出会いと最初の物語
扉はきしむ音を立てたあと、すんなりと開いた。
それと同時に屋敷のどこかで置き時計が時を告げる。ぼうん、ぼうん。滲むような音だ。
それは0時を知らせる時の音。
すなわち、マリーが10歳を迎えたことを知らせる時の音だった。
扉の向こうは闇か光か。
目を閉じて息を潜めて扉をくぐり、マリーはゆっくりと瞳を開けた。
「わあ」
その目前に開けた風景に、マリーは一瞬の目眩を覚える。
「……すごい」
立ちつくしたままマリーはつぶやく。
「ここは……お庭?」
マリーを迎えてくれたのは、一面の緑、緑、緑だ。
マリーは思いきり、息を吸い込んだ。湿った青色の香りがする。
雨あがりの庭の香り。紅葉して散った楡の葉が雨に濡れる香り。生きた土の香り!
そして、それら以上に香るのはむせかえるような、ハーブの匂いだ。
ミント、ローズマリー、レモンバームにセージもあるだろう。爆発的なその香りは、マリーの口から鼻から体へと一気に駆け抜ける。
胸一杯に吸い込めば、頭の芯がすっと冷えた。眠気が去り、足の震えも消えた。マリーは目を大きく見開く。
「なんて立派な、お庭……」
屋敷の中だというのに、ここは正真正銘の庭だった。側に壁や天井がなければ、ここが外だと勘違いしてしまっただろう。
広々とした地面はまるで整っておらず、野生の草がもうもうと生えそろっている。
鮮やかな花は一輪もない。その代わり、濃い緑の草があるものは低くあるものは高く生えている。
もちろん草ではない。ハーブのたぐいだ。それはマリーが見たこともないほど大きく、太く育っていた。
おそるおそる足を踏み出せば、素足の指に柔らかい土の感触。草の合間には見たこともない虫が逃げ惑う。
(……素足でも、怒る人は、いない、虫を触っても、掴んでも、誰も……誰も怒らない)
指の先にくちゃりと広がる赤土の感触が楽しく、マリーはその場で二三度足踏みした。ケイトに見つかれば彼女はきっと卒倒するだろう。
素足で土の上を歩くなんて、レディとして最低だ。ケイトのそんな声が聞こえた気がした。
(きっとケイトは言うわ。マリー、なんということでしょう。マリー。いけませんマリー、マリー、マリー……)
マリーはガウンと寝間着のスカートを汚さないよう高くまくしあげて、歩く。歩く歩く。
いつもはスカートや靴に守られている足や膝が風にさらされる。無防備とは、なんと楽しいのだろう! 足を踏みしめるたびに、マリーの心は軽くなる。
剥き出しの足など見れば、ケイトはなんといって叱るだろう。父は驚くだろう。祖父は?
(おじいさまなら、きっと笑うわね)
マリーは足を止め、天を見上げた。まるで吹き抜けのように、ここは天井も高かった。ちょうど、この上がマリーの部屋に当たるのだろう。
(天井、青い……)
天井は青色のペンキで塗られ、まるで蒼天だ。そのせいか、中は薄暗いはずなのに、青く輝いて見える。
いや、かすかな光が天井の隅にある光取りの窓から漏れているのだ。この部屋も庭に向けてほんの少しの穴が開けられ、そこから光が射し込んでいる。
「こんな場所があっただなんて! なんでずっと気付かなかったのかしら」
今日はちょうど月が明るい。月明かりが差し込んで、この隠された庭はマリーの部屋よりずっと明るい。
「でも、草ばっかり。つまらないわ、こんなに広いところに、お花がないなんて」
歩き始めると、マリーはとたんに楽しくなった。
外に出るときは真っ赤なエナメルの赤い靴、それに足の指をぎゅっと押し込めるような固い固い革のブーツ。それにあわせるのは、染みの一つもない上等なレースの靴下。
マリーの素足が土に触れることは、これまで一度だってなかったのだ。
「ケイトも素足になってみればいいのよ。そうしたら、きっと楽しいって分かるから」
マリーはかつての祖父がそうしたように、胸を張って小道を歩く。顎に手をあて、ゆっくりと周囲を見渡して堂々と歩く。まるで祖父が乗り移ったようでマリーの胸が高鳴った。
そうだ、この庭は、この秘密の庭は、あの祖父が作り上げたのに違いない。
毎日数時間、祖父はこの庭造りを密かに続けていたのだろう。
しかし、なぜ?
「光取りの窓のそばに、チューブがあるわ。あそこから、雨水が落ちてこの草を育てるのね。残った水は、どこに流れていくのかしら。大雨の時は? 嵐の夜は?」
部屋の九割が草に覆われているが、よくみれば周囲には細い土の小道が用意されていて、ぐるりと庭を回れるようになっている。もちろん、そこも草に浸食されてはいるが。
綺麗に庭を整えれば、庭を眺めつつ散策のできる素敵な道になるだろう。
庭の中央、今や草が鬱蒼と生い茂るそこには石碑のような巨大な固まりがひとつ。
そっと近づいて耳をそばだてると、そこから低く、音が漏れている。ぶぶぶ、とも、ぶんぶん。とも聞き取れるふしぎな音。
しかし実際に音が鳴っているわけではない。振動しているのだ。振動が、大地に響いて音となりマリーの耳を驚かしていたのである。
「音は……ああ。この音だったのね」
この真上はちょうどマリーのベッドだ。
マリーは用心深く草の中を進み、石碑の前に立つ。何が震えているのか、皆目見当が付かない。しかし正体が分かってマリーはため息を付く。
(こんなものに怯えていたなんて)
石碑は大きくマリーの背を軽く越す。文字が刻まれているようだが、それは苔とツタにみっちり覆われて、みることができない。
そっと苔をこそげ落とすと、祈りの文字が見えた。あまりにも真摯な文字なので、マリーはあわてて手を引っ込める。
「まるで、お墓みたい……」
よくよくみようと近づいたとたん、マリーは何かに足を取られた。
「……!」
足下をみて、マリーはぎょっと息をのむ。
「人……じゃない。これは、なに? 棒? 機械みたいな……」
そこにあったのは、不気味にねじ曲がった棒である。いや、棒ではない。足だ。腕だ。足と腕がくっついた胴体だ。
危うく悲鳴を上げかけたマリーだが、それは寸でのところで止まった。じっと目を凝らしてみれば、それは人の体とはほど遠い。あまりにも人工的な銀色に輝くガラクタのような物体だったのだ。
「人形……機械人形?」
マリーは拳を胸に押し当ててゆっくりと近づく。
うう、ううと不気味に音が鳴り響く石碑の下、埋まっているのは確かに人形のような固まりだった。
大きさは随分と大きい。大人の男ほどもあるだろうか。
着衣はない。銀色にてらてらと輝く足、折れ曲がった腕、まるで丸木のような胴体。いずれも動かない。ただし頭は、近辺のどこにもない。
外の机に描かれていた祖父の文字を思い出し、マリーはそれを機械人形だと確信した。
赤い糸のようなもので繋がったそれらの部品は、半分以上も土に埋まっている。その大地の底が振動を繰り返し、石碑を揺らしているのだ。
「……機械の……お墓?」
これは石碑ではなく墓なのかもしれない。機械に墓が必要であるかどうかはともかくとして……しかし祖父が作った物であると思えば、恐怖は消え去った。
この場所は祖父の香りが残っている。
彼が好んで吸った葉巻の香りだとか、彼が好んだキプロス島の香水の香りだとか。まだここに漂っているような気がするのだ。
それがマリーを勇気づけた。
「可哀想に……水が流れて、土が出てきちゃったのね」
機械の体は、元々土に埋まっていたらしい。水が土をえぐり、体を剥き出しにしたのだろう。マリーは手で土をすくい、体にかけてやる。二度、三度と繰り返すと銀の輝きは赤土の中に混じって消えた。
茶色に染まった手をまじまじとみつめて、マリーはほくそ笑む。
これほど勇気のある行動をとれるなんて。昨日までの……数十分前のマリーからすれば信じられないことである。
10歳というのはまさに奇跡を生む年だ。そう確信して立ち上がった瞬間。
その声は聞こえたのだ。
「ねえ」
最初は風の音か、石碑の音だとそう思った。そう思おうとした。マリーは目を丸く開いたまま、体も固まったまま。
声が響いた方角をみることさえできなかった。
「……君は、だれ?」
しかし、声は二度、聞こえる。聞き間違えなどではない。声は、確かに聞こえた。
「どこから来たの? そこでなにをしているの?」
続いて、三度。
「……!」
マリーはこんどこそ、小さく悲鳴をあげる。
つま先だって見てみれば石碑より少し先に、ちいさな建物があるのがみえた。
天井はアーチ型になっていて、柱は細い真鍮。
庭などにおかれるガゼボ……あずまやの、さらにちいさなものだろう。壁や屋根には板も張られていない。遠目にみれば大きな鳥かごに見える。
声は、その中から聞こえた。いや、声の主はそこにいる。その中に、人の顔が見えるのだ。
……顔だけだ。
体はない。顔は、あずまや中心に置かれた低いテーブルの上、無造作に転がっている。
首が声さえ出さなければ悪趣味な置物か殺人事件のどちらかだと、そう思っただろう。
それは確かに、人の頭部なのだ! 頭部だけで生きているはずがない。タチの悪い偽物か、哀れな本物か、二つに一つだ。
しかし、それはゆっくりと口を開いた。
「急に声を掛けたことは謝る……驚かないで。ねえ、君はだれ?」
「……っ」
二度目の悲鳴はなんとかこらえた。マリーは後ずさり、尻餅をつく。震えが止まらない。尻餅の痛みもかきこえた。こんなにも震えているというのに、顔はじっとこちらをみている。
「ごめんね。急に声をかけると驚かすと思ったのだけど、でも先に僕を見ちゃうともっと怖がるかと思って」
声は流暢で顔も恐ろしくはない。色白の青年である。目はグリーン、髪は輝くような赤毛。
しかしそれを一瞬見つめることだけが、マリーの限界だった。
その唇が動くたび、声が響く。声は彼から放たれているのだ。
なんて、綺麗で、優しい声だろう。
その綺麗な声が、顔が、よけいに恐怖に拍車をかける。
「……だ、だれ……」
彼は顔しか持たない。それを証拠に、マリーを追いかけてくる気配はない。ただそのグリーンの目は、じっとマリーを見つめている。
マリーは震える膝を叱咤して、必死に体を起こす。足が何度も絡んで地面に転ぶ。柔らかい土のせいで、立ち上がるのに時間がかかり、それがよけいにマリーを焦らせた。
なんとか扉までたどり着いたのは、時間にすればほんの数分。しかしマリーにとっては何時間にも感じられた。
「あか……あかない!」
しかし、無情にも、扉は開かない。
表にはあった真鍮のドアノブが、こちらにはないのだ。あるのはちいさなくぼみだけだ。それをゆすっても叩いても扉はうんともすんとも動かない。
マリーは拳を幾度も扉にたたきつける。しかしそれは乾いた音しかたてなかった。
「や……やだ……!」
「その扉は、あわてて開けると、開かないんだ。ねえ、聞いて。落ち着いて、そこにくぼみがあるだろう、手をいれてみて。中につまみがあるはずだ。右に三回、左に二回。回して引くんだよ」
「や……やだ……やだ……!」
マリーの目からは涙が溢れる。膝は震え、全身から汗がふきだし、指先もがたがたと震える。
振り返る勇気もない。しかし、すぐ真後ろに首が迫って来ているような気がする。目を閉じれば闇が恐ろしく、目を開けばもっと恐ろしい。
ただがむしゃらに、声の言うがままその穴に手を差し入れた。
ぬるりとした感触に悲鳴をあげて手を引くが、勇気を出してもう一度。中は苔にまみれている。つるつると滑るそれをこらえて探れば、そこには確かにちいさなつまみがあった。
「息を吸って。そう一度、二度……ねえ、おもしろい話をしてあげるよ。昔……そうだな。ずっと昔だ。東の海のまだ向こうにある小さな国の大きなお城に、若い泥棒が忍び込んだことがあってね」
声は、最初から今まで、一度も乱れない。ゆるやかで、優しい口調だ。
まるでちいさな子供を諭すようなその口調に、マリーは聞き覚えがある……そうだ、祖父のしゃべり方である。
「泥棒の目的は王冠だ。王冠は玉座の上に無造作にかけられている。兵士に見つかりそうになるし、侍女には疑われ、番犬には追われる。それでも彼は玉座にたどり着いて玉座に飛び上がり……奪った!」
つまみは滑り、ひねってもひねってもうまく回らない。マリーは悲鳴を飲み込んで必死に回す。しかし声は、淡々と物語を紡ぎ続ける。
「泥棒は無事、王冠をもって逃げたのだけど、なんと扉が開かない。必死にこじあけたはいいが、ほんの小さな隙間しか開かない。後ろからは追っ手がくるし、扉は自分の体サイズにしか隙間がない。王冠は大きいんだ。さあ。君なら王冠を捨てる? それとも押し込む? 敵に投げつける?」
マリーはふと、祖父が語る物語を思い出していた。
祖父の物語にも、確か王冠が登場したことがある。その王冠にも秘密があった。
「投げ捨てるのも投げつけるのも賢い選択とはいえないね。だって王冠を目的に、こんな冒険をしたのだから」
祖父はこうして、寝入りばなにマリーに不思議な話を聴かせたものである。ゆったりとした声で、優しい口調で。
(おじいさま……)
恐怖と懐かしさが同時にマリーを襲い、涙はますますとまらない。しかし、震えは自然とおさまった。
(おじいさま、助けておじいさま……)
「それに泥棒は、どうしても王冠が必要だ。持って帰らなきゃいけない。それには理由があった。彼の生まれた村ではおなかを空かせた人たちが泥棒の帰りを待ってる。泥棒はこの王冠をとある人に渡す約束をしていたんだ。半年分の食糧と引き替えに」
声は抑揚がないが、ただただ優しいのである。マリーはその物語に、不意に引き込まれた。まるで自分が泥棒になってしまったかのようだ。
思わず手のひらをみる。そこにあるのは泥まみれの手のひらだけ。王冠はどこにもない。
「落ち着いたね? 泥棒もきっとそうだ。泣くのも震えるのも、あとで充分できるだろう? さあ、息を吸って、吐いて……話を続けよう。泥棒が王冠の内側を見てみると、そこにはなんと扉を開くための、つまみのひねりかたをかいてあった。さあ。どうする、右に三回、左に二回」
泥まみれの手で、マリーはつまみをひねる。右に三回、左に二回。先ほどまでは滑ってうまくいなかったというのに、今度はすんなりとつまみが動く。
「……あいた!」
かちり、と手元から音が聞こえた。肩で押せば、それはゆっくりと動く。机と椅子のある、小さな書斎。その風景が見えた途端、マリーは安堵から崩れ落ちそうになる。
「ほら、落ち着けば、開くだろう」
声ははじけるように笑った。
「ところで、なんで、王冠にそんな大事な秘密が描いてあったとおもう?」
逃げ去ろうとするマリーに向かって彼はそんなことを言う。
「話の続きを聞きたければ、またおいで」
扉を閉めるその瞬間。聞こえたのは楽しげな笑い声。隙間から見えた首は、満面の笑顔で笑っていた。
厚い戸を閉めれば、一気に庭の香りは消えた。月明かりは途絶え、闇となった。音も薄くなった。
まるですべてが夢のよう。しかしもう一度そこを開ける勇気はマリーにはない。
(……夢……じゃない)
おずおずと、マリーは光取りの窓に手を照らす。そこにみえたのは、柔らかな赤土で汚れた白い手のひらだった。