ヤドリギの下で
クリスマスの朝は、早々に雪が積もった。
まだ視界の薄ぼやける朝一番、マリーはベッドの上でようやく体をおこす。
マリーの視界、小さな窓の向こうは一面の銀世界である。
「え……ケイト、今、なんて?」
マリーは目を大きく見開いて、ケイトを見上げる。
最近マリーは寝不足気味だ。深夜に起きて庭へ向かい、そこでまた数時間眠る。一番鶏が鳴く前に部屋へ戻りもう一度、軽く眠る。
そんな細切れの眠りはマリーに十分な睡眠を与えてはくれない。
寝惚け眼になっていたマリーの眠気も、一瞬で吹き飛んだ。
「結婚式? 私を? 招待?」
「叔父様の結婚式にお招きを受けた、と申し上げたのです。マリア様の……二つ下の。お嬢様は会ったことがないと思いますが」
珍しくケイトの歯切れが悪い。
クリスマスの朝、マリーを迎えたのはプレゼントではなかった。見たことも会ったこともない、叔父の結婚式の話である。
「なぜ? 私は会ったこともお話をしたことも、お手紙をいただいたこともないのよ?」
「ですから、今更クリスマスカードが届きました、お嬢様」
ケイトが机の上にそっと置いたのは、近頃流行っているというクリスマスカードだ。
もみの木にかかる雪、緑と白の美しい縦長のカードには、金色の文字で当たり障りのない言葉が並んでいる。
きっとマリーがどんな女の子だったのか。なんて、叔父は全く記憶にもないのだろう。マリーはしみじみとカードをのぞき込んで、苦笑する。
「綴りを間違えてるわ。私の名前はieじゃない。yなのに」
「まあ失礼なこと」
ケイトは間違いに一瞬眉を怒らせたが、すぐさまその顔を隠して机の上を軽く片づける。
そして、朝食用の紅茶をマリーの前に置いた。
「結婚式にダンスがあるそうです。お嬢様と同じ年のお客様がたくさんいらっしゃるそうですから、それでお呼びになったのかもしれませんね」
紅茶はシナモンがたっぷりときいている。ミルクティの上には真っ白いクリームが乗せられて、その上にはクローブの粉をひとふり。
……冷たいクリームの下から溢れる熱いお茶をすすれば、喉の奥でクリスマスの味が広がる。
マリーの目の前には、きっかり一人分のクリスマス料理が並んでいた。ローストターキーに果物、真っ白なパンに、湯気を立てる真っ赤なクリスマスプディング。
真っ白な皿に白々しいほどたっぷりのクリスマスの料理の数々。
本来ならディナーメニューだ。しかしどうせ朝でも夜でもこの家では、マリーは一人で食事をするのだ。どうせなら、朝日の美しい時間にいただくほうが、いくらか気分が紛れた。
料理人もそれをわかっているのか、せめても愛らしく仕上げた料理の気遣いにマリーはよけいに悲しくなってしまう。
「……行きたくない」
チキンをかじり、マリーは俯く。
いつものことだが、クリスマスの食事は味がない。華やかな見た目と幸せな空気が、マリーの心を冷たくさせるのだ。
よその家ではどれだけ貧しくても、父や母が揃う。兄妹や親類縁者も訪れるだろう。友人達はプレゼントを手に、賑やかに集まってくるに違い無い。
しかし、マリーは一人だ。父は今年も、カードとプレゼントだけを贈ってきた。それに加えて、叔父のカードも。ただ、それだけだ。
「そんな、知らない人のところでダンスなんて。ダンスだって、そんな、うまく踊れないのに」
「私も、行って欲しくありません。交流もないお屋敷にお嬢様一人だなんて……」
「一人……なの?」
「ええ……お手紙にはそのように」
ケイトが言葉を濁した。常にまっすぐに言葉を吐く女性である。そんな彼女が気まずそうに顔をうつむけたのだ。珍しいことである。
「……とはいえ、理由もなく断るわけには。少し先になりますので、早めにドレスなどは新調しておきましょう」
ケイトのヤグルマギク色の瞳が伏せられる。そんな風にすると、長いまつげが瞳に影を落とす。意外な美しさにマリーはふと、心を打たれた。
「ケイト」
「それと、お嬢様。今日はこのあと、クリスマスカードのお礼に、そちらのお家に行って参ります」
しかしケイトの表情の変化は一瞬だけ。またいつも通りの厳格なメイドの顔を取り戻し、マリーのカップに減った分だけ紅茶を注いだ。
「クリスマスですので、サム様もいらっしゃいません。お嬢様は温かくなさって、お屋敷から出られませんように」
「……いつ頃戻るの?」
ケイトの言葉に、マリーの声が震える。その震えを隠し、マリーはさり気なく訊ねる。
「雪がひどいですから」
「遅くなるのね」
「毎年この季節は嫌になります。道は馬車で混みますし、雪のせいでなかなか前にも進まない」
ケイトの言葉に、プディングをつつくマリーの手が震える。ケイトはいかにも困った顔をして窓の外を見たのだ。
朝から降り続いている雪はどんどん強くなり、今や横殴りだ。楡の木立が音を立ててゆれている。
「気をつけて。雪が……吹き付けてくると危ないから」
マリーは口の中のものを飲み込んで、さりげなく窓の外を見る。そこはやはり、真っ白だった。
「馬車が止まってしまわなければいいのですが」
ケイトはいつものとおり黒のドレスに、せめて華やかな赤のスカーフをまきつけて完璧な角度でスカートを軽く持ち上げた。
「お嬢様。けして、お屋敷の外にでられませんように」
マリーは淑女然として紅茶を啜り、屋敷の女主のように毅然と胸を張った。
「ええ。絶対に出ないわ、屋敷の外にはね。ケイトも気を付けて。おじさまによろしくとお伝えして」
マリーの心音は、今や外に漏れ聞こえそうほど、激しい音を立てて鳴り続けている。
「セージ!」
まだ昼の鐘が鳴るより随分早く、マリーは階段脇の扉に飛び込んで、そして庭につながるドアの鍵を回した。
「セージ!」
耐えきれず、何度も名を呼ぶ。素足で駆け込んだ庭は冷たい。流れ込んだ水が凍っているのだ。見上げれば小さな窓には真っ白な雪が積もって、きらきらと白く輝いている。昼の日差しだ。
吹き付ける雪の合間にはたしかに太陽の日差しもあり、とろけた雪が窓からぽたりぽたりと庭に降り注ぐ。まるでクリスタルが降り注ぐようでひどく美しかった。
「マリー!?」
庭に駆け込む鳴りまっすぐセージの元へ駆けつける。と、軽く目を閉じていたセージが大きく目を見開いて、口を大きく開ける。
ガラスの中、つめられた液体がぶくぶくと泡をあげる。
「今は夜? 今日はこんなにも夜が明るいの?」
「違うわ。メリークリスマス。今日はクリスマスの朝よ」
マリーはヒイラギの小枝で髪を飾っていた。ドレスはグリーンの糸とフリルをたっぷりに使った贅沢なもの。
そのスカートをマリーは大きく回して見せた。
「どう? クリスマスのドレスを、ケイトが出してくれたのよ」
「今日は一段と、その……素敵だね」
セージはマリーを見つめて、やがて気恥ずかしそうに瞳を伏せる。マリーはその目線を追いかけるようにしゃがみこむ。顔を覗く。セージの美しい緑色の目を、じっと見つめる。
「ケイトがお届け物にいったの、雪がひどいから、きっとしばらく戻らないわ」
ケイトが屋敷を出たのはつい先ほどのこと。
窓からケイトを背を見送り、その黒い姿が白い雪の向こうに消えたことを完全に確認したマリーは、急ぎドレスを着替えてここに飛び込んだのだ。
ケイトの黒いドレスは、彼女の場所を捕捉するのに役に立つ。確かに彼女は馬車に乗り込み、雪の向こうへ消えていったのだ。
雪はどんどん深い。空気は冷たく、止む気配もない。今年の冬は寒い。もしかすると叔父の屋敷でしばらく足止めを喰らうことだってあるかもしれない。
「ねえ、セージ」
マリーはおそるおそる、セージのガラスに手を伸ばす。
「あなたの、このガラスは……持ち上げてもいいの?」
今日、ケイトが出かけると聞いて思いついたのだ。それは、とても素敵で大胆な計画だ。思いついたとたん、恥ずかしがりもしたし動揺もした。しかしそれ以上に、決意の方が強かった。
「?……たぶん。ジョージは時々、僕を抱き上げて庭を散策してくれた」
「私でも、持ち上がるかしら」
「え。何を」
セージの声が動揺する。しかしその動揺が終わる前に、マリーはガラスの球体を抱きしめ、持ち上げていた。
「マ、マリー!」
「意外に……軽いのね」
強がりではない。その球体は、想像していたよりずっと軽いのだ。
揺らさないように胸の辺りでしっかり抱きしめて、持ち上げる。落とさないよう気を付けて底を手で支え固定する。たぷん、と水のゆれる音。それにセージが吐き出した泡が球体の中ではじける音がする。
近づけば、音はこんなにもよく聞こえる。
宝物を抱くように抱きしめて、マリーはガラスにそっと耳を押しつける。
心音などあるはずもないのに、どくどくと音が聞こえる。きっとそれは、マリーの心音が反射して響いているのだ。
「苦しくない? 揺れて気持悪くならない?」
「……驚いた、君がそんなに大胆だなんて」
「だって、一緒に外へでるなら私が抱えて行くしかないじゃない?」
「え。僕を? 外へ?」
「今日はまず、階段の下、ロビーまでよ」
マリーは高鳴る心臓の音が漏れて聞こえないように、と必死に祈る。
体に押しつけられたセージは、いつもより距離が近いのだ。
「そこにヤドリギとクリスマスツリーがあるの。クリスマスを、見せてあげる」
「本当に!? 本物のツリーを!」
声がマリーのすぐ手元から聞こえてくるのは不思議なことである。水の中、セージの赤髪がふわふわゆれるのをみた。
いつもと違う角度で見るセージは、やはり青年めいてみえる。表情も顔つきも幼いのに、斜め上から見るその頬は、成人した大人の力強さを持っている。
長いまつげも、憂いのある頬の線も、上からであればいくらでも見ることができた。
「せめて……下は覗き込まないで。僕も、首の下がどうなっているのか自分でも分からないんだ。恐ろしいものが見えると、大変だから……」
「ええ。それは約束する。転ばないことを祈っていて」
マリーは慎重に扉を肩で押し開き、光苔の輝く書斎を通り抜ける。階段脇の小さな扉も、ほんの少しあけておいたので力をかけずに開けることができた。
さすがに扉をくぐる時には緊張もしたが、耳を澄ませてもなんの音もしない。扉の横でしばらく座り込んでいたが、何の気配もない。ただ、雪が窓をたたく音がするだけだ。
雪明かりが窓から差し込み、階段ホールは目を見張るほどにまぶしかった。真っ赤な絨毯が敷き詰められた階段の隣、そこに大きなもみの木が飾られている。
「わあ、なんて……綺麗なんだ」
緑色も美しいその木には、金や銀の飾りもの。根本には父とケイトが置いたプレゼント。父は人形、ケイトはペン。
わざと散らかした箱の近くには、おもちゃのようなオルゴールや、ガラスの置物が飾られている。クリスマスの朝、ツリーの周りは少し散らかしたって、誰も文句は言わない。
「すごいな、はじめてみた。ああ、暖炉が見える。火が入るときっと素敵だろうね。暖かな暖炉に、大きなクリスマスツリー。まるで本に出てきたように完璧だ。なんて美しいんだろう……それに……あ」
興奮を隠しきれないようにセージが言葉を続ける。が、やがて彼の目線がふと、上を向いた。
「……ジョージ!」
セージが見つけたのは、階段の上に飾られた祖父の絵である。
マリーはいつものように軽くかがんで祖父に挨拶をする。いつも鋭くこちらを見つめてくる祖父の絵が、少しだけ優しくほほえんだように見えた。
「おじいさま。セージをつれてきたわ。おじいさま、私はやっと、あの庭に入ることができたのよ」
「ジョージだ……ああ」
もしセージに体があれば、駆け寄っていっただろう。それくらいの身悶えで、セージは叫ぶ。まるで泣くような声に、マリーの心がきゅっと痛くなる。
「ジョージ。会いたかった、ジョージ……ジョージ……」
事実、彼は泣いていたのかもしれない。その声の激しさに、マリーの心は乱れる。しばらく前にみた夢を思い出したのだ。
夢の中のセージは、体を持っていた。しなやかな首に長い手足、美しい仕立てのスーツ。
彼は笑顔でマリーに手をさしのべるが、やがてマリーの横を通り過ぎて、どこかへといってしまう。彼の向かう先には、美しい淑女が立っている……。
「セージ、行きましょう。ほら、クリスマスツリーよ」
名残惜しそうに緑の目がゆれる。マリーは意地の悪い気持ちでその目線を塞ぎ、ツリーの下へ進む。まぶしいほどに明るいツリーは、マリーのためだけに着飾られる。
昨年もその前も、その前も。そして、来年も、その次も。
ずっと、ずっとだ。祖父が亡くなってからずっと、マリーはこのツリーを一人きりで見上げてきた。
セージはツリーを見て目を輝かせる。が、やがて少し寂しそうに呟いた。
「きれいだけど、寂しいね。マリー。君はずっと、一人きりのクリスマスを過ごしていたの?」
「今年はあなたがいる」
ツリーを通り過ぎれば古い暖炉がある。今はもう火が付けられなくなって長い暖炉だ。しかしそこもクリスマスにはヤドリギの枝が飾られる。
少し丸いかわいい葉に、白い実。赤いリボンで結ばれた緑色の枝が何本も、宙からつるされているのである。それは幸せのあかしだ。
「それで、これがヤドリギよ」
しっかりと見えるようにガラスを斜めにする。セージは興味深そうにそれをみたあと、くるりと水の中で振り返り、マリーを見た。
光の下で見る、彼の瞳のなんと綺麗なことだろう。
「ねえ、しってる? マリー、クリスマス、ヤドリギの下では……」
「ヤドリギの下のキスは拒めないのよ」
マリーはガラスを引き寄せる。セージの目が、驚きに見開かれる。中の水がゆれる音がする。セージの唇が、驚くように何かをつぶやいた気がする。
しかしマリーは気にもとめず、ガラスの表面に口づける。
かちりと、歯がガラスに当たって、小さな音をたてた。
……クリスマスの日、ヤドリギの下でキスを願えばそれは拒まれることはない。拒んではならない。それは古い古い伝承だった。
「ねえセージ。お話の続きをして」
唇をはなすと、セージの顔は外からわかるほどに真っ赤に染まっていた。マリーだって、耳まで熱い。
しかしマリーは気恥ずかしさよりも、セージの顔の美しさにほれぼれとなってしまうのだ。赤い頬にかかる赤味を帯びた髪、グリーンの瞳。
「そ……そうだ。ちょうど、絵を見つけたところでお話は止まっていたね。その絵を見つけたベスは……ベスは、その絵を見上げて、そして……あの……」
セージはぱくぱくと、口を幾度か動かした。目線がふわふわと揺れて、恥ずかしそうに何度も瞬きをする。
「ベスは、その絵を……見上げて……その……」
以前、マリーが聞いていた物語だ。セージが語る物語だ。
いまや主人公となった勇敢なる少女ベスがお城に忍び込み、そこで彼女は絵を見つける。
そこには、ベスにそっくりな女性が描かれていた。
「待って、話が口から出てこない」
何かを言い掛け、口を動かし、やがてセージは水の底まで沈んで顔をうつむけた。
「……恥ずかしくて、溶けてしまいそうだ」
「恥ずかしがり屋なのね、セージ」
「マリー。君こそ」
セージは水の中でマリーを軽く睨む。
「びっくりするくらい、顔が真っ赤だよ」
マリーはガラスの球体に頬を押しつける。すると心地良い冷たさが一気に広がった。自分の顔の赤さを、マリーは初めて知ったのだ。
「メリークリスマス。セージ」
「メリークリスマス。マリー」
二人は同時にいって、そして笑う。
「こんなに楽しいクリスマスは、久しぶり」
僕もだ。と、セージが呟く。彼はふわりと浮かび上がって、ガラスの中からマリーの頬にキスをした。
「……ありがとう」
窓を叩く雪は激しく、屋敷が時折揺れるほど。しかしツリーもヤドリギも、ぴくりとも動かない。
そして階段に掲げられた祖父の絵が優しく二人を見ている……マリーは、そんな気がしてならないのだ。




