二人ぼっちのバースデイ
バースデイ当日は冷たい雨となった。
昨夜の大冒険が嘘のようだ。静かで冷たい霧雨が降る、しみじみとした秋の朝である。
「お嬢様。昨夜はよく眠れましたか?」
食堂で朝の紅茶を飲むマリーに向かって、ケイトがそんなことをいう。その疑り深い声にマリーは心臓がきゅっと縮まる思いである。
「……ええ」
マリーはさりげなく目元を押さえたあと、そつなく首を振った。
「よく眠ったわ」
マリーは真っ白な皿に盛られたビスケットを一枚つまんで囓る。好物のはずなのに、味がしなかった。
「それならばいいのですが」
「なぜ?」
「お嬢様のガウンが洗濯桶の中に入っていたものですから」
ケイトは相変わらずの無表情のまま。マリーのカップにお代わりの紅茶をそそぐ。
肌寒い秋の朝に染みる心地よい紅茶の香りだ。くっきりとした琥珀の色が目に刺さるほど。
マリーはカップを両手でつかみ、息を吹く。白い湯気が今の季節にふさわしかった。
「眠れずに冒険でもされていたのかと。私の思い過ごしのようですね」
紅茶は温かいのに、ケイトの言葉にはとげがある……そんな風に疑ってしまう。
マリーは叫んでしまいそうな衝動をぐっと堪えて、乾いた唇を幾度もかみしめた。
「……お父様が帰ってこられないってきいて……そう。寂しくて泣いて袖が濡れてしまったものだから。恥ずかしいから朝、水で濡らして……洗おうと思ったのだけど、うまくできなくって。だから、そのままにしちゃったんだわ」
マリーはもっとさりげなく言って、ビスケットにたっぷりのジャムを乗せた。
真っ白で四角いビスケットは焼きたてだ。乗せるのは木イチゴの赤いジャム。熱でとけたジャムがマリーの指に絡む。その色は、昨夜マリーの指についた赤土に似ている。
マリーの心臓がまた跳ねた。動揺を押し隠しながらマリーはそれをかじった。ほろりとしたビスケットに、甘酸っぱいジャム。そうだ、これは土じゃない。
「そのようなときは、私にお渡しくださいませ。レディが手ずから、洗うものではありません」
「……ごめんなさい」
ビスケットはマリー好みの柔らかさだった。濃いめに入れた紅茶にビスケット。丸皿に盛られたたっぷりのフルーツに、くるみの入ったバターのケーキ。
どれもこれも、マリーの好物ばかり。朝からこんなに豪華な食事は久々だ。
なぜなら、今日は彼女の誕生日だからだ。
マリーの住むこの屋敷は丘の上にある。丘の下には揃いの屋根を持つ小さな村があった。
その村から、なじみの料理人が通ってくるのである。マリーが幼い頃から、ずっと。
その名を、エリザといったか。でっぷりと太った優しい女である。
まだマリーがほんの幼い頃は屋敷につめて働いていたそうだが、母・マリアが亡くなったあとに祖父により解雇された。
しかし幼いマリーに食事を届けたいと彼女は懇願し、結局通いでの料理人を許された。
彼女は台所、マリーは屋敷の奥。と、二人が顔を合わせることはまれだが、このように料理を味わうと彼女の気持ちや優しさが痛いほどに伝わってくるのである。
「ところでお嬢様、お部屋にあった、銀の燭台はどこへ?」
「ここよ」
マリーは懐から銀の燭台を取り出した。
「受け皿が少し曲がってきたから、なおしてもらおうとおもって」
「……なおしておきます」
ケイトの目は相変わらずマリーを探るようである。しかしマリーは気づかない振りをする。
……昨夜、あの不思議な庭を飛び出して部屋に戻ってみれば、置き時計が指し示していたのは0時30分。
あれほどの大冒険だったというのに、たった数十分の出来事だったことにマリーはひどく驚かされた。
興奮で眠れないマリーだが、まず冷静になる必要があった。そのとき、彼女の足も手も土に汚れ、階段も部屋も彼女の足の汚れがくっきりと残っていたのである。
階段脇に戻るのは恐ろしかったが、床の汚れを必死にふき取り、手足の汚れも綺麗にぬぐい、汚れたガウンを洗濯の桶につけ込んだ。
ケイトに見つからないよう、裏の洗濯小屋に忍び込むのはなかなかの冒険だった。しかし、そのときにちょうど一番鶏の声が響きわたる。
ガウンを回収できないままなのが心残りだったが、マリーはあわてて部屋へとかけもどり……その途中で、階段脇に放り投げていた銀の燭台を手に掴んで……ベッドに潜り込んだのが明け方。一度二度、うつらうつらとした頃、ケイトが部屋のドアを叩いたのである。
「お嬢様」
「な……なに?」
ケイトがまた声をあげた。マリーははじけそうになる胸を押さえ、息を飲む。いまや鼓動はうるさいほどだ。ど、ど、ど、と胸が割れそうなほどに鳴る。
……あの部屋のことも、昨夜の冒険のことも、ケイトには秘密だ。別に秘密にする必要はないのかもしれない。しかし、この堅苦しいメイドには、知られてはならない。気づかれてはならない……なぜかそう思う。
言ってもきっとケイトは信用しないだろう。見に行こうとするかもしれない。いや、実際に彼女は行くだろう。それくらいの勇気はある女だ。
そして彼女はあの首を目にするに違いない。ケイトはもちろん、首だって驚くはずだ。
そして、秘密を漏らしたマリーのことをあの首は恨むだろう。
そう思うと、不思議と気分が落ち込んだ。あの首は人間じゃない。化け物だ。しかしそれでも、彼がそれほど悪いものであるようには思えないのだ。
彼が語る物語は、祖父のものに似ていた。そうだ。祖父が彼を匿っていたのだ。ならば、これは祖父の秘密だ。
祖父の秘密はけして、ケイトに知られてはならない。
「なあに……?」
知らぬ振りを装ってバターケーキをかじり、マリーは首を傾げてみせた。
ケイトは相変わらず笑わない。そのかわり、スカートを少しだけ持ち上げて彼女は頭を下げた。
「お嬢様、お誕生日おめでとうございます」
「あ……ありがとう」
拍子抜けしたマリーに構わず、ケイトは忙しげに荷物を手に取る。そして大きな帽子をきちんとかぶった。
手の先についた汚れを、彼女は神経質そうにナプキンで拭う。そしてたっぷりのフリルがついた黒のレース傘を腕に。
「お出かけなの、ケイト?」
今や黒ずくめとなったケイトを見上げて、マリーは訊ねる。
ケイトの私服はいつも黒尽くめである。少なくともマリーが覚えている限り、ケイトは格式張ったメイド服か黒尽くしのドレスしか纏わない。
今日もまた、夜を切り取ったように彼女は黒かった。
「今日は夕刻まで出かけますので、お嬢様はお部屋でお勉強を」
「どこへいくの?」
「旦那様……あなたのお父様からバースデイプレゼントが届きました」
マリーは口を押さえる。
「……きちんと誕生日の当日に旦那様はプレゼントを贈ってくださってますよ」
ケイトは、大事なことを言うように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
しかしマリーはうれしさよりも、寂しさが先に立った。食堂の窓をたたく雨音が、いっそう寂しさに拍車をかけた。
「……きっと、お人形を送ったあと、思い出したのね。お父様は、いつもそう」
「マリー。そのようなことを言うものではありません」
彼女は時刻を気にするように、時計に目を送る。時刻は刻一刻とすすみ、まもなく昼がやってくる。
「雨が酷く、荷物が先の町で汽車が止まってしまっています。馬車の方が早そうですので、取りに参ります。このような事情ですので、サム様に絵を描いていただくのは夕刻か、夜の始まりのころとしましょう」
「一人きりね」
「なにか?」
「……なんでもない」
ケイトはあわただしく外へと飛び出していく。バルコニーから外を見れば、紅葉する楡の並木道を急ぎ足で行くケイトが見える。
空は緞帳が幾重にもかかったように重く、黒く、大地に垂れてしまいそうだった。
そこから降りしきる雨は、細いくせにひっきりなしで冷たい。さあさあと鳴る音だけが妙に寂しい。
ケイトの黒い傘とドレスが門の向こうに置かれた馬車に吸い込まれると、馬車は水をはじいて走り出す。やがて、雨のカーテンの向こう、ケイトを乗せた馬車は消えてしまった。
(……とうとう、一人きりのバースデイ)
屋敷は、しん。と静まりかえっている。
今なら木の葉に触れても、バルコニーから体を乗り出しても、誰も叱らないし注意もしない。雨音だけが響く屋敷に、マリーは一人きりだ。
せっかくの誕生日に、ただ。ただ、一人きりだ。
世の中に何十万人の少女が居るのか、マリーはしらない。しかし誕生日を一人きりで過ごす少女はそういない。
なんて不幸な少女なのだろう。と、マリーはドレスを強く握りしめる。
「……違うわ」
しかし、マリーは不意に、思い出した。
そうだ、マリーは一人ではない。
二度目の冒険は、さほど難しくはなかった。
階段を下り、階段脇の秘密の扉をそっと開く。一度目よりも二度目の方がすんなりと開いた。
燭台に灯る小さな蝋燭では心許ないのでマリーは台所のランタンを拝借し、それを片手に秘密の部屋へと入り込んでいく……。
「……開いた」
階段脇の扉も、庭への扉は、音もなく開いた。
「夢じゃない……これは、夢じゃない」
昼のためか、庭は昨夜よりはまだ明るい。明るい、といっても屋敷の中に比べると一段、薄暗い。
光取りがあるといっても、曇りや雨の日の光まではうまく吸い込めないのだろう。
肌にまとわりつくような湿った寒さの中、マリーは庭を眺める。
そこには昨日と同じ風景が広がっていた。ハーブの香り、薄暗い空気、鬱蒼としげる、ハーブと草。その草の畑の真ん中に、異音をあげる石碑、その向こうには鳥かごのような小さなあずまや。
「……っ」
恐怖で逃げ出さないように、マリーは一気に草の畑を突っ切る。今日は足に古い木靴を履いていて、走るたびにぽすぽすと間抜けな音をたてた。
随分昔、庭の隅っこで見つけ、隠しておいたものだ。そのときには大きすぎてあまり気味だったが、今ではぴったり。ケイトもしらないこの靴は、庭での冒険にお誂え向きだった。
木靴にせかされるように、マリーはあっと言うまに、庭の中央。あずまやにたどり着く。
息を詰めて駆けたせいで息が苦しい。しかし息を吸い込み、背をただし、マリーは一気に言葉を吐いた。
「あなたは、なぜ、ここにいるの? ここは、私の、家なのよ」
気丈にふるまってはみせたが、情けなく声は震えている。この短い言葉を吐くだけで、マリーは幾度も口内を噛んだ。
しかし目をそらさないように、マリーはまっすぐ顔を上げる。
……白い支柱にささえられた、ちいさなあずまや。その中には猫足の、白いテーブル。細い蔦が絡まるその机の真ん中には……首。
やはり、身間違いではなかった。首は、そこにある。
間近でみて、マリーは悲鳴をかみ殺した。想像以上におそろしい。
本当に……ただの、首なのだ。
まだ若い青年の首である。無造作に、ほんとうに無造作に、首は机の上にぽつんと置かれている。
いや、良く見れば首は小さな水槽のようなものにすっぽりと覆われていた。あまりにも薄くて透明なガラスだったので、遠目には分からなかったのである。
透き通る球体ガラスの中には、水のような物が詰められている。その中に、首はそっと沈められているのだ。
机はただの石製で、机の下にも上にもなんの仕掛けもない。どこかに体が隠れているようなトリックは見当たらない。
(本当に……首だけ……)
マリーは後ずさりそうになる足を叱咤して、必死に威厳を保とうとした。
最近、町では残忍で不可思議な事件が増えて来たと聞く。
この首が目を閉じていれば、きっとそんな事件のうちの一つだ、とそう思ったに違いない。
「え……驚いた、まさか、来てくれるなんて」
しかし、閉じられていた瞳が音もなく開く、それは、なんて美しいグリーン。
白くて精悍な顎に、優しそうな瞳、眉は柔らかく円を描き、髪の毛は赤みを帯びて無造作に伸び、水の中でふわふわと踊っている。
彼はマリーを見て驚くように目を見開いて、そしてやがてうれしそうに笑うのだ。
水の中にあるとは思えないほど、言葉はクリーンに聞こえた。ただ、彼が口を動かすたびにぷくぷくと、唇から泡が湧き出すした。
「まさか来てくれるなんて……今日は、奇跡の日だ」
「なぜ……なんで……来ないと思ったの?」
「だって僕の姿はたぶん……その、女の子からすれば少し刺激的だろう?」
グリーンの目がうれしそうにきらきら輝き、顔には満面の笑み。
年齢は、マリーよりもずっと上だ。20歳、23歳? たぶん、すっと長い手足が似合う、笑顔だって好青年だ。舞踏会ではお誘いがとぎれないだろう……彼に体さえ、あれば。
「でも近づかないわ。まだ怖いから。顔だって、まだ……見るのは怖い」
マリーはあずまやから少し離れた場所に、板を敷く。その上にレースのハンカチをおいて、そこに腰を下ろした。
「いつか、近づいてくれるようになるのかな」
「怖くなくなれば」
見れば見るほどに恐ろしいが、不思議なことになぜか興味深いのだ。
それに首だけであれば追いかけてくることはできない。こんなガラスの器に浸かっていればなおのこと。
マリーが本気で逃げ出せば、きっと追いかけて来ないだろう。昨夜だって、彼は追いかけては来なかった。
「今日は、扉を少し開けてきたわ。怖くなればすぐに逃げるから」
危なくなれば逃げ出してすぐに扉をしめればいい。それだけだ。
「理解すれば怖くなくなる。怖いのは、理解出来ないから。だから私は理解をしにきたの」
「それはすてきな考えだ」
首は花が咲くように笑う。
「僕だってそう思う。僕だっていろんなものが怖いよ。君のことだって昨日始めてみたんだ。君が僕を怖がるように、僕も君が恐ろしい」
「私はふつうの女の子よ。あなたの方がずっと恐ろしい」
「ふつうなんて、何の意味も持たないんだ。特にこの庭ではね」
ぶうん。と、また不気味な音が響いてマリーは体を固くする。あの石碑から、音が響いたのだ。雨振りの昼下がりは静かすぎて、音が高く高く聞こえる。
「でもさっきの言葉は最高にすてきだ。そんなすてきな言葉を誰が君に教えたんだろう」
「……おじいさまよ」
「君の、おじいさま……」
首はしばし考えるように目を閉じて、そしてはっと見開いた。
「ジョージでは?」
「なぜ、その名前を」
「待って、その前に僕の質問に答えて。ジョージは、今どこに? 聞きたい事がたくさんあるんだ。もう、何年も……」
彼は祖父の名を口にした途端、まるで子供のようにはしゃぎはじめる。目はきらきらと輝き、興奮をしたように言葉が早くなる。
しかし、マリーの固い表情に気が付いたか、やがてその目が悲しみに彩られた。
「ああ。そうか」
ただの首だというのに、なんと表情の豊かなことだろう。マリーはその緑の目に、引き込まれた。
「死んでしまったんだね」
「あなたは誰? あなたはおじいさまと、どのような関係が?」
しゅん、と首は明らかに気落ちした。水の中だというのに、目の隅に涙が浮かぶのがはっきりと分かった。
滴に瞳の色のグリーンが映えて、それはまるで草に浮かぶ朝露のようだった。
「残念ながら僕には記憶がない。目が覚めたら……といってもそれがどれくらい前なのかも分からないのだけど……ここは時の流れがないからね。ただ、そうだ……あのときも、確か秋だった。雨が降っていて、肌寒かった。温度だけは分かるんだ。こんな中に居てもね」
首は薄い唇をふるわせて語る。
マリーは目を閉じて、想像した。
秘密の庭、首だけの青年、そして祖父、雨降りの秋。
「気が付けばここにいて、そのときから首だけだった。もちろん、首だけだなんて最初は気づかない。起きあがろうとして、手がないことに足がないことに体がないことに気付いたんだ」
「……うん」
「そもそも僕にはなんの記憶もない。名前も、人種も、宗教もね。もちろん自分の顔も、自分に体があったかどうかさえ、記憶にない……ああごめん、語りすぎだろうか。でも、ジョージの思い出で、今、ひどく苦しい」
「……続けて」
「僕がはじめて目を開けたとき、はじめて今の僕という人生がはじまった。そのとき、目の前にジョージが、君のおじいさんがいた」
マリーは目を閉じて草の香りを思いきり吸い込んだ。祖父と青年の出会いの瞬間が鮮やかに想像できる。
この緑に煙る庭の中、首は目を覚ます。目の前には祖父が立っている。いつもの黒のフロック・コートを着込んで甘い香りのパイプを口にくわえて。
祖父はいつなんどきも紳士だった。机には紅茶なども用意していたかもしれない。
そして彼は首に挨拶をするのだ。「やあ、おめざめかい」……懐かしい祖父の言葉を、マリーは心に浮かべる。きっと、そんな出会いであったに違いない。
「どうも僕は機械というやつで、だから首だけでも死ぬことはない……この球体に入っている限りはね。こうして喋ることだってできる。食べ物だって、必要ない。眠るのは、少しは必要だ。そのあたりは人間と同じらしい」
首は祖父との思い出をかみしめるように言葉をつむぐ。
「なぜなのか? 僕にも分からない。ジョージはなにも教えてくれなかった。それに僕だって最初からこんなに優しかった訳じゃない。目覚めた時は訳も分からず、ひどく荒れたしジョージを困らせもした。でもそれは理解してほしいな。君だってきっと、目が覚めてこうなっていたら、荒れるに違いない。ジョージだって、最初から優しかったわけじゃない。つまり、僕とジョージはそこまで仲良しではじまったわけじゃない」
「それはきっとそうだわ」
「ジョージは僕にいった。暇だから荒れるんだと。ジョージは僕に文字を教えた。読み方を、意味を。そして本を与えてくれた」
首は二度、三度、強く瞬きをした。
その途端、あずまやの床が震え、ちょうど彼の目の前に棚がせり上がる。それは首の前でぴたりと止まる。そして、白い扉が音もなくひらいた。
「すごい……!」
「おもしろい細工だろう。ジョージは天才だ」
扉が開いた途端、煙るような本の香りがする。紙と、古いインクの香りだ。棚のなかには、みっちりと革の背表紙が詰まっている。
赤に緑に黄色に黒。どれもこれも、古いが綺麗だ。背表紙に刻まれたインクの文字は難しくマリーにはよくわからない。しかし、圧倒されるほどの、本の数である。
「こんなにもたくさんの本!」
「おや。君だってたくさん本を持っているのでは?」
マリーは興奮を抑えきれないように首をふる。いくら金持ちでも、これほどの本を貯蔵している家はまずない。本は貴重なのだ。貸し借りが基本であり、こんなに美しく棚に飾るなどできるはずがない。
「本なんてお金持ちの子だってそれほどは持っていないわ」
「じゃあ僕は幸福だ」
「どうやって本を読むの?」
マリーは気が付けば、首の側へ一歩。また一歩と近づいていた。
一歩、また一歩。マリーの腕は彼を包むガラスの器に、触れる場所まで近づいている。
しかし首はマリーを驚かすことはない。優しく微笑み、彼は4回、瞳を閉じた。すると本の一冊がするりと棚から抜け出して、本の形にくり抜かれた穴に滑り落ちる。彼が目を左右に動かすだけで、風もないのにページがはら、はら、とめくれるのである。
「こうすれば、めくれる……目が疲れるから、ずっとは無理だけど。これをジョージは僕に与えてくれたんだ。僕はこのおかげで、本を通じて世界を知った」
「おじいさまは、それ以外、なにか?」
「ああ。ここが彼の屋敷だということは聴いたよ。誰にも見つけられない場所だから安心しているといい、とも。それから彼に可愛い孫がいることも」
首は悪戯っぽくほほえんで、マリーを見上げた。
「綺麗な金の巻髪、透き通るような美しいブルーの瞳、可愛くて、おてんばで、いつもスカートを汚しているってこと……そして、いつか勇敢な女の子になるってこと。びっくりするくらい、ジョージに聞いたとおりだ」
「おじいさまが…?」
「いつか会えるかな、って僕は聞いた。ジョージは、あの子が勇気をもちあわせたら、といった」
懐かしい祖父の思い出が、マリーの中を貫く。
「君はその勇気を手に入れたんだ」
「実は……おじいさまとは……たった一年しか過ごせなかったの」
マリーは首の前に立ち、彼を見つめる。恐ろしさは、不気味さは、溶けてなくなっていた。
今はただ、この首ともっと話がしたい。彼の知っていることを全部聞きたい。それだけがマリーの気持ちをせかす。
祖父との思い出を共有できる人物が、こんなにも身近にいただなんて!
「おじいさまが亡くなった時も、私には秘密にされた。まだ、早すぎるからって」
「僕も、きっとジョージと触れ合ったのは1年ほどだよ。あるときからジョージがこの庭を訪れる回数が減っていったんだ。いやな予感はしていた。ジョージは顔色も悪かったし、いろいろ無理をしているようだった。せめて感謝を伝えようとしたのに、その前にジョージは、ここを訪れなくなった……」
マリーは思い出す。数年前、ケイトが慌ててマリーを部屋へ閉じこめたことがある。
酷い雪だから、とケイトはいいわけをしていた。
その日、祖父はマリーの元を訪れなかった。その代わり屋敷中が騒がしくなり、やがてその音は潜まり、夕食の味がいつもよりも塩辛く、そして翌日から祖父は完全に姿を消した。数週間後、顔色の悪い父が戻ってきたが、マリーをみると気まずそうに顔をそらしてやがて彼は戦地に戻っていった。
「……冬の頃だったわ」
「そうだ。雪が光り取りの窓を塞いで、庭がひどく明るかった。あの日から屋敷の空気が変わった気がする」
二人は目をあわせる。マリーは思わず彼に抱きつきかける。……同じ悲しみを共有するものが、こんなにも近くにいただなんて!
「過去の話はきっと山のようにあるけど、僕は君と、新しい話がしたいな」
「……新しい話?」
庭の草が、かすかに揺れた。顔を上げれば、光とりの窓から雨が少しだけ吹き込んでいる。滴はつるつると壁を伝って草に水を与えるのだ。
「昨日、君に聞かせた話の続きとかね」
マリーははっと息をのむ。昨日、逃げまどいながら耳に滑り込んできた物語。王冠を盗んだ泥棒と、不思議な城と、王冠の物語。
なぜか王冠には扉を開けるための秘密の暗号が描かれてた。泥棒はその暗号のおかげで無事に城から抜け出すことができたのである。
「そうだわ。ねえ、なんで王冠に秘密の暗号が?」
首に問えば、彼はひどく嬉しそうに笑った。
祖父と同じ笑顔だ。祖父もまた、マリーがこんな風に物語の続きをねだると、ひどく嬉しそうに笑ったものである。
「それはね、その王冠は泥棒に盗まれるために作られた偽物だったからだよ。わざと王冠を盗ませることで、泥棒を後ろで操る黒幕を捕まえる。王冠はそのための餌だ」
「本当の黒幕……王冠を盗んだ泥棒ではなく?」
マリーは腰を下ろすための板を首の近くに引き寄せて、改めてそこに腰を下ろす。背の低い机なので、隣に座るとちょうど頭ひとつぶん、高い場所にその首が見えることとなる。
それは祖父の隣に座って顔を見上げたときと同じ高さだった。
こうして祖父の腕に抱かれて祖父を見上げて、そしていろいろな物語を聞いたものである。
「この王冠泥棒劇の黒幕は、王様のお兄さん。騙されて弟に王座を盗まれたお兄さんだ。彼は弟に追われ、近くの村で身を隠していた。商売人としてね。そして泥棒や、病気の子供たちを味方にして、弟と戦おうとしている」
「今の王様は……悪いの?」
「そうだ。悪い王様だ。なんといっても、兄を追い払ってその玉座を手に入れたんだからね。お兄さんは……そう、その名前を仮にピーターにしよう。ピーターは、その王冠を手に入れると、王座に戻れると思っていた。王冠が王様の証だからだ。だから仲間の泥棒に頼んで、王宮に忍び込んで王冠を盗んでもらった。でも、村に戻ってきた泥棒から王冠を受け取って、よくよくみればそれは真っ赤な偽物。嘘の王冠だったんだ」
マリーは息をぐっと堪えて、話に聞き入る。
小さな手のひらは握りすぎて、指の先が白く染まっている。
「さらにピーターは大変な噂を耳にした。なんと、王様の軍が山狩りをしているんだ。王冠を探しているんだね。つまり、ピーターのことを捜している。それに、この王冠が見つかれば盗んだ泥棒だけじゃなく、この村の人たちだって大変な目にあう」
「大変だわ。返しにいかないと」
「そう。そのことにいち早く気づいた少女がいた。それは泥棒の妹だ……ベスとしよう。ベスは兄からそれをきいて、王冠を戻しにいこう、という。ベスの兄さんはすっかり怖じ気づいてしまって震えていた。こういうとき、強いのはいつだって女の子なんだ。そして……」
物語を口にするとき、盛り上がる手前で一度息を吸ってわざとゆっくりと言葉をつむぐ。それは、祖父の癖だった。首の語り口は、まるで祖父そのものではないか。
「どうなるの?」
だからマリーは、いつも祖父にそうしていたように、言葉の端々で続きをねだるのだ。
「……そこでベスは、リンゴ売りにばけて、場内にしのびこむ。そのとき必要なものはなんだとおもう?」
「勇気と、力と」
「それも必要だけど、それ以上に、鍵が必要。どんな秘密の場所でも、どんな固い場所でも鍵さえあれば、入ることができるし、逆に、見つかりたくない場所には鍵を使ってしめておくものだ。偽の王冠は元の通り玉座にかけておけばいいけれど、それじゃ片手落ち。せっかく潜り込むのだから本物の王冠を盗んでこよう、勇敢なるベスはそう思った。でも、王冠は今の王様が被っているか、それ以外のときは大事に仕舞われている」
「それで、鍵」
「そうだ。王冠のある場所には鍵がかかってる。まずは、鍵を探さなくちゃいけない」
がたん、と庭から激しい音が聞こえたのはそのときだ。
二人は、は。と顔を見合わせる。そしてマリーはあわてて周囲をみる。ここは城でもなければ、自分はベスでもない。
元の屋敷、外は雨。外から聞こえてきたのは、ケイトが馬車で駆けてきた音である。
「いけない、メイドがかえってきたわ。早く戻らなくちゃ」
「それは危険だ。早く戻って、見つからないうちに……土の汚れに気をつけて」
首はあわてたように目をぱちくりとするので、目の前に置かれた本が二、三枚、はらはらとめくれた。
「鍵の話をしたけど、実はこの庭にも鍵がある」
「開いてたわ。おじいさま、閉め忘れたのかしら」
「ジョージが閉め忘れたのはきっと、いつか君がここにくることを、予感していたのかもしれないね」
「どこに?」
「外に机があるだろう。その中を見てごらん。鍵があるはずだ。僕はこんななりだから逃げることなんてできないけれど、もし誰かが僕を見ればきっと驚く。秘密にしたいなら閉めてもらえるとうれしいな」
ついでに、と首はあわてて付け加える。
「それと。そこにある石の固まりのすぐしたに、緑色の光苔がある。それを表の机の上においておくんだよ。ジョージはそうしてた。扉の向こうには机といすと時計があるんだろう? そこは暗くて、光取りの穴を開けたそうだけど、庭から穴が見つかるとやっかいだ。穴は塞いで、苔で光を採るといい」
マリーは立ち上がり、汚れを払う。焦ってはいるが、まだ時間はある。なにぶん、この屋敷は広いのだ。庭の向こうに付いた馬車から降りて、玄関までたどり着くまで、随分時間がかかるはずである。
「そうだ。名前を伝え忘れてたわ。私はマリー」
マリーはスカートの裾を持ち上げて、頭を下げる。首は柔らかく微笑んだ。
「ハーブと同じ名前だね」
「ハーブ?」
「ローズ・マリー。気持ちが落ち着く、言い香りがするんだ」
ケイトが庭を横切る気配はまだない。思った以上に雨が強いのだろう。
「あなたの名前は?」
「セージ」
すっと、心がほどけるような声で彼はいう。まっすぐ、グリーンの目をマリーに向けて。
「ジョージが付けた」
「綺麗な名前」
「僕の周囲に、種もないのに綺麗な赤の花が咲いてね」
彼の目線を追ってあずまやの裏をみれば、そこには背の高い草が密集している。花であったような小さな赤い欠片が、数枚、草の中に散っている。
「そのハーブが、セージという名前なんだ」
ケイトはとうとう行動を開始したのだろう。庭を力強く進む足音が聞こえる。
マリーはあわてて扉に向かって駆けだした。少しだけ開けていた扉を開き、薄暗い書斎に飛び込む。庭に顔だけつきだして、マリーは言った。
「今日は私からの質問ばかりね」
「僕の分かる範囲でよければなんでも答える。誓って君に秘密はない」
「ありがとう。じゃあ私のことも教えるわ。私ね、今日、誕生日なの」
「おめでとう」
はじけるように明るい声が、奥から響く。
「きっとすてきな一年になる。僕と出会ったからには」
「これまでで一番うれしいおめでとうだわ」
マリーも釣られて笑った。顔は見えないが、きっとセージも笑っているはずだ。あのグリーンの目を輝かせて。
「また、きっと来るわ。絶対に」
「待ってる」
名残惜しさはマリーの胸を突く。それでも玄関を開けるごりごりという音に急かされて、マリーはあわてて扉を閉めて駆け出した。
書斎を飛び出す直前、秘密の木靴から部屋用のシューズに履き替えて階段を一気に駆け上がる。そっと自室の扉を開けて、椅子の上にかしこまると同時に、階段をあがるケイトの足音を聞いた。
「お嬢様」
こん、こん、こん。必ずケイトのノックは三回だ。マリーは服の上からガウンをまとって扉を開ける。
「おかえりなさい。雨が酷かった? ケイト」
「ええ、いつもの秋と同じように」
ケイトは素早くマリーの部屋を探ったようだ。机の上にはインクの付いたペンと、文字が連なる紙。それをみて、ケイトは表情を和らげる。
「さあ、お父様からのプレゼントですよ」
ケイトから手渡されたのは重くて大きな本だ。そのざらりとした革の手触りに、マリーは先ほどみたセージの本棚を思い出す。
なんて今日は、本に縁のある一日だろう。
ケイトに同様を悟らせないよう、マリーはあくまでもレディらしく礼を言って扉を閉める。
添えられた父からの手紙を脇に置き、マリーはベッドに本を大きく広げた。それは、植物図鑑だ。赤革の表紙をめくれば、なかには数え切れないほど多くの植物の絵が、所狭しと描かれている。
赤い花、黄色い花。生々しいほどに鮮やかな花の隣には花の名と簡単な説明の一文。
マリーはゆっくりと指を這わせてて、「セージ」の項目をみる。
細いみどりの葉に、紫や赤の愛らしい花が描かれて、花の隣には「賢い人」とひとこと、添えられていた。