銀の鞄と4冊の日記
雪の夜を幾度も越えて、ある時ふいに暖かな日差しが降り注いだ。
それは厚い雲の隙間をこじ開けて溢れ落ちる、暖かな春の日差しである。
「こうして春になっていくのね」
マリーは秘密の庭に寝転がったまま、ぽつりと呟いた。
「最近はここにいても、暖かいわ。上からなにも羽織らなくても平気なくらい」
少し前までは庭に無防備に寝転がることなんて、とてもできなかった。ベッド代わりの布を体にまきつけて、自分の体ごと抱きしめてでもいなければ寒さに倒れてしまうほどだった。
しかしここ数日、空気は妙に暖かい。冷たい空気がたまりやすいこの庭も、過ごしやすくなった。咲き乱れるハーブたちも少し元気が出たように、幾本か花を付けているものもあった。
春の訪れだ。それが、マリーにはうれしい。
「でも暖かくなったと気を抜いたとたんにまた、雪が降るんだ。暖かい日差しを知ったあとに降る雪は、とても寂しい」
「嫌なことを言うのね、セージ」
庭の上にある窓を眺めながら、セージが不吉なことを呟くので、マリーは頬を膨らませる。マリーとしては、この暖かさがずっと続くものだと、そう思っていたのに。
「ごめん……でも本当なんだ。僕は寒さを感じないけれど、ここから窓ばかり見ているだろう。日差しが届いて数日経てば、また雪になって日差しを塞ぐ。それが毎年のことだから……マリー、前に風邪をひいたろう? 僕はまだ、あの時のことを引きずっているらしくって……」
「セージ」
身を起こし、マリーはセージをのぞき込む。彼はまぶしそうに、そのグリーンの目を細めた。
「暖かいのよ、今は」
「たしかに。マリーの言う通りだ」
彼は薄い唇にかすかな笑みを浮かべ、マリーの目を真っ直ぐにみる。
そして、彼はとっておきのことを思いついたような声をあげた。
「そうだ。そろそろあの鞄を掘り出す時期じゃないかな、マリー」
彼がいう「あの鞄」とは、先日にマリーが見つけた「埋もれし遺産」である。石碑の隅に、まるで隠すように埋められていた、銀のケース。
いつか特別な時に掘り出そう、と彼はいった。たしかにこれまでの寒さだと土を掘り返すのも、金属の鞄に触れるのも辛かっただろう。しかし今日のように暖かな日であれば?
「マリー、大丈夫? マリー」
「待って……思った以上に……掘りだしにくくて……」
マリーは髪と袖口をハーブの蔓で止めると、木の靴で地面を掘り返しはじめた。
目の前にはつんとそびえる巨大な石碑。その真下、銀のケースの一角が相変わらず見えている。
以前よりも少しだけ埋もれてみえた。また水が流れて、土がその勢いで押されたのだろう。
以前よりも深く潜ったそれを掘り返すのは、途方もない作業に思われた。
「固い? 重い?」
「固くは無いの。ただ、柔らかくて……」
土はゆるんで暖かく、柔らかい。水が染み出しているのだ。掘った先から崩れてしまうので、いつまでたっても目的の銀ケースの全貌が見えてこない。
土はマリーの爪を黒く染め、手のひらを泥だらけにした。しかし嫌な気分ではないのである。
息を吸い込めば黒い土の香りがする。ハーブの香りがする。土の中には枯れたハーブが幾本も沈んでいた。自然に積もった土ではない。誰かが土を持ち込んで、枯れたハーブと土を丁寧に交互に重ね、地下庭園を作り上げたのだ。
(なんて完璧な庭……)
マリーはしみじみと、汚れた手を見つめて考える。思えばこの庭を見つけて以来、マリーはこの恵みを享受するばかりだった。
土だって、ただあるだけでは花も咲かない。この土は黒土と赤土が混じり合っている。それは庭の土によく似ている。それにハーブを混ぜ込むことで柔らかすぎず、また栄養のある土となった。
(おじいさまが作ったのかしら……そして銀のケースを埋めた? でも、なんのために?)
土を掘り返せば掘り返すほどに、香りはどんどんと強くなる。石碑についた苔の香りだろうか、青くて古くさい香りもする。石碑のうなるような歌声も、かえって心地がいい。
「セージ、私ね。いつか……この庭をもっと豊かな物にしたいわ」
思い返せば、マリーが土をいじることなど、ケイトはけして許してくれなかった。
指先に染みこんだ土の匂いを吸い込んで、マリーはうっとりと目を閉じる。
「何年先になるかわからないけれど……痩せてきた場所に土を盛って、花の種をうえて、ちゃんと栄養をあたえて」
「素敵だ」
「きちんと、この庭を守りたいのよ。私はまだ、庭造りのこともハーブのこともなにも知らないけれど……」
幼い頃のマリーは、メイドに隠れてこっそりと庭の土をいじったものだった。柔らかな土の感触がマリーにもたらすのは、ほろ苦さと背徳感である。
(でも、きっとお母様もお転婆だったから……土を知っていたはず)
かつての母はこの感触を知っていたに違いない。サムさえ手こずらせるお転婆娘。きっと、土の香りも草の香りもこの暖かさも冷たさもなにもかもを彼女は知っていた。
きっと母は、屋敷の外に広がる広大な庭を駆け回り、転び、その手を土だらけにしたことだろう。
マリーがはじめてまともに触れる土の色は、いつか母がみた風景だ。
「僕も手伝いができるといいな」
「セージが頭がいいもの。きっと私を助けてくれる。私はそうね……」
浮かんだ汗を指で拭う。土が額に触れて音を立てたが、マリーはむしろ楽しく、含み笑いを漏らす。
「この庭を治す、お医者様になりたい」
「……こんな時、僕に体があればいいなって思うよ」
「平気よ」
胸の奥に詰まった切なさと喜びを押し隠して、マリーはぐっと力を込める。
……と。
「抜けた!」
銀のケースは想像以上にあっさりと、マリーの手元へと転がってきたのである。
「古い……」
それはマリーが抱えられるほどの、ケースである。見た目に反して鞄自体は非常に軽い。持ち上げて振ることもできる。揺らせばかたかたと、何かが揺れる音がした。
「気をつけて!」
緊迫感のある声でセージが叫んだ。
「爆弾でもここにあると思うの? 心配性ねセージは。大丈夫。ぜんぜん軽いのよ」
「でも」
「鍵は……ないわ。クリップ式の……おじいさまが持っていた鞄と同じ……ちょっと土が詰まってるけど、除けてやればきっと開くはず」
マリーは地面に鞄を置き直してまじまじと見つめる。石碑はうるさいほどに唸り続けていた。まるで警告音のようだ……と、石碑を振り返ったマリーは、はっと息をのむ。
「マリー?」
「あ……穴を先に埋めておくわ。落ちると、危ないもの」
マリーが見つけたのは、彼女のあけた穴の奥。そこには銀のケースとはまた違った輝きがある。それは鈍い銀色の、くすんだ色合い。まるで人の足のようなそれは、銀の下地に赤の線が幾本も走っている。血管のような、不気味な赤の筋。
……マリーがそれをみるのは、二度目である。
土をかけるマリーの手が震えた。やはり、最初に見つけたあの体の残骸は見間違えなどではなかったのだ。
「マリー? 大丈夫? なにか……」
「なんでもない」
柔らかい土を数回かけてやるだけで、それはすんなりと石碑の底に沈み込んだ。
セージに伝えておかなければ、とマリーの中で警報が鳴り響く。
セージとマリーの間に隠し事はないはずだ。彼は彼が知りうることをすべてマリーに開かしてくれた。マリーも隠し事をしてはならない。しかし、なぜかこのことだけは、言いたくはなかった。
(最低……)
墓に花を捧げるように、マリーは土盛りの上に一本のハーブを添えた。
(セージの体かもしれないのに……このことを知れば、この体を返してあげれば、彼は……)
セージが、どこかへ消えてしまうかもしれない。そんな悪い未来を、マリーは想像してしまうのである。
「マリー?」
「ごめんなさい」
ちょうど石碑の裏に座ってしまえばセージからマリーの姿は見えない。心配するようなセージの声に、マリーは飛び上がる。
「もしかして、まだ具合が? この間、手を怪我していたし……」
「心配性ね、セージ」
「だって君は、人間だから……人間は脆くて……だから」
セージは言いよどむようにつぶやき、飲み込んだ。
「だからすぐに死んでしまう?」
「……」
セージが口をつぐんだ理由は、死という言葉がマリーの母や祖父の思い出に直結するためだろう。
マリーはそんなセージの優しさが好きだった。
「セージは……自分が人間じゃないって、そう思う?」
「人間であればいいって、ずっと思ってた。でもジョージや本に出てくる人たちは僕とは違う。僕のような生き物は、どの本を読んでもどこにもいなかった。だから僕は気づいていたよ、きっと僕は化け物で……いつか僕は……」
「セージ」
マリーは彼の言葉を遮って、銀のケースを軽々と持ち上げた。
そしてそれを彼の机の上に置くと、息を吸う。
「鞄を開けるわ」
クリップ式のロックは、マリーの小さな指の中でぱちりとはじける音をたてた。
「……油紙で包まれてるから中は思ったより、ずっときれいね」
なにが出てくるのかわからない、まるでパンドラの箱だ。恐ろしくない……といえば嘘になる。
しかしマリーは平然さを装って勢いよく蓋を開けて覗き込む。セージも水の中でくるりと向きを変えてケースの中を覗いた。
「……えっと、これは……服?」
中は油紙と、柔らかな布で幾重にも重なって包まれている。水も湿気もカビさえ、この鞄の中に浸食することはできないだろう。
厳重な封印をマリーはふるえる手でほどいていく。蓋を開けた瞬間に、マリーは気づいたのだ。
(これは、おじいさまの、鞄)
あけた瞬間、かすかだが甘いパイプの香りがした。それは祖父が好んですったパイプの香りである。甘くスパイシーで、雨のように湿気った香り……。
封印をときはなてば、そこには緑色の重厚なジャケットが現れた。
革製の頑丈な仕立てだ。胸のところにはいくつも小さな穴がある。マリーはそれに見覚えがあった。
「おじいさまの軍服だわ!」
いつも階段を上がる時には、完璧な角度でお辞儀を。
お辞儀をする先にある祖父の絵。その彼がまとっているのは、まさにこの服ではないか。
胸や腕についた腕章や勲章はない。すべてを取り払ってしまえば、軍服は恐ろしいものではなく、おとなしく静かな一着の服となる。
「ジョージの? わあ。すごい、絵でしか見たことのない、軍服だ。ちょっと胸元が寂しいね、勲章はどこにあるんだろう?」
「たぶん、すべてお墓の中に入れてしまったって、ケイトが……でも服だけはここにあったのね」
セージの目が輝く。マリーはちょっとした悪戯を思いついたかのように、その服をセージのガラスケースの前に置いてやる。
一歩下がって彼をみれば、まるでセージが軍服を着ているようにみえた。
「似合う」
「本当に?」
ぱっと、セージの顔が輝く。
「僕に体があればこんな感じだろうか」
「やっぱりセージは体が……」
「あればいいなって、思うよ。そうすれば……」
「そうすれば?」
「ううん、なんでもない。それよりマリー、鞄の底にまだ何かあるようだよ」
セージは言葉を濁し、目を鞄に向ける。マリーも追求を恐れるように、つられてそちらを見た。
服を引き出したその場所の奥深く、たしかにそこに何かの固まりがみえる。
手を突っ込み触れると、固いものが指に触れた。鞄を揺らした際に鳴っていたのは、これだろう。
「本かしら……油紙にくるまれてる。ひとつ、ふたつ……4つ?」
慎重に底から取り上げて、四角いそれを机に並べる。黄色い油紙をそっとほどいて、中を覗けばざらりとした感触が指先に伝わった。
「おじいさまの、字」
それは、青のビロードが張られた4冊の本である。それほど厚みはない。手のひらに収まる程度の小さな本である。
ビロードの感触はすっかり悪くなってしまっているし、紙は黄色になっているが、表紙に書かれた文字はくっきりと見える。
それは、祖父が好んで使った滲みのブルーブラックインク。そして、祖父の手による字であった。
「マリー、エド……それにセージ……キャス……キャスって誰かしら」
「キャス……キャサリンかな? あの、石碑にもあった名前だね」
マリーとセージは顔を見合わせ、そして同時に再び本を見つめた。
一冊一冊、表紙に文字が刻まれている。マリー、というその文字の懐かしさにマリーの胸がふるえた。セージも同じなのだろう。彼は唇をかみしめて、表紙の文字ばかりを見つめていた。
「……手紙みたい」
「ジョージの……遺品だ」
遺品、という想像以上に冷たい響きにマリーは震える。
その震えを隠すように、マリー、とかかれたその本をはらりとめくった。そこには祖父の文字が見えた。日記なのか、手紙なのかよくわからない。祖父の字は彼にしては乱れているし、劣化のせいで薄い箇所もある。
「マリー。お前がこの本を見つけたということは……」
一行、読みかけてマリーは目を閉じる。そして震える指先で本を閉じた。頭の中に、祖父の声が広がったのだ。もう、二度と思い出せないと思っていた祖父の声が、くっきりと思い出されたのだ。
「読まないの?」
「セージだって、たぶんすぐには読めないと思うわ。あまりに……胸がいっぱいで……」
他の人あての本をあける勇気など当然あるはずもない。マリーは4冊の本を胸に押し当て、セージを見つめた。
「どうしよう」
「それはきっと、届けた方がいいよ」
「お父様は戦争で……あちこちに移動してるし……場所を知ってるのはケイトだけよ。どうやって届ければ……それにキャスって人も誰だかわからないし……」
「そうだね……」
すう、とセージが息を飲む。泡がぽこぽこと、ガラスにぶつかってはじける。
マリーの体がふるえた。それは、物語が始まる合図なのだ。
「……ベスもそうした」
「ベスも……」
「自分の娘であるという証拠を出せと、女王からいわれたベスだよ」
彼の語る物語はずいぶんと佳境に入っていた。
泥棒の兄にかわって悪い王様の王冠を盗みに、城へと潜り込んだ勇敢なる少女ベス。孤児であった彼女はその場所で本当の母を知る。
しかしその母と対面を果たすためには、そして王冠を奪うためには、母が残した「良心」を見つけなければならない。城の地下に広がる広大すぎるその迷路の中で、彼女は様々な冒険をした。
彼女に知恵と勇気がなければ、いくら命があっても足りなかっただろう。そんな冒険も、まもなく終わろうとしている。
「でも、どれだけ迷宮を探検してもベスはお母様の良心を見つけられなかった」
「そう、見つからなかった。でもある時、ベスは不思議な物をみる。夜中になると、彼女の鞄がかたかたと揺れるんだ」
マリーは想像する。夜な夜な、揺れる鞄。一人きりの迷宮。どれだけ心細いだろう。怖いだろう。しかし、ベスには希望がある。
「最初は怯えもしたし、鞄ごと棄てようともした。でもある日、勇気を振り絞って鞄をあけてみると……」
「あけてみると?」
「日記が、泣いてた」
大きくて茶色でぶ恰好で、でも色々なものを詰め込めるベスの鞄。その奥に、しまってあったのは、茶色の革の日記帳だった。
「母である女王の良心は、日記の中にあるんだ」
「そんなところに!」
マリーは日記を抱えたまま、叫んだ。ベスが出会った死にかけの老女。彼女は女王を救ってほしいとそういって、隠し持っていた女王の日記をベスに託した。
その中に秘密の暗号が書かれているなんて。
「迷宮の道を示すだけじゃない。そこにあるのは彼女の良心そのものだ。日記には嘘はかけない。日記は泣いて何か詫び言を呟く。中を見てみる? 見るよね。するとそこには、きれいな文字が並んでる。でも」
「でも?」
「文字が歯ぬけなんだ。たくさんの泣き言と、祈りがつづられているけれど、まるで文字がむしり取られたみたいに、文字が綺麗に消えている。そして、ベスは思い出す」
セージが水の中で息を吸う。そのかすかな音さえ聞き漏らさないように、マリーはじっと耳を澄ました。
「あの死にかけていた老女の指先が、インクのように黒かったことを」
「あの、おばあさん……!」
「そうだ。呪いというものはかけた本人が呪いそのものを思い出さなければ、解けないものだ。女王はけして悪い女性ではなかった。息子がいい顔をして女王に擦り寄ってくるかもしれない。そんな時、負けて王冠を渡してしまうかも知れない。そうならないように、自分に呪いをかけたんだ。心を悪魔に染めてでも、けして誰にも会わない。この迷宮に死ぬまでこもる、とね。でも予想に反して彼女の前にはベスが現れた。女王は揺らいだ。そして彼女は自分にかけた呪いを思い出す。良心を探せ。つまり良心がどこかにあることを彼女は知っていた。どこに? それは自分の日記の中に。そしてはじめて呪いは解けて、日記は泣き始めた。でも女王は少しばかり用心がすぎた」
畳みかけるようなセージの声に、マリーは息もできない。耳を澄まし、その声を聞く。石碑も今は、不思議と静かだ。
「……女王は前もって……息子に、あの悪い王様に奪われることをおびえて、言葉を抜いておいた。あの死にかけていた老女もまた、女王の心のひとつ。文字はインクとなって老女の体に留まっている。もう一度日記に戻さなくちゃ、日記は完全じゃない」
「ベスは迷宮を駆け戻った?」
「そうだ。でも日記の中を読んで好奇心を満たしたいと思った訳じゃない。はやく日記を、女王に帰さなければ。そう思ったんだ。それくらい、日記は切ない声で泣いていた……でも、老女の元にたどり着いたとき」
ぶうん、と石碑が唸った。マリーの身が固くなる。
「城の衛兵が、その老女を縛り上げていた」
「え……」
「黒いスーツの執事がベスの前に立つ。日記を渡せば、ベスが忍び込んだことも、王冠を盗んだ兄の罪もみんな許してやる……でももし、日記を渡さなければ?」
「みんな、殺される? ひどいわ、この日記は、王様のものじゃない。女王のものなのに」
マリーはいきりたつ。と、セージが目を閉じ、そしてあけた。
「そうだ。日記は、その人だけのものだ。でも名前をわざわざ書いているなら、それは日記というなの手紙だ。やっぱりみんなに届けて上げなくちゃ」
物語をかたるときのセージの目の色は、深いグリーンとなる。目つきも顔つきもまるで変わってしまう。しかし物語が終われば、いつもの透き通るようなグリーンの目、そして柔和な顔つきとなった。
「……」
今日の物語は終わったのだ。たとえ続きが気になっても、いったん物語を切り上げたセージが続きを語ることはない。
一段といいところで切り上げられて、マリーは高鳴る心臓をぎゅっと押さえる。
「……でも変よ。いまさらおじいさまの日記が出てくるなんて……それに、ここのことが知られてしまうかも……もちろん、セージ宛のものは、ここにおいていくけど」
抱きしめすぎて暖かくなった4冊の日記帳。そのうち、セージと名前のかかれたものを、マリーは彼の本棚に差し込む。
まるでずっと昔からそこにある本のように、しっくりと収まった。
「じゃあ門に置いておくのは、どうだろう? まるで時を越えて届いたみたいに。ケイトというメイドは君の口から聞く限り、悪い人じゃないみたいだ。融通は利かなさそうだけど……だからこそ、届けてくれるんじゃないかな、君のお父さんや、そのキャスという人に」
本棚がかたり、かたりと鳴る。
セージの心はすでに、祖父の日記兼手紙に飛んでいる。セージが目をぱちりぱちりと動かすたびに、本が数冊入れかわり、開き、閉じる。
しかしセージも祖父の日記を開く勇気はまだ無いのだろう。彼は関係の無い本ばかりを、闇雲に開いては閉じる。料理の本、ドレスアップの本、お裁縫の本。
「……考えておく。一番いい方法で……ここが見つからずにすむような、そんな方法で……」
日記を父に渡すことは簡単だ。ケイトにこれを渡して、父に届けて貰えばいい。庭のことをさらけ出せばいい。
しかしここのことを秘密にしたまま日記だけを父に託すのは至難の業だった。
「意外だな。マリー。こんな宝物を見つければ、君ならきっと、喜んで渡すと思っていたのだけど」
「そうね、そうなんだけど……」
マリーは祖父の日記を抱きしめたまま、うつむく。
なぜか不思議と嫌な予感がするのである。それは「遺品」の響きのせいかもしれない。
本の表紙が放つ籠もった冷たさがマリーの指を凍らせる。冷たさに顔をあげて、マリーは呟いた。
「本当だわ……雪がふってきた……」
上げた目線の先、庭に繋がる大きな窓に白いものがちらりとみえた。
先ほどまで青かった空が灰色に染まり、そして灰色の風の中にみぞれのような雪が混じる。
冬はぶり返す。突如冷えた体をマリーはぎゅっと抱きしめた。