メイドの秘密、母の過去
絵が完成したのは、吹雪の夜の明け方。
昨夜の吹雪がまるで嘘のように、美しく晴れ上がった日のことだ。
しんしん降り続いていた雪がふっと止み、青空が広がった。暖かな日が差した。立ち枯れた楡の木立に、雪が積もって輝くのも美しかった。
その美しい風景は、絵の完成という門出に相応しい風景である。
「完成しました、お嬢様」
頬をかすかに上気させたサムが、息を吐き出して微笑む。
「……完成したのです」
彼の目にはかすかに疲れがみえた。
筆を握っている時のサムは、まるで何かに取りつかれているようだった。しかし、最後に筆をおいたときの彼は、ただただ静かで、そして穏やかだ。
彼は祖父よりもまだもう少し年が上なはずだ。青白い目元を見上げたマリーは、感謝よりも喜びよりも先に彼の身が案じられた。
「まあ」
サムの持つ画板を覗いたケイトが口を手で押さえる。
マリーもつられてのぞき込み、そして息をのんだ。
大きな画板、その中にマリーがいた。
「私がいる……」
マリーの絵が描かれていた。と言うべきなのか。しかし、そこに存在する少女は……マリーは……まるで生きているようである。
金の巻髪は肩のあたりでふわりと踊り、ドレスは淡いクリーム色。頬はやわらかく膨らみ、小さな唇はかすかに笑みの形をかたどっている。
そしてその青い目が見つめているのは、指先にそっと握りしめた赤い小さな花!
「まあ、なんて……素晴らしい。お花もよくお似合いに……しかし、このようなお花……いつ?」
「額縁に入れて、食堂の上の壁にでもかけてください。いつでも、みられるように」
ケイトの声が震える。感情の少ない彼女には珍しいことだ。しかしサムはそれを無視して、絵をそっとケイトに押しつけた。
描いた絵にはもう興味などないのか、彼はそれをちらりともみない。
「私はすっかり、疲れてしまった……しかし、心地のよい疲れです」
「ああ。いけない。お茶をご用意します。最後ですので、どうぞ焼きたてのビスケットも。今朝は冷たいクリームもありますので……」
青白いサムの顔をみて、ケイトはあわててきびすを返す。
日頃完璧な彼女の感情がかすかに高ぶっている。それマリーの絵をみたせいだろうか。
マリーは壁に立てかけられた巨大な絵をじっとみつめる。眺めれば眺めるほどに、
(……不思議)
と、マリーはしみじみと思う。
まるでそこに鏡があるようだ。絵の中の自分は優しく微笑んでいた。それはセージの花をみているからである。
実際、庭でセージを見つめているときもこのような顔をしているのだろうか……と、思うと恥ずかしさにマリーの顔は熱くなる。
「……サム」
「お嬢様……」
「マリアの……母の話をして頂戴。いつか話してくれると言ったはずよ」
片づけを始めたサムの袖を、そっと引く。
サムは細い目をさらに細くして、マリーを見つめる。その細い目の奥に渦巻く感情は、悲しみなのか怒りなのか喜びなのか、マリーにはわからない。
しかし、気づかない振りをして、マリーはいたずらっぽく微笑んでみせた。
「ケイトが戻るまでの間、少しだけでいいから」
「私がマリアに、あなたのお母様に会ったのは……」
サムは片づけの手を止めて、ソファーに腰を下ろす。その横に、マリーを誘った。
側に座ると、彼からは絵の具とタバコと、なめした革の香りがする。祖父の香りに似ている。そっと寄り添って目を閉じれば、そこに祖父がいるようだった。
「私が出会ったのは……そう、ちょうどマリアがお嬢様の年頃のことでした」
「ええ。前にそれを聞いたわ。お転婆だった、と」
「それはもう」
サムはおかしそうに、含み笑いをした。彼はマリーを見ない。遠くに視線を送る。そこに母がいる気がして、マリーもそちらを見つめた。
「追えば逃げる、掴めばかみつく、あんなにも美しい金色の髪の毛は、いつもぼさぼさ。ケイトが追いかけては櫛を当てるのですが、それも嫌がってすぐに逃げてしまう……本当にあの人は、野生児のようだった」
「まあ……」
マリーは目をぱちくりとして、口を押さえる。どんなに想像しても、そんな少女を思い浮かべることさえできない。女の子が髪をぼさぼさのまま、駆け回るなんて。
「私はね、仕事柄、色々なお嬢さん、お坊ちゃんにお会いしますが、あんなにも元気のいいお嬢さんをみたのは生まれてはじめてだった。また、ジョージがそれを喜ぶものだから、会う度、会う度、お転婆になられていた」
マリーの頭の中で、母の姿が元気よく跳ねる。金の髪を振り乱して、素足で、真っ白い足で、腕で、走る。そしてその後ろを、ケイトがついて走るのだ。お嬢様、マリア、まって。まって。そんな風に叫びながら……。
「ケイトは……」
「ええ。ケイトはね、マリアがまだ3つの時にこの屋敷に連れて来られた娘用のメイドで……そして、二人は親友だった」
「お母様は……淑女で、とても礼儀の正しい人だって……ケイトが」
マリーは膝の上においた指をきゅっと握る。幼い頃から淑女であれと、ケイトはいった。マリアに恥じない淑女になれ。耳の奥に残るほど、なんども、なんども、なんども。
おかげでソファに腰を下ろしてもだらしなく崩れることもできない。まっすぐ背を伸ばして、手は膝の上に。
素足で駆け回るなんてとんでもない。髪の毛を振り乱しながら走ることなんて、想像するだけで恥ずかしくなってしまう。
「だって……お母様は淑女で……」
母は淑女だった。母は完璧だった。ケイトはマリーにそう語った。なんて堅苦しい生き方をされていたのだろう。会ったこともない母に、マリーは哀れみを感じることさえあったというのに。
「ケイトは私に嘘をいったのだわ。なぜ、そんな嘘を……」
「マリアの生き方は破天荒すぎて……今の時代、生きていくには難しい」
サムはため息を付いて、笑う。
「だから、ケイトは嘘を? お母様のことが嫌いだったの?」
「お嬢様。勘違いをなさってはいけません。真実は一つではないのです。物事を見るときには、一方からだけ見てはいけません。目を細めて、目を大きくあけて、下から上から斜めから、あらゆる方向から。時には、鏡をのぞき込んで逆の世界を見るように」
サムは手を広げ、まるで舞台俳優のように部屋を巡る。
彼はマリーの絵を持ち上げて、鏡に向けてみせる。
そのまま真っ直ぐに見れば小さなレディの絵だ。しかし、鏡あわせにすれば不思議とその口元がお転婆に笑っているように見えた。
「……ケイトはあなたに幸せになってもらいたいだけです」
「母は、幸せではなかったの……お転婆で、不幸せだった?」
「不幸せも幸せも知らないまま、マリアは亡くなりました」
サムは瞳を閉じて、開く。その言葉は、マリーの中に冷たく響いた。マリーは、母の死を詳しくは知らない。
「あなたを産んですぐ……18歳でした」
「サム……」
「お嬢様の絵が、描けてよかった。最後にみたあの花が私にとっての福音でした」
母の死について何かを尋ねようとしたマリーだが、結局その言葉は続かない。聞いてはならない気がしたのである。サムはマリーの頭をそっと優しくなでる。
「私はすっかりと……疲れてしまった」
「サムはもう、絵を描くのを止めてしまうの?」
サムの言葉があまりにも重く響くので、マリーは思わず尋ねる。が、彼はもうそれ以上答えなかった。
そのまえに、ケイトの足音が響いたのだ。
「サム様、お茶の用意ができました。焼きたてのビスケットと、あと簡単にサンドイッチも。食堂へお越しください……お嬢様も」
「ありがたい。雪の晴れ間は冷えますからね。しっかり食べて帰らねば」
サムは先ほどまでの雰囲気を一掃して、明るい口振りで立ち上がる。そして明るくて暖かな食堂へ降りていくのである。
ただマリーに残されたのは心を締め付けるような、もやりとした感情だけだ。
それは、絵を眺めても晴れ上がることはなかった。
「お嬢様、絵も完成しましたのになぜそんなに暗い顔を?」
夜の簡単な食事を終えたあと、ケイトがふとマリーを見つめた。
壁にはすでに今朝の絵が掲げられている。食堂の白い壁に金縁取りが施された巨大な額縁。そこに納まる自分の顔は、相変わらず柔らかくほほえんだまま。
しかしマリーはそれを見上げる勇気を持てなかった。自分の絵を見るたび、想像してしまうのだ。自分にそっくりだったという母の顔を。
「雪がまた降り始めたから……気が塞ぐの」
マリーは食堂の窓をみる。薄く曇りがかったその向こうに、うっすらと吹雪く様子が見られる。
べちゃべちゃと重い雪だ。明日はもっと寒くなるだろう。
「まだ体調が……」
ケイトが心配そうにマリーの額に手をおく。その冷たさを存分に味わったあと、マリーから口火をきった。
「……ケイトがそんなに私のことを心配するのは、お母様が早くに亡くなったからなの?」
額に当てられたケイトの手に、動揺が走る。以前までのマリーなら、ケイトの動揺に驚いて口を閉ざしてしまったことだろう。しかし、今は違う。マリーはケイトの手をつかんだ。
「ねえ、教えて。お母様はどんな人だった? なぜ私は普通の女の子みたいに、お外に出てはいけないの? ねえ。ケイト、おしえて」
「……お嬢様」
逃れようとするケイトを、マリーは離さない。
振り返ってみれば、マリーがこのメイドと真向かいになって話をしようとしたことは、一度だってあっただろうか。
厳格で生真面目なこの女性を、遠ざけていたのはマリー自身だった。
たかが10歳の娘に手を捕まれただけで、ケイトはその手を振り払えずにいる。口元がふるえるように動き、目の端が泳ぐ。そんな彼女の姿を見るのははじめてのことだった。
「お嬢様……12歳まで。あと2年我慢なさってください。2年たてば外に出られます。ようやく10まで迎えられたのです。あと2年、たった2年です」
「私の質問になにも答えていないわ、ケイト」
「許してください、お嬢様」
「ケイト。いって。私はもう10歳なの、何でもできるの。勇気だって……持ったの」
「12歳は」
マリーの手を、ケイトが優しくふりほどく。ヤグルマギクの目の色が、深い悲しみに彩られる。
「……マリアが発病した年です」
「お母様が……」
「それよりもダンスの練習は進んでますか? 結婚式はあともう十日ですよ。今まで閉じこめるような真似をして今更と思われるかもしれませんが……」
ケイトは先ほどの口調を打ち捨てた。立ち上がり、いそいそと紅茶のお代わりをそそぎ入れる。
堅いビスケットとドライフルーツを、皿の隣にそっと盛る。普段は少ししか用意して貰えない濃厚なバタークリームが、たっぷりと添えられた。
そして、何事でもないようにいうのだ。
「……何も心配されることはありません。12歳を越えれば、マリーはロンドンの女学校の……寄宿舎へ行くのですから」
「そんなこと、聞いてない」
思わず、席を立つ。しかしケイトは冷たくマリーを見つめ、とんとんと机をたたいた。食事中に音をたてて立ち上がるのはあまりにも不作法だ。
渋々腰を下ろせば、ケイトは満足そうに目を細める。
「ええ。申し上げるのはこれがはじめてです」
ケイトの顔はまるで鉄のようだ。どこにも優しさがない。付け入る隙もない。怒鳴るマリーを、ただ冷たく見つめるだけ。
「しかしこれは決まり事です。寄宿舎にいき、卒業後に結婚をされて、そしてどこかのお屋敷で立派な女主人として」
「結婚!?」
「そして、幸せに暮らすのです。マリー」
ケイトの口から流れるように語られるその言葉は、あまりにも現実味がないものだった。しかしひとつひとつがマリーに刺さる。
あと2年でマリーはこの屋敷から引き離されるのだ。庭も、部屋も、この食堂も、祖父の絵からも。
そしてどこか知らない土地で知らない男と出会い、恋をする?
想像して、マリーはぞっとした。恋の相手など、セージ以外にいないというのに。
「さ、もうお食事は終わりです。紅茶とお菓子はお部屋に運びますから、マリーはお部屋でお勉強を」
「まって、ケイト、私そんなこと聞いてない」
しかし一度かたくなとなったメイドは、二度と動揺することはなかった。凛とのばした黒いドレスの背は真っ直ぐ立ったまま。マリーは唖然と、その背を見送ることしかできなかった。
「今日はロンドンの本を読んだのだけど」
その夜のこと。
セージの口からぽろりと、ロンドン。の響きが聞こえてマリーは背を堅くする。
ロンドンはここからさほど遠くはない。かといって近くもない。子供の体では気軽に行き来することはできない。それくらいの距離である。
2年後、マリーはロンドンの寄宿舎に送り込まれる……その言葉はぐるぐると、マリーの中を渦巻いて止まらない。胸が苦しくなるのだ。
2年という年月は長いようにみえて、あっという間だ。父の帰らない誕生日をあと2回、過ごせばいいだけだ。
「ロンドンの本……」
「その本には、流行のものがのってるんだ。もちろん古い本だからちょっと前の流行だろうけど……おもしろいね。水浴機械っていう物があるのだって。淑女は水着姿をみせられないから、馬車ごと海の中に沈むと書いてある」
一冊の本を引き出して、セージがひどく楽しそうに笑う。
分厚い本には、紳士淑女の夏の遊びが記載されていた。海で泳ぐことも一つのレジャーだ。しかし、女性はけして肌を外に見せてはならない。だから馬車ごと、海に沈むのだ。
嘘か本当か分からない、そんな小話が沢山載った本だった。
「おかしいね。いくら見せられないからって馬車ごと沈むなんて……それとも海は、そんなにも透明なのかな? 淑女の水着が見えてしまうくらいに? でも僕は、本物の海をみたことがないから……」
「楽しそうね、セージ」
「みてみたいものは、たくさんあるんだ。満月も、僕はみたことがない。あの窓からみる月は、満月でも少し欠けてみえるんだ。柵がちょうどかかるせいで……マリー?」
淡い月明かりが注ぐ中で、セージはいつもより楽しそうだ。彼の楽しい話に耳を傾け、一緒に笑うべきだ……そう思っても、口は重く、頬は堅い。そんなマリーに気づいたのか、セージがふと、言葉を止めた。
「元気がないね、マリー」
「物語の……続きを聞かせて。たしか、地下に迷い込んだお母様を追って、ベスが地下に行って……」
マリーはあずまやに敷き詰めた布の上で転がっているのだ。顔は見えないはずなのに、セージはマリーの落ち込みをすぐさま感じ取る。
寄宿舎のことを言い掛けて、マリーは口を閉じた。これほど優しい人にそんなことをいえば、きっと傷つけてしまう。
「……そうだ。地下でおこる数々の冒険はもう話をしたとおり。一つ目の牛に、筋骨隆々の岩のお化け、どれもベスはうまく切り抜けた」
セージの声は物語を紡ぎはじめると、とたんに深く響く。先ほどまでのはじけるような明るい声ではない。深く優しく、時に勇ましく。
その声をよく聞くために、マリーは目を閉じる。様々な不安は黒く塗りつぶされて、やがてマリーの中には物語でいっぱいになる。
「ベスは大冒険をしたんだ。とても真っ暗で恐ろしい地下でね」
「お母様に、会いたいから」
「そう。会いたいから。それでやっと小さな小部屋を見つける。ベスはそれをあけようとすると……」
ベスの物語を聞き始めてもうどれだけ経つだろう。
彼女は幼い少女ながら単身、悪い王様のお城を縦横無尽に駆けめぐり、そしていよいよ生みの母と出会わんとするところである。
「中から厳しい声が飛んできた」
「なぜ?」
「誰であろうとここを通すわけにはいかない。息子に裏切られた母は、悲しみの縁にいた。自分が娘であることをベスは必死に伝える。しかし女王は信じない。女王はいう。娘は死んだと」
「……死」
死という言葉が深く刺さった。12歳で発病したマリア。18歳でマリーを産んだマリア。そして18歳で死んでしまったマリア。
「……死んだことにして、実際のところ、ベスはスラムに棄てられていたのだけど……でも、女王は死産と知らされていたんだね。だから女王はいう。娘であることがわかる、証拠をもってこいと」
「証拠?」
「女王はこの迷宮のどこかに、自分の良心の欠片を置いて来たんだ。幽霊のような存在だね。その幽霊がベスを本当の娘だと認めれば、会ってくれると。それだけじゃない。王冠も渡そうと、女王はそう言った」
「本物の王冠があれば、悪い王様を出し抜ける」
「そう。それに育ての村も喜ぶだろうし、そしてなにより、お母さんにあえる」
「ベスは……お母様に、会えるのね」
ずん。とマリーは落ち込んだ。マリーはどう転んでも、マリアには会えないのだ。
彼女がどんな人なのか、顔を知ったのはつい先日。性格を知ったのは今日。
そしてなにより、十の年を数えるまで母に興味を抱かなかった自分自身が恐ろしく、そして悲しい。
「……待って、ほんとうに顔色が悪いよ。マリー」
「そんなこと……」
気が付けば、セージの声を求めるように机に腕を伸ばしていた。顔を上げれば、ちょうど目の前に優しいグリーンの目が浮かんでいる。
「今日はもうお帰り」
「でも」
「物語は逃げやしないさ。それに風邪が治ったのなら、これからずっと会いに来てくれるわけだしね」
その声に押されるように、マリーはそっと庭をあとにする。冷えた庭はハーブの香りが薄い。そのかわり、うっすら霜の降りたハーブを踏み抜く音が心地いい。
この感触を味わえるのも、あと1年と少ししかないのである。2年後の冬、マリーはロンドンの空の下。
(セージ……)
扉を閉めて、マリーは祖父の机に座り込む。光苔の柔らかい緑の光が、マリーの手のひらを包み込んだ。
(セージ……)
机に突っ伏して、マリーは泣いた。声をこらし、おなかをふるわせてマリーは泣いた。
この庭で泣いたのは2回目だ。最初は恐ろしくて、泣いた。今は?
今はただ、悲しくてこらえきれないのである。