男子高校生が期末試験前に異世界に召喚された
近頃の都会の川はすっかり整備され、気の利いた場所なら洒落たブロックを敷き詰めた遊歩道が設けられている。
気温も大きく下がり、もうすぐ学校も冬休みに入ろうかという季節で、街路樹の葉もかなり疎らで寂しく感じられた。
迫る試験のことを考えれば、あまり植物のことを思いやっている余裕はないのだが。
彼は、上位の成績だけが取り柄だった。
ともあれ、いつものように川沿いの遊歩道を通って下校しながら、祐之介はふと、視界に違和感を覚えて周囲を見渡した。
(……ヒビ……?)
ヒビが入っている。
特定の何かにではなく、例えば眼鏡のレンズや液晶の画面に入ったそれのように、視界全体に一筋のヒビが入ったようなようになっている。
だが、彼は眼鏡をしているわけでも、何かの画面を見ているわけでもない。
彼がしているコンタクトレンズも、念の為に外して確認してみたが、ソフトタイプだ。ヒビなど入ってはいない。
慌てて目を覆うが、さすがに彼の眼球だか網膜だかにヒビが入っているわけでもないだろう。
生物の授業でも習ったが、人間の目にはヒビが入るような部分はない。
「な、何も……おかしいことはないよな……?」
恐る恐る手をどけると、ヒビは大きく視界全体に広がっていた。
視界全体がガラスのように砕け散り、破片が空へと舞い上がっていく。
光景の破片が全て見えなくなった時には、周囲は一変していた。
そこを見渡せば、恐らくは広い運動場。
彼の学校のそれよりはだいぶ広く、運動部の代表が集まってグラウンドの使用日程を調整し合うような必要はなさそうだった。
ただ、明らかに、先程まで彼のいた場所とは違う。
地面を見渡せば、学校のグラウンドでよく使っている石灰を鮮やかな赤にしたような粉で、複雑な図形が描かれていた。
(……魔法陣とか、そういうの?)
ただ、それはともかく、大雑把にまとめてしまえば疑問は一つだ。
「ここどこ」
期末試験も近いのに、こんな所にいる場合ではない。携帯を見ると、圏外。
「地上で圏外とかどこだよ……壊れたのか?」
だが、それを自分で確かめに動くより前に、祐之介は遠くから大きくなってくる重々しい音に気づいた。
重苦しく、金属のこすれ合う音まで聞こえてくる。
盛り上がった土の向こうから姿を能わしたのは、馬に乗った誰か。
近づいてくるにつれて、それは嫌が応にもはっきりしてきた。
祐之介の普段の生活では、画面の中以外では絶対に見なさそうな、鎧の上に更に赤と白の服のようなものを羽織った男だ。
年齢は四十から五十、髪型は音楽の教科書で見たビートルズのようなマッシュルームで、上唇には被せたような髭が整えられていた。
「スウィフトガルド王国聖堂騎士団、副長ゴドー・オルナカン。君が、異世界の戦士だね。よく召喚に応じてくれた!」
祐之介の脳は、そこで完全に混乱を起こした。
ただ、取り乱すほど切羽詰まっていたわけでもなかったので、ひとまずにしても、彼は敵対的でも高圧的でもなさそうな、目の前のゴドーという男に話しかけた。
馬まで駆り出す年季の入ったコスプレ男だろうと、何かの間違いで本当の騎士であろうと、周囲を見る限り話しかけられそうなのは彼だけだからだ。
「すみません、ここどこですか。一番近い駅とかご存じでしたら教えて頂きたいんですけど……」
「そんなことを言っている場合ではない、魔王軍は既にここを嗅ぎつけている! 早く後ろに乗りたまえ!」
「いえ、馬は結構ですので――」
「急げ!」
痺れを切らした彼に制服の襟首を掴まれ、祐之介は馬の後ろに人形か何かのように乗せられた。とんでもない腕力だ。
そして慣れた手つきで手綱を引くと、彼と祐之介を乗せた馬が動き、加速する。
「ちょっと、何するんですか!」
「異世界の戦士といえど、"呼ばれたて"では無駄死にするぞ! そんなことをさせるために呼んだのではない!」
「意味が分かりませんよ!」
何とか飛び降りようと後ろを向くと、そこには巨大な、洋画に出てきそうな全身に刺々しい突起と翼を生やした生物が三頭、空中を滑るように迫ってきていた。
正確な大きさは分からないが、祐之介くらいは一飲みに出来るのではないか。
さすがに拡張現実眼鏡もつけていない彼にこのような仮想現実を見せる技術はないはずなので、祐之介はひとまず、馬上ではあるがゴドーの言ったことの内容を考えてみた。
これはもしや、マンガやアニメでよくある、あれなのか。
「今だッ!!」
急にゴドーの貼り上げた声で、その思考は中断された。
すると、更に大きな轟音が鳴り響いて、ドラゴンのような追手は三頭とも墜落し、大きく土埃を巻き上げながら激しく転がった。
「な、何が起こったんですか!?」
「散弾砲の十字砲火をする地点まで誘い込んだのだ! あとは一気に駆け抜けるぞ!」
見れば、豆粒ほどの大きさながら、人を乗せた馬が何頭か追いかけてきていた。
「手荒な真似をしてすまない。だが君は、人類最後の希望となるかもしれないのだ!」
「じ、人類ですか!?」
「そうだ! 異世界の戦士として鍛錬を積み、魔王を倒す救世主となって欲しい!」
「他の人あたってください! 期末試験があるんです!!」
「召喚に応じたのが資質の証! すまないが、元の世界でどうだろうと、関係ないのだ!」
「ど、どのくらいかかるんですか!? 期末試験まで三日しかないんですけど……」
「そうだな……今から巻き返して、五つの大陸から魔王軍を駆逐するには……ざっと二十年といったところかな?」
「き、期末試験がぁぁぁぁぁぁ!?」
異世界の荒野に、男子高校生の悲鳴が響き渡った。
時は流れ、十年後。
魔王侵攻前の活気を取り戻したスウィフトガルド王国の王宮の、自室の窓辺。
すっかり大人になった王女は、隣国に嫁ぐことが決まって少々気だるげに、外を見ていた。
「……ユーノスケ様、今はどうしてらっしゃるのかしら」
幼いころに親しくなった異世界の戦士は、わずか一年余りで全ての大陸にあった魔王の拠点を破壊しつくし、ついには魔王を討ち取り、契約を果たしたことで元の世界へと帰っていった。
一度魔王軍に誘拐された所を助けられてからはおてんばを改め、自分の勤めに徹することに決めていた彼女だが、遠く離れた王城で戦勝の知らせを聞くだけなのは何とも、歯がゆいものがあった。
凱旋を果たした彼に会うことが出来て、無事な姿に安堵したのを覚えている。
「仕方ないだろう、彼も故郷でキマツシケンとやらがあると言っていた。きっと、大事な催しだったんだろう」
「存じております。私だって、逆の立場でしたら帰っていたと思いますもの」
父の言葉に、そう答える。
こちらの世界と、ユーノスケの世界の時間の流れがどのように違っているかは、分からない。
それこそ、彼の話してくれたウラシュマッタロの物語のように、故郷が一変してしまっている可能性もあるだろう。
こちらの世界を救う代償に、彼の人生を台無しにしてしまったかも知れないのだ。
平和になった世界を見て彼も喜んでくれたのが、せめてもの救いだ。
「ユーノスケ様。私、あなたのキマツシケンの成功を、いつまでもお祈りしております」
王女は祈ると、部屋の反対側にある描きかけの絵に向かって筆を執った。
実家に残す予定の、異世界の戦士ユーノスケの肖像画。
繊細に、しかし大胆に、彼女は色を載せ続けた。
余談として。
死に物狂いで強くなり、最後には魔王軍を駆逐し、幸運にも期末試験前日に無事に元の場所へと帰還を果たした祐之介。
だが、異世界に一緒に召喚された鞄の中になかった科目については復習が出来ず、彼の二学期の期末試験の成績はいびつな結果を収めた。
それでも、彼にさほど後悔した様子もなかったことは、最後に付記しておくべきだろう。