第一章 『“神”との取り引き』③
会議室は、二十畳ほどの広さだった。昼だというのに南向きの窓はカーテンが閉じられ、蛍光灯の明かりが点いていた。入口から見て奥のほうには、どうやってもドアを通りそうもないほどの大きさの、巨大な一枚板のテーブルがあった。
室内に入った黒崎は、机の向こう側に横一列に並ぶ、三人の姿を目に留めた。
向かって左が、警察庁長官の吉川博司。右には、これまで消費者及び食品安全の内閣府特命担当大臣だったが、現在ではその任を解かれ、代わりに、死去した林田大臣が行っていた仕事の全てを引き継ぐことになった小山田佳子がいた。そして、真ん中に陣取る人物こそが、黒崎が“神”と呼ぶ男、韮沢康行内閣総理大臣だった。
韮沢総理は、テーブルを挟んだ対面の椅子を勧めながら黒崎に声をかけた。
「待っていたよ、黒崎君。……いや、今は、黒崎先生、だったね」
「わざわざ東京まで俺ば呼びつけて、何の用ですか?」
勧められた椅子の前に立ち、黒崎はそう尋ねた。落ち着いた素振りを見せてはいたが、“神”の持つ威圧感からか、彼の身体は震えていた。
口許に笑みを浮かべ、総理は答えた。
「十五年振りに、昔話でもどうかと思ってね」
その言葉で、黒崎の脳裏に過去の出来事が刹那にして蘇った。同時に、「ふざくんな!」との怒鳴り声が喉元まで出かけたが、必死になってそれを飲みこんだ。いくら気性が荒い九州の男だとはいえ、彼も大人。噛みついてよい相手かどうかの分別ぐらいはつくのである。
怒鳴る代わりに、黒崎は言った。
「話すことは何もなかですよ。大した用じゃなかごたるけん、帰らせてもらいます」
会釈をし、振り返ると、彼は、つい先ほど入ってきたドアへと向かって歩き始めた。
“三十六計逃げるに如かず”の言葉があるように、勝ち目のない相手からは逃げるのが正しいのである。
だが、あと一歩でドアに手が届くというところで、再び韮沢総理の声が室内に響いた。
「逃げても無駄だよ」
その瞬間、黒崎の足は、自分の意思とは無関係にとまってしまった。
徐にそちらへと目をやる彼に、
「総理が話をしたいと仰っているんだ。取り敢えず、座ってはどうかね?」
と、吉川長官がさらに畳みかけた。
無視してドアを開け、この場を去ることもできただろう。
しかし、それは一時的な逃避にすぎず、いずれここへと連れ戻されてしまうのは明らかだった。
“神”の言うとおり、「逃げても無駄」なのだ。
腹を括った黒崎は、
「手短に頼みますばい」
と、精一杯に強がり、席に着いた。
黒崎。吉川警察庁長官。小山田大臣。そして、“神”こと韮沢内閣総理大臣。
四人の中で、対談の口火を切ったのは、韮沢総理だった。
総理は、黒崎が椅子に座るのを見届けたあと、両脇の二人に交互に視線をやりながら口を開いた。
「さて、先ずは、彼、黒崎剣一君のことを紹介しておこう。二人は彼とは初対面だろうから」
「はい」
と小山田大臣が答え、吉川長官も頷いた。
「私が黒崎君と出会ったのは、今から十五年前。まだ私が自治大臣で、国家公安委員長を兼務していた時のことだ。当時、黒崎君は中学生で剣道をやっていてね、少年剣道の全国大会で、二度も優勝したほどの剣士だった。それに、頭脳明晰でもあった。いわゆる文武両道の麒麟児だったのだ。……そうだったよな、黒崎君」
「昔の話です。そげんなことより、早く本題に入ってください」
黒崎の催促に韮沢総理は、「分かった」と言うような手で制止する仕種をすると、再び話し始めた。
「今、黒崎君は中学校で教師をやっている。体育科かと思ったら、国語科だったので驚いたよ。だが、それ以上に驚いたのは、彼が地方の教師などに収まっていたことだ。そもそも彼は……」
だらだらと喋り続ける韮沢総理を黒崎は、「早く本題に入れっち言ったとに……」と切歯扼腕の思いで睨みつけた。怒り心頭の彼の耳には、最早、総理の話は入ってこなくなっていた。
総理の黒崎紹介が終わったのは、それから五分後のことだった。