満月の夜の誕生日・上
急にぶり返した冬は雪を呼んだ。
冷たい雪は数日降り続き、止んで、また降る。
しかし雪が続く中にも、どこか春めいた空気を感じるのだ。庭の種々にも、まるで絵筆で散らしたかのように、花の蕾が各所に見える。
……春までまもなくだ、とマリーはゆるんだ空気を吸い込んだ。
しかし、外が暖かくなるごとに、不思議とセージの顔色が悪くなっていく。
あれほど溌剌としていた顔つきは暗くなり、言葉は途切れがち。時折目を伏せることもある。
具合が悪いのかと聞いても彼は答えず、淡い微笑みを浮かべるばかり。
そんな日々がもう、一週間は続いている。
「最近セージは落ち込んでるわ」
「そんなことないよ……春が近づくたび天気がこう……移り変わるから、悲しい気持ちになるのかもしれないね」
ぷかりと水に浮かんだまま、セージは首を振る。暖かくなって彼の浸かる水もゆるんできたのだろう。彼が中で動けば、水はふわふわと動くのだった。
「それに、僕は誕生日というものが羨ましいんだ」
「誕生日?」
ほら。と、彼は読書台に目線を送る。つられて見れば、そこには一冊の本が転がっていた。
『誕生日の迎えかた』堅苦しそうなタイトルだ。中をめくれば、美しいイラストがマリーの目に飛び込んでくる。
ケーキ、チキン、紅茶にビスケット、サンドイッチ。にぎやかで楽しい、誕生日の風景。
マリーはきゅっと手を握りしめた。
少し前までは、誕生日を思えばひどく心が塞いだものだった。誕生日とは一人きりで過ごすものだからである。しかしセージに出会って、そんな寂しさは霧が晴れるように消えた。
しかし今度は、誕生日をみるたびに別の悲しさが襲う。
あと数年後の誕生日を迎えれば、マリーはこの屋敷から立つことになるのである。
叔父は「いつでも帰ってくればいい」と言った。
地図を開いてみれば、確かにロンドンからこの田舎町までさほどの距離はない。その事実はマリーを一時的に慰めはしたが、それでも悲しみは溶けない。
毎日セージに会って話をする、この貴重な時間はロンドンにいってしまえは消えてしまうものだからだ。
「セージにはお誕生日はないの?」
「……僕はいつ生まれたかのか、わからないから」
「おじいさまは、なにかヒントになるようなことを、仰らなかった?」
セージは小さく首を振る。その伏せられた長い睫毛が寂しげで、マリーは胸が苦しくなる。彼は、一度も誕生日を迎えたことがないのだ。
「……それならそれで、好都合」
マリーは音を立てて本を閉じる。と、乾いた音をたてて、誰のものかわからない誕生日の風景は消えた。
「好都合?」
「分からないのなら、明日でも今日でもいいってことじゃない?」
「マリーの考え方はとても素敵だ」
マリーの言葉に、セージの目が見開かれる。そして本当に久しぶりに、彼は満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ10日後を僕の誕生日にして。そしてプレゼントが欲しいな」
「なにを?」
「……満月を」
セージの目が窓の外をじっと見つめていた。そこに今見えるのは、ただただ黒い夜の闇。
セージがいつか語ったように、この庭は満月がまともに見えない。月は必ず窓の枠にかかり、欠けて見えるのだ。
「たぶん、10日後はちょうど満月だよ」
震える声でセージは呟く。
「僕を連れて行って、満月の見える場所へ。たぶん……一生の思い出になる」
その声はあまりに切実にすぎて、マリーはそれ以上、言葉を掛けることができなかった。
「セージ。凄いわ。ちょうどあなたの誕生日は満月よ」
セージと些細な約束を交わした次の日から、マリーは空を見上げるのが日課となった。
かすかに膨らみを帯びてきた黄色い月は、毎日毎日少しずつ大きくなっていく。決行日の前日には、もうほとんど満月と相違ない形となっている。
セージの勘の良さに驚きながら、マリーは興奮を抑えきれないように腕に抱えた鞄を広げてみせた。
「誕生日のために、色々もってきたの」
「わあ。すごいねマリー。これ全部もってきたの!?」
マリーがひそかに庭へと運び込んだのは、大きな布に美しいカップを二脚。膝掛けに、足音をたてないための柔らかな靴。祖父から譲られた小さな天文盤。
これは遠いアジアの地で祖父が買ってきたものだ。まるで男の子へのプレゼントだ。と、ケイトは怒ったがマリーは非常に嬉しかった。
小さな円盤に刻まれた読めない文字は、まるで複雑な模様のようで美しい。青白く冷たい感触も、まるでそれは夜を具現化したような美しさである。
「色々考えて見たの。夜は冷えるから、ガラスを包む布を用意すること。あと、月を観るならきっと外のほうが綺麗だから、温かい紅茶なんかも用意して……もちろんセージは飲めないし、私も夜に火をおこしてお湯を沸かすなんてできないから、気分だけね。だからカップを持っていくの。あなたを運んでからこれを取りに行くのは骨だから、明日までここにおいておいて、丈夫な麻のズックにつめて一緒に運ぶのよ」
セージを運ぶ場所はもう決めてある。それは階段を抜けた先にあるバルコニーだ。
ケイトの部屋も近いので危険を伴うものの、あそこからみる月は最高に美しいはずだった。
いざというときは隠れることができるように、バルコニーの隅にはひそかに椅子を運んである。もしケイトの気配を感じれば、その足下にセージを隠して上から布で覆ってしまえばいい。マリー一人なら、なんとでもいいわけは利く。
「誕生日なんだから、ビスケットも朝食のものをひとつ隠しておくつもり。それと、あとはピクニックみたいに地面に敷ける布を……」
「マリー楽しそうだ」
「楽しいわ……そうね、とても楽しい」
「マリーがうれしそうなら僕もうれしい」
「せっかくの誕生日なのだから、他にも色々とコースを考えてるの。明日はどうぞ私にエスコートさせてね」
「心強いな」
(……色々としてあげたい)
はかなく笑うセージを見て、マリーは胸を押さえる。
彼の顔をみるたびに胸の奥が苦しくなるのだ。寂しさと孤独を救ってくれたこの人に、マリーはなんとしても恩返しがしたかった。
月を見せるなんて、おやすいご用だ。
いつもはただ天にある月も、二人で見上げればきっと特別なものになるだろう。
「月だけじゃなく、なんでも言ってほしいわ。たとえばお昼にでかけることだって、庭の向こうまで行く事だって、今後はうまくやれば……」
一度勇気を持ってしまえば、マリーには無限の力があるようだった。10歳の誕生日前には考えもよらないことである。一年前の自分が今の自分を見れば驚いてひっくり返ることだろう。こんな庭で深夜、首だけの男と親しく喋っているだなんて。
「それでね……」
「待って」
話を続けようとするマリーを、セージの強い声がとどめた。
「……誰かくる」
突き刺すようなその声が合図だ。
きい、と扉が揺れた。
最初は風だと思った。もしくは地鳴りかもしれない。と、マリーはセージの机をきゅっと握りしめた。
そもそもこの庭に入ってしまえば、扉を注視することなどない。マリー以外、ここを訪れるものなど誰もいない。誰もいないのだ。
その扉はいつでも静かに、ぴくりとも動かないのが当然だった。
……しかし、今、扉が揺れた。風が、マリーの頬をなでる。石碑が警告音のように、唸る。
外の空気が、鼻をくすぐった。
(嘘!?)
ゆっくりと開いた扉の向こう、そこにいたのは意外な人物だった。
手にもつ小さなろうそくが、彼女の顔を斜め下から照らす。黒いドレスは闇の中でみると、まるでトグロをまいた巨大な蛇だ。
……ケイトが、あの強面のメイドが、そこに立っていた。
「どうしよう……なんで……ケイト、ここ……」
「静かに」
マリーは思わず身を伏せる。布を体に巻き付けて、息を殺す。胸は激しく跳ね上がり、頭はぐらぐらと揺れる。息はつまり、唇は一気に乾いた。
隠れることもできないセージは、妙に落ち着いてささやく。
「彼女はここまでは、こない。僕のことはたぶん気づいていない」
セージのグリーンの瞳は、扉をじっと見つめている。あずまやは少しだけ高台になっていて、扉の様子がよくみえるのだ。
そのくせ、あずまやの前には石碑があるので、扉からあずまやの中をのぞき見ることはできない。マリーがこの庭を訪れた時、セージがマリーの姿にすぐ気がついたのも納得できる。
「なんで……ケイト、動かないの?」
「石碑のせいでここが死角になってるし、石碑の音がうるさいから気付かないんだ」
そうだ……ケイトはぴくりとも動かない。ただ、その顔に驚愕の色はない。
つまり、彼女はこの庭を知っている!
「数日前に一回、昨日の昼にも一回……どちらも中にまでは入ってない。でも三回目はわからない。マリー。あずまやの裏を見て、いそいで」
セージは急かすようにマリーの名をよんだ。そして目線だけで、あずまやの後ろをさす。
そこは鬱蒼と茂ったハーブの庭だ。しかしマリーがおそるおそる近づけば、草と草の間に無骨な茶色の取っ手が見える。震える手でつかみ、セージを見上げると彼は力強く頷いた。
「良かった。まだ、埋まってないね。中をあければ隠し通路がある。梯子があって……たしか、そこから庭に抜けられるはずだ。ジョージが見つけたんだ。ただ小さすぎて、彼には使えなかったけど……君ならきっと」
「セージ」
目を固く閉じて取っ手をつかみあげる。音が鳴りませんように! 強く祈った気持ちが通じたように、その秘密の通路はあっさりと開いた。
しゅう、と冷たい風がマリーの顔をなでる。ぱっくりと開いたその暗闇はまるで地獄に繋がる道のように黒い。
すえた香りと、カビの香り、埃と土と、あらゆる季節のにおいがない交ぜになってマリーを襲う。
躊躇するマリーをセージが目だけで急かした。
まだケイトは動かない。彼女の顔は薄闇に包まれて、どんな表情をしているのかも分からない。
今は身じろぎもしないケイトだが、いつ動き出すのか予測もつかない。彼女の体格なら、このあずまやまでほんの10歩だ。
「せめて、布を」
マリーはつかんだ布をセージの上にかけて、その勢いのまま穴に飛び込む。
脚から穴に滑り込めば、たしかにそこには木でできた梯子があるようだ。それは壁にそって作られた稚拙な手すりのような梯子である。
長い間閉じ込められた空気が、マリーの素足を舐め挙げる。ぞう、と背が震えた。
(手すり……がたがたしてる……どうか落ちないで……)
つかむと揺れる。地面がどれほど深いのか、マリーにはわからない。なんといっても暗いのだ。がくがくふるえる脚を叱咤してマリーはその緩い手すりにすべてを託すほかなかった。
下までの距離は、マリーの身長分くらいだっただろう。しかし足先が地面についたとき、マリーは長い長いため息をついた。天国から地獄へ降りるほどに長く感じられたのだ。
しかし地面についたからといって安心はできない。道は暗い。両手を差し出せば、左右の幅はちょうど少女の一人分しかなかった。
(……こっちにいけって……そういうことね……)
はしごの降りた場所はどん詰まりで、左右に道はない。マリーは慎重に、広い空間に向かって手を差し出した。
進める方角はそちらだけ。
たった一本の道がトンネルのように続いているのだ。
(ベスなら……)
マリーはがくがくと震えながら一歩、一歩、足を引きずるように歩く。
耳が痛いほどの静けさだ。そして見たこともないほどの、闇だ。
進む先になにがあるかわからない恐怖。後ろから何かに襲われるかもしれない恐怖。でも進むしかない。
(ベスなら、きっと、進んだわ)
だからマリーは物語の少女に勇気をもらう。勇敢なるベス。兄や家族を救うために単身城に乗り込み、そのあとは母のために広大な迷宮の中で、たった一人戦った。きっと彼女が迷い込んだ迷宮も、こんな暗闇だったに違いない。
セージから彼女の話を聞いているとき、マリーはただ彼女の勇敢さに感動したものである。しかし同じ立場に立って思うのだ。
(きっと、闇の中で泣いていたんだわ)
ベスは、彼女はどれほど心細く、恐ろしかったことだろう!
目尻の涙をぬぐってマリーは歩く。やがて、その足が、壁に当たった。
「……あ……はし……梯子……?」
なんと向かった先にも梯子があるのだ。そっとつかみ、足をかける。指先は恐ろしく冷たく、梯子をつかむ手もおぼつかない。
一歩、一歩とあがっていくと、やがてかすかな光が見えた。
「……出口!」
それは黄金の月明かり。真上からかすかに漏れてくる。必死に残りの梯子をかけあがり、天井を押せば、それはあっさりと外れる。ぼろぼろの板が一枚、乗っているだけなのだ。
白い雪を散らして、マリーはそこから顔を出した。
「……庭だわ……」
なんということだろう。それは、庭の一角なのである。ちょうど工具を片づける納屋の隅に埋め立てた井戸がある。
その井戸の底に、この秘密の通路は繋がっていたのである。
井戸といっても深さはマリーの腰ほどしかない。水が絶えたのでずいぶん昔に埋め立てた……とケイトからは聞いていた。
震える体を引きずるように、マリーは最後の一歩を登りきる。その瞬間、彼女はみたのだ。
(文字?)
差し込む月明かりのせいで、抜け道の壁があらわとなった。そのため壁に刻まれた、こすれるような文字を見つけたのだ。
(……それとも、汚れ? でも文字にみえる……キャス……あなたの勇気に……)
キャス。またキャスだ!
マリーは刻まれたその文字を指でなぞり、首を傾げる。
が、やがて自分の置かれている立場を思い出し、マリーは慌てて井戸から抜け出した。もちろん、土と雪を軽くかけて秘密の道を隠しておくことも忘れない。
急いで自分の部屋に駆けだしていくマリーの背を、満月一日前の光が煌々と照らした。真っ直ぐに延びた彼女の影だけが、庭の上を跳ねている。




