冬の居眠り冬の庭
ここ数日で冬の色が一段と濃くなった。風は冷たく鋭く激しくなった。
こんな季節になってもまだ、マリーは絵を描かれている。
「……絵はまもなく完成するのですが」
サムは絵を描くときでさえマリーをぶしつけに見つめることはしない。
ちらりと、横目に見るだけである。その代わり、その一瞬の視線は強い。表面を貫いて体の奥深くを見ている気がする。
皺に埋もれた彼の目のどこにそんな力があるのか、眼孔の奥の光は鋭い。
「いよいよ完成ですか」
部屋の隅に腰を下ろしたケイトは少しだけ嬉しそうに呟く。彼女は何が楽しいのか、モデルを務めるマリーを毎日同じ位置から見つめているのだ。
いよいよ絵は佳境に入ったとみえ、サムの筆は忙しく動く……が、やがて彼は筆をおいた。
「……何かが、足りない」
「何かですか……飾りか、それともお洋服でしょうか。何でも持って参りますので、仰ってください」
何か粗相でもしたように、ケイトが珍しく焦った声をあげた。当の本人であるマリーといえば、足先の冷たさのことばかりを考えている。
最近は、例の木靴で庭に行くと足先がひどく冷える。
もし足にしもやけなんて作ってしまえば、ケイトに感づかれてしまうかもしれない。どうすれば足が冷えずに済むか、痛まずに済むか。マリーは朝からぐるぐると、そんなことばかり考えているのだ。
秘密を守るためには、これまで考えもしなかったことを考える必要がある……と、マリーはしみじみそう思う。
「……いや、そういうことじゃないのです。余計なことを言いましたね」
サムは小さくほほえんだ。気を抜くように笑うと、その顔はかつての祖父に似ていた。
「空気を乱してしまって申し訳ない。今日はおしまいにしましょう」
サムは淡々とつぶやき、置いた絵筆を布で拭う。
ケイトは不満気だったが、生真面目な彼女らしく完璧な一礼をして部屋を出る。見送り用の紅茶でも、作りに行ったのかもしれない。
ケイトが去ればようやく、マリーは肩の力を抜ける。
「サム、私はモデルが下手なのかしら」
ケイトの足音が十分に過ぎ去ったあと、マリーはソファにもたれかかり欠伸を噛み殺した。
寝不足をどうするか。というのも目下の悩みのひとつである。モデルの最中は、眠気が幾度も波のように体を襲う。
サムは片付ける手を止めないまま、マリーをちらりと見た。
「私どものような絵描きは、ただそこにある美しいものを描きとればいいのです。特にお嬢様は美しい。絵描き冥利に尽きる。ただ、ここ数週間……描き始めた日から毎日、お嬢様の心に変化がお生まれだ」
サムの言葉にマリーの心臓がゆれた。ぱくぱくと、何かを言い掛けてやがて口を閉ざす。沈黙は何よりも賢い、とマリーは祖父にそう習った。
サムは鋭い。つい先日も彼はマリーの変化を機敏に感じ取った。絵描きとは皆がそうなのか、それともサムが鋭すぎるのか。
感情の揺らぎを飲み込んで、マリーは代わりに唇を噛みしめる。
「……心がゆれると表情も変わる。お嬢様はますますお美しくなったし、お強くもなられた」
「そんなこと、ないわ。だって……何も、変わらないもの」
「絵を描き始めた頃を覚えていらっしゃいますか。その時、お嬢様はロンドンで今人気の、見せ物パレスに行きたいとおっしゃっていたでしょう」
サムの目は優しくも恐ろしい。
「……言った……かも」
マリーはもじもじと、ドレスの裾をいじる。
ちょうどこの冬、ロンドンの真ん中で、見せ物小屋が開かれたのである。
変わった動物や変わった生き物、奇妙な人間が集まるその場所を、たった1シリングで見ることができる……ケイトに「行きたい」とねだったところ、あっさりと却下された。レディの赴くような場所ではない。と、厳格なメイドは言うのだ。
行きたい。と口をとがらせてサムには愚痴を言ったこともある。しかしある日を境に、マリーはそのことを口に出さなくなった。
ある日、気付いてしまったのだ。
もしセージが世間に見つかれば、彼はそこに展示されるのではないか。
浚われて見せ物にされる彼を想像して、マリーはぞっと震えた。多くの紳士淑女が彼を囲んでひそひそと囁き合うのだ。
嘲笑と好奇心と奇異の眼差しに晒されるのだ。冷たいロンドンの片隅で、まるで珍獣のように扱われるのだ。
そんなセージを想像すると悲しくもあり、腹も立つ。
それに何よりロンドンは遠すぎる。ロンドンで見せ物を見るくらいなら、一日、一分、一秒だってセージの側で話を聞いていたかった。
「ほら、その顔だ」
ぱちり、と鞄の閉まる音にマリーの意識が戻る。気がつけばサムの片付けが終わり、画板はいつもの通り布の中に包まれている。
「お嬢様の中に生まれた変化を、それを描きとりたいと、私の中に欲が生まれたのです」
「欲?」
「きっとあなたは今、とても楽しいことがあるはずだ。美しい世界にいるはずだ。そのあなたの世界を、描き写したい、その表情を、一番美しい瞳を描きたい、そんな欲です。今描いている絵には、そのエッセンスが少しだけ足りないのです……はは。いけませんな、もう、こんな年にもなって若い頃を思い出したようだ……ああ、紅茶がきましたね。寒い季節には嬉しい。いただいて帰りましょう」
階段を上る力強い足音が響く。サムは曲がった背に荷物を背負ってマリーの前に膝をつく。皺のある手でマリーの掌をそっと包み、自身の額に押しつけた。
「……マリー様は、恋をしておいでだ」
窓を激しく揺らす風が吹く。
それは冬を知らせる音である。
「そういえば植物辞典を読んだのだけど。セージには"賢い人"って意味があるのだって」
「へえ」
「セージにぴったりね。あとは治療、っていう意味も」
いつもの深夜。置き時計の針が大きく右に傾く頃、マリーはいつもの通り庭にいた。
冬の庭は部屋よりもぐっと冷える。口を開けば白い息が漏れるし、地面は所々凍ってさえいるようだ。
だから木靴の中には綿をたっぷりと、大きなショールに、暖かなガウン。スカートは分厚く、暖炉の側で暖めておいた温石を懐にいれて。そんなマリーの姿を見て、セージは気の毒そうに眉を寄せた。
「寒いだろう、マリー。僕はあまり寒さを感じることがないけれど……」
細いまつげが水の中でゆれる様子も、濡れて輝くグリーンの瞳も完璧すぎて、マリーは彼を直視できない。
ただマリーは、彼が乗せられたテーブル側に寄り添って、足をぶらぶらと動かすのだ。足を動かすたびに、緑色に光る苔が散らばって、まるで星のようにきらめくのがとても美しかった。
「平気。寒くないように沢山着込んでいるから……そうそう、セージは怪我をした人の治療に使われていたのですって」
「君が温かくなるハーブもここにあるといいのに」
セージはしみじみとつぶやく。
「ここにある草は全部ハーブだって前に教えただろう。きっと色んな効果のあるハーブがあるはずだよ」
ガラスの球体に包まれたセージは、いつ見ても穏やかだった。それは出会った時から変わらない。声は優しく目線はどこまでも暖かい。
彼の顔を見つめるだけで、マリーは泣きたくなるのだ、笑いたくもなるし、胸の奥が締め付けられるように苦しくもなる。
ずきずきと痛む胸を押さえて、マリーは顔を俯けた。
マリーがここに通い始めてどれくらいたったのだろう。
昼や夕刻に足を運ぶこともあったが、ケイトに幾度か見咎められ、結局は夜の夜中に落ち着いた。
寝不足になっても、夜の帳が降り始めると目がさえるのだ。
庭に行かなくては、行きたい、何よりも……。
(セージに逢いたい)
心の奥に不意に浮かんだその言葉に、マリーは顔を赤くする。今が夜でよかった。光苔程度の明かりでは、顔の赤さは見つからない。
「……マリーの気持ちの落ち込みにも利くハーブがあればいいのに」
セージは歌うように、そう言った。
彼もまた、サムと同じくらい鋭いのだ。
落ち込んだ様子なんて、分からないように隠しているはずなのに。
「……」
「何かあったの?」
マリーは、セージの頭をそっと撫でた。もちろんそれはガラスの球体ではあるが。触れると、石碑がぶうぶうと音を鳴らす。
最近は、この音にも馴染んだ。むしろ、耳に心地いいとまで思ってしまう。
「……クリスマス前は気が重いの。どうせお父様は帰ってこない、豪華なご飯は並ぶけど、たった一人。あの薄暗いテーブルで」
マリーはそういって、地面に木の板をおく。この上に座ればちょっとだけ、暖かいのだ。
「せっかくのクリスマスなのに、ひどく寂しいね」
セージはしみじみとつぶやく。マリーの境遇を伝えると、彼はいつも寂しがってくれるのだ。
普通に考えれば、こんな場所で首だけで放置されている彼のほうがずっと寂しいはずだった。
ここにはケイトもサムも父も祖父もいない。たった一人、草ばかりの庭で、本しかない庭で。
だというのに、セージはいつもマリーの気持ちばかり案じてくれるのだ。
「僕はクリスマスというものを物語でしか知らないから」
セージが目をぱちくりと動かすと、後ろで本がぱたぱたとゆれる。分厚い赤い背表紙の本には、華やかな絵が描かれていた。それはクリスマスの風景だ。大きなツリーの下に子供たちが集まって笑う。足下にはプレゼントの箱、赤く燃える暖炉の上には赤いリボンでまとめられたヤドリギの枝。机の上には、ごちそうの数々。
「一度、ツリーだとか美しく燃える暖炉だとか、つるされたヤドリギだとか、見てみたいな。それだけじゃない。世界を見てみたい。マリーはどう?」
「素敵ね」
マリーは想像する。この屋敷の外のことだ。外だけではない。汽車にのって船にのって世界に出れば、そこはどんなに広いことだろう。
世界は広い、と祖父はいっていた。
草原ばかりの国もある、美しい山の連なる国もある、綺麗な海の国、善良な人々の国。世界は広い。
「ジョージはいつも世界の話をしていた。彼は戦争であちこちに行った、というから。多分どこの世界のことだって詳しかった」
「ええ。船に乗ってずっとずっと世界の反対側にまで行ったって聞いた事がある。言葉の違う人、肌の色の違う人、食べ物も、飲み物も違う国」
「僕は一度でいいから、そんな世界をこの目で見てみたい。マリーだってそうだろう」
「……そうね」
必死に空想の世界を広げるが、やはり浮かんでくるのは楡の木立と、丘の下にある小さな村だけだった。
幼い頃からこの屋敷の中で育ったせいで、マリーは屋敷の外を知らない。外へ出ることはケイトがけして許してくれなかった。
違う世界の話は祖父の物語だけだ。世界の広さを思うとマリーは愕然とする。
そしてそんな世界に、セージが旅立ってしまうのではないか……と、想像してまた恐怖に震えた。
きっと体があれば彼はどこにだって行ってしまうだろう。父や、祖父や、母のように。
「ねえ、セージ。あなたが目が覚めたときの話をして」
マリーはセージの言葉を打ち切って、そのガラスの球体にふれる。セージはくすぐったそうに笑い、そして薄い唇を開く。
「そうだね。僕はすぐに目覚めたわけじゃないんだ。何度か……何度か目覚めて、でもまた眠った。ジョージも言ってた。僕が目覚めるとは思わなかった、って。だから、何度も昏睡と覚醒を繰り返したんだとおもう」
セージは語る。目が覚めるたびに、パイプの香りがしたと。そして完全に覚醒したとき、目の前には誰もいなかった。しかし石碑がびいびいとひどく五月蠅く鳴り喚いていた。
音と光とすべてのことにパニックを起こしている最中に、ドアが激しく開き、そして。
「ジョージが、駆け込んできたんだ。口にくわえたパイプが落ちて煙りがひどく舞い上がったことを覚えてる。茶色のくすんだスーツが、泥にまみれるのも構わずにここに走ってきた。そして言ったんだ」
セージは息を吸い込み、そして祖父の声真似をする。
「……ハロー。私の友達、お目覚めの気分はいかが?」
セージにとってその言葉は宝物なのだろう。噛みしめるように、彼は言う。
「ハロー、私の友達。お目覚めの気分はいかが? 最高に素敵で、ジョージに似合う言葉だろ? 僕はそれで目覚めて、そしてそれからずっと、ここにいる」
「たぶん、おじいさまが慌てて私の部屋を飛びだして、ここに駆け込んできた日だわ。私もそのとき、階段のそばにいたの。おじいさまに見つかって、部屋に戻ったのだけど」
マリーは悔しくつぶやく。もしそのとき、ここの存在を知っていれば。祖父と一緒に、庭を探検することだってできたのに。
「僕の記憶も思いでも全部全部、この庭だよ。夏は暑くて冬は寒い。僕には寒さは感じないけど、ガラスが曇るからすぐわかる」
「……なんでこんな庭がここにあるのかしら。おじいさまが作ったの?」
「そうじゃないらしい。ジョージはそのあたりをはっきりと言わなかったけれど……別の誰かがここをみつけてハーブを植えたって言ってた」
セージの言葉にマリーは首を傾げる。
「この屋敷は、お母様とおじいさまが、ずっと住んでた場所なの。結婚をする時、お母様の条件が夫婦でこの屋敷で暮らすことだった。って聞いたわ。だからお父様が結婚の時、この屋敷に越してきたのよ」
この屋敷はずっとずっと昔からここにあった。祖父の祖父、その前の祖父。それくらい、昔から。
古くさく、大きく、まるでお城のような屋敷である。大昔、人嫌いの領主様がたてた家だとも、女王様の隠れ家だとも噂されてきた。
古くさい建築の、どこも骨董品のような屋敷。今では村の人間も近づかない。マリーとケイトだけがすごす古城である。
その頃から、この庭はずっとあったというのか。マリーはそれが不思議だった。もしケイトが見つけたら、翌日には扉も窓も防がれて完全に隠されてしまうだろう。
「じゃあ、この庭。きみのお母さんが見つけたのかな」
「まさか」
マリーは苦笑する。
母という響きをきくと、いつもマリーの中に冷たいものが流れるのである。マリーは母を知らない。ケイトから聞く、美しく完璧だったレディの母しか知らない。
その掌の暖かさも、絹のようだったといわれる髪の毛も、知らない。
母の死は祖父の死と同じく伏せられ隠され、マリーから遠ざけられた。
悲しみを経験しない分、母はマリーの中でもっとも遠い存在となった。
「母は淑女よ」
「マリーはお母さんの話となると、顔が硬くなるね」
セージの声は優しく、その言葉を聞くたびにマリーの心がゆれる。そしてサムの言葉が、今になってマリーを動揺させた。
「ねえ。ここで……少し眠ってもいい?」
マリーは目をこする。動揺するのも悲しい気持ちになるのも全て、睡眠が足りないせいだ。ここ数日、マリーは数時間しか眠っていないのだから。
「寒くない?」
「このあずまやの辺りは温かいの」
「じゃあ、一番鶏がなくまえに、起こしてあげる」
まるで聞き分けの悪い妹に対するように、セージは優しくそういった。
「起きたらきっと、メイドに見つからないように部屋に戻るんだよ」
マリーはいそいそと机の下にガウンやショールを床に敷き詰めて、その上で丸くなる。セージの顔はみえないが、声は近くに聞こえた。地面はかすかにあたたかく、土と草の香りがする。窓から漏れた光が天井に反射して、時折青く輝くのがとんでもなく美しくみえた。
「起きたら部屋に戻るけど、またここにきて……今度はもっと、庭を探検してもいい?」
「何を断る必要がある? もうここは、君の庭なんだ」
机の内側に、セージの声が反射した。それは柔らかい布に包まれたような、そんなふんわりとした優しい声だ。
その声だけで、マリーは泣きそうになるのだ。かじかむ掌も、足の先も。冷たい頬もなにもかも忘れるくらいに。
「……多分、それが一番、聞きたかった言葉」
瞳を閉じると、マリーはすぐに夢の中。
暖かな春の庭の真ん中。
体を持ったセージが大きく腕を広げてマリーを迎える……そんな夢を見た。