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帰郷

挿絵(By みてみん)


 楡の木が色づきはじめた頃、彼女は戻ってきた。

 もう二度と戻るまいと誓った、彼女自身の故郷へ。



「先生、下に落ちてる木、腐ってますよ。踏まないようにどうぞ気をつけて。怪我をしたら大変だ」

 痩せぎすの少年がおどけるようにそう言って、マリーの腕を優しく握る。

 彼の手は骨ばかりが浮き出て茶色く細い。これでも最近は肉付きがよくなった。

 マリーが最初に彼と出会った時は、もっと腕は細く目つきは鋭く、そして彼の顔に笑顔が花開くことなど一度もなかった。

「そうそうそう……スカートをもっとまくしあげないと、木のささくれにスカートの端が持って行かれますよ。おっと、それ以上は駄目ですよ。足が見えそうだ」

 ちいさな顔に溢れんばかりの笑顔を浮かべて、彼はマリーを見上げる。

「ありがとう、ボーグ。でもこんなお婆ちゃん相手には、似合わない言葉だわ」

 その笑顔を見ると、マリーもつられて笑顔になってしまう。

「そういうことは、もっと可愛いレディに使うべきね」

「先生だって十分、レディですよ。まあ……ちょっとばかり、年はとってますけどね。女性はいくつになってもレディだって、そう聞いてますけど?」

「そんな気障なこと、誰があなたに教えたのかしら」

「あなたですよ。随分前、俺が先生の年齢をからかったとき、そういって叱られたんです」

「まあよく覚えていること」 

 枯れ木のような少年は照れるように鼻をこすり、マリーを先導するように進む。

 二人が歩いているのは、古びた屋敷の庭だ。

 庭といっても、森のように広い。一面に緑が生い茂り、木々は不気味にうねって育ち、空気はもうもうと重いのだ。

 かつてはガーデンパーティで盛り上がったと思われる木陰の下には崩れた彫像。薔薇園のドームも、すでに崩れ落ちて薔薇の花は欠片もない。苔と錆と、雑草だけがその思い出を覆い隠している。

「……想像以上に、廃墟ね」

 マリーはふと足を止め、周囲を見渡し小さくため息を付く。そして空を見上げた。

「雨でも、降り出しそうな空」

 空は灰色のカーテンを引いたような雲に覆われている。

 二人が歩くこの場所は、小高い丘の上。緑に覆われた真っ白な道を下れば、丘の下に古い町並みが広がっているのがよく見える。

 赤い煉瓦の屋根がきちんと並んで愛らしい。しかし時折、牛や豚が歩いている以外、人の気配はない。

 そしてマリーは目線を前へと向ける。

 この丘の上にあるのは、たった一軒の巨大な屋敷だ。

 崩れた門から続くまっすぐの道。左右には巨大な楡の木立が続く。全てが崩れた中、楡の木だけは見事に紅葉をしている。黄金色に近いその美しい葉の色は、左右から天を覆い隠し、まるで世界が黄金色に包まれているようだ。

 そんな楡の木立を抜けると庭がある。庭の向こうに見える煉瓦の屋根、くすんだ白の壁、木の扉。

 古いが堂々としている。周囲はこれほどにも荒れているのに、屋敷だけは崩れてもいない。却って不気味なほどに。

 腰ほどまでも生えた長い草を手慣れた様子で払いながら、ボーグは進む。

「うへえ。草がすげえや。ここ、森か何かですか?」

「庭よ。ほら見て、隅っこには硝子の建物もあるでしょう。あれはね、昔の温室なの」

 ぴかぴかに透明だったはずの温室は、緑色のこけに侵食されてすっかり曇っている。あちらこちらにひび割れも見える。衝撃を与えれば、壊れるに違いない。

「草で手を切らないように気をつけてくださいよ、先生」

「ありがとう。慣れてるから平気よ」

 木が倒れ門柱が崩れた庭を抜け、二人はようよう巨大な玄関にたどり着いた。

 分厚い木の扉には獅子を象った真鍮のノッカーが一つ。それも錆びて青色にてらてらと輝いている。

「やあ。これはひどいな。玄関を開けますよ……はは。予想通りだ、固いな。ぴくりとも動きやしねえ。えっと……鍵はかかってないな、……うん、なんて不用心なんだろう」

 巨大な扉をさすり、たたき、ボーグは目を輝かせる。

 大きな鍵穴はすっかり泥のようなもので固まっているし、どこから種が漏れたものか、扉には全体的にツタが絡まっていた。

 そのツタを丁寧にはがしながらマリーは微笑む。誰もいない、打ち捨てられた屋敷だというのに、ツタだけはしたたかに生きている。

「もう、誰も住んでいないし、こんな古びた屋敷だもの。玄関が倒れずにあるだけでも儲け物ね」

「よし。先生、ちょっと下がって」

 ボーグは荷物を地面に放り投げると、小兎のようにその場で2、3度飛び跳ねた。

「どうするの?」

「こうするんですよ」

 そして、ボーグは近くに落ちていた太い木の枝を幾度か床にたたきつける。

 そうやって強さを確認したあと、ボーグは枝の先を玄関のかすかな隙間にたたき込み、そしてめいいっぱい、力をかけた。

「……よいしょっ……っと!」

 幾度目かのチャレンジで、枝がしなる。ぎしぎしと不穏な音を立てる。

「頼むから折れてくれるなよ……」

 枝が折れるより早く、扉が根をあげた。ぎ、ぎ、ぎ、と、嘆くような音をたてて、扉が開く。

 大量の白い埃と木のかけらが二人の前に降り注いだ。

「お上手ね」

「慣れてますんでね。こういうことは……さ。行きましょう」

 ボーグは二人にかかった埃を手早く払うと、マリーに手を差し伸べた。

「ボーグは紳士だわ」

「先生の前ではね」

 二人してのぞき込んだ玄関ホールは、大理石は剥がされ、意匠を凝らした壁紙はすべて雨水の犠牲になっている。

 ホールの向こうに見える木の床は、見事に腐りあちこちに大穴が開いていた。

 慎重に歩くだけで、床はぎしぎしといやな音をたてる。空気は黴びたように青臭いし、部屋は全体的に灰色のベールがかかったように、薄暗い。

 しかしボーグは恐れる顔ひとつ見せず、足先で地面をつついては首を傾げる。

「うーん。どうにも床が抜けそうでこわいな。慎重に歩かないと……」

 彼は窓に近づくと黴びた赤のカーテンを二度揺らして、眉を寄せた。

「なるほど、屋根が壊れちまったから、天井から雨が染み出して、床を腐らせてやがるんだ。こんな綺麗で立派なお屋敷も、こんなになっちまえば、俺が暮らしていたぼろ屋と変わらないもんだなあ」

 壁には黒い雨染みの跡がいくつも見える。カーテンをふるうと、いつの雨か分からない滴が床に散った。

「本当、木はあっという間に腐ってしまう。外からじゃ立派に見えても、中はぐずぐず。本当に、立っているだけでも奇跡の家……あと数十年も放っておけば、屋敷自体が崩れてしまっていたでしょうね」

 マリーはつぶやいて、天井を見上げた。

 かつてはそこに極彩色の天井画が描かれていたし、つり下げられたクリスタルのシャンデリアは差し込む朝日に照らされて美しかったものである。

 しかしそれももう、今はない。影も形もない。雨や風のせいではない。……盗難だ。

 ボーグは剥がされた壁紙をなでて、目を細める。

「金目になって、かつ足がつかないものばかり根こそぎやられてる。このやり口は玄人の奴らが荒らしたあとだな……といっても、随分前にやられて、それ以降は誰も入ってないようだけど……」

 剥がされた大理石、奪われた壁紙、天井画、クリスタルのシャンデリア。入口の門が壊れていたのも、盗賊団のせいだろう。嵐がこの屋敷の中を駆け抜けたようだ。

 ボーグはそれ以上突っ込むことをやめ、笑顔をマリーに向けた。

「おっと、先生。そこ、さびた釘がでてる。気をつけて」

「よく見てるのね。ボーグは」

「俺、スラム育ちでしょ? 腐った木の板で怪我をして、足を切り落とした仲間を何人も知ってるんですよ」

 楽しげにいうボーグを見て、マリーは小さく頷くことしかできない。

 この少年は一体、いくつなのだろうか。出会ったときは10歳にも満たないようにみえた。

 下水路の一角に、多くの遺体に囲まれて、ようよう息をしていたのがこの少年である。

 下水路に作られたそのスラム街は、親に捨てられた子供たちの王国であった。町のギャングさえ立ち寄らない。病気と犯罪と、死の町だ。

 ある日、下水路に流れ込んだ薬剤のせいで、その子供たちはボーグを残してみな死んだ。

 彼が助かったのは、地上へ出ていたおかげである。彼はこのスラム街の長だった。風邪を引いた子供たちに、何かうまい物をと、地上で食い物を盗んで回っていた。そのおかげで、彼は命を救われたのである。

 彼は手に入れた食材を、死んだ子供たちの前に供えて、幾日もうずくまっていた。

 マリーが彼に出会ったのは、そんな時だ。

「俺だって、何度も腐った木で大けがをしたし、刺さった釘に感染して死にかけたことだってあるんです。あんなに汚い下水路ですからね」

「よく、生きていた」

「先生が俺の手を取って、俺の傷に薬を貼り付けて、暖かいハーブのお茶を飲ませてくれなきゃ、俺は死んでた」

 ボーグはマリーを見上げた。ブルーサファイアのような大きな目が、薄暗い部屋の中で美しく輝く。

「先生が、立派なお医者様だから俺は生きたんだ」

「あなたの生きる力が強かったおかげ。私はほんの少し、その手伝いをしただけよ」

 マリーは女医だった。しかしこの時代、女医というものは滅多にない。

 先の戦争で多くの従軍医師が亡くなり、この国は慢性的な医師不足に陥ったせいである。

 そんな事件がなければ、マリーが医師として活躍することなどあり得なかっただろう。もちろん、ボーグを救うことだってできなかったに違いない。

 二人はほんの少しの偶然で出会った。少しの掛け違いがあれば、この少年はあの下水路で死んでいた。

「ボーグだってなれるわ。立派な医者に」

 マリーはほほえみ、ボーグの細い頬をなでる。

「じゃあボーグ。消毒に効く薬草は?」

「ミント。に……少しのローズマリーと……」

「正解。ボーグは賢いわね」

「ローズマリーは最初に覚えた薬草ですよ。先生と同じ名前ですからね」

 にこり。と彼は笑う。その笑顔に翳りはない。 

 しかし心の傷というのは見えないもので、その傷はいつまでも少年の心を傷つけるのだ。その傷をいやすハーブを、マリーはまだ知らない。それがマリーには苦しいのだ。

「ま。昔話はいいや。先に進みましょう……あ。こっちの部屋はまだマシですね。ダンスホール? かな? こんな立派な屋敷なんてはじめてみるから、分からないけど」

「食堂ね」

「ひゃあ」

 ボーグは声をあげて、飛び上がる。玄関ホールからつながる扉を開けると、そこにあったのは広々とした部屋だった。かつては真白だった床も緑色に変色し、真ん中に置かれた机の上には埃が積もっている。

 大きなはめ殺しの窓は奇跡的に崩壊を免れ、茜色の日差しに染まっていた。

「夕日だわ。さっきまで、曇っていたのに」

「この時期の天気は一瞬で移り変わる。雲が欠けて、そこから夕日が漏れて来てるんですね」

 久々にみる光に、二人は小さくため息を付く。

「こんな広い食堂ってありますか? 先生。机は一個だけ、いすだって二つだけ。こんなところで食べる食事は、さぞ味気ないでしょう」

「ひどく広いくせに、ここで食事をとる人間は一人っきりなのよ。このとんでもなく大きな机の隅っこに一人で座るのがどれだけ苦痛か分かるかしら」

 マリーは机の上の埃をそっと払う。白い埃の下に見えたのは、フォークでひっかいたような小さな傷だった。

「わあ。可愛いなあ」

 机を眺めるマリーの背後で、ボーグがはじけるような声を上げた。

 振り返れば、彼は壁にかけられた絵を見上げていたのだ。

 その目が夢見るようにほほえんでいる。釣られて見上げて、マリーは目を丸めた。

「まあ。懐かしい。そうね、ここに飾ってあったんだわ」

 飾りも豪奢な填め殺しの窓、その上に飾られていたのは、一人の少女の肖像画だ。

 大きさは腕を広げたくらいもあるだろうか。

 くすんだ金の縁取りは誰かに削られて半分以上欠けているが、絵は綺麗に残されている。

 絵の中でほほえむ少女は、金の色の巻き髪を肩のあたりでふわりと揺らし、クリーム色のドレスをまとっている。

 目は透き通るような青、ふくらんだ頬はほのかに赤く、柔らかそうなソファーにゆったりと腰掛けて、そして小さく丸い指に花を一輪、握りしめている。

 靴はぴかぴかに磨かれた赤のエナメル。汚れたものなどひとつもない、完璧な少女である。

「……今じゃ、このころの面影なんて、目の色だけ。髪の毛も、すっかり白くなってしまったわね」

 マリーはボーグの隣に並び、絵を見上げる……ただただ懐かしい絵であった。

 そこにあるのは、かつての……もう、数十年も昔の自分の姿。

「当時は絵を描いてもらう時間が苦痛で仕方なかったけれど、描いてもらえてよかった。こんなに、綺麗に残るものなのね。絵というのは」

 どのような経緯で絵を描くことになったのかさえ、マリーはもう覚えてもいない。

 ただただ当時は、絵を描かれる時間が苦痛だった。まるでロボットになったように、じっと固まっていなければならないのだから。

「あ。いや、今の先生が可愛くないって、そういうわけじゃなくって、あの」

「ボーグ」

「あの、今でも先生は綺麗っていうか」

「ボーグ。いいのよ、ボーグ。私は年を取りすぎてしまったのだから」

 窓の隣には、くすんだ全身鏡がひとつ、立っている。

 のぞけば、そこにあるのは絵の少女と似ても似付かない老女である。

 自慢の金の髪は白くなり、巻き毛もすっかりしおれてしまった。白かった肌は日に焼けて薄黒くなり、シミや皺も増えた。目の色だけが、悲しいくらいにあの頃のままだった。

「ここはあまりにも時の流れが止まっていて、まるで私が子供の頃に戻ったみたい」

 一瞬、マリーは勘違いしていたのだ。この屋敷……幼いマリーがかつて暮らした屋敷に足を踏み入れた瞬間、彼女は自分自身も少女期に戻ったような、そんな勘違いをした。

 しかし時の流れは残酷だ。長年放置された屋敷は崩れ、マリーは少女ではなくなっている。

「先生、今夜はここで泊まりますか? 住めるようにするには、あと数週間はかかりそうだけど……寝袋を使えば眠れないこともないです。おすすめはしませんが……いや、俺のふるさとに比べりゃいくらも天国ですけどね」

「そうね。今日はぐるりと屋敷を見て、夜には近くの町まで戻りましょう。少しずつ、なおしていけばいい話だから。無理はやめましょう。ここにくるだけでも随分と、時間をかけてしまった」

 マリーはしみじみとつぶやき、絵から目をそらす。

 マリーが女医の職を辞して、故郷の屋敷へ戻ることを決めたのは1年前のこと。しかし、気軽に辞めることは許されない。マリーはあまりにも、功績を残しすぎた。

 国では初めてとなる女医。多くの戦争孤児をすくい、兵士の傷をいやし、時には従軍までこなした女医。

 政府は彼女を名誉市民として手放さないし、女医の権利を声高に叫ぶ集団や、医学会からも残留するように幾度も引き留められた。

 一つ一つに根気のある説得をして職を辞し、身辺を整理して旅立つ用意ができたのが一週間前のこと。 

 解約したアパートを出たところに、旅支度を調えたボーグが立っていた。

 数年前に下水路から救い出したこの少年だけは、マリーも説得することができなかったのである。

 だからつれてきた。しかし今は、ここに彼がいることが、マリーにとっての癒しである。

「先生、聞いても?」

「どんなことでも」

 ボーグがふと、きまじめな顔をしてマリーを見上げる。15歳は越えてるだろうに、どうみても10歳そこそこにしか見えないのが哀れであった。

 しかし眼光は鋭く強い。この目を見るとマリーは嬉しくなってしまうのだ。

「師匠はなぜ、今になってこの家に、故郷に戻ろうと思ったのです? いつだって戻るチャンスはあったはずだし、それにわざわざ仕事を放って戻ってこなくても人をやって修繕することだって、できたはずだ」

 ボーグは古びた柱をなでる。雨風、嵐、そして多くの無頼物の強襲を受けてなお、この家は力強く残っている。それは奇跡だった。

「私はこの家がもう……そうね。木っ端みじんになって無くなっていると、そう思っていたのよ。そんな屋敷を見るのが悲しいから、戻るまいと……誓ったのだわ」

「まさか、この地方は戦争に巻き込まれてないはずだ」

「そうね。おかしな話。だから、そう思いこんでいた私は……」

 マリーは切なく笑い、壁をなでる。不意に懐かしい香りがした気がする。

 それは温かい紅茶の香りだ。ハーブをたっぷりつかった魚のソテーの香りだ、焼きたてのパンの香りだ。そうだ、この地方で穫れる魚料理は絶品なのだ。

 懐かしい、少女期の思い出の香り。

「一年前、この家が残っていることを国からの通知で知ったの。父が生きていた頃に数十年分の税金を支払っていたらしいのだけど、ちょうどそれが切れてしまったのね。だから私はここがまだ残っていることを知ってしまった……知らなければ、戻ろうとも、思わなかったでしょうね」

 一年前、マリーの手元に届いた黄ばんだ封書。女医として居住地を転々とするマリーの居所を追ってきた手紙はすでに黄色くくすんでいる。

 支払期日一週間前に、マリーはそれを受け取った。

「税金なんていやなものって思っていたけど、たまにはこんな奇跡も生むのね」

 もう無くなっている、と思った故郷の屋敷。慌てて地元に問い合わせて見れば、電話に出た男は「あんな大きな屋敷がなくなるもんですか。いまじゃ丘の上の邪魔な置き土産だ。さて、支払はいかがしますか?」などと言う。それでマリーは知ったのだ。まだ、この家が残っていると。

 その翌日、マリーは全てを捨てて故郷に戻る決意をした。

「……先生はすげえや。あんだけあったトロフィーもメダルもぜんぶ捨てて、免状も全部返して、それで体一つで故郷に戻るんだから」

 ボーグはさりげなく、会話を変えた。

 下水路から救い出したこの少年は、マリーを先生を呼んで懐いた。

 ついてくると言って聞かないので、つれて汽車に乗り込んだ。

 汽車はいくどもとまり大雨に足止めをされ、途中、強盗団なども出たので結果的にボーグをつれてきたのは正解だった、とマリーは思う。

 一人でこの屋敷を探索するのは悲しい。あまりにも過去の色が濃すぎる。

「トロフィーもメダルも栄誉も、そんなものは何の役にもたたないわ、ボーグ。私のおかげで救われた、というその言葉だけで十分。それに私は栄誉よりも、けなされた歴史の方が長いのよ。結婚もせず、血塗れになって働く女医、現代の魔女……私のことを悪し様に書いた新聞だけはもってきたわ。ちょうど、お皿を包む緩衝材にちょうど良かったものだから」

 ふざけて言えば、ボーグが手を打って笑った。

「……さあ、ボーグ。ゆっくり見回るのは明日にして、今日はあと少しだけ中を見て、町のレストランに行きましょう。このあたりの郷土料理はね、バターをたっぷり使っていて体がよく暖まるのよ。小さな子の口には合わないかもしれないけど」

「先生、俺はもう充分大人ですよ。酒だって飲めます」

「お酒は駄目。もうすこし大人になってからよ」

 食堂は今や茜の色に染まっている。

 大昔、マリーがここで暮らしていたときから、光が差し込む部屋だった。人がだれもいなくなってからも、ずっとこの夕日は部屋を照らし続けていたのだろう。

「じゃあ晩ご飯の時、あの話の続きをしてくださいよ」

「……そうね」

 夕日をぼんやりと眺めていたマリーは、苦笑する。

「でも残念。私も、あの話の続きを知らないのよ」

「またそいって人の気を引いてごまかして」

 ボーグは口をとがらせた。彼のいう「話」というのは壮大な物語のことである。少女の冒険譚である。不思議があり、悲しみがあって、幸せがある。少しずつ、少しずつ語ってきかせたその話はそろそろ佳境に入る。

 そもそもボーグがマリーに懐いたのは、その話がきっかけだった。手負いの獣のように心を開かないボーグに物語を聞かせたことで、彼はマリーを慕うようになった。

 数日前、強盗団に襲われた汽車の中、暗がりに身を潜めたマリーはボーグに話の続きを語って聞かせた。そのエピソード以降、マリーは続きを口にしていない。

 その理由は、マリー自身がその先を知らないからである。

「本当なの。その話をしてくれた……人が、そう。その人から、話の続きを聞く前に、お別れしてしまったから」

「ああ。先生の初恋の人ってやつですか? やけるなあ」

「馬鹿ね、こんなおばあさんを捕まえて」

 ふふ。と口を押さえて笑うとボーグもつられて笑った。そして彼はそわそわと、周囲を見渡す。

「この屋敷、広くて楽しいや。俺、ちょっと探検してきていいですか」

「お好きにどうぞ。修繕したあとは二人の家になるのだから」

「……なにも盗まないですよ?」

「盗むようなものはなにもないし、そもそもあなたが何かを盗るなんて、思ってもいないわ」

 元気よく跳ね回る彼からはハーブの香りがする。鞄にはドライハーブがたんと詰まっているのだ。

 野生児のように暮らしていたおかげか、彼はハーブの効能を潜在的によく理解している。

「ただし、危ないことはしないでね。この屋敷は、私と一緒でずいぶんと古いのだから」

「じゃ、しっかりしてるってことですよ」

 手をふるやいなや、彼は廊下に飛び出していく。ボーグの背が消えたあと、一気に静寂がマリーを襲った。くすんだような壁の色、黴びた香り、壊れた調度類。

 一回だけ震えたあと、マリーは慎重に進む。食堂の奥にある重厚な扉を押すと、それは意外にもあっけなく開いた。

 扉の向こう、そこには赤い絨毯が敷き詰められた階段が見える。

「……まあ」

 ゆるく螺旋を描いて二階につながる階段は白い大理石でできている。時を経ても、その白さは磨かれたように美しい。

 階段の踊り場には大きな曇り硝子の窓。そして、その上には一枚の絵。

 マリーは階段を登り、絵を見上げる。そして、スカートを持ち上げて、ゆっくりと頭を下げた。

「お久しぶりです」

 絵に描かれているのは、緑色の軍服に身をまとった鋭い目線の老人。

 胸には数え切れないほど多くの勲章と、頬には大きな銃創。白髪となったその顔は、よくよくみれば、マリーの顔によく似ている。

「ただいま、ようやく、戻りました……おじいさま」

 それはマリーの祖父だ。偉大なる兵士であり、偉大なる長官である。鋭い眼光は、マリーと同じ青。

 ここを通るたび、スカートをあげて挨拶をすること。それは、マリーに課せられた日課である。数十年の時がたってもなお、その癖はマリーを支配している。

 マリーはゆっくりと階段の広間を見渡した。どこもかしこも、汚れ壊れ、崩れている。階段脇の壁に近づき、マリーはそこに額をそっと押しつけた。

 壁の奥から蔦が広がり、その細い緑は驚くべき生命力で壁一面を覆っていた。

「でも……残ってる。全部全部……」

 名残惜しく壁から離れたマリーは、階段に足をかける。きしむが、まだ崩れる気配はない。

「……ああ」

 階段を登り切った先にある小さな扉をあけて、マリーは息をのんだ。

 そこは、まるでつい先ほどまで人が暮らしていたかのように、そのままの形で残っていたのだ。

「木のテーブル、赤いソファ。お気に入りのカップ、お人形、銀の燭台。そして」

 少女趣味に彩られたかわいらしい部屋である。小さなテーブルの上には埃まみれのコップがひとつ。壊れた人形、小さなベッド。フリルが贅沢につけられた、柔らかそうな布団。

 重厚な木の机の隣には、猫足のいすがひとつ。

 机は荒らされていたが、マリーはほくそ笑んで引き出しに手をかける

「女の子の引き出しには秘密の場所があるのが当然なのに、最近の泥棒はそんなことにも気づかないのね」

 がたつく引き出しを開けると、中もひどく乱されていた。偽物の宝石ケースはひっくり返っているし、ペンは折られインク瓶は壊されている。しかしその棚の底板を二度三度、底から叩けば板がゆっくりと上がってくる。

 板を慎重にはずして中をのぞき込めば、赤い革のノートが一つ。

「やっぱり」

 その場所は埃にも、水の被害にも遭っていない。革はつやつやと輝き、紙は黄ばんでいるものの張り付いてもいない。

「……ここに、日記。懐かしい……」

 分厚いそれをゆっくりと持ち上げると、ごとん、と音をたててなにかがマリーの足の上にふってきた。

「……鍵……ここに、隠されてたのね……」

 床に落ちたのは大きな金属の鍵。掌ほどもあるだろうか。くすんだ銀色の巨大な鍵は、巨大な歯形を持っている。それを拾い上げて、胸に押しつける。マリーの中に、何か、懐かしいものがこみ上げた。

「18××年、10月」

 鍵を握りしめたまま、マリーは日記をめくる。一枚、二枚。そこには幼い文字が踊っている。青のインクで書かれた、幼い文字。

 これは、マリーの文字である。

 古びた青いインクの染みが初々しい。文字が黄ばんだノートいっぱいに踊っている。

「来週は私の10歳の、バースデイ。お父様は帰ってくるとおっしゃった」

「あと少しで、私のバースデイ。お父様はやっぱり帰ってこられない……戦争のせいで、お父様の……お医者様の仕事が増えてしまった……」

「まもなく私のバースデイ。いつも通り、メイドのケイトと二人きりの……お父様は私のバースデイの日付を勘違いして、今朝、お人形を送ってきてくださった……」

 毎日丁寧に書かれていた文字が、ある日突然、崩れた。

 それはマリーの誕生日、前日のことである。

「私は、すごい秘密を知ってしまった……」

 マリーの呼吸が乱れる。震える手で、日記をめくる。

 青い文字がはしゃぐように、揺れる、踊る。

 時に文字を間違え、それをかき消した跡も浮かれている。文字は、踊るように広がっている。

 バースデイ前までの日記はタイプライターで打ち込んだように画一的だったというのに、そこから先のマリーは、少女らしい希望と喜びに満ちている。

 マリーは一度、瞳を閉じて息を吸う。そして、ゆっくりと手帳の続きをめくりはじめる。

「明日は……正確には今日は私のバースデイ。一日に二回も日記を書くのは反則だけど、このことはちゃんと書いておかなきゃ。こんなこと、絶対に忘れちゃいけない。誕生日の前日の夜、私は屋敷の秘密の場所で……ものすごい……すごい秘密を知ってしまった……」



 彼女は帰ってきた。故郷の屋敷に。

 それはこもっていた数十年の時が、動き出す合図となる。


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