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8/20

本当の反対 嘘の反対

 クリスマスも終われば、冬はますます厳しくなるように思われる。

 冬が厳しくなるごとに、冷たくなるごとに、夜の訪れも早くなるように感じられた。

 すでに日課となりつつある絵のモデルも終われば、気の早い夕日が部屋を染め、気を抜けばもう辺りは一面真っ暗となる。

「……お嬢様」

 サムが片づけの手を止めて、マリーをまぶしそうに見つめた。




「お嬢様は最近、髪が随分と長くおなりだ。そんな風に下ろしているとマリア様にやはりよく似ておいでですね」

 マリーが体をほぐすように腕を伸ばした瞬間である。

 体を動かすと、以前よりも長く伸びた髪が腕に絡んでゆれる。

 光に透かすとまるで金の糸のように揺れるこの髪は、マリーの自慢でもあった。

「お母様に?」

「そうだ……いけないいけない、忘れるところでした。以前お約束していた、マリア様の絵をもってきましたよ」

 サムは、座ったまま体を伸ばして部屋の外を見た。そこに人影はない。ケイトは紅茶を作りにいったま、まだ帰ってこないのである。

 白磁のポットに入れるのは、新鮮な茶葉をたっぷり。ぐらぐらと茹だったお湯を使うこと。そしてしっかりと数分、蒸らすこと。

 美味しい紅茶の作り方をかたくなに守る彼女は、一度台所へ消えてしまうとなかなか戻ってこない。

「さ。お嬢様、こちらを……メイドには秘密ですよ……」

 サムが荷物の奥から大事そうに取り出したのは、掌より少し大きい程度の額縁だった。

 卵型をしていて、縁は黄金色の刺繍が施されている。地は柔らかな紫のサテン。

 その上に、まるで写真のように精巧な絵が飾られていた。

「カルト・ド・ヴィジェット、というものです。本来なら写真を飾るのですが、それを絵にしてほしいとマリア様からの希望でした」

 サムは目を細めて、絵をのぞき込む。そして宝物を託すようにマリーへと手渡すのである。

「これが、お母様……」

 受け取るマリーの指が震える。軽いはずなのに、掌にひどく重圧を感じる。

 小さな絵の中に描かれた母は……少女は……自分とそっくりの容貌を持っていた。

 いや、髪の毛はマリーよりも長い。腰ほどまでもある。

 しかし色はマリーと同じく、金だ。外で写し取った絵なのだろう。差し込む日差しが髪の毛に吸い込まれて、金の粒のように輝いている。

 彼女はまだ十五歳にもなっていない。

 頬は明るく、つやつやと輝くよう。

 目は透き通るようなブルー。

 楽しそうに笑う口元は赤い。

 その口は、淑女のように閉じられてはいない。まるで光を受けるのが楽しくて仕方ないというように大きく開いて笑っている。 

 ドレスは生成のシンプルなもの。乱雑に座っているものだから、足がむき出しだ。真っ白で、まるで子鹿のように伸びやかな足。

「……隣は?」

 そんな母の隣に、もう一人美しい少女が座っていた。

 首もとまで詰まったドレスの色は華やかなイエロー。きっちりとしたデザインながら、首も腕も長いその少女によく似合っている。

 細い腰にはたっぷりのフリルをあしらい、結い上げた黒い髪には愛らしい花の飾り。そして、恥ずかしそうに微笑むその目の色はヤグルマギクの青紫。

「あの口うるさいメイドです」

 サムは人差し指を口元に押し当てて、重大な秘密を漏らすように微笑む。その言葉に、マリーははっと息をのんだ。

 写真を覗き込み、そして溜息をつく。なんて綺麗な少女なのだろう。

「綺麗……とても綺麗……」

 言われてみれば、絵とはいえその顔には名残の断片がある。サムの絵は精巧すぎて、ほぼ現実と変わらないのだ。

 大きな体も、その瞳の奥にある生真面目な色も、確かにそれはケイトなのだ。年齢はまだ20歳に足りるか足りないか。そのくらいの、愛らしいケイトなのだ。

「ドレスもすごくよく似合ってる……なぜ、今は黒ばかり、着るのかしら……それよりも、こんな小さな時から、ケイトはこの家のメイドを?」

 マリーは絵を撫でる。ごつごつと、絵の具が指に絡んでくる。そこにあたたかな血潮はない。脈打つ心音も吐息も声もそこにはない。

 しかしマリーは触れずにはいられない。

 母を、その目で見るのは生まれてはじめてだった。

 ケイトの胸元にいつも隠されているペンダント。そこには母の絵がそっと入れてあることをマリーは知っている。

 しかし、実際に見たことは一度もない。彼女はひた隠しにして、見せようとさえしなかった。

 ケイトは、いつも胸にこんな美しい母を隠し持っていたのである。

「……まって。ねえ、サム。お母様は、何を履いていらっしゃるの?」

 マリーの指は、母の足下でふと。止まる。

 そこに見えるのは母のむき出しの足である。その先には、薄茶色の四角い靴がきちんと履かれていた。

 それは淑女が履くには、あまりにおてんばすぎる靴だった。足首まですっぽりと覆い隠すような、それは。

「木の……靴だわ」

「あの方は、あなたと負けず劣らずおてんばでしたよ」

 つぶやいたマリーに、サムは笑顔を返した。

 マリーの指が小さく震え、足の指先でぎゅっと絨毯を掴む。その足先は、木の靴の感触を覚えている。

(秘密の庭の……私の……木の靴……)

 それが、母の足下にもあるのである。

 ぐるぐると回りそうになる視界の中で、マリーは考える。あの靴を見つけたのはほんの偶然。屋敷の中で投げ捨てられていたのだ。古くて、ぼろぼろで、欠けて、まるでゴミのようになって。

「なんで、お母様が木の靴なんて……」

「マリア様はお嬢様のように、じっとなんて、してくださらない。すぐに逃げてしまうので、この絵を描くときにもずいぶんと苦労をしたものだ。マリア様の特技は、かくれんぼなのですよ」

 サムが平然とそんなことをいうので、マリーはますます混乱してしまう。 

 マリーが知っている母は、淑女だ。レディだ。完璧な女主人だ。一部の隙もなければ、汚れもない。崇高で、美しく気高い……。

「ねえサム。お母様の……お話をして」

 マリーの中でがたがたと、音をたてて母の像が崩れていく。それはいやな気分ではない。すがすがしく、笑いがこみ上げてくるのだ。

 母も、マリーと同じ少女なのだ。少女だったのだ。

「お母様の、お話をして、サム」

「いずれまた」

「今よ。一つだけでも」

 マリーは絵を抱きしめてサムにすがる。

 サムは困ったように白い眉を寄せるが、やがて口元をほころばせた。

「そうですね……では、一つだけ。マリアは、ダンスが苦手でした。すぐに相手の足を踏んでしまう」

「踏んでしまうの?」

「ええ。そして、踏んだら必ず、こう言うのです、私の足が長すぎるせいね、ごめんなさい……とね」

 サムは大きな画板と絵の道具を背に負う。下から見上げるサムの顔はやはり優しかった。

「サム、絵を……」

「さしあげます。それはもう、あなたのものだ」

 マリーの掌をぽん、とたたいてサムは頭を下げた。俯いたその口元から、悔恨のような色がにじむ。

 背後にケイトの足音を聞いたサムは素早くマリーの耳元にささやいた。

「……本当はもっと早く、あなたに見せなければならなかったんだ」

「え、それはどういう……」

「ケイトがきます。早く、隠して」

 階段を上るケイトの足音に、マリーは慌てて絵をドレスの内側へと隠す。

 胸に抱いた母は不思議と温かく感じられた。



「不思議な顔をしているね、マリー」

 セージが歌うように、言った。

「そうかしら」

 庭で寝転がることが、最近のマリーの日課であり、至福の時間だった。

 柔らかな布を踏んで、マリーはゆっくりと腰を下ろす。

 庭のあずまやには、毎日少しずつ布を運んであった。

 不要になったシーツ、カバー、タオル、そして古い服。

 一気に運んでしまうと勘のいいケイトに気づかれてしまう。だから毎日、一枚ずつだ。幸い、この館には古いドレスが山のようにあった。以前はそのドレスが誰の物かわからなかった。ドレスはどれも古く、しかし鮮やかで、愛らしい少女のものだったからだ。

 ……今ならわかる。

(これは、お母様の、ドレス……)

 運び出した布はあずまやの床いっぱいに敷き詰めた。下に堅いものを、上には柔らかい物を、重ねるうちに、まるでそれは立派なベッドだ。ここに潜り込めばもう、寒さなんて感じないのである。

「……不思議な顔をしている?」

「納得がいかない。って顔をしているよ。今日は、ずっとだ」

「ずっと自分がそれと信じていたことが、実はまるきり正反対だった……って気がついたら、セージはどう思う?」

 ころり、と転がってマリーは上を見上げる。あずまやの床ベッドに寝転がれば天井が丸ごと見えるのだ。

 寝転がってしまえばセージの顔は見えない。机の真下が見えるだけである。しかし声だけは優しく降り落ちてくる。マリーはここに寝転がって彼の声を聞くのが好きだった。

 柔らかい水の中にゆっくりと沈んでいくような、彼の声にはそんな魅力がある。

「ずっと長く信じていたことが嘘だったってことを知ったの。騙された気がして腹が立って、でもその怒りをぶつける場所もないの」

「僕ならきっと」

 マリーの取り留めのない言葉にも、セージは真摯に答えてくれる。しばらく悩むように言葉を切ったあと、彼ははじけるように言った。

「その意外なことに驚いて喜ぶだろうね。僕は驚くことが好きだ、びっくりすることや、変化が好きだよ。ここはずっと変化がなくてあまりにも退屈だった。君がきてくれて、僕は嬉しいことばかりだ。だから、びっくりするようなことがあれば、きっと僕なら喜ぶだろうね」

 マリーは体を起こしてセージの顔をのぞき込む。と、彼は少し照れたように笑った。

 ヤドリギの下でガラス越しのキスをして以来、マリーが顔を近づけるとセージはひどく照れる。マリーも恥ずかしくなり、結局二人の間にほんの少しの距離ができた。

 しかし、二人の会いだに流れる空気は以前よりももっと柔らかい。

「まあ僕が脳天気にすぎるのかもしれないけど……あれ?そういえば、マリー、腕に打ち身があるね」

 セージの目が、マリーの腕をじっとみている。マリーはちょうど、机にだらしなく腕を絡めていたのである。

 ガウンから漏れた腕には、四角く青いあざができていた。

「あ……本当だわ。気づかなかった。ダンスの練習をしているから……どこかでぶつけたのかしら」

「ダンス?」

「叔父の結婚式に呼ばれて……」

 マリーは手短に、結婚式について語ってきかせた。

 といってもマリーも詳しいことは知らない。

 クリスマスの日に突然、叔父の結婚式の誘いを受けて、その式もあと一ヶ月を切っている、ということしか知らないのである。

 どんな結婚式なのか、誰が呼ばれているのか、そもそもなぜ今更マリーが呼ばれることになったのか、それはケイトでさえ首を傾げている。

 これまで、マリーが親戚から誘いを受けるなどなかったことだ。

 それもマリー一人で来るように、と叔父は言った。ケイトはそれが不満でならないらしい。

 マリーは幼い頃から今まで屋敷から一人で出る事を許されなかった。広大な庭を抜け門の前まで行くことさえ、ケイトはいい顔をしなかったのである。

「……ケイトは付いてこられないから、余計に張り切っちゃって……恥だけはかかないようにって、ドレスも新調したし、ダンスも教えてくれるの。それも、ひどく厳しくね」

 ダンスを踊れないマリーのために、ケイトは数日に一度、厳しい特訓を付けてくれる。

 ケイトが相手をつとめるものだから、小さなマリーは嵐のように引っ張り回されるだけだ。おかげであちこちを打ち付けて、目ばかりが回る。

「へえ……」

 語るとセージが珍しくも、目を伏せる。口調が鈍り、吐き出される泡が大きなものとなる。

「その叔父さんって、どこのひと?」

「さあ。馬車ですぐって聞いたけれど……隣の町なの。10マイルもないと思うけど」

 マリーは頭の中で叔父の顔を想像する。金の髪だろうか、黒い髪だろうか。父のように口には髭があるのだろうか。背は高い? 低い?

「楽しみなの? マリー」

「……つまらなさそうね、セージ」

「君がこの屋敷から数分でもいなくなると思うと、僕はとてもたまらない気持ちになるんだ……それに、僕は踊れないだろう」

「私だって踊れないし、知らない人と踊るのは嫌いよ」

 マリーはセージの球体のガラスをそっと撫でかけて、慌てて手を引っ込めた。最近、彼のガラスに触れると心臓が跳ね上がるようにうるさくなるのだ。

 しかし、この邪魔なガラスを取り払い、実際に彼に触れることができればどんなに素敵だろう、とマリーは思う。

「……唯一の楽しみは食事くらいね。結婚式に出されるのは、ウエディングブレックファストっていうの。サンドイッチにフォアグラ、七面鳥。ケーキに紅茶に、山桃の、ジュース……フルーツをお酒につけたもの……」

 マリーは瞳を閉じて、その光景を想像する。

 机の上に、所狭しと並べられた銀の食器、その上にこんもりと盛られた豪華な食べ物を。

 色も鮮やか、湯気にも色を持つほどそれはさぞ見事な光景なのだろう。絵や写真でしか見たことのないごちそうの数々だ。

 チキンは中までしっとりと焼かれ、素敵なフルーツのソースがかかっている。

 チーズは様々な形のものを用意して、よく焼けた白いパンに乗せてかじればきっと甘い味がするに違いない。

 赤いぶどう酒に漬けられた甘いフルーツやナッツも、この屋敷ではなかなか食べさせてもらえない。

 ……しかし、マリーはしょんぼりと顔をうつむけた。

「でもそんなものも、淑女は食べちゃだめなんですって。目の前にあるのを見るだけ。紅茶とホットワイン、ココアは飲んでもいいけれど、お肉をぱくぱく食べるのは、はしたないんですって」

「おなかが空いたら大変じゃないか」

「おなかなんて空かないのよ。だってコルセットで体をひどく締め付けるから」

 マリーはおなかをぽん、とたたいてみせる。今はガウンだけをまとうこの場所を、コルセットできりきりと締め上げるのだ。

 うんと細いウエストが美しい、とどの本にもかかれているし、ケイトもそう信じていた。

 マリーはただただ苦しいその儀式を考えるだけでぞっとしてしまうのである。

「マリーは十分細いのにこれ以上?」

「もっともっと細くするの。倒れる人もいるくらい」

 マリーはあずまやの外に生え揃うハーブの中に駆け込んで、ガウンの中に押し込む。スカートの後ろがこんもりと、盛り上がった。

「最近流行のドレスはバッスル。お尻のあたりから大きく膨らませてウエストを細く見せるの。ケイトだってそうよ。いつも黒のドレスだけど、時々お出かけするときは流行の形のドレスを着るのよ。ウエストもうんと細くしてね……ねえ、これをみて。この右側が、ケイトよ。ずっと今より、昔だけど」

 マリーはふたたび東屋に駆け戻ると、懐にかくして置いた例の絵を取り出す。そしてセージの前に立てかけて見せた。

 卵形のその絵には、二人の少女がほのぼのと微笑んでいる。その絵を見せたとたん、セージの目が驚きに見開かれる。

「綺麗だね」

「この右側がケイトよ。このころはこんなに素敵なドレスを着ていたのに、今は黒のドレスばかり。もう随分と年をとった、ってケイトは自分でいうわ。それなのに、ドレスだけは細くするの」

「女性はいつでもレディなのだからそういうことを言っちゃいけないよ、マリー……」

 セージは興味深そうに、水の中から絵を見つめる。鮮やかな色合い、春の色。美しい二人の絵はセージの気持ちを動かしたらしい。

 軽く嫉妬を覚えて、マリーはセージをにらみつける。しかしセージは気づかないのか、ぱっと花が開くように笑った。

「このケイトの隣の女性、驚くくらいマリーにそっくりだね」

「……母なの」

「聞いていたイメージと全く違う。マリーにそっくりだ。びっくりした」

「そっくり? 本当に?」

「優しそうなのに、瞳が勇敢に見える。でも口元が明るくて、頬が楽しそうだ。顔の作りと言うより……そうだな、表情が、マリーにそっくりだ」

「そうなの、お母様はこんなにも嬉しそう」

「……きっと数年後のマリーはこんな顔になるんだね」

 セージがしみじみとつぶやくその言葉には、良心しか感じられない。祝福の言葉だ。彼の言葉は、降り注いでくる光と同じ温度をもっている。

 母に似ていると、その言葉だけでマリーは泣きそうになってしまうのだ。

 会ったこともない母、見たこともない母。

 それは、十年の時を越えて、はじめてマリーの前に姿を見せた。

「じゃあ、ここに飾っておくわ。私がここに来られないとき、セージが寂しくないように」

「そうだ。ベスが絵を見つけたあと、大冒険をした話をしたね。あれには続きがあるんだ……」

 セージのと隣に絵を飾ると、ふと、セージは思い出したように口を開いた。

 クリスマスのあと、調子を取り戻した彼は物語の続きをマリーに語って聞かせた。それは勇敢なる少女、ベスの物語である。

 城中の一角、自分とそっくりな絵を見つけた彼女は、そのまま城の中に迷い込む。そこは城の女たちが暮らす居城だった。穏やかな世界、美しい庭、いい香りのする食卓に、ベッドルーム。

 迷ううちに彼女は一人の老女と出会う。

 老女はベスを見て、見知らぬ女の名を叫んだ。

 美しい花に囲まれた老女はもう、死のふちにいた。周囲に飾られた花は死臭を消すためのものである。

 ただ一人で、メイドも家族もない明るい部屋で今まさに死の縁にいる彼女は、ベスの手を握って泣く。そして彼女は重大な秘密を漏らすのだ。

「秘密って?」

「そうだね、それはベスの母……本当の母親のことだ。ベスを、彼女を生んだ本当の……」

 ベスはまだ赤ん坊の頃に、スラムの一角に棄てられていた。その実の母は……。

「それはこの城の女王。今の王様の母親。つまりベスは、王様の妹だ。そして、ベスの兄に助けを求めにきた王様のお兄さん、ピーターの妹でもある」

 マリーは想像する。壁にかけられた大きな絵。そこに描かれた自分にそっくりな女の姿。

 それが母だと知ってベスはきっと驚いたはずだ。そして? 棄てたことを怒る? 棄てられたことを悲しむ? それとも出会いを喜ぶ? 

 自分ならばどうだろう。と、マリーは母の絵を撫でた。

「……驚いたでしょうね、ベスは」

「でもベスは勇気のある女の子だ。そして明るい女の子だ。母の姿を見て喜んだ。会いたい、と言った。しかし老女は悲しそうにベスを見つめた。ベスはその理由を聞く。老女は語る……女王は、ベスの母は、息子の暴動を止めようとして監禁されてしまったのだ、と」

「その老女はだれ?」

「急ぎすぎだ、マリー」

 セージは苦笑する。物語を語るとき、彼は少しも照れもしない。表情は気高く、声には張りが生まれる。まるで物語の神が乗り移ったように。

「……老女の謎はまた今度……ともかく母が監禁されていることをベスは知ってしまった。その場所は地下迷宮の奥深く。母は息子に閉じこめられるとき、彼の王冠を奪ってしまった。ベスが王冠や鍵を探してもないはずだ。お母さんが地下迷宮に持って行ってしまったのだから」

「王様も……きっとお母さんを捜してるわね。だって王冠がないと、王様じゃないもの」

「そうだ。とくにこの国の王冠は、王であることの証でもある。自分で母を閉じこめたくせに、こんどは母の場所を探ろうとしている。しかし女王だって必死だ。息子の悪事を止めたい一心に彼女は迷宮の深くヘ隠れてしまう。なぜ道がわかるかって? それはこの地下迷宮こそ、女王が作り出したものなんだ」

 マリーの胸が高鳴る。古い城、その地下に広大に広がる、迷宮。

「秘密を解き明かすものは、母の残した日記。それには迷宮の暗号がかかれている」

「日記?」

「日記を馬鹿にしちゃいけない。あの場所は、自分の秘密を開けっぴろげに書ける唯一の場所だからね。老女は枕の下に隠してあった赤い革の小さな日記をベスに差し出すんだ。どうか、それで、女王を救って欲しい……と」

「この人が持っていたのね」

「老女は言う。この日記に暗号があると気づいた王様が女王の部屋を家捜しした。しかし見つからなかった。なぜなら引き出しの底を二重にして、その間に隠していたからだ。老女はそれを知っていた。女の子の秘密はそんなところにあるってことをね。そして誰か勇敢な……女王とこの国を救える誰かが来るまで勇敢なる老女はそれを隠しておいたんだ」

「まあ……」

 マリーは物語からふと目覚め、口を押さえる。自分のことを思い出したのだ。

 マリーも、日記を付けている。毎日、寝る前に数分をかけて一日のことを書く。その日記はいつも、無造作に机の隅っこにおいてあった。

「……私も日記を付けているの。ここへきたことも、全部」

「見つかると大変だ」

 セージも焦ったように言うものだから、マリーはそわそわと、気になって仕方がない。今にも、悪い王様がマリーの部屋を家捜ししているのではないか。そんな気がしてしまうのだ。

「この物語のように隠して御覧。泥棒は案外、机の上げ底に気がつかないんだ。女の子机の引き出しには、秘密があってしかるべきなのにね」

 マリーは耳を澄ます。音はない。風の音も、人の気配も。

「不思議。この間まではベスが自分のようだったのに。今じゃ、ここが迷宮で、迷い込んだ女王様の気分」

「きっとここが迷宮に似ているからだろうね」

 セージは瞳を一度閉じる。開けた目に、うっすらと朝日の色がにじんでいた。

「いけない。今日は長く話をしすぎた。もう、朝だ……マリー、早く戻らなくっちゃ……」

 帰りを促すセージはいつも少し切なそうに見える。マリーは彼の背後に回り込み、彼の頭に軽く額を当てた。

「本当に迷宮で……ここに閉じこめられたならよかったのに」

「僕も時々、そんなことを思うことがあるよ」

 セージの声は、朝靄に溶けた。

 朝の薄い光が窓から差し込み、地面いっぱいに青い靄が浮かぶのだ。それはハーブが放つ朝露からわき上がっているのか、それとも地面からわき上がっているのか。

 青い香りに包まれて、マリーは迷宮の幻を見た。

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