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0002シフラの物語01

■シフラの物語




(――ん……)


 異変は音もなく俺を訪問していた。無窮の闇が前後左右上下、あらゆる方向に自らの姿を誇示している。視覚は役に立たず、網膜は茫漠たる漆黒をのみ映し出していた。手足の感覚がなく、自分が意識だけの存在としてこの大海深くに沈んでいることが看取された。


 こうなったら聴覚の出番だ。俺は耳を済ませた。何かか細い、繊弱な呼吸音が鼓膜を震わせる。恐らくは誰かの寝息だ。発声している場所から察するに、これは俺自身のもので間違いない。


 なんだ、帰りのバスで眠りの女神に愛されただけか。俺は軽く安堵して、意外に自分が緊張していたことに気付く。眠りながら目が覚めるなんて、明晰夢だっけ。あれが俺の身の上に起こるとは不思議だった。今までそんな感覚、経験したこともなかったのに。やはり剣道に力を使い果たしていたのだろうか。


 不意に全身が言うことを聞くようになる。俺はまぶたを開けた。解放された瞳がそこに見出したものは、またしても暗黒だった。……いや、今度は薄っすらと光が差し込んでいる。弱々しいが硬質なその青白い輝きは、月明かりのそれと知れた。頭を横に傾けると、縦長の窓から外の景色が見えた。木々の太い梢が風にそよいでいる。


 縦長の窓。木々。俺はその現実に背中を殴打されて猛然と上半身を起こした。乾いた寝具が主の急激な運動に抗議の声を上げる。そこでようやく自分が下着一つの半裸であることに気が付いた。


 どこだここは。俺は真っ暗闇に目を凝らし、ありうべからざる風景に腰を抜かしそうになった。


 ここは狭い居室の中だ。仰臥していたベッドは木製で、寝心地のいい掛け布は衣擦れの音と共に木造の床へ滑り落ちた。季節が逆転したのか、素肌に感じるのは忍耐すれすれの涼気だ。


 俺は確かに剣道大会の帰りのバスの中で、ちょっとうとうとして、仮眠を取ろうと休息を欲したはずだ。なのに、何でこんなわけの分からない場所にいるんだ。葵は、先生は、運転手は、皆どこへ行ってしまったのか。


「誰か……」


 物怖じして喉に絡んだ。咳払いして、今度は首の内部がきしむぐらい声を張り上げる。


「誰かいませんかっ」


 必死の叫びがむなしく反響した。その辺りで窓から鮮烈な黄金の光が差し込んできた。夜明けだ。室内の調度が輪郭を露わにし、夜の残兵が追い払われていく。


 部屋は西洋風だった。太い木の梁が天井を這い、屋根を支えているものらしい。壁は煉瓦を組み上げて構成され、その一部を大柄な男のような本棚が隠している。中規模の暖炉が据え付けられていて、細い鉄の火掻き棒が炭に突き刺さっていた。簡素な造りの机が部屋角に根を下ろし、その上には数冊の分厚い書物と何枚かの紙が鎮座している。羽ペンがペン立てから生えるようだ。この部屋の主は高名な作家なのだろうか。


「何だ、ここは……」


 俺は寒さに粟立つ肌をこすり、すぐ側の台に衣服が置かれていることに着目した。


「着よう。誰のだか知らないけど……」


 全くなんでこんな目に遭わなきゃならないんだ。俺はズボンと、やたら裾の長いシャツに手足を通した。滑らかな生地で肌に吸い付くようだ。かなりの上物らしいので、ここの主人は金持ちなのかもしれない、と推測する。それにしても俺はどうなったんだ。やけに手足が白いじゃないか。


 そのとき、ノックの音がした。


「ご主人様。お呼びでございますか」


 硬そうな扉の向こうから、空気を乱さぬ気遣いに溢れた老人の声が忍んできた。俺はどきりとしたが、この意味不明な状況を解決する一助になるに違いなく、意を決して応答する。


「どちら様ですか」


 数瞬の沈黙が重苦しくわだかまった。老人の声が困惑を隠せない。


「あなたの召し使いのズキャムローですよ、シフラ様。どうなさいましたか」


 待て待て待て。「召し使い」に、「シフラ様」。このズキャムローとか言う老人は、俺を一体誰と勘違いしているのだろう。俺は足裏を木の床と接吻させ――埃だらけの感触に慌てて持ち上げる。少し視線をずらして革の靴を発見し、そこに足首を挿入した。


「シフラ様。入ってもよろしゅうございますか」


 ズキャムローが気遣わしげに許可を求める。俺は眉にかかる髪の毛をわずらわしく掻き上げ――心臓が凍るような思いに捉われた。俺は先月床屋で髪を切ってもらったばかりの短髪のはずだ。両手で頭を掻きむしると、ありえない触感が指と指の狭間を蹂躙する。その豊富な頭髪は、明らかに俺のものではなかった。


「俺は、誰だ……」


 ともかくじいさんに問い質そう。何か分かるはずだ。俺は慣れない革靴に足を引きずるように、扉に取り付いて鍵を探した。だがそんな常識的なものはなく、太いかんぬきがその代わりを担っていた。何なんだ、一体。


 かんぬきを外し、手前にドアを開く。途端にろうそくの火が俺の目を貫いた。


 そのときだった。


 俺は再び五体の自由を奪われた。覚醒したときと同様、改めて意識だけの存在に逆戻りしたのだ。腕も足も、指一本さえ動かせない。俺はまだ四肢の感触を実感し、視力も聴力も継続されていたが、それは赤の他人のものに成り果てていた。


 いうなれば、他人の心に巣食う一匹の虫のような状態だった。何も出来ない、ただ借り物の世界をその両眼に映す、一匹の虫に。


「あれ、ズキャムロー」


 俺のものではない声が唇から放出された。眠りの泉からゆるりと顔を出したような、まだ心もとない声だ。


(なんだ、どうなってるんだ。俺はどうしちまったんだ)


「え……っ」


 俺の体は俺の意思とは別に氷結した。


「何だ、今の声は。『俺はどうしちまったんだ』って、何なんだ」


 外国人の相貌のズキャムローが一種怯えた表情でこちらを見上げる。


「どうなさいました、シフラ様」


「今、僕の頭の中で変な声がしたんだ」


(変な声だと。俺のことを言ってるのか)


「まただっ」


 俺の――いや、『シフラ様』の両手が混乱したように頭を押さえる。深甚な恐怖が伝わってくる所作だった。


「落ち着いてください、シフラ様。シフラ様は夢うつつで戸惑っておられるのだと思います。ベッドにお休みください」


「あ、ああ……。そうする。そうするよ」


(おいちょっと待て。俺は夢うつつなんかじゃないぞ)


「ひっ……」


 シフラは俺の声にいちいち体をわななかせる。


「僕は気が狂ってしまったんだろうか。それともまだ寝惚けているんだろうか」


「落ち着いてください。さあ、靴を脱いで。横たわりくださいまし」


 シフラはまるで赤子のように大人しく寝台に寝そべった。掛け布を頭まで被る。


「水、水を、ズキャムロー。水を持ってきてちょうだい」


「かしこまりました。今すぐご用意いたします」


 老人は切迫した表情でうなずくと、駆け足に近い歩幅で部屋を後にした。静寂が満ちる。


「おさまったかな……」


(おさまってなんかいないぜ。俺はここにいる)


「ああ、駄目だっ」


 シフラは布を引き被り、氷水を浴びたように全身を震わせた。駄目だこりゃ。


(落ち着け、シフラとかいう奴)


「海神ギネヴィ様、どうか僕をお救いください……、お救いください……」


(聞け。俺は別にお前を取って食おうってわけじゃない)


 シフラは全身の発汗に無意識の制止をかけた。


「き、君は一体誰……」


(俺は滝嶋雄一。高校二年の剣道馬鹿だ)


「タキシマユウイチ……。コウコウ二年のケンドウ馬鹿……」


(そうだ。何で俺がお前の意識に存在するのか、こっちが聞きたいぐらいなんだ)


「…………」


(こっちからしたら『シフラ様』、お前こそ意味不明の存在なんだ。ともかく落ち着け。分からないもの同士、ずっと拒絶し合っていてもしょうがないだろ)

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