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10年目のダンス

「……いってらっしゃいませ」

 ケイトの声が寒々しく空々しく響いた。

 それは、風のせいもあるだろう。冷たい風が吹き付ける中、マリーは立っているだけで精一杯だった。

 マリーが立つのは、庭の小道のちょうど端。目の前には巨大な門柱がそびえ立ち、その向こうには大きな馬の鼻先が見える。時折、ぶるぶると震えるような声もだ。黒い服に包まれた御者は無言のまま、道の向こうばかり見ている。

 マリーは頼りない足で、一歩、一歩、歩く。ケイトが腕を取ってくれなければ、倒れてしまうところだった。

 目の前の世界は、大きい。道は太く、その向こうには愛らしい村の屋根が見える。

 屋敷のバルコニーから見るより、地面からみる世界は広くて恐ろしい。馬の大きさも、風の強さも、体を締め付けるドレスもなにもかもだ。本で読む世界と現実の世界は、こんなにも違うのだ。

 マリーは小さな傘の柄を何度も触り、そして帽子を深くかぶりなおした。髪の毛はきれいに櫛が入り、念入りに編まれている。顔にはほんの少し、化粧も施されている。鏡に映るマリーは、まるで自分ではないように見えた。

 なにもかもが初めてのことだ。はじめてのことは、恐ろしい。

 世界は、広くて恐ろしい。

「ケイト……ほんとうに……私、一人きりでいくの?」

「ええ。そういうお約束なので」

 ケイトの声は冷たく、突き放すようだ。

 その声に突き動かされて、マリーは馬車に乗り込む。雪模様の空気に冷え切った、固い革の椅子だ。

 そんなつめたい座席もはじめて味わう。

 世界とはなんて冷たいんだろう。

「ケイト……」

 マリーの声は、馬車の駆ける音に紛れた。体をしたたか、壁に打ち付ける。

「いってきます……」

 それは、叔父の結婚式。その朝のこと。



「ダンスを……」

 ぱちぱちはじける暖炉の前、一人の少年が恐る恐る、手をマリーに差し出した。

「……私?」

 紅茶のカップを握りしめたまま赤いソファに座り込んでいたマリーは、ちらりと顔をあげる。

 目の前にいたのはマリーと同じ年くらいの少年だった。きちんと撫でつけられた茶色の髪、あばただらけの顔、正装の革スーツ、短いズボン。

「ダンス、いいですか?」

 少年は緊張しているのか、声が裏がえっている。

 周囲をみてみれば、赤いサテンに彩られたこの部屋には少年と少女ばかりだ。いずれも親戚なのか、いとこなのか、マリーにはわからない。誰も紹介などしてもくれなかったのだ。

 会場に着くなり、マリーは見たこともない叔父と叔母の結婚式に参列させられた。輝くように美しい二人には多少の感動はしたものの、続いて連れてこられたのはこの小さな部屋だ。

 大人たちが隣の部屋で歓談をしている間、子供たちはここでお茶を飲み、そしてダンスをするのである。

 ケイト仕込みのダンスは完璧だ。しかしここにいる子供たちのダンスはどれも稚拙で、交わされる会話も幼すぎる。まったく興味がひかれない。

 だからマリーは部屋の隅に陣取って、紅茶ばかりを飲んでいる。古い屋敷だ。壁も柱の木も古く、暖炉はマリーの屋敷よりも立派だった。

 この屋敷にも庭はあるのかしら? そこにはセージに似た誰かがいるのだとすれば……などと妄想するほうが、ずっと楽しかった。

「あの……ダンス……」

 ふるえる少年の向こうで、意地悪そうな少女がいやな含み笑いをする。

 田舎娘よ。と、少女たちがささやく声をマリーは聞いた。

 たしかにマリーのドレスは他の娘のものに比べて、ちょっとだけ古くみえる。しかし、この部屋にはマリーほど美しい金の髪を持つ少女はいない。マリーほど見事な青い目を持つ少女はいない。

「ええ、いいわ」

 カップをサイドテーブルに置いて、マリーは余裕の笑みを浮かべてみせた。生まれて始めて受ける悪意はマリーを凹ませはしなかった。むしろ、闘争心がかき立てられる。

 数ヶ月前のマリーなら、こんな剥き出しの悪意を向けられればきっと落ち込んだだろう。泣いてしまったかもしれない。しかし、今は違う。

 セージが語る物語。その中に出てくる勇敢なる少女ベス。彼女ならどうするだろう? 怒る? ひっかく? 噛みつく?

(……きっと、ベスならダンスを受けて完璧に踊ってみせるわ)

 立ち上がるとちょうど真向かいにある金縁の鏡に、マリーの姿が映った。

 暖炉の明かりを浴びたマリーは、赤みを帯びている。

 金の髪はしっかり編み込まれ、後れ毛の一本もない。ドレスは形こそシックだが、体の線にしっかりと沿って作られ、裾がふんわり広がっているのが愛らしかった。

 色は華やかな日に相応しいグリーンと色味を抑えたオレンジだ。長い裾から覗く靴は、金の色。ぴかぴかに磨き上げられている。

 細い袖口には金の刺繍飾り、そしてシルクの紐。動くとそれがきらきらと輝く。

「いきましょう」

 手を差し出す。と、少年の腕は怯えるように震えた。

 周囲の子供たちが、マリーと少年をじっと見つめる。その目は好奇と恐怖がない交ぜとなった視線である。

 ダンスを誘った少年さえ、どこかおびえている。

(それほどいやがるなら……声をかけて来なければいいのに)

 マリーは唇の奥をかみしめた。

 マリーがここを訪れてから、ずっとこうだ。皆、なぜかマリーを少し遠巻きにみる。子供だけじゃない。大人もそうだ。誰も声をかけてこない。マリーが声をかければ、よそよそしく逃げていく。

 マリーが田舎娘のせいか、招かれざる客であることは一目でわかる。

 マリーを招いた叔父は来賓の相手に忙しく、マリーの挨拶を型どおりに受けただけである。

 叔父はそのとき、身を屈めてマリーの耳に「あとで必ず会いに行く」と囁いてくれた。

 しかしそれから数時間。叔父は顔も見せない。

 招きたくないのならば、クリスマスカードなど送らなければ良かったのだ。怒りがふつふつとわき上がり、マリーは目の前の少年をにらむ。

「さあ。踊るんでしょう?」

 マリーは少年の手を強くつかむ。と、彼はおどおどとマリーの腰に手を回した。

 ケイトのおかげで、足を出すタイミングは完璧だった。それにこの少年はケイトほど力がない。振り回されることも、どこかに腕をぶつけることもない。

(……セージには手にも顔にも……触れることもできないのに)

 二人が手をつなげば、部屋の隅の音楽隊が、気を利かせて新しい曲を奏でる。その華やかさに、隣の部屋から大人たちまで顔を覗かせる。

 マリーはその視線をがんと跳ね返し、少年の手をぎゅっと引き寄せた。

「ちゃんと腰をつかむのよ。ちゃんとリードなさい、男の子なのだから」

 そして、踊り始める。足は右に、左に。ゆっくりと、激しく。回るように、飛ぶように。

 マリーがまるでリードするように踊るその様をみて、大人たちが笑い、子供たちは苦い顔。少年の手は、可哀想なほど震えている。

 遠慮がちに捕まれる手も、好奇の目も、もうお腹いっぱいだ。

「……私と踊りたいんでしょう?」

 少年の耳にささやけば、彼はあわてて腕を引く。その時、指先に小さな痛みが走った。

 みれば、右手の内側に赤い血がにじんでいる。それは、少年の爪のせいだ。鋭い爪の隅が、マリーの掌を傷付けた。

「あ……」

「血が……」

 少年の顔がさっと青くなった。

 マリーの腕をとろうとして、少年が前へと足を踏み出す。ちょうどそこに、マリーの金色の靴がぐっと、踏み込んだ。

 少年の柔らかい靴に、マリーの足が沈み込む。

「あっ」

「……私の足が長すぎるせいだわ。ごめんなさい」

 マリーは完璧な所作でスカートをつまみ、頭を下げた。右手の平を握り込み、少年に背を向ける。同時に、音楽が鳴り終わった。

(……バカみたい)

 大人たちからわき上がった拍手を背に、マリーはいそいそと席に戻る。

 そっと手のひらを開けば、血はまだ止まらない。淡くにじみ出すそれをどうするべきか、再度握り込んだところを、大きな手に捕まれた。

「マリー、みせてごらん」

 それは暖かな……優しい声だ。

「……誰?」

 振り仰げば、そこには美しいブルーの瞳を持つ、男が立っていた。



「おじさま」

 マリーはおびえるように、さっと右手を握り込んで隠す。

 艶のあるテール・コートを完璧に着こなすその男は、つい先ほど教会で宣誓をした叔父そのひとである。

 整った髭は立派だ。背も高い。掌も大きい。

 大人の男性といえば、マリーは祖父と父しか知らない。そのどちらよりも叔父は冷徹そうにみえた。

 たしか母の、マリアの弟だとケイトより聞かされていた。突然マリーを結婚式に招待し、クリスマスカードの綴りを間違えた男。

 出会えばきっと文句をいってやると、朝までマリーはそう誓っていたものである。しかし実物を目の前にすると、もう言葉は出てこない。

「あの……さっき、扉にぶつけたの。直ぐに治るわ。平気よ」

「……おいで。手当を」

 叔父はささやいて、自然な様子でマリーの手を取る。

 周囲から見れば、ただの叔父と姪との触れ合いだ。怪我をしたことさえ、誰にも分からない。叔父はそのままマリーの肩を押して部屋を横切る。

「なるほど君はたしかに、マリアの娘だ、そんな言い訳がすぐに出てくるところがね」

 叔父がダンスホールの隣にある小さな扉を開くと、そこにはかわいいソファと銀のテーブルがひとつ、置かれている。

「ここで手当をしよう。さあ、はいって」

 叔父はそっとマリーの背を部屋へと押し込む。

 彼が扉を閉めると、楽団の音楽も人々のささやき声もすべて消えた。

 しん、と静寂が耳に突き刺さる。

「……会いたかった。君に」

「……私に?」

 マリーは目の前に立つ叔父をじっと見つめる。

 彼の目は青い。祖父も母も青の目を持っている。この一族は皆、空のような色を瞳に持つ。しかし叔父の青は、誰より深いブルーブラックだ。

「でも……誰も、会いに来てくれなかったわ。今日だけじゃなく、もう10年も……ずっと」

「すまない」

 叔父はマリーをソファに座らせて、その前にひざを突く。お姫様にでもするように手を取られ、マリーは思わず微笑んだ。

「おじさまは、私の綴りを間違えていらっしゃったわ」

「それは君の勘違いだ。マリーの綴りは、マリアと同じ綴りだ。マリアはマリーをaの綴りで書いたんだよ」

 叔父はマリア、と宝物のように呟く。そして、その細い眉が少しだけ下がった。

「マリー。君は、マリアのことを何も知らないのだな」

「だって」

「……すまない、意地悪なことをいった」

 叔父は小さな小箱から傷薬と布を取り出す。そしてマリーの小さな手のひらを拭った。小さな痛みが、かすかに走る。子供の柔らかい爪にえぐられた傷は、案外深かったのだ。

「……マリアは流行病で死んだ」

「それは……」

「知っているかい? 12歳のとき、突然発病したんだ。それまで彼女は町にもロンドンにも好きに出かけていた。ケイトも一緒だ。私も一緒に出かけたこともある」

 血はマリーの白い手のひらいっぱいに広がっている。それをみて、マリーは胸が苦しくなる。こんな怪我でも痛いのだ。病となった母はどれくらい、痛く苦しかったことだろう。

「……しかしマリアだけが……マリア一人が、病にかかった」

 叔父の声はまるでささやくように小さい。しかしこの部屋の中ではそんな声でも大きく響く。

 叔父はなにをいいたいのか。マリーはじっと耳を澄ませる。

「……お母様のことを、教えてくれるの?」

「マリーが聞きたいのなら」

「聞かせて」

 手のひらを布で覆うと、叔父はマリーの手に小さな紅茶カップを握らせる。のぞき込むと、不安そうなマリーの顔が映り込む。一口飲むと心が落ち着いた。

「マリアは確かに病にかかったが、でもそれはすぐに死に至る病じゃなかった。しかし、だんだんと髪は抜け、肌はくすみ、爪は……」

「やめて」

「……すまない」

 思わずカップを手放し、耳を押さえる。カップは残り紅茶の琥珀をまき散らして床を転がったが、奇跡的にどちらにも紅茶を被らずに済んだ。

「……あ。ごめんなさい……」

「いいんだ。私もつい……口が滑った。まだ10歳の子に言うような話じゃなかった」

 叔父は悔恨のように眉を寄せる。そんな顔をすれば、どこか祖父に似ている。彼はポケットのハンカチで手早く零れた滴を拭うと、何事もなかったように頭を下げる。

「忘れてくれ。つい……マリーに会えた喜びに、私はつい、口走りすぎるようだ」

「待っておじさま」

 部屋を去ろうとするその真っ直ぐな背を、マリーは思わず掴んでいた。

「マリー?」

「……教えて」

「なにを」

「全てを!」

 サムは全てを語ろうとしなかった。

 ケイトはマリーに秘密が多すぎる。

 あの屋敷には、母の痕跡はない。

 秘密を知る機会はもう、このチャンスしかないのだ。

「私は何も怖がらないわ。怯えたりしてごめんなさい……だから教えて」

 わっ。と、ダンスホールが沸いた。ダンスが一曲終わったのだろう。しかしまだまだ宴もたけなわ。ダンスの音楽が再び流れる。それは、ロマンチックなワルツのリズムだった。

「君は本当に……何も知らされずに、ここまで」

 叔父は膝を折り、マリーを見あげる。

 大きな手がおそるおそると、マリーの顔に触れる。大きく強く、熱い手のひらだ。

「ケイトだな。可哀想だ。ここまでなにも……聞かされないなんて。私はそもそもあのメイドとも気が合わないんだ」

 ダンスのリズムはゆったりと流れる。その音楽を聴いていると、マリーはふと父のことを思い出した。母だけではない。マリーは父のことだって、なにも知らない。何も知らされなかったからだ。そして同時に、知ろうとしなかったからだ。

 無知は大人のせいである。そして半分はマリー自身のせいである。

「何が聞きたい? 話せることは山のようにあるが時間が限られている」

「じゃあ……母が、父と出会ったことを」

 マリーの回答は意外だったのだろう。叔父は目を丸くする。大きな蒼い目が、薄暗い部屋の中で輝く。

 しばらく口元の髭を触ってから、彼はようやく口を開く。

「……エドは……マリアの夫は……君の父上は……マリアとエドはマリアが病気にかかる直前に、森で出会ってね」

「森で?」

「森というのはマリアの言葉だ。あの屋敷の庭は、まるで森みたいだろう? エドがマリアを白い子鹿と勘違いして撃ちかけたんだ。彼は狩猟中だったからね……最悪な出会いだろう。私はいまでもエドが嫌いだよ」

 叔父は口をとがらせて、笑う。

「……でもエドは、マリアを愛した。マリアは……エドを愛した」

 マリーは想像する。あの楡の木立が広がる広い庭で、まだ幼い母と父が出会ったのだ。跳ね回る母に、焦る父。目を閉じても、瞼に浮かんでくるのは厳格な顔の父だけだった。あの父が、焦るなど想像するだけで楽しかった。

「マリアが病にかかってもエドは……いや、エドだけじゃないみんな、マリアを愛した。必死に看病した。皆でね……だけどマリアは……子供を一人作ってから死にたいと……いった」

 ダンスの曲は切ない音調に変わる。同時に、マリーの心に叔父の言葉が突き刺さった。12歳で発病し、何年も闘病した母は、もう体力などないはずだ。

 握りこんだ掌に痛みが走る。また傷が開いたのだ。血が、布越しに滲み出る。しかし手の痛みより、胸の痛みのほうがずっと苦しい。

「そんな……お母様、なぜ」

「きっと元気な女の子がうまれる。だから産みたいと……止めたがきかなかった。ああいう性格だ」

 叔父はマリーの手をそっと握る。大きな手だが、それは小さく震えていた。

 叔父は確かに母を愛していたのだろう。と、マリーは思う。叔父だけではない。祖父も、そしてケイトもだ。

 なぜあの屋敷に長らく使用人がいないのか、マリーは悟った。祖父が解雇した、と噂には聞いていた。しかしそうではない。きっと、皆、逃げたのだ。

 流行り病の出た家は恐れられる。10年経った今でさえ、マリーに向けられる目は冷たい。

 あの広い屋敷から一人、二人と消えて行く使用人を見て母は何を思ったのだろう。マリーの鼻の奥がつん、と痛くなる。

「お母様は……無理をされて……」

「そもそも体力的に出産はぎりぎりだった。でもマリアは言ったんだ。どうせなにもしなくても死ぬのなら産んで死ぬ方がいい」

 マリーは必死に思い出そうとする。10年前、自分が生まれたときのことを。その時は確かに、母の側にいたはずなのだ……もちろん、思い出せるはずもない。

「お母様は……私を」

「お前が生まれた時、まだ小さなお前を抱いて、笑って泣いて、愛おしい子、と確かにそういった」

 ダンスホールから、バイオリンが泣くように響く。食器の触れ合う音もきこえる。

 もう二度と、母が聞く事のできない音たち。

「最高に綺麗だった。そして笑って死んだ」

 叔父の手がマリーの手に食い込んだ。

「マリアは、笑って死んだんだよ、マリー」

 叔父は泣いているようにみえた。しかし、その目は乾ききっている。もう、みんな、全員が散々泣いたのだ。泣いていないのは、マリーだけだった。

「当時、流行病で死んだ人間に対する扱いはひどいものだ。草で編んだ網でくるんで、放ってしまうのだ……マリアをそんな目に? あわせるわけがない。私もエドもケイトも、けしてそんなことは許さない」

 叔父は立ち上がって拳を作る。マリーも胸の奥に、気炎が吹き上がるようだった。苦しんで死んだ人間を、さらに死後にまで鞭打つ? なんと酷い医者がいるのだろう。

「あの庭の片隅で、マリアは墓を作られることが許された……でもマリアは、光の当たる美しい場所で眠ることを許されなかったんだ、許されなかったのだ、マリー」

 マリーは必死に考える。あの庭のどこかに、母の墓があったのだ。こんなに近くに、あったのだ。なぜ10という年になるまで、マリーは何も知らずに育ってきたのだろうか。考えれば考えるほどに、恥ずかしくてたまらない。

「私は……何も知らなかった……」

 無知は罪だ。無知は恥だ。これまで、母のことなど、考えたこともなかった。なぜなら、そこに居ないからである。

「そして、私は……きみという愛らしい姪にも会えなくなった」

「なぜ……?」

「馬鹿な大人たちがいるのだ。流行病で死んだ女の子には、病の元が潜んでいると。10の年を越えるまで、けして屋敷の外に出してはならない。女の子が突然爆発をおこして病を振りまくとそう信じている大人がね」

 叔父の手がマリーの手をしっかと握る。

 熱がじわりと、そこから伝わった。けして彼は手放さない。マリーは驚いて彼の目を覗き見る。

「……私が……流行病に?」

「まさか。でもそう信じている馬鹿はたくさんいた。けして少ない数じゃないんだ。皆が君をおびえていた。しかし、そんな迷信を信じない人間もいた。私とエドとジョージと、そしてケイトだけは、君を守ると誓ったんだ」

 マリーは先ほどまで自分に向けられていた、冷たい目線を思い出す。

 親から子へ。恐怖は確実に伝播している。

「だから、私は待ったのだ。君が10の年を数えるまで。そして立証した。君はもう自由だ」

「でもまだ……おびえているわ、みんな」

「私は戦った。次は君が戦う番だ。真実を知った君が、戦う番だ」

 行こう。と、叔父がマリーに手を差し伸べる。恐る恐る握れば、彼は堂々とマリーの手を引いてダンスホールへ歩きはじめる。

 扉を開け、突然現れた二人に会場がざわめく。楽隊の動きが止まる。男も女も子供も、みながマリーを見ている。怯みそうになるところを、叔父の大きな手がマリーを支える。

 広いダンスホールが一瞬、静寂に満ちる。

「小さなレディ」

 そして叔父は気障なほど、大げさに膝を折ってみせた。

「どうぞ、私とダンスを」

 差し出された手を、マリーは堂々と握った。けして怯まない。これは、ケイトがマリーに叩き込んだ長所である。

 叔父が腰を曲げて、マリーの背を支える。その瞬間、ダンスホールの中央が空き、突然音楽が始まる。

 それは、まるで嵐のように激しい音だ。

「マリアの葬式の日、私は祈った。こうやって、君と手を取りダンスをする日がくることを」

 叔父が呟くように漏らす。それは、叔父の真実の言葉だった。

「10年の願いが今、叶ったよ。マリー」

「……もっと早くに言ってくれたら、よかったのに。レディには用意があるのよ。急に言われたら、泣いてしまうわ」

 マリーの目に浮かんだ涙を叔父はさり気なく拭う。

 叔父のステップは緩やかだが確実だった。マリーの背にあわせて腰を曲げ、踊りにくい体勢のはずなのに叔父は完璧にステップを踏む。

「お父様のことも……今日、はじめてきいたわ」

 マリーは叔父の耳にそっと囁く。すぐそばにある叔父の顔は、笑っていた。まるで共犯者のようだ。

「あの人を許してあげなさい、マリー」

「許す?」

「彼が屋敷に帰ることができない理由を理解できるかい」

 足を前へ、後ろへ、そしてターン。

 マリーのドレスが、腕に巻いたリボンが、見事に宙を舞う。誰からともなく、手拍子がわく。

「エドは悲しいんだよ。まだ、ずっとずっと悲しいんだ」

 叔父の声が心地良く耳に馴染む。

 二人はまるで1つのつむじかぜのように、ホールをくるくると舞っていた。足はまるで大地を踏んでいないようだ。ふわふわと心が躍るのは、きっと彼の告白が凄まじかったからだ。

「そして君は忘れてはならない」

 ダンスのステップを踏みながら、叔父はマリーに呟く。

「……マリアが、私が、ケイトが、エドが、君を愛していたことを」

 音楽がまるではかったように終わる。ステップを数度間違えながらも無事に踏み終えたマリーは、息を乱してなんとか立ち止まる。

 叔父は悠々と足を止めそして新婦に向かって手を振ってみせる。美しい新婦はまるで幸せなものを見る様な顔で、二人を見つめている。

 拍手が、湧いた。

「おじさま、私ね……あと2年たったら、あの屋敷から出て寄宿舎に連れて行かれるの」

「聞いたよ。いやか?」

「家を、でたくない」

「マリー、君は10歳だ。家を出るのは? 12歳だ。何十年とある人生の中のほんの少しの間だ。家を出れば、もう二度と戻れないとそう思っているのだろう?」

 二人は囁きながらも、笑顔で大きく手を振る。これまであんなにも冷たかった子供達さえ、今や蕩けるような目線で二人を見ている。

「一度屋敷を出てしまえば、もう戻れないわ」

「いつでも帰ってくればいい。天国から煉獄に落ちるのじゃあるまいし、船で遠くに連れて行かれるわけでもない。ロンドンなんて馬車ですぐだ。家が恋しいのなら、毎週だって戻ってこられる」

「でも、そのあとは結婚をさせられるって聞いたわ……」

「そんなこと誰にも強制なんてさせられないさ。仮に君が意に添わない結婚をさせられるなら、私が黙っちゃいない」

 叔父の手が優しくマリーの背を押した。ちょうどその先に、子供達がマリーを待っている。

 先ほどまで意地悪そうにこちらをみていた女の子、怯えながらマリーをダンスに誘った男の子。恐ろしい顔の男の子。どの子も、皆、マリーを眩しそうに見つめていた。

「君が本当に好きになった人ができれば、その時に結婚をすればいい。それまでは世界をみるんだ。外の世界は広い。そして、どうしても結婚したい人ができれば」

「……できれば?」

「私と結婚する条件は、あの屋敷に越してくることだ。と、いうんだ。マリアのようにね」

 叔父は微笑む。そして、とん。と、叔父はマリーの背を叩いた。

「おじさま」

「なんだい」

「私は、愛されて生まれてきた子だったのね」

 マリーは押し出されるように前へ出た。


「あの……ごめんなさい」


 押し出された目の前にいたのは、先ほどの少年だ。

 彼はふるえる手に、シルクの美しい布を握りしめている。

「僕、その、こわくて……」

「いいの。大したこと、ないのよ」

 息を弾ませて笑うと、少年はぼうっと赤くなった。そしてマリーの顔も見ずに手の中の布を押しつけてくる。

「これ、リボン……みんなで、くっつけて、それで」

 それは、一本の長い長いリボンだった。ただ一本の布地ではない。シルクもあるコットンもある。ハンカチをいくつも切り裂いて、いくつもいくつもつなげて一本の長いリボンにしたのである。

「こうすれば、隠れるから」

 少年はふるえる手でマリーの手のひらに、リボンを巻き付けた。

 遠巻きに少年少女たちがそれを見つめている。さきほどまでの嫌な目線ではない。マリーを心配するように見つめているのだ。

(ああ、ほんとうだ)

 腕にまかれたそのリボンは、色とりどりにマリーを彩る。

(世界は、真っ直ぐに見るだけじゃわからない……)

 顔を上げてみるそのダンスホールは、先ほどまでの薄暗さではなく、暖かな祝福に包まれているようにみえた。



「ただいま」

 マリーが叔父の家から解放されたのは、翌朝のことだった。

 豪華な朝食を、多くの客人とともに囲んだ。がやがやと音もやかましいそんな朝ご飯ははじめてのことで、マリーは目を白黒させることとなる。

 薄目にかりっと焼き上げたパンに、たっぷりのバター、そして蜂蜜。ミルクで煮出した紅茶、フルーツ、そして塩気のあるクリーム。食後には、カップにそそがれた甘くとろけるココアの湯気。

 机の上を彩る結婚式翌朝の朝食は、素朴だがたまらなく豪華だった。かみしめて味わって、友人となった少年少女たちと笑いあって、そしてマリーは屋敷に戻ってきたのである。出迎えたケイトが、マリーの顔を見て目を丸めた。

「お嬢様は、お強くなられた」

 とだけ、その賢明なメイドは呟いた。

 夜まで待って飛び込んだのは地下の庭。いつも通り抜け出した道も、もう恐ろしくもなんともない。

 飛び込むと、一日ぶりのセージの声がマリーを包んだ。

「マリー!」

「セージ!」

「この家に君がいないというだけで、どれくらい恐ろしかったことか」

 あずまやに飛び込んで、マリーは彼をガラスごと抱きしめる。冷たいガラスに手のひらが触れて、リボンが解けて落ちる。

 むき出しとなった手のひらには、消毒代わりの薄い布が巻かれているだけだ。それにはうっすらと、赤い血がにじんでいる。

「……けがを?」

「大したことないのよ」

 ガラスの天井を見上げて、セージが驚くように目を丸める。セージを脅かしてしまったかと、あわててマリーは手を引っ込める。が、セージはまじまじと、その手の跡を見つめるのである。

「何だろう……その赤い物を、僕はどこかで見たことがある気がする」

「……セージ?」

「何だろう……確かに、見たことがある気がするんだ」

 その声は、ふるえるように響く。

 セージの口からぽろぽろとあふれる小さな泡。泡がはじける音は冬の終わりに降る雪の音に混じり合う。

 不安そうに見つめるマリーに気づいたのか、セージがぱっと微笑んでみせる。そしていつもの調子でマリーの名を呼ぶ。

「ごめんね。なんでもないよ……ねえ、マリー。結婚式の話を聞かせて。どんなダンスでどんな食べ物が出て、そしてどんな人が招かれていたのか……」

 セージの声に重なって、雪の降る音が響く。

 窓を叩く雪は以前にくらべるとずいぶんと水気が多い。

 見上げれば、明かり取りの窓に積もる雪も薄くなった。

 まもなく冬は終わるのだ。とマリーは思う。

 しかしマリーの中に広がったのは、かすかな不安。それは雪解け水のようにじわりと、マリーの心のどこかを冷たく濡らした。

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