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誕生日前夜の冒険

 秋が深まると、庭の楡の木が少しずつ色付き始める。

 奥から手前へ、緑から黄色へ。それはマリーの知る限り、この世で一番美しいグラデーションである。


「もうずいぶんと黄色いのね」

 バルコニーの欄干から身を乗り出してその色づきを眺めるのがマリーの朝の日課であり、楽しみの一つだった。

「おはよう」

 マリーは小さな掌を広げて、楡の葉に挨拶をする。

 朝日を浴びて葉脈が輝く様は美しかったし、それが雨上がりであればなおのこと。水気を含んだ土の香りと艶やかな黄金色は幼いマリーの胸をつく。

「今が一番綺麗。でも、色が落ちると、冬が来てしまう」

「……お嬢様」

 欄干そばまで生え茂る黄金色の葉に触れようと身を乗り出したマリーだが、力強い腕によって呆気なく引きずり降ろされる。

「お嬢様、いけません」

 古い置き時計のように、ひとつの感情のこもらない声である。

 顔を上げればマリーの背後に、巨躯の女が一人。

 真っ黒な髪は引っ詰めて一本の乱れもなく、白いブラウスは首もとまでみっちりと詰まりシミ一つもない。上から纏う黒のジャケット、漆黒のスカート。

 黒に近い服を纏った体は大きく、背はゆがむことなく真っ直ぐだ。

 皺のないスカートと、腕に巻き付けている真っ白いナプキンが彼女の……メイドとしての……誇りであるという。

「残念。もう少しで、触れたのに」

「マリー」

 ゆっくりと、彼女はマリーの名を呼ぶ。 

 お嬢様と呼ぶ声より、もう少し力強い。それは、彼女が怒りを堪えている時の声だった。

「いけません、マリー」

「……ケイトはいつも、いけない。いけないって言うのね」

「危ない事をされるからです」

「危なくないわ。ちょっと手を伸ばすくらい」

 だからマリーは、口を尖らせて力なく反論するのである。

 マリーはメイドのケイトに強く腰を捕まれたまま。暴れても、ケイトはぴくりとも動かない。10歳に1日足りないマリーにとって、彼女の大きな手は何よりも難関だ。

「小さな女の子がバルコニーから落ちて大けがをしたお話を聞かせて差し上げましょうか?」

 ケイトの顔には笑顔はない。今だけではない。昨日もその前も、恐らくマリーが生まれる前からずっと。

 きっと、彼女は笑ったことがないのだ。と、マリーはそう思っている。

「……なぜあなたはこうもお転婆なのでしょう」

 ケイトは溜息を吐いてマリーを床に下ろし、ドレス裾の汚れをナプキンで払った。

「マリアを……お母様を見習ってください、マリー」

 マリーの母、マリアの名を呼ぶときだけ、彼女の声はほんの少し優しい。

「あなたのお母様は淑女でした。それはもう、お美しくお優しく、見事な女主人でありました」

 ケイトは青い目で、外をみた。

 そこには彼女の目と同じ青の空がある。空の中をちぎれて飛ぶ白い雲。ひやりとした風。茶に赤に、秋色に染まる、屋敷の庭。

(綺麗な、青い瞳……)

 しかしマリーはケイトの固い横顔に目を奪われる。

 ケイトの瞳の色だけは本当に美しい。秋の空と同じ色だ。ヤグルマギクの花の色だ。深く濃く、吸い込まれそうな青の色だ。

 この瞳で微笑んでみせればさぞ美しいだろう。

 そんなマリーの気持ちに気付かないケイトは、胸を押さえため息を漏らした。

 彼女の胸の内ポケットには、マリアの絵を納めた小さなロケットペンダントがあるのだ。

「本当に、完璧な淑女だった。お嬢様も、そうあるべきです」

「……淑女だったけど、亡くなってしまったわ」

「マリー」

 ケイトの目が静かに閉じられ、そして開く。

 その青の色に感情は無かった。ケイトはマリーの腕をとり、あっさりと抱き上げる。

「お話は終わりです。参りましょう。サム様を困らしてはなりません。あの方は大旦那さまの絵も描かれた立派な絵師様なのですから」

 マリーを抱き上げる腕は太く強い。マリーを逃がすまいとつかんだまま、彼女はさっそうと歩き始める。

「一人で歩けるわ」

「あなたが歩き出すのを待っていると、クリスマスが来てしまう」

 廊下を抜けて大広間を抜け、扉を開けると底は赤の絨毯がしきつめられた大階段だ。階段の踊り場、ちょうど光が射し込むその場所に、巨大な絵が掲げられている。それは、祖父の絵である。

 ケイトはマリーを床におろし、二人は粛々と祖父の前でスカートを持ち上げて軽く頭を下げた。

 ケイトはマリーの所作に間違いがないか、鋭い目で見つめてくる。

 それは、この場所を通り抜けるたびに行われる儀式だ。しかしマリーはこの行為が嫌いではなかった。

「絵のおじいさまは、いつも怖い顔をしてるわ」

「いいえ。これは、威厳のあるお顔というのです」

 マリーとケイトは並んで祖父の顔を見上げた。

「いげん?」

「強い意志と強い心を持つ顔のことです」

 巨大な絵に描かれた祖父は厳しい顔をしている。

 彼は戦争でおおいに戦った英雄であり、偉大なる科学者であり、文筆家であり、思想家だった。

 祖父の胸には、数え切れないほどの勲章がぶらさがっている。服をちぎらんばかりの重量だ。重くないのかしら? と、マリーが心配になるほど。

 しかし祖父はそんな勲章を胸にぶら下げ、堂々と背を正している。前を見つめる目は、鋭い。

 祖父の作戦で、祖父の一声で、敵が数百人も死んだという。町を守り、女や子供を守ったのだという。褒めたたえる声は彼が死んで数年たってなお鳴り止まない。

 そんな祖父の娘婿である父も、毎日戦争にかり出されている。マリーの元に戻るのは年に一度、あるかないかだ。

 滅多に顔を見ない父よりも、毎日見る祖父の顔の方がマリーにとって馴染み深い。

「おじいさまと仲良くなれたのは、最後の一年だけだったわ。もっと長く、仲良くなりたかったのに」

 マリーはその絵を見上げるたびに不思議な気持ちが込み上げるのだ。

 祖父は亡くなる一年前、突然、すべての仕事を終わりにして、この屋敷にこもった。

 それはまだマリーが6歳の時のこと。

 絵の中では厳しい顔をしている祖父だが、実際には優しい人だった。穏やかでしゃれっ気があり笑顔も絶えない。時に、冗談でマリーを笑わすことさえあった。

 むろん、ケイトや父の前では「威厳」のある顔を保っていたが。

 祖父はこの屋敷で最期の一年を過ごし、そしてあっさりと消えた。

 それが死というものであったとマリーが知ったのはつい最近のこと。幼くして母を亡くしたマリーへの配慮なのか、祖父の死はつい最近までこの屋敷の中では伏せられていた。

(……私だって、おじいさまを見送りたかった。なのに最期に、ご挨拶もできないなんて)

 マリーだってもう子供ではない。死が何であるのか知っている。物語を読んでは色々な死に涙した。

 しかし、マリーは本物の死を見たことがない。だからこそ、死を見せるのは早すぎるのだ……と、かつて父がケイトに零した言葉をマリーは聞いたことがある。

(お父様も、ケイトも、私に過保護にすぎるわ)

 と、思っても口にはできない。そのようなことを口にするには、マリーは少し幼すぎた。

「おじいさま……」

 絵を見上げるたびに心に浮かぶのは、苦い気持ちと祖父と過ごした懐かしい思い出だ。

 大きく皺のある手、白い眉毛、綺麗な髭、嗄れて呼ぶ「マリー」の声。

 そしてその声が語る、不思議な物語の数々。

(おじいさま。あともう何年か一緒に過ごすことができれば、きっとおじいさまの秘密だって、知ることができたのに)

 マリーはスカートを握ったまま、厳つい祖父の顔を見つめ続ける。

(おじいさまは、この屋敷で一年の間、どんな秘密を持っていたの?)

 この屋敷にこもり、亡くなるまでの一年。祖父は何かの秘密を持っていた。

(毎日毎日、どこへ行ってらしたの?)

 祖父は昼下がりから夜まで毎日、マリーを放って秘密の場所に通っていたのである。

(土まみれで帰ってくることもあった。泣いた跡をみたこともあったわ。おじいさま、何をされていたの?)

 どこでなにをしているのか、屋敷の中にいるのか外にいるのか。彼は誰にも言わなかった。きっちり決まった時間に部屋を抜け出し、きっちり同じ時刻にマリーの元に戻ってくる。そしてマリーに物語を聞かせてくれる……。

 祖父の懐中時計が一度も狂わなかったように、彼のこの行動は毎日毎日、一秒だって狂わなかった。

「お嬢様もこの方の血を引いていらっしゃるのですよ。強く、威厳のある、そして聡明な……」

 ケイトが自慢げに呟いた。

「あの頃、大旦那さまは午後から夜までずっとお嬢様にお勉強を教えていらっしゃいましたね? それはもう熱心に。これからの女性は学をつけるべきだと……教えられたそれらのことは、きっとお嬢様を救う道となるでしょうね」

 ケイトが真面目ぶっていうので、マリーは思わず吹き出しそうになる。

「そうね。私はとても、一生懸命に勉強をしていたの」

 実のところ、マリーは祖父の共犯者だ。口うるさいケイトに居場所を知られるのを避けるため、祖父はマリーを共犯者に仕立て上げた。

 祖父がマリーの部屋から消える数時間、マリーは彼が部屋に留まっているように振る舞ってみせたのだ。

 ケイトが部屋へ近づけば、マリーは如才なく祖父と語り合うように独り言呟いたし、チェアの上には毛布をおいて、それに語りかける演出さえしてみせたのだ。時にはピンチもあったが、マリーはいつもうまく、やってのけた。

 そんなマリーを祖父は「勇敢なる戦友」と、称えたものである。

 そして祖父はそんなマリーにささやかな礼をした。それは一本の物語だ。

 祖父の口から飛び出すその物語は、壮大で美しく時に冒険心があり、マリーの心を虜にした。

 いつもいいところで話を終えるので、話の続きの聞きたさにマリーはいつも祖父のアリバイづくりに協力したものである。

「参りますよ。こんなことをしていては日が暮れてしまう」

 ケイトはしばし祖父の絵を見上げたあと、マリーの手を取る。階段を上り小さな木の扉を開ければ、そこには柔らかいソファーと木の机、そして部屋の真ん中に立つ一人の男の姿、絵の具の香り、水の音。

「お待たせしました、サム様。お嬢様、頭を整えてあげましょう。そしてソファに腰をおろして……そう」

 ケイトはいそいそとマリーをソファーに落とし込むと金の髪を力強く整える。なすがままになりながら、マリーは男をみた。

 初老といっていい男だ。彼は大きな画板の前に腰を落としている。

 真っ白な画板の隣には、色鮮やかな絵の具の固まり。それを見ると、マリーはげっそりしてしまうのだ。

「この方に絵を描いていただけるのは栄誉なことなのですよ。ほかの女の子が聞けば、どんなにうらやましがることでしょう」

「それならケイトが描いてもらえばいい」

「……マリー」

 ケイトの大きな手がマリーを押さえた。絵師は鋭い目で、マリーの姿を射抜く。

「元気のいいお嬢様だ。ジョージに……おじいさまによく似ている。確か、明日が10歳のお誕生日でしたね。すばらしく、冒険心にとんだ魅力的な女性になることでしょう」

「まあサム様。それはこまります。ぜひ美しく……淑女である姿を描いてくださいませ」

 今日から一ヶ月もかけて、マリーはこの男に姿を写されるのである。

 描かれているあいだ、マリーは動けない。外も見られない。おなかが空いても、ビスケット1枚食べられない。

 10歳という記念の年に、童女から少女に変わるこの時に。一枚の絵を残してほしい。と、遠くで戦う父がそう願ったという。

「せっかく描かれるなら……何か、手に持ちたいわ、お人形とか……お花とか。そうだ、少し前、お父様からバースデイプレゼントが来ていたけど、あれはお人形なのでしょう?」

「いけません」

 ケイトはにべもない。マリーは仕方なく背をただし、そして何とか微笑んでみせた。

「さ。用意は整いましたよ」

 ケイトの声はまるで処刑の執行人のように響きわたる。



「そんなところで居眠りなんて、淑女のすることではないですよ。もう夜はすっかり更けました。そろそろ寝る支度を」

 くったりと机にうつ伏していたマリーは、ケイトの声でハッと体をおこす。

 絵を描かれたあと、くたくたに疲れて簡単な夕食をとった。

 自室に戻り日課の日記を付けていたものの、疲れが出たのか机に突っ伏して居眠りをしていたものらしい。書き掛けの日記が、マリーの腕の下でくしゃりとゆがんでいた。

「日記は付けましたか? よろしい。それを早く片付けて……あら。インク瓶を開けたままにしてはいけませんよ。さあさあ、そしてガウンを脱いで……」

 ケイトに促されるようにマリーは着替え、そして柔らかいベッドに潜り込む。ひやりとした布の感触がマリーの足を包み込む。

 まもなく、冬になる冷たさだ。

 この冷たさをマリーは知っている。誕生日を迎える頃、いつも季節はほんの少し寒くなる。

「お嬢様、お休み前の温かい紅茶をここに」

 小さなカップに茜色の紅茶がそそがれた。それを受け取り、マリーは暖かな息を吐く。口元から喉、お腹まで一気にぽうっと温かく染まった。

「……ねえケイト。明日……私のバースデイ、お父様は?」

「お仕事で戻れないと電報が」

「……いつもね」

 マリーはベッドに寝転がり、隣をみる。そこには届いたばかりの美しい人形があった。数日早く、父から届いたバースデイプレゼントである。

 マリーと同じ金の巻き髪、青い瞳を持つ人形は、幸せそうに微笑んでいた。

 父は、娘の誕生日をいつも少し早く勘違いしている。

「お嬢さま」

「お誕生日を間違うのはいつものこと。お誕生日に帰ってこないのもいつものこと」

 ケイトは何も言わずに頭を下げる。答えたくないとき、彼女はいつもそうやって逃げるのだ。

「おやすみなさい」

 つい、と頭を背けてマリーは毛布を頭まで被った。柔らかなベッドは、マリーが寝転がっても軋む音さえたてやしない。しかし、そろそろシーツの片隅はほつれ、白い糸が飛び出している。

「……ねえ、ケイト」

「なにか?」

 マリーは毛布から顔を出し、天井を見上げる。隅には蜘蛛の巣がかかっているのが見えた。

 綺麗にみえても古い屋敷だ。あちらこちらにも、もうガタが来ていることをマリーさえ知っている。

「なぜこのお家は、こんなにも静かなのかしら」

 これほどの屋敷を持つ家はそうはない。部屋数は多く、食堂は舞踏会でも開けそうなほどに広い。もちろんテラスも庭もバルコニーも、立派で広大だ。

 通常それほどの家であればメイドの数は多い。調理人、庭師、それ以外にも使用人を多く雇い入れる。しかし、この屋敷にはそれがない。

 メイドはケイトただ一人。料理人は通いで一人、庭師は遙か昔、祖父がクビにした。以来、庭は森のようになった。

 母が生きていた頃は使用人が大勢いたようだが、祖父が皆皆、クビにした。残ったのはケイトだけ。

 父が戦争に駆り出されてから数年。この屋敷にはただ二人しか住んでいないのだ。夜になると、静けさがマリーにのしかかる。

「……丘の下にある町では、このお家はお化け屋敷だとか、化け物がでるんだ、なんて言われているんでしょう?」

「お嬢様。そのようなこと、気にされませんように」

 しかしケイトはマリーの質問には答えない。そして完璧な角度で頭を下げて、そして扉を閉めるのだ。

「おやすみなさいませ、お嬢様。暖かな紅茶の魔法で、どうぞ幸せな夢を」

 ケイトも去り、光が消されると一気に世界は闇となる。

 それでも目がなじめば、薄いレースのカーテンの向こう、月明かりを感じることができた。

 りいりいと鳴く虫の声と悲しい鳥の声が聞こえた。幼い頃はそんな音にさえ怯えていたものだが、あと1時間もすれば10歳となるマリーは、もう恐ろしくともなんともない。それより恐ろしいのは……。

(……下から、また、音が聞こえる……)

 地下から聞こえる謎の音のほうが、ずっと恐ろしい。

(今日も聞こえる。昨日も聞こえた。多分、私が眠っているときもずっと)

 マリーは耳を澄ませたあと、あわてて毛布を頭までかぶる。

 しゅーん、しゅーん。とも、うーん。うーん。とも、つかない。あるいは、そのどちらも。そんな謎の音が、遙か遠くから聞こえてくる。

 それは鳥の声ではないし、ましてや車の音でも、汽車の音でもない。一度ケイトに聞いてみたことがあるが、優秀なメイドは「気のせいです」と切り捨てた。

 しかし気のせいなどではない。耳を澄ませばいつでも聞こえてくるのだ。

 夜にしか聞こえないのは、夜が静かで空気が澄んでいるからだろう。

 一度気になり始めると、ついつい神経が高ぶる。恐ろしさに耳を塞ぎたくなるのに、音の場所を知りたくてたまらなくなる。

(下……)

 その音はマリーの部屋の真下から、聞こえてくる気がする。

 しかし下は大階段のホールだ。一度勇気を出してホールの床に耳を押しつけてみたが、音は一つも聞こえなかった。

 そのかわり、階段脇の壁に耳を押し当てると、そこから音が漏れてくるのだ。

 その場所は、ちょうど、マリーの部屋の真下にあたる。

(秘密の場所……けして、足を踏み入れてはいけない……)

 うつら、と眠りかけるたびにマリーは不気味な音に揺り起こされ、震える。

 なぜなら、「階段脇の壁の向こう」はマリーにとって悪であり恐怖であり、禁止事項であるからだ。

 この屋敷のどこかには、祖父だけの部屋があった。祖父はけしてその場所を漏らさなかったが、マリーは知っているのだ。

 その部屋は大階段の横、壁の向こうにある。

 一度だけ、たった一度だけ、マリーはその扉が開いた瞬間を見た。

 普段は慎重は祖父だが、その日は何か事件でもあったのだろうか。妙に焦ってみえた。そのため、彼は後を付けてくるマリーに気付かなかったのである。

 祖父はいつもの通りマリーの部屋を抜け出すと階段を駆け下り、壁の横に立った。一見するとただの壁だ。しかし、祖父は壁をまさぐり、おもむろに開けたのだ。壁が動き、音もなく引き戸となった瞬間、マリーは「素敵」と呟いた。

 祖父は手慣れた様子でその中に滑りすべりこむ。

 ついつられてその後に続いたマリーだが、扉をくぐる前に呆気なく祖父に見つかってしまった。

 マリーに気づいた祖父は、珍しくも鋭い目で睨んだ。そして「けして誰にも言ってはならない」と、マリーを叱りつけたのだ。

 いつもより恐ろしく、厳しい口調である。

 やがて怯えるマリーに気づいたか、彼は彼女を優しく抱きしめ、そして耳もとで囁いた。

「オチビさん。いつかオチビさんがその体に似合わないくらいの勇気を持った時、その時がくれば、この奥へ行ってみるといい」

 もちろんそんな勇気は、数年たった今も持ち合わせてはいない。

 まだ祖父が生きていた頃は、音など恐ろしくはなかった。きっと何があっても祖父が守ってくれる、そう思えたからだ。

(たしか中は、真っ暗で……変な音が……音が……)

 マリーは遠い記憶をまさぐるように、思い出す。

 しかし今は恐ろしい。秘密の部屋にはきっと化け物がいて、いつか屋敷ごとぱくりと喰われるのだ。そんな妄想を幾度もした。

(いけない。怖いなんて。いけない。おじいさまは、あんなにも強かったのに)

 祖父はいつもマリーの頭を撫でながら言ったものだ。

 勇気を持てば恐れなどかき消える。

 祖父の語る物語の主人公は、いつも強く、そして勇気があった。

 その理由を祖父はなんと言っていただろうか。

(彼らは恐れるものをすべてその目におさめるからだ。恐ろしいと思うものを、目におさめてしまうからだ。怖い物を目で食べてしまうのだ)

 祖父は優しい笑顔でそういって、マリーの頭を撫でてくれた。人々から恐ろしいと言われた祖父だが、マリーにはその片鱗も見せなかった。

 いかめしい顔もあの絵の中だけである。

 普段、マリーに見せる顔はそれは優しく、そして穏やかだった。しかし祖父には強い信念があった。

 それは、けして恐れないこと。

 は。と、マリーは息をのむ。恐怖が、まるで卵の殻を剥ぐようにはらはらと落ちていく。

「……そうだ」

 マリーは瞳を開けて床に飛び降りた。ひやりとした冷たさが、マリーの体を駆け抜ける。普段なら、この冷たさだけですぐにベッドへ飛び戻っただろう。

 しかしマリーは意を決するように、力強く床に立つ。

 祖父は幼いマリーに、繰り返し言ったのだ。

(……いつか、その体に似合わないほどの勇気を持ち合わせたら、そのとき、マリーには秘密の部屋を覗く権利がある)

 懐かしい祖父の声が耳の奥でよみがえる。

 まだ音はうるさいほどに響きわたるが、それよりも祖父の声の方がずっとずっと大きく聞こえる。

 眠気は一度に吹き飛んだ。

 置き時計が指す時刻は0時の30分前。あとまもなくで、マリーは10歳になってしまう。

「……今がそのときだと思うの」

 マリーは床に投げてあったガウンをまとい、前をきゅっとしめる。

 そして、机の隅に置かれた銀の燭台をそっと掴んだ。ちびたキャンドルを灯し、消えないように慎重に持ち上げる。

 マリーは息を詰めて、扉を開けた。きい。と小さな音が響き、体を縮める……ケイトが起きてくる気配はない。

 マリーは念のため、ベッドに毛布の固まりを仕込んで、ついでに父から届いた人形を枕の上に置いた。

 人形はたっぷりの金髪を垂らしている。それをうまく引っ張って枕の上に広げれば、マリーがそこに眠っているようだ。

(……ケイトは、前みたいに……だまされてくれるかしら)

 それを確かめてから、そうっと扉から顔を出す。

 廊下には、光などない。ただ、ただ暗い。キャンドルで照らされた場所だけが、オレンジ色に光っている。

 光の向こうにある闇の中から、化け物が爪を尖らせて飛び出してきそうだ。恐怖に震えそうになるのをこらえ、マリーは自分の頬をたたく。

(そんなもの、いるわけない)

 じっと床に腰を落として目をこらしていれば、そのうちに目が慣れた。窓から差し込む月と星の明かりが、しらじらと廊下を照らしているのだ。

 目が慣れてしまえばなんていうこともない。ただ、青白い闇が浮かぶばかり。

 扉は少しだけ開けたまま。マリーは廊下に一歩、一歩と進む。素足で歩く廊下は驚くほど冷たく、そして固い。

 階段をゆっくりと下ると目線を感じた。驚いて振り返れば、そこにいるのは祖父の絵だ。

 月明かりの中で見上げる祖父の絵は、いつもより恐ろしい。しかし、マリーはその絵をしっかりと見つめた。

「行きます……おじいさま」

 ガウンの裾を掴んで、マリーは頭を下げる。

 階段を一気に降りてしまうと、深呼吸。周囲を見渡して、階段横の壁を探る。

 立って見ればふつうの壁にしか見えない。しかし、壁に手を当ててさぐれば一カ所だけ小さなくぼみがあるのだ。そのくぼみに指をかけて、ゆっくり……ゆっくりと、引く。

(……開いた!)

 白い壁が音もなく手前に開かれ、マリーは息を飲む。そうっと引いてみれば、扉は思い出よりもずっと小さい。

 それはマリーが立ったまま入れるかどうか、ぎりぎりの高さ。祖父はここを這うように進んだに違いない。

(暗い……)

 中は、真の闇だ。光は一筋もない。

 キャンドルを差し込むが、壁がぼんやり浮かぶばかりで奥は闇。インク壷をひっくり返したとうな、真の闇なのである。

 この先に、窓の一つもないのだろう。埃とカビのすえた香りがつん、とマリーの目と刺激する。

 しかし、耳を澄ませると、確かにあの怪しい音はこの奥から響いている。

 じっと息を止めて座っていると、かすかだが風を感じた。

(……なにか、あるの? 外につながっているのかしら。深い? 浅い? この先は……)

 床に座り込んだまま、マリーは一歩も動けない。そんなマリーの背を押したのは、ぎしぎしと揺れる階段のきしむ音だ。

「……お嬢様?」

 階段の上に、小さな明かりが揺れている。キャンドルの明かりだ。その淡い明かりがさっと、階段に差し込むと、ケイトの大きな影が床の上に広がった。

「……っ」

 マリーはまるで突きとばされたように、目の前の扉をくぐる、白い扉をあわてて閉める。そして必死に奥へと駆けた。

「!」

 駆ける、といってもそれほど距離はない。やがて、すぐに行き止まりとなる。固いものにぶつかって、マリーは軽々と転がった。

 一緒に燭台も転がって、キャンドルの炎は一瞬でかききえた。そうなれば、もう、一面の闇だ。どちらから来たのか、どちらの方角が出口なのか、上なのか、下なのか、もう分からない。

(やだ……どうしよう……)

 おそるおそる手を伸ばせば、先ほどマリーを弾き飛ばした物が指にあたる。それは置き時計のようである。その隣に指を這わせてみれば、小さな机と、椅子もある。

 すがるように机をまさぐり、まさぐり、やがて指先が壁に触れた。

 冷たい壁だ。レンガのような固い壁だ。必死に叩けば、やがて小さな欠片がごろりと奥へと転がりおちる。

 それはレンガの一部だ。抜けるようになっていたのだろう。押されたそれは重い音を立てて奥に転がりおちて、そこから白い光が漏れる。

「庭……?」

 壁に開いたのはマリーの掌ほどの、小さな穴。それを覗き込めば、見覚えのある楡の木が見えた。

 ちょうど庭の前に、この秘密の部屋はあるようだ。

 光を求めるように、マリーは穴を慎重に広げる。周囲のレンガは、元々光取りのために外れるようになっていたのだろう。ひとつ、ふたつ、レンガが取り払われると小さな窓のような穴が開き、月明かりが真っ直ぐに差し込んだ。

(広い……天井が……高い)

 光に目が慣れたマリーはぽかんと、周囲を見渡した。

 そこは、小さな部屋である。扉はマリーの身長ほどしかなかったが、廊下はラッパ型だったのだ。

 奥は丸い部屋となっていて、天井はうんと高い。ここなら祖父も快適に過ごせただろう。

 光取りの穴の横には木でできた置き時計と、机、椅子。机の上には紙やペン、インク瓶。祖父が好んで使った深い青のインクが埃を被ってそこにある。

 紙には懐かしい祖父の文字が踊っていた。目をこらすが、月明かり程度では、その文字ははっきりとは分からない。

(機械……人間?……兵器……爆弾……創られた……死)

 恐ろしい文字、単語だけがうっすらと確認できる。間違いない、祖父の字だ。その単語が、マリーの目を釘付けにした。

(おじいさまが聞かせてくれた物語の……続きかしら……)

 もっとよく見ようと近づけば、突如、うなるような音が聞こえた。

「……っ!」

 震えて椅子を抱きしめる。しかし、音はそれきり、聞こえない。どこから聞こえたのか、そっとあたりを探ってみれば、机の横に大きな扉があることに、マリーは気づいた。

「扉? まだ扉があるの?」

 それは重厚な木の扉だ。この細長い部屋には机と椅子、それしかないと思っていたというのに壁には巨大な扉がしつらえてある。

 一面に植物のレリーフが施されている。ツタに薔薇、白百合に、木蓮。美しく掘られたそのレリーフに色などないというのに、ふしぎと極彩色に輝いて見えた。

(音は、たしか、この奥から……)

 マリーは扉に耳を押し当てて、目を閉じる。

 この場所を思い浮かべれば、ここはちょうどマリーの部屋の真下だ。大階段を上り、左に折れたところに彼女の部屋があり、この部屋は階段の左脇。

 毎夜聞こえる音は、やはりここが発生源なのだ。

 今、祖父の秘密の目の前にいる。そう思った途端、マリーの中に好奇心が吹きだした。その好奇心は恐怖を駆逐する。

(勇気を……その体に、持ち合わせた時……この扉を開く権利が……)

 マリーは祖父の言葉を思い出し、頬を一度、強くつねる。

 あれほど優しかった祖父が恐ろしいものを残すはずなどない。

 死さえ伏せられた祖父の、これは大いなる遺産である。

(音が聞こえる。機械? 歯車? これは、なんの音?)

 扉にはノッカーはない。ノブは薔薇を象った真鍮製。息を止めてゆっくりと回せば、扉は音もなく、開いた。

 

 秘密の部屋に置かれた古い時計の、針が指し示すのは深夜0時のほんの数分前。

 マリーが10歳の誕生日を迎える、それはほんとうに直前のできごとである。

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