開かれた秘密の庭
秘密が明るみに出るとは、何と恐ろしくそして苦しいことだろう。
欠けていく月を眺めてマリーは幾度もその恐怖に震えた。
(ケイトはきっと、私の秘密を知っている)
マリーは幾度もその言葉を頭の中で叫び、そして痛む胸を押さえるのだ。
庭を知っていたケイト。それだけではない、ケイトは聡明である。きっと、テーブルの机の上にある土を見つけて、マリーの秘密まで辿りついたかもしれない。
前々からマリーがあの庭に通っていたと、勘付いたに違いない。
だというのにケイトはマリーに何も言わないのだ。
ただ見つめるだけだ。その深い青の瞳でマリーを見つめるだけだ。無言の間が恐ろしくもあったし、見つめてくる目がマリーを疑心暗鬼にさせた。
いっそ、ケイトに庭のことを問うべきか?
そんなこと、できるわけがない!
だからマリーは満月の夜以降、庭へ行くことを二日間だけ、控えたのだ。
それはケイトの目が恐ろしいこともあったし、セージの態度が急変したことへの恐ろしさもあった。
それでも我慢できたのは二日だけである。それくらい、マリーにとって庭は、魅力的でありすぎたのだ。
「セージ……」
「マリー、秘密の通路を伝ってきたの!?」
深夜、地面から顔を覗かせたマリーを見てセージが驚きの声を上げる。
マリーは梯子をのぼりきると、スカートについた土をはらい平然と庭への進入を遂げた。
今日は手に、燭台を握りしめている。ちびた蝋燭は、頼りなげに青白い光を放っていた。
「そう。こっちの方が安全だと思ったの」
庭はほんのりと明るい。春が近いこの季節、夜は湿り気と青みを帯びている。月は欠けても、春の靄が光を反射して不思議と明るい。
もうこれ以上の光は必要ないだろう。ふ、と蝋燭に息を吹きかけるとそれは儚く消えた。
「落ち着いて中を探ってみたら、結局10フィートほどしかないのよ。息を数回吐くうちに、あっという間にここまでたどり着くわ」
今夜、マリーはあの井戸を潜った。
階段脇の扉は、今や最も危険な場所の一つである。
あんな狭い通路でケイトと鉢合わせしてしまえば、いいわけもできない。
恐ろしいと思っていた秘密の井戸通路だが、そちらの方が幾分も安全だ。さらに一度安全だと分かってしまえば、恐ろしさは露と消えた。
「あまりに暗いから光を持ってきたのだけど、危ない場所なんて一つもなかったわ。私が一人で通れるくらいの幅しかないの」
明かりに照らされた地下通路は、土をしっかり固めて作られていた。本に出てくる、古い坑道に似ている。
四方はしっかりと板で固定されていて、崩れる気配もない。高さはマリーの身長より少し高いが、それでも大人が通るには難しい幅と高さだ。これは子供のための通路だろう。少なくとも、ケイトはここを抜けることさえ出来ないはずである。
「安全な道の方がいいでしょう? それに、あの道は歴史がありそうでワクワクするわ。通路にも、なにか文字が刻まれていたし……」
通路を蝋燭の明かりで照らしてみれば、壁にはいくつかの落書きが見られた。
それは文字のようだ。幼い文字で、すっかり苔に覆われている。文字の解読も気になったが、それよりもセージのことが気にかかり、マリーはいったんその文字を忘れることにした。
「ところでマリー、今日はゆっくりできそう?」
「ええ」
「じゃあ、話の続きを」
セージの声にかすかな緊張感が見られる。いつもは暢気に世間話などをするくせに、今日に限ってやけにマリーをせかすのだ。
マリーがあずまやに腰を下ろすのを待ちかねるように、セージは薄く唇を開く。
「ベスは……」
「待って……本当に……お話は終わってしまうの?」
「……うん。終わらせるよ」
セージの声は、低い。いつも物語を口にするとき、彼の声は、顔はもう少し華やかだった。語り部としての堂々たる顔つきだった。それが今は、不思議なほどに薄暗いのだ。そのグリーンの瞳が、くすんで見える。
これまで彼がこんなにも急いて物語を進めようとしたことが、あっただろうか?
「あんなにも……物語を引きずってじらした癖に?」
「物語には、終わりがあるんだ、必ずね」
二人は同時につぶやき、そして無言となる。視線が宙で絡む。
出会って以降、二人で無言のまま見つめ合うことなどほとんど無かった。
水の中に浮かぶ彼は、どこか疲れてみえる。
思えば彼は先日から奇妙だった。いつから? それは、この庭で祖父の遺産ともいえる4冊の日記を見つけてからである。
「……ねえ、セージ。何があったの? 何かあったのよね?」
彼は答えない。マリーも何もいえない。
見つめ合ったまま、どれくらい時が過ぎたのだろう。一瞬、天井が激しく鳴った。
は、とセージの顔に緊張が走る。マリーも慌てて天井を見上げた。
「……何の音……?」
「馬車の音だわ……こんな庭まで馬車が入ってくることなんて……」
マリーは困惑し、耳を澄ませる。
普段聞き馴染みの無い音が、すぐそばに迫っている。
「玄関先まで……馬車が来てる」
最初、音が聞こえたのは庭の向こう。かすかな馬のいななきと、車輪の音。そして鞭のしなる音。それはどんどんと近づき、やがて玄関先に止まる音が響いた。
馬車は大抵、遠い門前で止まるのが常である。
しかしこの世界で2人だけは、馬車を玄関の前まで運ぶことを許されている。
……それは祖父と、父である。
「お父様だわ!」
馬車の音が庭の内側で響く時。それは幼い頃のマリーの、何よりの楽しみだった。しかし今は?
「お父様が戻ってきた!」
不安と恐怖で、マリーの声が震える。その恐怖が伝染したように、セージの表情もこわばった。
「なぜかしら……帰ってくるだなんて、ケイトからなにも聞いてないのに」
このタイミングでの父の帰郷は、あまりに良くできすぎている。ふと、マリーの脳裏に先日のケイトが浮かぶ。行き先も告げずどこかへ出かけた満月の夜。
(ケイトが……お父様を呼んだ?)
マリーは掌を握り込む。嫌な汗が手の内側に流れた。
(まさか……遠い所に従軍しているって……)
「マリー……大丈夫?」
案ずるようなセージの声にもどこか緊張感がある。そわそわと、マリーは立ち上がり、そして地下通路に向かって駆け出した。
「ごめんなさい、また来るわ。今日は行かなきゃ」
「マリー! 待って、一度だけ……顔を見せて!」
セージの口から、泡が二つ、三つと溢れてガラスにぶつかる。
切ない声だ。振り返ると、セージは目を伏せて薄くほほえんだ。
「ありがとう……さようなら」
その声だけが不気味なほど、夜の庭に響く。
秘密の通路を駆け抜け、庭から屋敷へ。そっと入り口をすり抜けようとした瞬間、マリーは固い革のコートにぶつかることとなる。
「……痛っ!」
したたかにぶつけた鼻を押さえて、マリーは数歩下がる。スカートが足に絡み、転びかけたマリーの体を大きな腕が抱き留めた。
「マリー。久しぶりだ、ずいぶんとお転婆になったな」
その体からは、消毒薬と霧と馬車の香りがする。それはロンドンから運ばれてきた香りである。コートには雨に濡れた跡がある。
こちらは晴れていても、ロンドンは霧と雨の街と聞く。きっと、濡れた体を拭く間も惜しんで彼は飛んで帰ってきたのだろう。
それはエドだ。かつての祖父と同じように、従軍医師として長きに渡り世界を駆けた男だ。
マリーに顔の一つも見せず、この屋敷に閉じこめた。
……それは父だ。
「お……お父様……お帰りなさい……でも、なぜ?」
「ああ。元気だね。具合は? どこも悪くはないね?」
久々に見上げる父は、巨大である。細身だが、がっしりとした肩。革のフロックスコート。革の靴。服にまでしみこんだ、消毒薬の匂いの向こうに戦争の香りがする。死と血と煙の香りだ。
大きな手、低い声。先日会った叔父よりも、父のほうが巨大に見えた。それは、見知らぬ異国の空気を吸い込んでいるせいかもしれない。
「お前はこれまで、どこにいたのだ」
「へ……部屋に」
「いなかった。私は最初に部屋を探したのだから」
エドの瞳もまた、深いブルーである。その目が、マリーを見据える。
そして彼は、言った。
「……地下に秘密の庭が、あるのだろう?」
捕まれた肩が震えた。エドは、マリーの震える肩を抱きしめる。すっぽりと包まれたその腕の中は、ぞっとするほどに冷たい。
「もう二度と足を運んではならない」
「ケイトね!」
マリーは父の胸を思い切り叩く。しかし、そんなものでは、彼の体はびくともしなかった。
「ケイトは関係ない」
嫌。と、マリーは叫ぶ。まるで幼い子供のように首を振り、体をよじり、そして父の腕から逃げ出した。
「……セージ、セージ!」
無我夢中に駆けだしたのは、秘密の庭。もう、地下道を使うことなどすっかり忘れている。部屋を横切り階段の脇を走り抜け、扉を開け放って中へ駆け出す。
庭に繋がる扉に手をかけたが、しかしそこはぴくりとも動かなかった。
「セージ!」
「マリー」
「セージ! 扉が開かないの!」
最初こそ用心のために鍵をかけていたマリーだが、最近はすっかりその風習もなくなっていた。
古くさく重い鍵を持ち歩くのは、現実的ではない。鍵はマリーの机に無造作に放り出したまま。
鍵などかけなくても、マリー以外誰もこの庭を知らないし、庭はいつでもマリーを迎えてくれた。
しかし、今は、ノブを回しても、押しても、ぴくりとも扉は動かないのである。
「鍵が……閉まってる!」
「来ちゃいけない」
中から、低い声がひびいた。石碑の音の向こうに、確かにセージの声が聞こえるのだ。しかしそれは、聞いたこともないほど、冷たい声である。
「……え?」
「マリー。ここにはもう二度と来ちゃいけない。僕のことも」
冷たいくせに、ひどく切ないのだ。泣きそうな声だ。震える声だ。きっと彼は泣いている。そのグリーンの瞳の縁に涙を浮かべている。
「僕のことも、忘れて」
泣きそうな声はそれだけ呟いて、やがて無音となる。
あとは石碑の音だけが、響く。それだけだ。
「なんで!?」
「そうだ。もう、忘れなさい。なにもかもだ」
「お父様!」
扉を叩くマリーの手を、大きな掌がつかんだ。振り仰げば、そこにエドの顔がある。彼にとってこの通路は狭く小さいのだろう。身を屈めるようにして、エドはマリーの腕をつかみ、そして体ごと抱き上げた。
呆然と、マリーの拳が垂れ下がる。血の気が一気に抜けたようだ。手足が冷たくなり、そして震えた。
「お父様が……鍵を閉めたのね……」
「一度外へ出よう」
半ば引きずりだされるように通路を抜け、階段の脇に出る。そこに、黒い影を認めてマリーは身をこわばらせた。
「ケイト……それ……」
階段脇に、音もなく立っているのはケイトである。
彼女はマリーと目も合わさない。ただ、その掌には3冊の革張りの本がしっかと掴まれている。
「私の……引き出しにいれておいたのに……ひどい! 勝手に……!」
それは先日、発掘した祖父の遺産である。セージ宛のもの以外、マリーはそっと部屋に隠しておいたのだ。
ポストに入れておくべきか、それともすべてマリーが見てしまうべきか、悩みに悩んだ。
おそらく、マリー宛の日記を読めば、ほかのものも盗み見たくなってしまうだろう。それが恐ろしく、彼女は自分宛のものさえ読まずに隠しておいたのである。
その秘密は、メイドによってあっさりと破られた。
「ケイト……ひどい! 私もまだ、見てないのに! それに鍵も……庭の鍵も盗んだのだわ! ケイトね、ケイトが……」
「ケイトに怒りをぶつけるのは、身勝手だ」
ケイトに詰め寄るマリーの体を、エドの腕が抱き留める。足で蹴り上げても、腕を振り上げても、父の体はぴくりとも動かない。叫んでも、泣いても、誰も身じろぎもしない。
まだマリーは少女なのだ。腕も足も腰もなにもかも、弱すぎる。スカートをまくりあげて、ただただ叫ぶばかりの、情けない少女である。
庭を知って、セージを知ってからマリーはずいぶんと強くなったと思っていた。
何も怖くなどない、何でもできる。そう思っていた。
……しかしそれはただの幻想だ。
今、階段脇で暴れるマリーはただの10歳で、ちっぽけな力ではセージに会いに行くことさえ出来ないのである。
「お父様もケイトも……勝手すぎる。私のことなんて……見てもくれないくせに……いつも、いつだって……誰も私のことを……」
目から涙が溢れ、肩が震える。叫んで暴れて泣くなんて、小さな子供のすることだ。それなのに泣いてしまう自分自身の情けなさと、悔しさからまた一粒涙が溢れた。
「セージだけが……私を見てくれた、私だけをみてくれた……なんでセージに会いにいっちゃいけないの……?」
「マリアに……よく似ている」
エドはマリーを階段の隅におろす。そして、涙で濡れた頬をそっとなでた。
彼はマリーの頭越しに、祖父を見ている。振り返れば、階段の上には、堂々たる、威厳に満ちた祖父の顔。
マリーが祖父から受け継いだのは青の瞳だけだ。こんなに泣きじゃくり、ただ叫ぶばかりのマリーを見れば、祖父はきっと軽蔑するだろう。
それでも涙はとまらない。肩をふるわせ、唇を噛みしめ、マリーは床にうずくまって泣く。
もっと激しく叫んで、足を踏みならし、屋敷を壊すくらい暴れられたら、どれほどいいだろう!
しかし、淑女であれと呪いのように躾けられたマリーの体は、こんな場面でもただ泣くことしかできない。
父を殴りケイトを蹴り上げ、二人をすり抜けて、あの庭に行くべきだ。頭ではそう思っても、体が動かない。子供のように、泣くばかりだ。
「私はもう少し早くお前と向き合うべきだった」
エドは唇をかみしめ、つぶやく。しかし、その目はやはり冷淡である。
「まだ話ができるような状態ではないね、マリー。なにか……ココアか紅茶でも飲んで、少し落ち着いたら話の続きをしよう。それまで私はお前から少し離れておくほうがよさそうだ」
父は立ち上がり、マリーの頭をなでる。マリーはその手を激しく振り払った。
「お父様は……勝手だわ……」
「大人だって悲しむし、そのせいで勝手なこともする。大人が勝手じゃないと誰がきめた?」
フロックスコートが風をはらんで音が鳴る。父がコートを翻したのである。足音も高らかに数歩進みかけ……彼は、振り返った。
「ただマリー、私はお前を愛している」
一言。父はそれだけを言い残して背を向ける。どこか遠くで、扉の閉まる音が聞こえた。
「せめて返して……鍵だけでも……お願い……」
父の言葉など、マリーの耳には入らない。ただ、その場に崩れて泣くだけである。床は冷たく、固い。すぐそばにある庭はあれほど暖かく、柔らかいというのに!
「宝物なの……お願い……」
「……お嬢様」
ひやりと、固い感触がマリーの頬に触れる。驚いて顔を上げれば、そこにケイトの顔があった。彼女は背後を気にしながら、マリーの手に鍵と一冊の本を握らせる。革表紙の……マリー宛の日記である。
「けして、旦那様に見つからないように」
ケイトは人差し指でマリーの唇を押さえる。そして、悲しそうにほほえんだ。
長い睫毛が彼女の青い瞳に影を落とす。
「ケイト……でも……なぜ?」
「信じていただけないかもしれませんが……私も、マリーを誰より愛しているのです」
この鋼鉄のメイドが見せた、はじめての笑顔は世界で一番切ない表情だった。
「セージ」
庭の扉がこれほど重たく感じたことはない。
鍵を回し、扉を開ける。全身全霊をかけて、押す。
庭は、いつもより湿り気を帯びて、青の靄が全体に降りていた。
時刻はもう、深夜。薄くなった月が、窓枠の向こうに欠けてみえる。あれほど美しかった満月が、どんどんと薄く、細くなっていく。
「マリー……来ちゃ駄目だって、いっただろう」
いつもよりセージの声が明瞭に聞こえる。その訳は、あずまやに付くなりすぐにわかった。
「……セージ!」
いつも彼を守るように包んでいたガラスが、粉々に砕けているのである。そのガラスの破片は彼の周囲に散らばり、靄の中で美しく輝いている。
「ガラスが……っ」
中に詰まっていた水はすべてあずまやの下に流れ、ただ染みになるばかり。
駆け寄りマリーは彼の顔におそるおそる、手の甲を当てる。
……柔らかい。その皮膚に人の温度こそないものの、その顔は、人の柔らかさを持っている。
「息は……できるのね」
「不思議な事にね。こうして、声も出る」
ガラス越しではない彼の声は、美しく透き通るようだ。水越しではない彼の目は、新緑よりもまだ美しい。まだうっすらと濡れている赤毛は、燃える炎の色だ。
そんな端正な顔に、赤いものが混じっている。ガラスが割れたときに傷ついたのだろう。血が、赤い血が、彼の額と顎を、伝って落ちていた。
あまりの惨状に、マリーの手が震える。
「誰がこんな……」
「誰かが割ったわけじゃない、もちろん僕がやったわけじゃない。自然に割れたんだ」
彼のクリアな声は、マリーの耳に刺さった。ガラスという邪魔な壁が無いからこそ、声の中に混じる苦しみだとか悲しみが、手に取るようにわかってしまう。
「お父様が……この庭を知っていたの……ケイトがここに鍵を掛けた……」
伝えたい言葉は山のようにある。マリーは言葉を幾度も噛みながら、セージの顔に手を当てる。指先に付いた血は、赤だ。マリーの流す血の色と、同じだ。
「みんなに、見つかってしまった……どうすればいい? 私は……あなたを助けたい、この庭も……」
セージを抱えて逃げることも考えた。しかし外の世界を知らないマリーはどこへいける? 馬車の呼び方も、門の外も何も知らないマリーが、父やケイトから身を隠してどこまで逃げられる?
マリーは必死に考えた。楡の木立、黄金の月、可愛い村の屋根。しかしマリーが分かるのはそこまでだ。先日行った、叔父の屋敷までの道のりすら覚えてはいないのだ。
「いまはすごく……苦しい。苦しいんだ。マリー。だから」
しかしセージはマリーの言葉に答えない。ただ、震えるように、瞼を閉じて、そして唇を噛みしめる。
「この庭の鍵は、僕があのメイドに頼んで閉じて貰った。君が……鍵を部屋に置いていることは、聞いていたから」
「……え」
セージから漏れた言葉は、意外なものだ。マリーは唖然と、彼の顔を見る。
「なん……で」
「マリー、帰って。お願いだ」
「セージ……」
「二度と来るなっていう言葉は乱暴過ぎた……ごめん。二度と来るな、とは今は言わない。でも少しだけ、僕に気持ちの整理をさせてほしい」
セージの頬を包むマリーの掌に、暖かい滴が散った。
「セージ……泣いているの?」
「君が、セージだね」
声は背から、突然振ってきた。
マリーは声もなく、セージを背に隠す。しかし、そんなことなどもう、無意味であることを彼女自身がわかっていた。
「失礼。私は」
「ジョージの娘婿、マリーの父、エドワード」
振り返れば、庭に……マリーと祖父が大事に守ってきたこの庭に……父の姿があった。
彼は背を真っ直ぐにただし、草を踏まないよう慎重に、庭を抜けてくる。
彼は目を細めて周囲をゆっくりと見渡し、やがてエドはセージとマリーの前に立つ。
エドは、完璧な角度でセージに向かって頭を下げる。まるで、社交場のように。
エドの目は一度、セージを見つめた。驚くようにその目が見開かれたが、けして嫌悪の眼差しではない。
「そうだ……不躾に見つめてしまい、申し訳無い。その……本当に……存在するとは」
「あなたのことは、ジョージから聞いて知ってるよ。本当はもっと良い日良い状態で……あなたに会いたかった」
「私も、もっと早くに知ることができれば……きっと、良い方法で解決できたはずだ、君のことも」
「本当に。すべては……遅すぎたんだ」
父はセージを見ても動揺さえしなかった。セージもまたひとつの動揺もみせない。ただ二人は旧知の友人であるように、軽く目配せをしあう。
「これ以上は後悔したくない……おそらく君も同じ考えであることを願いたい」
「ありがとう。その通りだよ、エド。僕もマリーを……そしてもちろん貴方たちも、誰も傷つけたくはないんだ」
「お父様……? セージ……?」
マリーを置いてきぼりにして、二人は見つめ合い、時に微笑む。セージに手があれば、固く握手を交わしたかもしれない。そんな勢いで。
やがて父は、肩をすくめた。
「私は完全な悪役だな」
「あなたに悪役を任せるのは心苦しい」
「仕方ない。それが大人の仕事だ」
そして父は、マリーの手を取る。
「聞きなさい。マリー……私達は」
父の手は、震えている。思えば、父と親しく手を握るなど、何年ぶりのことか。
昔、父の手は大きく不動のものだった。今は、ほんの少しだけ弱さを感じるのだ。
握り締めた掌が、かすかに震えている。
「……お父様?」
「この屋敷を捨てる」
その言葉で、マリーの目の前が、一気に闇におちた。
(……どれくらい、泣いていたのかしら)
月の淡い光に照らされて、マリーはようやく、体を起こした。
マリーはあのあと、庭で気を失っていたようだ。気がつけばベッドの上。暖かいガウンをまとわせてくれたのはケイトだろう。
机の上には、すっかりさめた紅茶のカップと、ビスケット。その隣には、革の日記。庭の鍵は、もうどこにもない。
体を起こせば、目にたまった涙の滴がベッドに散る。気を失ったまま泣き、夢の中でも泣いていた。ひどく悲しい夢をみた。しかし現実は、もっと悲しい。
(家を出る……? 屋敷を捨てる? 捨てるって、どうするの? セージは……なぜ……)
たった数時間だ。数時間前までは、かすかな不安があるばかりだった。その不安はたった数時間の間に爆発し、そして現実がマリーの頬を叩いた。
すべてが恐ろしく、息を吸うことさえ不安になる。今この屋敷で何が起きているのか、なにも分からない。
恐ろしい。と、マリーは震えた。
庭を吹き抜ける風も、不安をあおるように窓を殴りつける。
マリーは音もなく立ち上がり、テーブルに置かれた日記を手元に引き寄せた。
ざらりとしたその表紙をなでる。マリーへ。流暢なブルーブラックの文字をみる。その上に一粒、涙が散った。
それを拭い、マリーは表紙をめくる。
そこには、祖父の文字が刻まれている。
オチビさん。いつかオチビさんがその体に似合わないくらいの勇気を持った時、その時がくれば、この奥へ行ってみるといい。
まるで輝くように書かれたその一文。
(……いつか、その体に似合わないほどの勇気を持ち合わせたら、そのとき、マリーには秘密の部屋を覗く権利がある)
マリーの頭の中に、祖父の声がはっきりと響き渡った。
「オチビさん。オチビさんが真の勇気を身につけたとき、きっとこの本を手に取っていることだろう。さあ。そろそろ勇気は身についたかな?」
声を出し、マリーはそれを読んだ。もっと早くに読むべきだった。見つけてから今まで、マリーはこの遺産と呼ぶべき本を、めくることを躊躇していたのだ。
マリーは椅子を引き寄せ、腰を下ろす。テーブルの上で揺れる蝋燭、そして窓明かりから漏れる薄い月明かりが黄ばんだ本をうっすらと照らし出す。
「……マリーは覚えているだろうか、勇気を持てば恐ろしさなど消えることを。勇気を出して謎の根本を知ってしまえば、恐ろしさは消えて行く。そうだ、知らないものを知らないままにすることが、一番恐ろしい」
口に出して文字を読む。その声はやがて、祖父の声として頭に届く。これほど時がたっても、祖父の声はクリアなまでに、マリーの頭に響き渡るのだ。
「……それは、私だって同じだ。だからこの本を残す。この日記を読み、真実を知る。その知る勇気が、マリーの恐怖を拭い去りますように」
マリーの頭が、どんどんと冴え渡っていく。
「そうね……」
涙は自然に乾いた。手の震えは、ゆっくりと収まっていく。
「……知る……勇気」
そうだ。勇気だ。
今のマリーは怯えてばかりである。父の思惑に、ケイトの態度に、セージの言葉に。全て恐ろしく感じるその理由は、マリーが何も知らないからである。
知らないから恐ろしい、真実が見えないから、悲しい。知ろうとする勇気さえあれば、何も怖くなくなる。
そんなこと、10歳の誕生日の夜に分かり切っていたことなのに。
「おじいさま……」
マリーは本をゆっくり、開いた。文字を、目で追った。指先で、丁寧に、祖父の言葉を読み取っていく。
「おじいさま。私は、この数ヶ月で……とても、勇気を持つことができたの。それは全て、セージのおかげ」
乾ききった日記の表面に描かれているのは、果ての無い物語だ。哀しみがあり、愛があり、そして全てがある。
それは数年ぶりに目にする、祖父の物語である。




