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さようならの前に

 秘密の坑道も三度目ともなると、恐ろしさは完全に消え去った。目を閉じて進んでも、恐怖はない。

 始めてここを抜けたのは、たった数日前のこと。その時は、見えない化け物に襲われてしまうのではないか……と、闇の中で震えたものだ。

 しかし、今は恐ろしくなどない。そんな『化け物』などどこにも居ないことを知っているからだ。ここが恐ろしい場所でないと理解したからだ。

 両手を広げると一杯になってしまうこの狭さも、目の前を覆い隠してしまう闇も、かびめいた匂いも、温い温度も。なにもかもが優しい。

 この闇の道をマリーはすっかりと好きになっていた。



「……」

 井戸の底を抜けた先、小さな光がその目印。梯子を登って、小さな穴から顔を出し、マリーは息を吸い込む。

 闇から顔を出した瞬間、緑が目前いっぱいに広がるのが心地よかった。顔の側に土が盛り上がり、草は葉脈まで見えるほどすぐ近くに迫ってくるのだ。

 顔を上げれば真っ白なあずまやがあり、白いテーブルがあり、そして……。


「セージ」


 彼がいるのである。

 声をかけ、マリーははしごを一気に登りきる。セージはマリーの声を聞いて一瞬震えたが、しかし到来をどこかで予想していたのだろう。厳しい声を上げることはない。

「マリー。振り返りたいけれど、今の僕じゃ、振り返ることができないんだ。ガラスが割れてしまって……自由に動けないものだから」

「気にしないで。私から行くから」

 マリーは縛ってあったスカートのす裾をほどき、汚れを落とす。そしてゆっくりと庭へと上がる。

 そっと周囲を探ってみるが、父やケイトの気配はない。胸をなで下ろし……それでも足音をたてないように気をつけて……マリーは草をかき分けた。

 天井を見上げれば、そこは夕刻の茜色に包まれている。

 赤い色が差し込む庭は、夜よりも朝よりも、少し切ない。

 祖父が亡くなったと思われるその時も、夕日が恐ろしいほど赤い日だった。

 一人で部屋に隔離されたマリーは、膝を抱えて赤い夕日を眺めていたのである。

(……おじいさま。私はまた庭にきたわ)

 昨晩、夜を徹して祖父の日記を読んだ。そして眠り、起きてまた読んだ。

 それは日記という名の手紙であり、また手紙という名の物語だ。

 そしてマリーは、再び庭へと戻ったのである。恐ろしさや哀しみは、もうマリーを泣かすことはない。

 マリーはセージを驚かさないようにゆっくりと、テーブルに近づく。

「あなたは、私に会いたくない? もう、嫌いになった?」

「違う」

「じゃあ、話をして。いつも何でも話をしてくれたじゃない」

 セージは相変わらずそこにいる。

 砕けたガラスの前で、彼はぼんやりと宙を眺めていたらしい。目が赤く染まっているのがあまりにも可愛そうだった。

「こんなときに話をしないなんて、ひどいわ。最後に一気に物語を終わらそうとしたのも、こんな風になってしまうと分かっていたからなのね」

 近づいて、目の際に触れる。驚いて目を閉じるその表情は幼い。そうだ、彼は容貌こそ大人でも、心はまるで少年なのである。

「君は全部……知って……でもこれは、君のために」

「私の為だなんて言いながら、随分身勝手ね。セージ」

「マリー」

「まって。ここに……これはローズマリー」

 マリーは庭へ降りて、草を眺める。顔を地面に近づいて、香りを嗅ぐ。そのうち一本を引き抜いて、セージの元に戻った。

 石で草を潰せば、緑色の汁が滲み出る。それを引き裂いた布に浸し、セージの顔にできた傷にそっと押しつけた。

 もう痛みはないのだろう。しかし彼は驚いたように、目を閉じる。

「え……なに?」

「ローズマリーは傷の消毒になるんですって」

「……消毒……」

「本を読んだの。一人でいるときあなたは本を読んだといったわ。だから私も読んだの」

 祖父の日記を読んだ後、マリーは植物図鑑を改めて読み直した。

 部屋の外にはケイトと父が時間毎に監視にやってくる。だから部屋から動くことはできなかった。

 窓から抜け出すことも考えたが、これ以上無様な格好をさらすのは好ましくない。

「……淑女って言葉が一番嫌いだったけど、でもおじいさまの日記にあったの。淑女というのは無理をして息を潜めて背を丸くして生きることじゃない。自分の考えをしっかりと持ち、時を待ち、焦らず」

「……やるべき時に、やる人のことだ」

「そうよ」

 マリーは笑ってセージの顔を撫でる。

「だから本を読んだの。時を待つために……そして本を読んで知ったの。ここは薬草ばかり。まるで薬箱」

 本にはいくつもの薬草が載っていた。

 精巧な絵を何度も眺めているうちに、マリーは気がつく。どれもこれも、庭にあった草である。

 なぜ、いままで調べなかったのだろう! 庭の草はどれも、薬効の素晴らしいハーブばかりだというのに。

 幾度も読んで、その薬効を走り書きにした。さらに書いたものを何度も読み込んだおかげで、すっかりと薬草に詳しくなった。

「マリー、よく抜け出すことができたね。きっと……あの二人から見張られていると思った。もう会えないものかと」

「意外なことが起きたの。想像もしなかったことよ」

 セージの顔を拭うと、薄い赤色の血が布に滲む。

 それを見て、マリーは恐怖より切なさが先にわき上がる。

 ……彼は、生きているのだ。こんな姿で、生きているのだ。

「意外なこと?」

「ええ……ケイトが、味方に」


 夕刻になり、一回だけ不思議なノック音が響いた。まるで小鳥が扉をついばむような、そんな音だ。

 もともとマリーの部屋にあるドアは厚いブナの木で作られている。大きくノックをしなければ聞こえないドアだ。それなのに、今日に限ってその音はマリーの意識を引いた。

 音がやむのを待って外の様子を伺えば、廊下には誰もいなかった。

 先ほどまでずっと廊下で見張っていたはずのケイトや父の気配が消えていたのである。

 おそるおそる扉を開けば、赤い絨毯に赤い夕日が降り注ぐばかり。ケイトもエドも、誰もいない。ただただ静かでいつも通りの風景だった。

 床には、台所用のナプキンが一枚、不自然に落ちている。

『1時間だけです』

 滲む文字で雑に書き殴られたそれは、ケイトの筆跡だった。その文字だけで、マリーは充分だ。


「ねえ。私、明日にはこの屋敷を出て……ロンドンへ、いくことになったの」

「マリー……」

 青い汁と赤い血が滲んだ布を持つ手が震える。

 それでもマリーは丁寧に、彼の傷を拭う。もうすっかり乾ききったその傷を丁寧に拭い、拭き、撫でる。すっかり血が拭われて白い肌が見えても、うっすら傷跡が残っているのが痛々しい。

「この屋敷はそのままにして……あなたのことも、そのままにして……全て引き払って、ロンドンへ」

 それは朝方、父から告げられた非情な宣告である。明日、この屋敷を捨てる。父は、はっきりとそういった。追撃も反対も泣き言も、何も通じないほどの強さで。

「これだけは伝えなくっちゃ。そのまま行ってしまうなんて、できない」

「……うん」

 マリーの言葉を聞いて、セージは薄く笑い、そして目を閉じた。

 長いまつげが震えて顔に影が揺れる。唇がかみしめられ、そして唇の隙間から、うめくように声が漏れる。

「マリー……マリー……」

「しゃべりたくなければ、いいの。ただ一言だけどうしても聞きたかった」

 綺麗に拭い終わったその顔は、かつて出会った時と同じく美しい。真っ直ぐな瞳、綺麗な唇。そしてマリーに注がれる優しい視線。

 その視線から目を逸らさず、マリーは微笑む。

「あなたは私のことを嫌いになってしまったの?」

「まさか!」

 唇を噛みしめるセージの頭をそっと撫で、マリーはガウンの内側に隠しておいた本をそっと取り出す。

「……勇敢なる戦友へ」 

 表紙の裏には、その一言がブルーブラックのインクで描かれている。

「おじいさまの日記よ。もっと早くに……読むべきだった。少なくとも、見つけたとき一緒に読めば、きっと二人でもっといい案を思いついたはず。セージは、あの日のうちに読んでしまったのね。だから、あのあと、態度が変わった」

「……」

「この事に関してはおじいさまが一番悪いわ。こんな回りくどい種明かしをするだなんて」

 幾度も読んだその本に、結局すべての謎が詰まっていた。軽いくせに中身は重い。

「ジョージは……悪くない。たぶん、僕がもっと早くに……知っておくべきことだった」

「セージ」

 彼の両頬を包み、マリーはセージの額に自分の額を押しつける。ひやりと冷たい感触が、火照った体に心地いい。

「ここには、あなたのことが書いてある。でも、全部は書かれていない。きっと、ここにないパズルのパーツは、あなたやお父様、キャスという人の日記に書かれているのね。だから私は、あなたの持つパーツを聞きにきた」

「恐ろしいことでも?」

「知らないほうがずっと悲しくて怖いの。それがとても悲しいことでも、私はあなたの話が聞きたい」

 始めてこの庭で彼の姿を見た時。あまりの恐怖に泣き叫ぶことしかできなかった。

 彼の物語を聞いた時。夢中になって、彼をもっと知りたい、と思った。

 クリスマスの日。初めて彼を抱きしめた時、マリーは恥ずかしさに震えるほどだった。

 ヤドリギの下、ガラス越しに彼にキスをした時、二人して赤面した。唇に触れるガラスの感触を、今でもはっきりと覚えている。

「あなたの口から、すべてを聞きたい」

 ガラスが消えた今日。これほど近くに触れ合う今、恥ずかしさは消えた。ただ、物足りないほどだ。まだ近づきたい。

「君はなんて勇敢な少女なんだろう」

 セージの声がすぐそばで聞こえる。目を開ければ、目前にセージの瞳。庭を溶かし込んだような、グリーンの瞳が好きだった。

「……僕は君のことが好きだ」

「私はあなたを愛しているわ」

 張り合うように言えば、彼はいつものように顔を綻ばせた。マリーの一番好きな顔である。

「マリー……」

「ねえセージ……『僕の分かる範囲でよければなんでも答える。誓って君に秘密はない』……覚えている? 出会って次の日、あなたが私に言った言葉」

 出会った翌日、彼は言ったのだ。二人の間にけして秘密はないと。

 確かに彼はこれまでマリーに対して秘密を持たなかった。

 石碑の下にある人形の体を隠し続けたマリーの方が、ずっと不誠実だった。

 セージが目を丸くしてマリーを見上げる。

「よく覚えているね、マリー」

「あなたの言葉なら全部。おばあちゃんになったって、覚えているわ」

 マリーも笑って、あずまやの下に敷き詰めた布の上に座る。敷き詰めたベッド代わりのそこに腰を下ろしてセージを見上げて目を閉じる。

 それはいつも、マリーが物語を聞く時の姿勢だった。

「セージ。お話するのは、得意でしょう。ねえ、聞かせて、おじいさまとあなたの物語」


「これは、人間じゃない男の物語だ……正確には、半分だけ」


 セージの目がゆっくりと開く。グリーンの目の色が、濃くなる。それは彼が物語を口にするときの、かすかな変化。

「首だけになっても生き続ける化け物と、その化け物を作った……偉大な科学者の物語だ」

 しかし今から彼が語る物語は、真実の話である。

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