実なのか分かってもらえただろう。今回の作戦では、彼女を、荻原澪を君の側近として使ってやってくれ」
「よろしくお願いします」
初めて会った時と同様に、澪は丁寧に頭を下げた。
だが、それを無視して黒崎は口を開いた。
「あの、お言葉やけど、韮沢さん。俺はガキのころから剣道ばやってきて、それなりに自信もあります。やけんが、別に守ってもらわんでも……」
「ほう。自分の身は自分で守る、と?」
「はい。それに、俺たちは戦争するとじゃなかです。話し合いばするとですよ」
そんな黒崎の言葉を総理はふっと笑って一蹴した。
「甘いよ、黒崎君。『MC』は、施設内にあった拳銃を持って逃亡しているのだ。銃を相手に、竹刀が何の役に立つというのかね? まぁ、百歩譲って、『MC』は君には手を出さないとしよう。しかし、実際に彼らを説得するのは君じゃない。子供たちだ。『MC』は、子供たちを私と話をするための人質にすることも考えられる。最悪の場合は、殺してしまうことも。そうならないようにするためにも、彼女は必要なのだよ」
「なるほど。つまり、彼女は、一緒に現場に行って子供たちを守るっちいうことですね。それやったら、納得です」
頷く黒崎に対し、韮沢総理はすぐさま首を横に振って見せた。
「いや、澪君が守るのは、あくまでも君だけだ」
「やったら、彼女が子供たちのために必要っちいうとは、何故ですか?」
「それは、澪君が、六人の先生になるからだよ」
「は? 先生って、何ば教えるとですか?」
「主に銃の扱いだ。何を隠そう澪君は、『MC』の指導者でもあるのだよ」
「え? それって……」
「あぁ。『MC』に銃器の扱いや殺人術を教えたのは、他でもない彼女だ」
「う、嘘やろ?」
総理の言葉が信じられない黒崎は、振り向き、澪に視線をやった。
水着のせいでより一層はっきりと分かる彼女の体は、一般的な女性と比べても明らかに華奢だった。
だが、
「韮沢さんの言うたことは、本当ね?」
そう問う黒崎に、澪は、
「はい。私が、『MC』の五人を育てました」
と、きっぱりと答えた。
「……」
黒崎は、返す言葉が見つからなかった。
「いくら話し合いだとはいえ、『MC』と会うのに拳銃の扱いも知らないようでは、それこそ、“話にならない”からな」
そう言って大きく笑うと、韮沢総理はこの話を終わらせた。
身の回りを片づけながら、吉川長官が黒崎に伝えた。
「さて、これからの話だが、君はこの施設で荻原君とともに生活してもらう」
「え? 二人きりですか?」
「いや、それは今日だけだ。明日からは、六人の子供たちも加わるよ。残念だったな。まぁ、八人で仲良くやってくれたまえ。他に質問は?」
「別に……」
「そうか。明日以降のスケジュールは、荻原君を仲介として君に伝えることにする。君の采配次第で、四人の『MC』と六人の子供たちの運命が決まるんだ。よろしく頼むぞ」
「言われんでもやりますよ」
今日何度目かの強がりを言った黒崎に、最後に総理が声をかけた。
「期待しているよ」
吉川長官、小山田大臣、韮沢総理の三人が席を立つ。
それに合わせて動き出した澪を、
「見送りはいいから、黒崎君に施設内を案内してあげなさい」
と吉川長官が制し、三人は部屋をあとにした。
会議室には、黒崎と澪だけが残された。
「それでは、地下射撃場から案内させていただきます」
澪がドアを開け、黒崎を促す。
しかし、彼は、それに従うことなく尋ねた。
「あんた、俺の命令なら、何でも受け入れるとやろ?」
「はい。それが仕事ですから」
澪は頷いた。
「それなら、早速、命令したかとやけど」
「え? ……何でしょう?」
澪が小さく身構える。
「あの……、取り敢えず服ば着てくれんね。さっきの暑苦しか服でもよかけん。そのままやと、目のやり場に困る」
照れた様子でそう黒崎が言うと、澪の顔に、一瞬、ほんの僅かだが笑みが浮かんだ。
だが、それを隠すように彼女は、
「はい、承知しました」
と返事をし、すぐさま部屋を出て行ってしまった。
「ちょっと恰好ばつけてみたばってん、やっぱり損したかいな」
独りきりになった会議室で黒崎は、澪のビキニ姿を思い出しながらそっとそう呟いた。