石碑はうたう
不規則な生活のせいか、はたまた睡眠時間の少なさのせいか。真っ白な雪が吹き付けるある朝、マリーは風邪をこじらせた。
うつら、と浅い眠いがマリーを包む。熱のせいで横になっていてもふわふわと体が浮くよう感じられた。
ふかふかと柔らかい布団に幾重にもくるまれて、足下には暖めた炭の懐炉、枕元には喉に利くという青臭いハーブの花束。
部屋中にはたっぷりのお湯の中にハーブがいくつも漬け込まれ淡い湯気をあげている。
目を閉じていると、そこはまるで地下の庭だ。マリーは浅い眠りの中、庭に迷いこむ夢を何度もみた。
(庭……夢……)
マリーは熱っぽい瞼をぐっと閉じて、熱い吐息を吐く。悲しくもないのにぬるい涙が何度も目からあふれてこぼれるのが鬱陶しかった。
(夢……)
夢の中の扉は重くて固い。
必死にこじ開けてはいった先にセージはいない。
ああ、あの素晴らしい体験はすべてすべて夢だったのだ……。
10歳の記念日に見つけたその庭は、すべて幻だったのだ。
何も無い庭の真ん中で、愕然とマリーは立ちつくす。
……そんな夢を繰り返し、マリーは見た。
「セージ」
と、つぶやいた自分の言葉に驚いてマリーははっきりと覚醒する。
ベッドの脇に控えたケイトがマリーの側に素早く寄り添った。
マリーは慌てて布団を口元まで上げるが、幸いケイトにはその声は聞こえなかったらしい。
聞こえなくても、きっとただの譫言のように聞こえたことだろう。マリーの喉は腫れ上がり、声はかすれきっているのだから。
「おはようございます。体調はいかがですか?」
「今……何時?」
口を開けば、それだけで咳が漏れる。ケイトの指がマリーの額に触れた。汗で張り付いた前髪を払ったのだ。触れた指先は冷たく心地良い。
「もう夜です。さ。ハーブのお薬を飲んだら、もう一度お休みください」
「嫌……それ、まずいもの」
「いけません」
ケイトは口調こそ冷たいものの、その手は過保護なまでによく動く。起きあがったマリーの肩に柔らかいストールをかけ、胸元にあたたかな懐炉が押し当てられた。
マリーが風邪を引き込んでもう四日。ケイトはマリーにぴたりと寄り添ったまま、ほとんど部屋を出ることもしない。恐らく眠ってさえいないのだろう。鉄仮面のような彼女の目元がかすかに赤い。
日頃から献身的なメイドではあるが、この寄り添い方は心配性の域を超えている。
それでも黒のドレスを乱すことなく、彼女は細々と動く。マリーの汗を拭き、乾いた涙の跡を撫で、髪を整え、熱の具合を見た。熱は下がってきているのか、ようやくケイトの顔にほんの少しの安堵が浮かんだ。
「もう随分よくなっているようです。お薬もあと数回の我慢ですよ、マリー。我が侭をいわないで」
驚くほどの忍耐力だ。かつて母にもこのように仕えたのだろうか。
マリーはふと、サムが描いたケイトの笑顔を思い出す。
あの顔は、メイドとしての彼女の表情ではなかった。
かつては母と友人だったのではないか。と、マリーは考えた。だとすれば、なんと幸福な過去だろう。しかし今のケイトに、それを尋ねる勇気をマリーは持たないのである。
「マリー」
「……」
「ケイト、風邪が移ってもしらないわよ」
「マリー、早く、お薬を」
ケイトは努めて機械的にマリーを見つめ続ける。マリーは諦めてケイトの持つ暖かなカップを受け取る。のぞき込めば、ハーブの青臭い湯気がマリーの鼻を撫でた。
風邪を引いてこの薬を飲むのは何度目になるだろう。青臭くて喉につかえるこの味はいつまで経っても慣れないのだ。
勇気を振り絞って口にすれば、甘苦い味が口の中いっぱいに広がる
「ねえケイト。いつになれば熱は下がるの?」
「お医者様がおっしゃるには、ただの風邪ですので……あと数日。下がったあとも慎重にして……せめて一週間はゆっくりとお休みください」
「そんなにも」
「少なくとも……あと3日」
「そんなに……」
カップの中の液体に、落ち込んだマリーの顔が映る。少しやつれている。よほど酷い風邪だったのだろう。
思えば、マリーはあまり風邪を引いた経験が無い。ほんの幼い頃に引いたきりだ。
その時も、祖父とケイトが必死に看病をした。幼心にもおかしく感じたものである。ただの風邪に大人達が引っ張り回される様がおかしくて、幼いマリーはいつまでも風邪が治らない振りをした。
「昔のお嬢様は風邪の振りがお上手で、いつまでもベッドに居たいご様子でしたのに。今回は早くベッドから出たいのですね」
「……あのときは……その……ごめんなさい」
マリーは過去の自分を思い出すたび恥ずかしくなる。まるで子供だ。実際、子供だったのだが。心配されるのが嬉しくて、なかなか治らない振りをした。
そのせいで、ロンドンから高名な医者まで呼ばれて大目玉を食らったものである。
「だって、ベッドの中で眠るのも飽きてしまったのだもの」
マリーが必死にカップの中身を飲みきると、ケイトは満足したように少しだけ口元をゆるめる。
「熱に浮かされて譫言をおっしゃるような状態ではとても、治ったとは……しかし最近のお嬢様はお疲れですね。絵のモデルが、負担になっているのでしょうか……」
譫言、という言葉にマリーはぞっと背をふるわせる。意識が遠いとき、人は思わぬことを呟くものだ。
熱に浮かされている時、マリーはいくつもの夢をみた。それは庭であったり、母であったり、父であったり、そしてセージであったり、秘密の庭であったりもした。
「譫言……」
「……おじいさま。と」
ケイトは目を伏せて、そして立ち上がる。薄暗くした部屋の中だと、彼女のヤグルマギクに似た目の色がよけいに悲しく美しく見えた。
「湯をわかして参ります。もし体調がおかしくなれば、呼び鈴を」
「そんなすぐに急変なんてしないわ」
黒いドレスが扉の向こうに消えた時、マリーは小さく息を吐き出して、熱のこもった枕に頭を押しつける。
まだ熱は高い。頭の奥はずきずきと痛むし、喉はひどく痛い。体を動かすだけで、熱い吐息が漏れる。
しかし。
(きっとセージは心配してるはず)
この部屋の真下にいる、セージを思うといてもたってもいられないのである。もう何日も顔を見せていない。彼と出会ってからは2日も庭を空けることがなかったというのに。
マリーはベッド越しに庭の気配を探ろうとする。しかし、セージの声は聞こえない。庭の香りもしない。
目を閉じれば悪夢が蘇る。
(庭は……セージは……夢じゃない……だって会ったもの、話をして……キスも……)
彼にマリーの具合を伝えることはできない。床は厚すぎて、叩いたところで音も響かない。
古典小説では手紙で思いを伝えるシーンがあるが、それを届けてくれる小鳥も妖精もここにはいないのだ。
(石碑の音……)
だからマリーは枕を除けて、ベッドに直接耳を押し当てるのだ。じっと目を閉じていれば、うなるような石碑の声が聞こえる。
昔は恐ろしかったその音が、今ではマリーの心の支えだった。音は高く低く、嘆くように時には跳ねるように。波のようにマリーの耳に心地よく響く。
(歌ってるみたい……)
音は最近、ますます大きくなるようだ。その音が嘆くように響くと、マリーはふわふわと寂しくも暖かな気持ちとなってしまうのだ。
(セージ……)
会いたい、とその譫言は夢に溶ける。やがてマリーは、夢を見た。それはセージが緩やかに歌う夢だった。
マリーの風邪が治ったのは、それからきっかり3日目。心配性のケイトによって、数日間の安静を強いられたのち、解放されたのは風邪に倒れてちょうど十日目のことだった。
「マリー!」
庭へ足を踏み入れたとたん、懐かしい声が庭中に響く。ぶ、ぶ、ぶ、と石碑の音も同時に高く響いた。その声を聞くだけで、マリーは泣きそうになってしまう。
庭につながる扉を開けるまで、マリーは恐ろしくて仕方がなかった。
この数ヶ月の出来事は全て夢。この扉の向こうには誰も居ない、そんな幻を夢を何度もみたのだ。
「マリー! ああ、本当にマリーだ!」
あずまやに駆け込めば、そこには以前、マリーが敷き詰めたベッドがそのままに残されていた。草の香りも土の香りも、暖かな空気もなにひとつ変わっていない。きっとここは時が流れていないのだろう。
「扉が開くのを毎日毎日、待ってたんだ。ずっとその扉ばかり見ていたから、開いたことがまだ信じられない……」
「ごめんなさい、セージ」
セージも相変わらずそこにあった。透明なガラスに詰まった美しい水、そして水に浮かぶ赤毛に、グリーンの瞳。
その目がかすかに、潤んでいる。
「もう……来てもらえないかと思ってた」
(もう……会えないと思った)
マリーはその顔を見るだけで、泣きそうになってしまう。ガラスの中の彼は、間違いなくそこにあるのだ。
「ああ。本当に……ここにいるのは、マリーだろうか」
「セージ、ごめんなさい。セージ……」
ごめんなさい。と、マリーはガラスに触れる。それ以上近づけないことが不服であり、そして幸福だった。
胸が締め付けられるように苦しいのだ。もし今、彼とマリーを隔てるこのガラスがなければ、きっと不作法にも彼の頭をきつく抱きしめてしまったことだろう。
「風邪を引いて寝込んでいたの」
「え、大丈夫だったの?」
「もうすっかり」
セージの声は柔らかい。その声を聞きながらベッドに寝転がると、心がふとゆるんだ。目を閉じれば、石碑の歌声が優しく聞こえる。
「寝ていても、石碑の音が聞こえたから、すごく安心した。でもあなたになにも伝えることができなくて、ひどく心が苦しかった」
球体をのぞき込めば、セージはすっかり落ち着いた顔をしている。先ほどまではほんの子供のような表情だったというのに。今のセージは、幼い妹の言葉を聞く兄の顔だ。優しく、あたたかな。
このような顔をすれば、彼が随分年上であることを、思い知らされるのである。
「その石碑といえば……確かにずっと、ひどく鳴いてた。この10日の間、いつも以上にうるさかった……」
ふ。と、セージの目が庭の中央をみて呟く。
草木の生い茂る中、見えるのは巨大な石碑だ。台形に近いそれは、墓石のようにも古代世界の置きみやげのようにも見える。苔と水に削られて、一種異様な雰囲気を感じる石碑だ。
「これが何かわかる? マリー」
ぶ。と、石碑が鳴いた。マリーは一瞬、背に水をかけられたようにぞうっとふるえる。
「え、あなたも知らないの?」
「昔、ジョージが僕を連れて庭を散歩してくれることがあったんだ」
セージの視線はマリーを超えて、庭の中央にある石碑に注がれている。
その石碑は、ここから見えても異様なほどに大きい。
マリーはここに初めて迷い込んだ日のことを思い出す。マリーはセージより先に、この石碑をみたのである。
その石碑には、不気味にねじくれた、機械のような腕が、足が……半分ほど埋もれていた。それはセージには伝えていない。なぜだか、言ってはならないことだ……そんな気がするのである。
「でもジョージはけして、石碑には近づかなかった。ちかづいても、手前まで……君もそうだろう? そこに、なにがあるの? なぜ、音が鳴るんだろう。さっきも言ったけど、君が来ないとき、あの石碑はひどく鳴いたんだ。まるで歌うみたいに」
セージは無邪気に問う。が、マリーは言葉を濁した。あの機械の体が忘れられないのだ。
あれはもしかすると、セージの体なのかもしれない。そしてそれを彼が知って、なにかしらの方法で体を手に入れてしまえば……。
(きっとセージはこの庭から抜け出してしまう。私の、知らないところにいってしまう……)
という、勝手な思いがある。
「……何もないわ」
「じゃあ連れて行って」
セージはだだっ子のようにマリーにねだった。
それを止めるすべもなく、マリーは渋々セージを抱き上げて、歩く。一歩、一歩が恐ろしく重い。
「僕を持って歩くことも随分慣れたね」
セージは暢気に言うが、マリーは答えることもできない。
クリスマスの日に彼と散策に出て以来、マリーは時々こうしてセージとの散策を楽しむことがあった。もちろん、石碑に近づくことはしなかったが。
(石碑……歌ってる……)
あずまやを抜けてまっすぐ、庭の中央へ。近いはずなのに、なかなか近づかない。足に履いた木の靴だけが、パカパカと音をたてる。石碑は歌うように、音をあげる。
勇気を振り絞って石碑の前に立った瞬間、マリーは小さな吐息をはいた。
石碑の根本は水があふれ、土が崩れていたのだ。先日ふった雪の水が流れたせいだろう。あの不気味な人形のかけらは、すべて土の中に埋もれている。今はその断片さえ、みえない。
「なんだ。ただの石碑だね」
「だから……そういったのに」
つまらなさそうに呟くセージの声に、マリーはほっと安堵した。
しかしセージは執拗に石碑をみる。その緑色に苔蒸した表面には、何か文字が刻んであるのだ。
あまりにも真摯な文字だ。人の日記をのぞきみる、そんな気にさせられる筆致である。
しかしセージはそれに目を走らせると、ゆっくりと口を開いた。
「何か書いてあるね。苔がすごくて読めないけど……ジョージのサインかな。マリア、とも書いてる。安らかな、眠り……悔恨と……謝罪と……うん、読めない……」
マリーもおそるおそる、その石碑の表面をのぞく。文字はツタと苔に絡まってかすれているものの、おおむね、セージが言った通りの言葉が刻まれているようである。
「マリア……ん? マリーかな……。君とお母さんの綴りは同じなのかもしれない。それにキャサリン……誰の名前だろう。ひどく、悲しんでいる字だ。ジョージが、悲しんでる」
セージの目が真剣に石碑の文字を追い、マリーものぞき込むようにそれを追った。
祖父はいつも明るく楽しそうであった。少なくともマリーの前で悲しむ素振りなど見せもしなかった。それなのに、この庭にかかる雰囲気はあまりにも悲しい。特にこの石碑は、悲しい雰囲気を持っている。
「花……いや、愛?……いや、やっぱり花」
「……花を、あなたに」
二人の声が重なる。不定期に刻まれたその文字はそこでとぎれていた。
「……ここには花なんてないのに」
「時々咲くよ。ただ、すぐに散ってしまうけど……あ。あそこ、マリー」
セージがふと、視線を下に向ける。
人形のかけらが見つかったのかと怯えたマリーだが、彼が見つけたのはそうではない。
石碑の裏に、小さな赤い花が咲いていたのだ。それは薄暗い緑の中、まるで奇跡のように一本だけ咲いていた。
「セージの花だ。僕が目覚めたときに、咲いていた花だよ」
「……綺麗」
屈んで近づけば、花はまるで小指の先ほどの愛らしさ。はかなくふるえるのが哀れであり、愛らしくもあった。
「あら……花の下に……」
花に顔を近づけ、マリーは思わず動きを止めた。硬質の輝きが見えたのだ。体の欠片かと肩をふるわせるが、そうではなかった。それはなにやら巨大な、四角い箱なのである。
「旅行用の……ケースだね」
マリーに抱き抱えられたまま、セージは呟く。
「とても大きなケースだ。なにが入っているんだろう。ジョージの持ち物かな」
「おじいさまは、こんな鞄を持っていなかったとおもうけど……」
土を払って表面をみる。それは銀色の無機質なケースだった。
祖父の鞄はどれもしっかりとした革だ。使い込んで表面が薄く輝くような、そんな革を祖父は好んだ。
では、誰の鞄だろう?
「おもしろそうだ。今度掘り返そう」
「今ではなく?」
「今日は君に会えたことで一つ楽しみがあった。楽しいことは後にすると、もっと楽しくなるだろう? 僕が話す物語みたいにね」
セージはからからと笑う。笑うと、水がぼこぼこと球体の中にあふれた。
そして目を、赤い花へと向ける。
「そうそう、その花。散ってしまう前にマリーにあげる」
「取ったら枯れちゃうわ。かわいそう」
「どうせ掘り返す時に土から抜かないといけないし、何より散ってしまうより、いいだろう?」
セージの許しを得て、花を根本からそっと折る。細い枝はなんなく折れて、花がマリーの手の中に収まった。
あずまやに戻ったマリーは花を握りしめたまま、再び寝転がる。まだ少し、動くだけで息が切れる。体調は完全ではない。
「マリー。息が乱れてるね。平気?」
「平気よ」
寝転がったところから顔をあげれば、セージの本棚が見えた。いつもは綺麗に整っているそこが、今日はひどく乱れている。珍しく、読み散らかした跡がある。
「随分と本を読んだのね」
「君のことが心配でひとつも頭にはいってこなかったよ、マリー」
はらり、と本がめくれる。それは図鑑のような本。続いて引き出された本は詩。そしてオペラを描いた本、本、本。ここには本ばかりがある。
セージは何年もの間、本だけを読んでここにいたのだ。それはさぞ、孤独な作業だったに違い無い。
「本はジョージから譲ってもらったんだ。随分あるけど、いつか読み終わる日がくるのが恐ろしい。読み終わったらまた最初から読むんだ……でも、きっとそれを繰り返す内にすっかり内容を覚えてしまって、とてもつまらない毎日がくる。それが恐ろしい」
マリーは想像する。祖父がここに本を沢山しまっておいたのは、いつか自分がここに来られなくなる日を想像していたからだろう。
そして、その通り、祖父はこの地を踏めなくなった。
「……おじいさまがここにこなくなって、どうだった?」
「さみしかった」
セージは本をいたずらにめくりながら、呟いた。
「こんな体で寂しいなんて、はじめての感情だ……ジョージが来なくなってから僕はね、毎日本を読んで過ごしたんだ。時の流れがわからなくなるくらい、ずっと毎日、毎日、毎日」
本が音をたてて閉じられた。
「だから君が来なくなった時も、本を読んで過ごした。いや、過ごそうと思った。たった数ヶ月前までは、そんな風に過ごしていたんだからね。きっとできると思ったんだ。でも」
「……でも?」
「でも、さみしかった」
セージの声がふるえているようで、マリーは慌てて起きあがる。
しかしセージは泣いてなどいない。ただグリーンの瞳は深く、それは絶望の表情である。
「とにかく寂しかったんだよ、マリー」
石碑もまた、嘆くように歌をうたった。
明け方の一番鶏が鳴いて、孤独な朝食を過ごせばすぐにサムのやってくる時間である。風邪のせいで止まっていた絵のモデルが、再び動き出したのである。
サムはマリーを案ずる声をかけたあと机の上に飾られたセージの花に目を付けた。マリーは持ち帰った花を小さな瓶に飾っておいたののだ。
それをみたサムはぜひ、その花を描きたい。と言う。ケイトの目を盗み花をつかんだマリーをみたサムは、まるで獣のような鋭い目をみせた。
彼はその興奮をマリーに隠すこともしない。絵筆を握ったサムはまるで一匹の獣だった。絵の具が散り、削る音が聞こえる。マリーは声も出せない。彼の目線に負けじと胸を張る、体をまっすぐに、口元に笑みを。どれだけ体が辛くても、目の前にセージの赤い花があるだけで、ちっとも苦にならないのである。
サムは最後の色をおいた後「やっと見つかった」と疲れたように呟いて、絵具を片づける。あとすこしで絵が完成する、と彼は青白い顔でほほえんだ。
「……疲れた」
激動の一日を過ごして、マリーはぐったりとベッドに横になる。病み上がりの体は重くて、動くと熱が再び湧き出すようだ。
ケイトはまだ心配なのか、マリーの枕元にベルを置いて去った。これを鳴らせば彼女は飛ぶようにここへやってくるだろう。
ベッドに丸まって、マリーはサイドテーブルに置かれた花をみる。絵を描いている間握りしめていたせいか、花はくったりと頭をもたげている。土を離れた花は長く生きることはできないのだ。
「……もう、随分しなびてしまった……」
明日にはもう、枯れて崩れていることだろう。
それはマリーのようだった。
あの庭を離れては、マリーも生きていかれない。
「……寂しい」
と、マリーは思った。
祖父も母も父もいないこの屋敷は広すぎる。
石碑の音が響くのはそのせいだ。人の声より虫の声と鳥の声のほうがよく響く。ケイトの部屋は遙か遠く、人の気配もどこにもない。
うたた寝をしたせいで眠れなくなったマリーは切なさと寂しさに押しつぶされ、寝間着をきゅっと抱きしめた。
「……寂しいなんて悔しい。だってもう、10歳なのに」
10歳の誕生日、マリーははじめてあの庭をみた。それから数ヶ月。その間にマリーは真実の母をみた、祖父の気配をみた、ケイトの過去をかすかにのぞきみた。同時に、時が流れる音を聞いた。
「これまで怖いとしか思わなかった。なのに、寂しいなんて」
地下から響く石碑の歌は高らかに響く
「セージは……きっと、もっと寂しかったのね」
マリーはふと、セージの寂しさに触れた気がした。




