Episode1:その男、無が故に-上-
まるで映画のフィルムにほんの一コマ追加されたかのように、唐突に異形の存在──魔物や、異能力といった存在が、この世界に現れて、その存在が認識されるようになってから早数百年。その異能力や魔物の存在が原因で滅ぼされた都市があれど、今では人々もそれなりに平穏な日々を暮らせていた。
魔物の襲撃から守りきれた都市に住む者も、逆に魔物に荒らされてしまったが、復興してある程度住める環境を作って困難を乗り切った者も、その平穏の中で各々日々を過ごしている。
そんな復興を果たした地の一つで、自然に囲まれた見渡す限り自然ばかりの、山間にあるのどかな村に、その人物はいた。
黒のハットを被っていて、服装は白のワイシャツに黒のベストを羽織り、バックルには十字架の模様がかたどられたループタイをしている。下は黒のチノパンとスリットが深く入った白地に黒のラインが交差するように入ったロングのメンズスカート、茶色の革靴を履いていると、そのラフさがありながらもクラシカルな装いに、身なりの良さから良い所の出ではないかと思われる。
そんな人物だからこそ、行き交う人々の目を集めてしまう──というのはかなり語弊がある。人々の注目を集めるのは、その服装以外の外見からくるものだった。
顔全体を覆い隠す黒と白が対になったデザインの仮面をつけていて、セミロングほどの長い黒髪もあり、肌色が一切見えないのだ。唯一露出していそうな首や手も、黒地に緑のラインが入ったストールを巻き、執事が付けるような白い手袋をしていて、全く分からなかった。
暑いとは言わないにしろ、春に入って中頃という暖かなこの時期に、やや厚着と思われるその人物はふと目に留まりやすく、その浮いた存在の仮面で釘付けにしてしまうのだ。
「ふむ……穏やかな村だな。暖かくていい陽気だし、昼寝でもしたくなるな」
しかし、当の本人はそれに一切気付いた様子もなく、うららかな午後の日差しを浴びて、思いっきり背筋を伸ばしたくなるような衝動を抑えて、そう誰に言うわけでもなく呟いた。
彼の名はノーボディ。といっても、それが本名というわけではなく、彼が自分でそう名乗っているのだ。仲間内ですっかり定着しているため、今ではしっくりきている。
「……おっと、昼寝している暇はないな。早く依頼人と合流しなくては」
何気なく呟いた言葉に、それも悪くはないかもしれないと思いかけていたノーボディだったが、ここに来た理由を思い出して軽く頭を振った。休暇をとって慰安目的で訪れたのではない、ここには仕事をしにきたのだ。
「むぅ、口にするものじゃなかったな。なんとも抗い難い魔力を帯びているが……やはり仕事が一番大事だ」
ポカポカと心地の良い日差しも相まって、甘い誘惑のような昼寝という行為に、一瞬だけ揺らぎかけるものの、すぐに考え直して依頼人の元へと足を進めた。その間、やはり村人の視線を集めたというのは、言わずもがなだろう。
「おお、よく来てくださいました。それでは中の方へ……大したものはお出しできませんが……」
「いえ、お構いなく」
ノーボディが訪れたのは、村の奥側にある、木造の一軒家。その家の戸をノックすると、中から五十代くらいの男性が現れ、最初こそノーボディの姿に驚いていたのだが、事情を話すと快く招き入れてくれた。
「いやいや、遠いところからこんな辺鄙な村まで、わざわざありがとうございます」
「いえ、困っている人の依頼があれば助けるのが、我々の仕事ですから。とてものどかで、気持ちの安らぐいい村ですね」
男性は客間に通し、どうぞお座りくださいとソファに座るよう勧めれば、ノーボディは帽子を脱ぎつつ一礼し、腰をかけてこの村を訪れて感じた正直な感想を述べる。男性は「それぐらいしかありませんがね」と、苦笑しながらもどこか嬉しそうに語っていた。
「それで村長、早速なのですが今回の依頼について、詳しくお聞かせください」
あまり長引かせるのも悪いと思い、手早く本題に入ろうと、ノーボディは本題へと話を変える。それを聞けば男性、この村の村長も、真剣な表情へと変わった。
「今回の依頼は、この村の警備をお願いしたいということなんです。というのも、最近魔物の動きが騒がしいものですから、少々不安でして……村外れの橋の修復作業で力を持つ者や若い人間がそっちに行ってしまって、現状では少し心許ない。三日もすれば戻ってくると思いますので、それまでの間お願いしたいのですが……」
「はい、いいですよ。私の全力をもって、この村の警備にあたらせていただきます」
受けていただけるかどうかと、不安そうに訊ねる村長に対し、悩む必要すらないと、依頼を即承諾した。それを見れば、村長は驚いたようだが、すぐに安堵の笑みへと変わる。
「いやいや、よかった。断られるかもしれないと思っていたので……」
「断る理由なんてありませんよ。先程も申しましたが、それが我々の役目ですので」
心配していた様子の村長に、苦笑混じりに笑っているような声でノーボディは返す。説明は受けたものの、表情の見えない彼に、村長は不安を感じていたのだが、その様子を見れば悪い人ではないということが分かり、自然と笑みが浮かぶ。
「本当によかった……それでは滞在中のあなたの宿は、この家を使ってください。私と息子一人以外、この家を使っているものはいないので、部屋も余りがありますし」
「分かりました。それで、早速で申し訳ありませんが、私が警備にあたる場所を案内していただけないでしょうか?」
「いいんですか? 訪れたばかりで疲れもあるでしょうし、少し休んでからでも……」
「大丈夫ですよ、確認だけですので」
話がまとまれば善は急げだと言わんばかりに、ノーボディは案内してくれないかと頼む。村長はそんなノーボディを気遣うが、それを大丈夫だと笑って返す。
「そうですか……それでは案内しましょう」
そんなノーボディに、仕事熱心な方だと村長も笑い、案内しようと客間を出る。ノーボディも脱いでいた帽子を被り直せば、その村長の後について客間を出る。
「そういえば、差し支えなければでいいのですが、ノーボディ殿は何故そのような仮面を?」
「ああ、これは──」
家から出て、警備場所へと向かうまでの世間話のように村長が話を切り出し、それにノーボディが答えようとした時、そんな二人の前に上空から何かが降りてきた。降りてきたそれは、どうやら人のようだった。
青のバンダナを額に巻き、黒髪を逆立たせた十代後半くらいの少年だった。黒い無地の半袖シャツに赤いベストを羽織り、少し色褪せた黒っぽいジーンズに緑のスニーカーと動きやすそうな格好をしている少年は、着地の際に衝撃を和らげるために折り曲げていた膝をゆっくりと伸ばして二人の前に立った。
少し伏せがちだった顔を上げると、ノーボディに目を向ける。赤い双眸に、活発そうな光を宿した子だな──そう考えていると、その少年は深く息を吸って、一度止めたかと思うと──。
「お前が自警団の助っ人なんて、オレは認めない! オレとその座を賭けて勝負しやがれ!」
村全体に響き渡るくらい大きな声で、突然叫び出した。その声量と突然のことで、ノーボディや村長だけではなく、その周囲にいた人間も驚いて動きを止めるが、少し時間が経てばようやく頭が状況を理解し始めた。
「いきなり何を言い出すんだ、ディン。ノーボディ殿に失礼だろう? それに、そもそもお前は年齢規制で自警団にはできんよ」
「あと三ヶ月で十八だ、三ヶ月くらい多めに見てくれ! そして止めても無駄だぞ、オヤジ! オレはコイツの実力を見ない限り、認められないからな!」
困ったような村長に対し、その制止をまったく受け付けないとばかりの強い口調で少年──ディンというらしく、内容から察するに村長の息子のようだ──は返した。その言動から、怒っているような様子を感じられるが、大体今の会話で、自分が代わりの自警団になるはずだったのにという私怨ではないだろうかということが検討できた。
「さあ、ごちゃごちゃ言わずに勝負!」
早く認めさせたいという焦りからなのだろうか、ごちゃごちゃ言っているのは私ではないとノーボディがつっこむ前に、弾丸のような勢いでディンは駆け出し、ノーボディに襲いかかる。
──五分後──
「……よわっ」
勝負は思ったほど長引かず、地に倒れ伏した影に、呆れたような言葉を投げかける。その倒れ伏しているのがノーボディでなければ、誰もが思い描いただろう理想の展開でよかったのだが。
まず懐へと飛び込んだディンが、ノーボディの顔面へ左フック。それを見抜き、なんとか背を逸らしつつ相手の腕に自分の腕を当てて軌道を変えて避けたのだが、その容易に読める一撃がフェイクだったことに気付くのが遅く、ボディに右の拳による重い一撃が炸裂。
その一撃で、既にノーボディはノックダウン気味だったのだが、突然無茶苦茶なことを言って勝負をふっかけてきた割には冷静な判断(?)ができたディンは、「助っ人として呼ばれた人間が、この程度で終わるとは思えない」と考え、これは油断させるための行動だという結論に至ったらしく、そこから殴るは蹴るは絞めるは投げ飛ばすはで、抵抗も出来ずに攻撃を受け、ボロボロになったノーボディが転がっているという経緯で、このようなことになっていた。
「なんかいじめている気分になってくるなぁ……にいさん、本当に助っ人に来た人? 自警団の食事の手伝いとか、そういう裏方的な意味合いで来た助っ人じゃなくて?」
最初は周囲にいる者まで圧迫しそうなほどの、燃え盛るような怒気を孕んだ敵意を向けていたが、今となってはそれもすっかり萎んでいて、名残すら見えないくらいだった。
その様子を見守っていた村人までもが、「本当にあの人に任せていいのだろうか? 何かの間違いで来たんじゃないか? チェンジはできるのか?」などと話し合っているのが聞こえ、ノーボディはゆっくり立ち上がって服の汚れを軽く払うと、一つ咳払いをした。
「……ディン君といったね。君が真剣に自警団に参加したいという気持ちは、文字通り痛いほど分かった。しかし、私にも一度受けた仕事はないがしろにしたくないという気持ちがある。そこでだ、勝負方法は私が決めてもいいかい?」
「いいけど……なんだよ、その勝負方法って?」
あんなに一方的にやられたくせに、まだ勝敗を認めないのかと言いそうになるのを、少しも手を出せずに負けた相手のことを思えば黙ってやるかと、同情するような目を向けつつ、そのノーボディの提案を呑んだ。
「なに、勝負方法とは簡単だ。いつ仕掛けてきても構わないから、私のこの仮面を外させることができれば、負けを認めて君に仕事を譲ろう」
そう言って、指で軽く小突くように自分が着けている仮面を叩いた。それを聞けば、どれだけ自分に有利な勝負をふっかけてくるつもりなのだろうかと考えていたディンは、拍子抜けした。
「なんだ、そんな勝負方法でいいのかよ? ハンデでもつけてやろうか?」
「いいや、ハンデはいらない。ただ、私は避ける目的以外で一切君に手を出さない。私は、本当の意味で全力は出せないからね」
ディンのハンデという提案は、挑発といったものではなく、純粋に同情したが故の発言だったのだが、それに対してのノーボディの返答は、ディンの怒りを一瞬で沸騰させるのには十分すぎるほどのものだった。
「……ほっほーう、人が心配してやったというのに、それを仇で返しやがるとは……アッタマきた! その勝負乗った、テメェの仮面なんざすぐに剥ぎ取って、ついでに面の皮も剥ぎ取ってやんよ!」
「いや、それは無理な話だ」
「……ギタギタにしてやるっ」
怒り心頭の様子で睨みつけてくる、まるでチンピラのようなディンに対し、ノーボディはただ冷静に、手短に返す。しかし、それをディンは再び挑発してきたと捉えたらしく、怒りのあまり般若のような形相をしつつ、一言残して去っていった。
「……それでは、案内しましょうか?」
「あ、はい。よろしくお願いします」
台風のような勢いのディンが去ったことで、村に元々あったのどかな空気が戻ってきた。割といつものことなのだろうか、村長は特にディンの様子を気にしているわけでもなく、切り替えようとノーボディにそう言えば、当事者であるはずのノーボディも、特に気にした様子も見せずに頷いた。
「……くっそ、さすがに疲れた……」
村長に自分の配置場所を案内されてから数時間後、それまでの間に何度もディンは挑戦を挑み、現在村にある空きスペースで、仰向けになって倒れ、疲労で荒くなった呼吸を整えていた。少し離れた場所でノーボディも仰向けになって倒れていて、これが河川敷なら青春ドラマのワンシーンのようだった。
「ふふふふふ、諦める気になったか……?」
「冗談、何が何でもその仮面引っぺがす……」
そんな疲労困憊の様子のディンに、おとなしく負けを認めるかと問いかけるも、そんなわけあるかと強い口調で返した。その返答に、ノーボディはどこか満足げだ。
「にしても、弱いのは変わんねぇのになぁ……」
ふと今までの攻防を思い出し、どこか忌々しげにディンが呟く。
ディンが言うように、ノーボディの身体能力としては、常人よりは僅かにいい程度、ディンの実力なら苦戦しないくらいの実力の相手だった。
現に、ノーボディにしかけた攻撃のほとんどが当たっている。それならば楽勝なのではないかと思うだろうが、あくまで「ほとんど」なのだ。一部、その命中率を下げている点がある。
それが、この勝負を決める点での要となっている、仮面を狙った時だ。他を狙った時は必ずと言ってもいいほど命中するのに、何故か仮面を狙う攻撃は全て避けられてしまうのだ。ついでに言うと、体を狙って攻撃し、怯んだ隙に仮面を取ろうとしても、その攻撃を耐えるタフさもあり、それ故に今までで外させることができていなかった。
「仮面を取られることがないように、努力をしてきたからな」
「そんな努力するくらいなら、強くなる努力をしろよ……」
もう回復したらしく、何事もなく立ち上がって服の汚れを軽く払い、ディンに手を差し伸べるノーボディに、呆れたような表情を浮かべつつ素直にその手を取り、ゆっくりと立ち上がる。タフなだけじゃなく、自然治癒力まで高いのかと、意外と自分の課せられた課題が困難なことを、ディンは思い知った。
「さて、今日はどうするんだい? 明日からは時間調整ができるから長めに続けられるにしても、今日は初日で着たばかりだし、なるべく体調は万全で仕事を務めたいから、この辺で勘弁してくれるとありがたいんだが」
「分かったよ、今日のところは諦める。その代わり、明日から覚悟しろよ?」
オレが原因で体調不良を起こして、それで警備に穴が空けば本末転倒だと言って、苦笑染みた笑みを浮かべながらノーボディの言葉に頷いた。
「それじゃあ、話もついたことだし、帰るとしようか」
「そっか、あんたこの三日間、オレん家に泊まるんだもんな。さっきまで真剣勝負してたやつと家路を共にするなんて、変な気分だな……」
帰ろうと促すノーボディに対し、彼の宿が自宅となっていることを思い出したディンは苦笑を浮かべる。そう言う彼の表情には、最初の時のような怒りは既に抜け落ち、敵意のようなものもすっかりなくなっていた。この短時間で、仲良くなれたようだ。
「あ、そうそう。あんたに貸してる部屋、オレの兄貴の部屋なんだから、あまり散らかすんじゃねーぞ?」
「兄貴?」
それらしき人物を見かけたことも、村長から話を聞いたこともないため、ノーボディが首を傾げて聞き返す。それに対して、ディンは「おう」と頷いた。
「今この村にいないけどな。誰かの役に立ちたいって、この村の自警団をやってた時に、都会からやってきたギルドの目に留まって引き抜かれたんだ。君の力を、もっと広く役立てるつもりはないかー、ってさ」
そう語るディンの表情は、滅多に会えなくなってしまったことに対する寂しさを滲ませながらも、どこか誇るような笑みだった。自分の兄が認められたことを心から喜んでいるディンの様子に、この兄弟はとても仲がいいんだなということが窺える。
「いつかはオレも、今よりずっと強くなって、兄貴と一緒にみんなを守るために戦いたいんだ。兄貴、銃の使い方はすげぇうまいけど、体力とかないからさ。それを補うようにオレが前線で戦って、兄貴は後方から支援するって……これがオレら兄弟の夢なんだ」
「……そうか」
「とまあ、そんなわけで……いつ帰ってきてもいいようにしてるんだから、兄貴の部屋汚すんじゃねーぞ?」
打ち解けたとはいえ、まだ会ってそう経っていない人物に自分の夢を真剣に語ったことが気恥ずかしくなってきたのか、それを誤魔化すように口早に言えば、小走りになってノーボディより先に自宅へと向かっていった。そんなディンの後ろ姿を見ながら、ノーボディは小さく笑った。
「本当に、仲のいい兄弟なんだな……」
その夜、村長宅で夕飯をいただき、軽く睡眠をとってからノーボディは警備にあたっていた。村にある、火の見やぐらのような高台に上り、上から村の周囲の闇に目を凝らす。
「静かだな……」
聞こえてくるのは、夜特有の穏やかで涼やかな風の吹く音、その風で揺れる木々についた葉の擦れる音、それと松明の火が小さく爆ぜる音や、微かな虫の音くらいだろう。本当に穏やかで、過ごしやすそうな村だと、ノーボディは改めて思った。
空を見上げれば、一面黒のキャンバスのような空に、その黒をすべて埋め尽くすんじゃないかと思えるくらいの満天の星。頭上に輝く満月は、仄かでとても優しげな光を放っていた。
こんな穏やかな場所で日々を過ごすのも悪くないなと思う。しかし、自分にはやるべきことがあるのだと、ノーボディは思い直した。それが終わってからでないと、次には進めない──いや、進んではいけないのだ、と。
それに、どちらにせよ自分は力があるのだから、それを役立てようと考えているため、平穏な暮らしなんていうのは望み薄いだろうなぁと、ノーボディが苦笑した時だった。
「……ん?」
ふと、この村から近からずも遠からずといった森がふと騒がしいことに気付く。風とは別のもので木々が揺らいでいるのは、慌ただしく飛び立つ鳥達を見れば明らかだった。それに、微かながら戦闘を行なっているような音も聞こえてくる。
「見に行くべきか……いや……」
そのなにやら不穏な様子に、一度現場に向かおうかと思うも、すぐに考え直す。助っ人ということで自分がここの警備を任されたのだ。自分が入ってようやくギリギリ整った警備体制なのだ。ここで抜けると、分かりやすい穴ができてしまう。
幸い、問題視するほどではないと言えるほどの距離はないにしろ、すぐに警戒するべきだとも思えないくらいの距離なのだ。これならば、他の警備の者にも警戒するように伝えるくらいで、対策はとれそうだ。
そう考えると、ノーボディは地図を取り出し、目測で大まかな場所に検討をつけ、地図上のその辺りに位置する場所に印をつけた。
「ノーボディさん、お疲れさまです。交代の時間です」
「はい、分かりました」
地図に印をつけていると、交代の時間になったらしく、高台に登ってきた自警団の青年がそう声をかける。それに対し、ノーボディは「後はよろしくお願いします」と軽く頭を下げ、その怪しい地点のことを伝えてから降りれば、自警団のリーダー役にもそのことを伝え、その日は村長宅へと戻った。
──二日目──
「起きろアーンドその仮面取ったらァ!」
日が登ったとはいえ、まだ村人の半数が眠りについているであろう時間帯。ディンはノーボディがいる部屋の扉を勢い良く開ければ、その扉の位置から一気にノーボディがいるベッドへと跳ぶ。さすがに長年住んでいる場所のためか、人に汚すなと言うだけのことはあり、何にもぶつかって汚すことなく、ベッドの上にマウントポジションをとるように着地した。
しかし、ディンが思い描いていた結果と違い、着地した際に上に乗っかって動きを封じたという感触がなかった。よく見ると、ベッドはもぬけの殻だったのだ。
「はい、朝の時間に騒がしくしてご近所に迷惑かけないように」
一体どこへと考えているディンの背後からノーボディの声が聞こえ、これが罠だったことに気付いて慌てて振り返ろうとするも、そんなディンに何かが覆い被さり、視界を闇が支配する。
「なっ──?!」
なんだこれはという言葉は出てくることもなく、突然誰かに抱き抱えられた感触があったが、それも一瞬。次には浮遊感がディンを襲う。
「うわぁぁぁああ──べふっ!」
その浮遊感が長く続くように思われて、思わず悲鳴をあげたものの、それは長く続くこともなく、あっけなく終りを迎え、何やら柔らかいものに背中から落ちたディンは、間の抜けた声をあげる。
「くっそ、なんだこれ……?!」
特に怪我も体に痛みもなく、自分を包むように覆い被さっている何かを、必死に両手でもがいてどかす。すると、その自分を覆っていた何かは真っ白なシーツだった。
自分の視界を塞いだのはこれだったのかと理解して、次に自分の周りを見渡してみる。兄の部屋の、飾り気のない木目調の壁が四方にはなく、左側には似たようなものがあるが、きれいにされてはいるが、微かな汚れが見られることから、ここは部屋の中ではないことが分かる。そして、足元には干草が大量に積まれた荷車があることから、ここが外だということだろう。
「……ということは……」
突然のことで思考が止まりかけていた頭で推理をする。まずは扉の死角になる場所で奇襲してくるのを待ち、思惑通りまんまと奇襲してきた自分をシーツで捕縛。そして、そのまま窓の下にある、家畜の餌となる干草を積んだ荷車に向かって投げたのだろう。
「……てっめ、この干草がなかったら、死なないにしろ怪我すんだろがコラァ!」
ようやく頭が状況を理解したディンは、二階の開け放たれた窓に向かって怒鳴る。すると、二階から放り投げた本人、ノーボディが白と黒の仮面をつけた顔を出した。
「私はそんな馬鹿なことはしない。ちゃんと下にクッションとなるものがあるかどうか確認してから実行している」
ディンが怒り心頭の様子で怒鳴るが、どこ吹く風といった様子でノーボディは平然と返す。それがディンの怒りを更に上昇させた。
「というか、奇襲という作戦はいい。相手に構えさせる間を与えないようにいきなり襲いかかる思い切りのよさも評価できる。しかし、奇襲するならせめて忍び足できたらどうだ?」
怒りをぶつけるために怒鳴りつけようとするディンだったが、先にノーボディに先手を取られ、淡々と告げるその言葉に、喉元まで来ていたはずの言葉はすっかり消えてしまい、ディンは言葉につまったように小さく呻いた。
「この部屋に来るまで、あんなにドタドタと足音を立てていれば、警戒してくださいと言わんばかりだ。それに、前日の一階の空き部屋で寝るという発言も、『私には奇襲をかけるつもりはありませんよ?』という見え見えの嘘に感じて、逆に警戒心を高めさせる」
言葉につまるディンに、お構いなしに更に追い討ちをかけるノーボディ。返す言葉もなく、しばらく俯いて黙って聞いていたディンだったが、馬鹿にされているようだと感じたらしく、言葉が進むにつれて微かに体が震えだし、その震えが徐々に大きなものに変わり、最後の方には拳を力いっぱい握り締め、額には太い青筋が浮かび上がっていた。
「……黙って聞いてりゃごちゃごちゃうるせぇ! そこまで偉そうに語るくらいなら、実戦でも証明してみやがれ!」
実戦で証明したからこそこうなっているというのに、怒りで我を忘れているのか、「正面から正々堂々と」と喚いている。そんなディンを窓枠に肘をつき、頬杖をつきながらノーボディは見下ろしていた。仮面をしているのに、何故かその下に悪巧みを企んでいるような、子供のような無邪気な表情を浮かべているのではないかと思えた。
「……さて、ダメ出しすれば君が怒るであろうことは容易に想像できた。それならば、何故分かっていながらこうもダメ出しし続けたと思う?」
そんな脈絡もないような言葉に、ディンは知るかと突き放すように返そうとして、その背後にあるただならぬ威圧感に気付いた。振り向いたら終わると本能が告げるが、警鐘をならす頭に反して身体は動いてしまい、錆びたブリキのようにゆっくりと振り返った。
「ディーーーーーーン……」
そこにいた、口から瘴気を吐きながら(ディンにはそう見える)自分を呼ぶ人物を一言で表すのならば、筋肉ダルマという言葉が適しているだろうか。身長2メートルでスキンヘッド、顔には十字傷があり、鍛え抜かれた筋肉の鎧を纏う上半身を惜しげもなく晒している彼は、パッと見は誰もがモンスターと答えるのではないだろうか。
彼はゴグラ。昔は有名ないじめられっ子だったが、見返してやると鍛え始めて、今では村一番の怪力となっている。こう見えても子供が大好きで面倒見がいいが、この見た目で子供から怖がられている。それでも大好きな村や子供達を守ると自警団に入った、哀愁漂う今年で三十路に突入する男だった。
ふと思い出す、ゴグラは昨日の見張りで一番遅い時間帯を担当していて、当番が終わってから眠りについたのは、そんなに今の時間から離れていないだろうということ。更に、近隣住民が困っているということもあり、ゴグラはかなり怒り心頭のはず。
「罠とは二重にも三重にも張り巡らせておくものだよ。さあ、私の戦闘指南はここまで。あとはゴグラさんに常識というものを教えてもらうんだな」
背後に立つ強敵の存在に、絶望で表情を青ざめさせているディンに、どことなく楽しげな、明るく弾んだ声で突き放すような言葉をかけるノーボディ。さすがにこの状況では、ディンも助けを求めるようにノーボディに向かって手を伸ばすが、ノーボディはひらひらと軽く手を振って、無情にも窓を閉めた。
「──あんのクソヤロォォォォォォォォォオオッ!!」
怒っているような泣いているような、それでいてすがるようなヤケになっているなディンの叫びの後に、力一杯何か殴ったような、短くて重く鈍い音が村に響いた。
「ふむ、やはり私の言ったことを理解していないみたいだな」
今朝の一件で、一矢報いたと思っていたノーボディだったが、ディンの性格を考えればこれで懲りることがないと考え、飄々と接触することをかわし、それでも諦めず村中を駆け回るディンを家の屋根の上から眺め、呆れたように溜め息をつきながら呟いた。
「まあ、頭が窪んだまま戻らなくなるくらいと言っていたあの一撃をくらい、その原因が私となれば、言った言葉すら頭の中には残っていないだろうな」
一時間ほど説教を受けて、戻ってきて耳にたこができそうなほどしつこく言っていたディンの様子を思い出せば、自分を見て思い出すのは言葉より怒りだよなと苦笑する。
ノーボディが伝えたかったことは、もう少し頭を使って戦えということだ。まあ、それはディン本人には、挑発という大分違った意味で伝わってしまったようだが。
もちろん、純粋な体力勝負ではディンは強い部類だ。しかし、言い方は悪いが力の使い方を考えていない。今のままでも、思いっきりのいい拳や蹴りは迷いがなく、的確に相手を沈めることができる、いい武器となっているだろう。軽くだが、フェイントも使えている。
しかし、勝負とはかけひきでもある。まっすぐすぎる攻撃はいずれ読まれてしまい、当たらなくなってしまうだろう。そのため、もっとしっかりしたフェイントといったものなども必要とされてくる。それを身につければ、ディンは更に強くなれるだろう。
「──と、言いたかったんだがな……おっと」
ちゃんと伝わらなかったかと、苦笑気味にため息をつけば、こちら側に向かって猪のような勢いで走ってくるディンを見つけ、ノーボディは屋根から降りると、ディンの死角になる建物の陰に隠れた。
「どこだぁ! どこに行ったアイツゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ……ッ!!」
気付いていないらしく、ノーボディが隠れている建物には目もくれず、そのままスピードを緩めることなく、鬼のような形相で走り去っていった。
「……あのタイプには、言い聞かせるより身をもって分からせた方がいいと思ったんだが」
走り去っていった、小さくなっていくディンの姿を眺めつつ、ノーボディはもう一度ため息をついた。かといって、なら「相手の動きをよく見て、自分の動きも客観的に見て動けるように」と言ったところで、素直に聞くとは思えなかった。
「聞き分けはいいだろうが、それ以上に負けず嫌いのようだからな。勝負を挑んだ相手に、そんな助言はされたくないだろう」
この仕事が終わったら、改めてちゃんとアドバイスをしようか──そう考えながら、とりあえず今日の当番は午後からなので、そろそろ向かおうかと歩き出す。
「腐れ仮面野郎ッ!!」
再び近付いてくる気配を感じて隠れ、口汚く罵りながら走り去るディンをそっと眺めつつ、乾いた笑い声を小さくあげながらもう一度ため息をついた。
結局あの後、やはり警備に支障をきたしたくないのか、ノーボディが仕事をしている間は、通りかかった時に舌打ちしつつ、殺意に近い何かが込められた視線で睨まれるくらいで、攻撃はされなかった。
もちろん、それは仕事中の間の話であって、仕事が終わってしまえば気にする必要はない。かけひきといったものはできないが、そのことには気付けたらしく、村長宅に向かおうとするノーボディを、口を三日月のように吊り上げ、目は血に飢えた獣のようにぎらつかせながら、腕組みをして仁王立ちで待ち構えていた。
まあ、それも「あっ!」と言いつつ適当な場所を指差すという古典的な手で騙し、すぐさま逃げたため、簡単に回避できたのだが。
「……まあ、住んでいるところが同じだから、こうなるわけだ……」
あと少しで家の中に避難できる。家の中に入ってしまえば、父親である村長に怒られることは避けたいと、武力行使はしてこないはずだと思い、扉に向かって手を伸ばしてドアノブを掴むというところで、その間にディンが割って入ってきたのだった。
覚えているのは、その姿を見たときに自分の顔が真っ青になっていくような感覚と、ディンのまぶしいくらいに輝かしい笑顔、そして振り上げられた拳だけだった。気付くと、地面にうつ伏せで倒れ伏していた。
「はぁ……はぁ……」
痛む体を起こすと、そこには軽く膝を曲げて肩で息をするディンがいた。怒りのあまり勝負を忘れ、気が済むまでしこたま殴り続けたのだろう。
そんな息切れをするディンを見れば、もう怒りも収まっただろうと、その場で立ち上がればしんどそうながらも服の汚れを払い、村長宅の中に入って夕食にしようと、そう促しながら手を差し伸べようとした時だった。
「っだらぁ!」
「うおっ!?」
そんなノーボディの微かな動きに反応し、ディンが再び殴りかかってくる。それを間一髪避けるも、脇腹を掠めたその拳の勢いに、疲れているはずなのに勢いは衰えるどころか増しているようで、これは本格的に危険なのではとゾッとするような寒気を感じた。
「ふーっ……ふーっ……」
拳を構えるディンの呼吸は、先程までの乱れたものを整えるようなものとは違い、獣が威嚇しているようなものだった。引っ掛けたのは数えられる程度だが、どうやら人に罠にはめられた経験がないのか、よほど警戒しているらしい。
「やれやれ、自業自得だろうが、これでは中に入れないな……」
どうしたものかとため息をつくノーボディに対し、ディンが更に攻撃を仕掛けようと駆け出した時だった。
「ディン、いい加減にしろ!」
村長宅の扉が開いたかと思えば、中から村長が出てきて、迷いなくディンの頭に拳骨を落とした。ゴグラほどの怪力はないにしろ、その威力はかなりのものらしく、駆け出そうとしていたディンは踏ん張ることができずに、その場に倒れるようにして転んだ。
「いってー……」
「まったく、ノーボディ殿が大丈夫だというから黙って見ていたが……あまり迷惑をかけるようなら、十八になってもお前を正式な自警団にはしないぞ」
痛みで頭を抑えるようにして、両手を当ててその場にうずくまっていたディンだったが、その村長の言葉の衝撃が大きかったのか、痛みなんて跡形もなく吹っ飛んでしまったらしく、弾かれたように顔を上げた。
「ちょ、オヤジ、それは──」
「口答えをするな。それに、例えお前が今日勝てたとしても、自警団としての仕事ができるのは明日の一日のみなんだから、諦めた方がいいんじゃないか?」
村長の言葉に抗議の声をあげようとするが、それを一言で制し、慌てるディンに追い打ちをかけるような言葉を続ける。その言葉に、ディンは言葉を失ってしまったようで、何とも言えないもどかしそうな表情を浮かべて黙った。
この勝負の勝敗はノーボディの仮面を奪い取ることで決まり、そして勝者の景品というのが、遠征中の自警団の代わりを務め、三日間警備の穴を埋めるということなのだ。その三日間というのは変えようのない決まった期限なのだから、村長の言う通り、今更勝ったとしても念願の自警団としての仕事はあとの一日しかできないのだ。
「ここでこれ以上ノーボディ殿に迷惑をかけて自警団として活動することを認められなくなるより、あとほんの数ヶ月待って正式な手続きを行なったうえで自警団として堂々と活動する方がいいんじゃないか? 何も焦ることは……」
「っ……うっせーよ、オレは諦めねーからな!」
ディンを心配しての村長の言葉に、ディンは説教を受けていると感じたのか、それに耐えられなくなり、遮るように大声でそれだけ言えば、二人から離れて走り去っていく。
「ディン!?」
ノーボディはそんなディンを追いかけようとするのだが、そんなノーボディを村長は進路を阻むように片腕で制し、首を左右に振った。そっとしておいてください、と言いたいのだろう。
そんな村長に、本当に放っておいて大丈夫なのだろうかと思うも、事情を知らない自分が追いかけたところで、どんな言葉をかけてやればいいのか分からないことに気付き、仕方ないかと追うのを諦めた。そんなノーボディを見て、村長は微笑む。
「……少し、話をしてもよろしいでしょうか?」
この人には話しておこう、そう小さく呟いて、村長がそう訊ねてきた。それに対し、ノーボディはいいですよと頷くと、ひとまず中へと村長宅へと二人は入っていく。
居間に通され、椅子に座って待つように言われたため、それに従って待っていると、村長がほのかに湯気を漂わせたコーヒーが入ったカップ二つ持ってきて、一つをノーボディの前に置けば、村長は向かい合うように対面の椅子に腰をかけ、コーヒーを一口飲んでからぽつりと話し出した。
「……ディンに兄がいることは、聞いていますか?」
「ええ、昨日本人から聞いています。私が使わせてもらっている部屋が、その兄の部屋だとか……お兄さんのことを、すごく誇らしげに語るので、とても仲がいいんだなと思いました」
そのことは本人から聞いていると、村長の言葉にノーボディが頷けば、その通りだと村長も頷き、再び語り始める。
「あの子は、ディンと違って力がなくて、争いを嫌う子でした。だからなのでしょうか、誰にでも優しくて、困っている人には手を差し伸べて……そんなあの子だからでしょうか、みんなに好かれましてね。だから、争い嫌いで優しいあの子が自警団になるって言った時は、驚きました」
今は亡き妻やディン、そして自分がどんなに驚いたか、昨日のことのようによく思い出せると、村長はおかしそうに笑った。
「優しく争い嫌いなあの子が……いえ、むしろそんな子だったからこそ、何かを守るために誰かが前に出なくてはならないことを、よく分かっていたのではないかと思います」
自警団入団のためにディンと筋トレに励んでいたこと、入団が決まった時の喜びよう、銃の扱いが上手いと褒められて自分の武器を見つけたと嬉しそうに語っていたこと、大きな都市のギルドに引き抜かれることが決まった時の、嬉しいような寂しいような複雑そうな表情を浮かべていたことなど、一つ一つの思い出を慈しむように村長は語っていく。
「自警団になると言った時、みんな驚いていましたが、一番驚いたのはディンでしょうね。そして、この地を離れることを一番寂しがったのも、一番祝ったのも、ディンでしょう」
体力がないため、回数は少なく、期間も短かったとはいえ、いじめられていた時期もあり、そんな彼をディンが助けていたこともあるから、まさかそんな人間からそんな言葉を聞くなんて、一番長く傍にいたディンは思ってもみなかったんじゃないかと、村長は感慨深そうに語る。
「最初は自警団になることも、この地を離れることも快く思っていませんでしたよ。ですが、あの子は指きりをすれば、ディンはすぐに大人しくなるんです」
──約束したろ? 僕達二人でみんなを助けるんだ。待ってるから、ディンも自警団になって、一緒にみんなのために戦おう。僕達の名を、最強コンビとしてこの世界中に轟かせようよ──
これが、ほぼ毎日のように二人が語っていた夢だと、村長は笑みを浮かべる。危険と隣り合わせの仕事に対する心配も僅かに混じっているが、その夢が叶うことを祈っている、優しげな親の顔だった。
「向こうに行ってから、忙しいんでしょうね。手紙を送ると言っていましたが、月に一度くればいい方な数でした。元気にやっていればいいんですが……私も、ディンも心配していました。そんな時、あなたが訪れたんです」
寂しげな表情を浮かべて話していた村長が、顔を上げてノーボディへと目を向ける。今までの会話の流れで、自分の名前が出てくるなんて思っておらず、ノーボディは僅かに首を傾げる。
「あなたは、どこかあの子に似ている。だから、ディンもあなたに懐いているんでしょう。兄を溺愛するディンにとっては、多分兄に似たような人物が存在するとは思っていなかったから戸惑って、素直に接することができないようですが」
「素直に接するようなことができれば、殴られる回数は格段に減りますかね?」
本当に難儀な子で申し訳ありませんと謝る村長に、気にしないでほしいという意味を込めて、ノーボディは冗談っぽく返す。それに村長はおかしそうに笑えば、ノーボディも同じように笑った。
「……ノーボディ殿。あなたはギルドの仕事で様々な地に赴いていると思います。その訪れた地で、あの子に会ってはいませんか?」
そう言って、村長は席を立てば居間にある棚に飾った写真立てのうち、一つを持ってきてノーボディに差し出した。そこには村長とディンに、もう一人背が高くて細い青年が写っていた。彼がこの家の長男で、ディンの兄なのだろう。
村長やディンと同じ黒髪を、前髪は真ん中分けにして、あとは自然体にしたような髪形にしていて、大きな丸いレンズの眼鏡をかけている。そのレンズの向こうにある目は垂れ目がちで、気弱そうに見えるが、彼の優しい人柄もよく表していた。
「アーノルド・シュヴァインといいます。どこかで、会っていませんか?」
息子の話が聞ければ──そんな願望のこもった目を向けてくる村長を見て、ノーボディはもう一度写真の青年へと目を向ける。
「……すみません、このアーノルドさんにあったことはありません」
しばらく写真を眺めて記憶を探っていたような様子のノーボディだったが、申し訳なさそうに首を横に振って写真を返した。その答えに、村長は仕方ありませんと苦笑した。
「まあ、ダメ元で聞いてみただけですので、お気になさらないでください。様々な地に赴いているといっても、だからといって必ずしも会うわけではありませんし。それに、便りがないのは元気な証拠ということでしょう」
申し訳なさそうにしているノーボディを気遣う村長だが、やはりその表情には僅かながら落胆の色が見える。そうは言うものの、息子を心配する親心はどうしようもできないのだろう。
「……さて、話が長くなりましたね。お腹が空いているでしょう? 今すぐに夕飯の準備をしましょう」
「あ、私も手伝います」
気遣う村長に、本当に大丈夫なのだろうかと心配していると、それを察したのか、柔らかく微笑んで話題を切り替えた。心配する必要はないという村長のメッセージなのだろう、そう考えるとノーボディは頷き、台所に向かおうと席を立った。
料理の準備のために居間を出た村長に続き、ノーボディも居間を出ようとして、ふと振り返る。その視線の先には、棚に戻された、写真の中で笑みを浮かべているアーノルドがいた。