一生分のバースデイプレゼント
朝に見る庭は美しかった。
ハーブに薄く付いた朝露も、大地から盛り上がる靄も、そしてハーブの強烈に濃いグリーンも、窓からそそぐ真っ直ぐな光も、何もかもが美しい。
最後となるその風景をマリーは目に焼き付ける。
ここを知った時は、深夜だった。それからしばらくは深夜を選んでこの庭に通い続けた。
はじめてここで眠ってしまった日、朝日が降り注ぐ様をみてマリーは息を飲んだ。あまりにも美しい、この庭は美しい。
そしてマリーは、ここから旅立つのだ。
「なぜ、また来たの?」
「忘れ物を届けにきたの」
現れたマリーに、セージはもう驚くこともない。疲れ果てた顔で、彼は微笑む。
「忙しいだろう。引っ越しの直前なんて……よく赦して貰えたね」
「ケイトを脅したのよ」
今この瞬間が二人の最後の時であることを彼は知っているのだ。
マリーは梯子から庭へとあがり、汚れた掌のまま、セージの頬をそっと包む。
「お届け物」
「お届け……? 僕は君に何か託していたかな?」
「私の一方的な忘れ物」
そして、マリーは彼の薄い唇にそっと自身の唇を重ねる。触れ合いは一瞬だ。唇はガラスよりも冷たく、そして柔らかだった。
一瞬だけ触れたそこが、熱を持ったように熱い。
顔をあげると、セージは驚いたように目を見開き、やがて微笑んだ。
「……ヤドリギはここにはないよ、マリー」
「私たちの頭上には、一年中いつだってヤドリギがあるのよセージ」
もうお互いに照れることも、恥ずかしがることもない。ただ惜しむように、マリーは彼の頬を撫でる。
外は随分と賑やかだ。馬車が何台も何台も、行っては戻る。多くの人々が、門前で荷物を運び出しているのだ。
マリーが持ち出す最低限の荷物も、すでに運び出された。
あとはマリー自身が馬車に乗り込めば、終わりだ。
「君と出会って半年。楽しかった、マリー」
セージは溜息を漏らす様に呟く。
「本当に楽しかった」
そして彼は久々に、にこりと微笑んでみせる。
「ねえ、マリー、ちょっと意地悪をしてもいいかな」
「意地悪?」
口の端を少しだけあげて、微笑む。緑色の目が細くなり、輝く。時折みせる、しゃれっ気のあるその笑顔はマリーの好きな表情の一つだ。
しばらくぶりに見せたその顔につられ、マリーも笑う。
「ああ、マリー。その顔はいいね。僕の好きな顔だ」
「ありがとう。セージは私にどんな意地悪をするの?」
「ベスの物語は、やっぱり最後まで話さないことにした」
ベス。彼の口から漏れるその名前を聞いて、マリーの中で物語が一気に加速する。
ああ、彼女はまだ迷宮の奥深くで、母の秘密を探っているのだ。マリーが母の秘密を解いてなお、まだ彼女は迷宮から出られない。
「ひどいわ」
「続きは君が考えるんだ。そして……」
セージは庭の向こうを見る。扉がゆっくりと開き、そこに黒尽くめのケイトが立っている。
「誰かにその物語を、きっと聞かせて」
ケイトはゆっくりと頭を下げて、マリーを手招く。
マリーはもう一度セージの頬に口づけをして、手を振る。
「僕がいたという、証拠に」
セージの声が、柔らかく朝の靄に溶けて行く。
振り返ると、彼は優しく微笑んだまま。
マリーが最後にみたセージは、朝日を浴びて楽しそうに笑っていた。
マリーを乗せた馬車が大きくはねる。椅子ごと動き、幾度も革の背もたれに背を打ち付けた。
ケイトもエドも無音のまま、その衝撃に耐えている。
以前、叔父の家に行くとき馬車はこれほど揺れなかった。おそらく、相当に急がせているのだろう。
「爆発を……本当にしてしまうの?」
馬車はずいぶんと坂道を下ってきた。小さな窓を覗けば、坂道の上に相変わらず屋敷の屋根が見える。
まだ吹き飛ばされてもいなければ、壊れてもいない。不気味なほど静かだ。
そして遠くからみれば、屋敷はずいぶんと小さく見えた。
「いつ……爆発を?」
「いや、恐らく……爆発の前に彼は死ぬ」
無言を保っていた父が、重い口を開いたのはそのときである。
「彼は教えてくれた。ある方法で……自ら命を絶つ方法があるそうだ。やり方までは聞いていないが」
その言葉は、マリーの胸をひどく削る。これ以上傷つくことがあったのだ。と、マリーは胸を押さえた。
(あの日記の続きに……)
マリーの目の前で閉じられた、祖父の日記。セージはマリーが続きを読むのを止めるように、素早く本を片付けた。
恐らくあの続きにもっと恐ろしいことが書かれていたのだ。
苦しいのだろうか。
痛いのだろうか。
悲しいのだろうか。
あの屋敷でただ一人、逝くことになるあの優しい人を、マリーは思い浮かべる。そして祈る。
「自分で……命を絶つと、どうなるの?」
「それをすれば、装置は壊れる。切れる。被害は恐らく、最小限だ。ジョージの残した日記の裏に、書かれていたそうだ。最小限といっても、規模は分からないがね」
父もまた、窓の外を眺める。少しずつ遠ざかっていく屋敷に、馬車のたてる砂煙がかかって、白靄に包まれているようだ。
「……セージは、そんな風に私に教えてくれた。マリーには言わないでほしいと……いや、もう秘密はなしにしよう」
「おじいさまは……ひどい」
「ジョージはもうすこし、長く生きるべきだった」
エドは悔恨するように呟き、小さく祈りの言葉を口にする。ケイトもまた、無言のまま屋敷を見つめているのである。
「止めて」
だからマリーは、御者台に身を乗り出して、言った。
「ちょっとだけでいいから。止めて、お願い」
「お嬢様?」
「大丈夫。屋敷には戻らないわ。でも、見せて」
エドが手を上げると、馬車はゆっくりと進み、やがて止まった。転びそうになるのを踏ん張って、マリーは馬車の戸をあける。砂煙が目に入り、開けてもいられないほど。それでも彼女は目を見開き、今は遠くなった屋敷を見る。
「お父様にお願いがあるの」
いつの間にか、父もケイトもすぐそばで屋敷を見ている。
「もう二度とバースデイプレゼントがほしい、なんていわない」
「バースデイプレゼント?」
「だから一生分のバースデイプレゼントを、今欲しいの。次の誕生日は半年もあとだけど……」
父の大きな手が、マリーを撫でる。
「なにがほしい」
「あのお屋敷を」
マリーが指したのは、屋敷である。まっすぐに指して、マリーは力強く言う。
「あのお屋敷がほしい」
「しかし」
「爆発で消えてしまっても、崩れてしまっても、崩れなくても。絶対に無くしたり、売ったりしないで。そのままにして、まっさらになんてしないで。あの場所は、あそこのお屋敷はそのままにしてほしいの」
エドはしばらく考え込み、やがて微笑んだ。
「ああ。いいとも。税金は私が払っておこう。崩れても、残っていても、国に取られないように」
マリーの背を撫でた父の手は、ケイトの肩を叩く。
「キャス。君の育て方が良かったようだ。マリーはこんなにも強い。マリーは、まるで……マリアが望んだままの子じゃないか」
ケイトがそっと涙を拭うのが見えた。しかしマリーは屋敷から目を離さない。エドが合図を送ると馬車はまたゆっくりと動き始めた。
上下左右に揺れる馬車の中で、じっとマリーは屋敷だけを見つめ続ける。
「でもきっと……もう二度と私はあのお屋敷には帰らない」
「なぜ?」
「きっと泣いてしまうから。二度と帰らないわ。でも」
馬車が大きく旋回し、道の向こうに屋敷が消えて行く。村を迂回し、そして大きな道へ出るのだ。そこを進めば駅があり、黒い汽車が出る。
そこまでいけばもう、ロンドンまで後少し。屋敷はもう見えない。
「あそこは一生、私のものなの」
窓をしめ、マリーは椅子に深く腰を沈めた。
手には、マリアとケイトが描かれたサムの絵を抱きしめている。呼びかけても答えてはくれない母だが、しかしマリーの言動を褒めてくれている。そんな気がするのだ。
「思い出は壊せない」
呟いたマリーの声は、馬車のいななきにかき消えた。
遠くから、汽車の音がする。
それは、旅立ちの音である。




