20分間に潜む殺意
事件の始まりは、公民館内に響き渡った男の悲鳴だった。
最近の九州南部の夏の雨はとかく激しい。バケツをひっくり返したような、という形容がまさに似合う豪雨が突如襲ってくる。
公民館の外は、15分ほど前から降り出した雨が激しく降りしきっており、叩き付けるような雨音が響き渡っていた。
突然の大雨に慣れきっていた猿渡宗一は、公民館からでる頃には止んでくれればいいが……と思いながら、窓の外を眺めていた。ここには自動車で来てはいるものの、これほどの横雨では外を数メートル歩くだけでも衣服はびしょ濡れになってしまう。
激しい雨音は部屋の中で聞いているうちは心地良いものでであるが、衣類が濡れる気持ち悪さはいただけない。この後も、本社に戻って仕事をする予定であることを考えると、早々に止んで欲しいものだとため息をついていた。
そんな大音量の雨音に負けない男の叫び声が、猿渡らの耳に届いた。
猿渡は、他にも会議室に残っていた二人と顔を見合わせた。
「今の声は1階からか!?」
「行ってみましょう」
3人が2階の会議室から出たところで、トイレから出たばかりの所沢俊一郎と出くわす。彼もまた、階下からの声を聞きつけたらしく、猿渡らと目が合うと言葉を交わすことなく共に階段を駆け下りた。
備品庫付近から複数の声が聞こえたため、そちらへと向かった猿渡らは、備品庫の隣の小会議室のドアが全開になっているのを目にした。
彼らが小会議室に駆け寄ると、すでに他の者達が集まっており、騒然としていた。その足下には、誰かが横たわっているのが見えた。
「どうしたんですか!?」
室内に入った猿渡が目にしたのは、己の部下である高倉弘樹が仰向けで倒れている姿だった。彼の周囲の床はおびただしい血が流れている。
「救急車を呼ぶんだ!」
「警察も!」
猿渡と共に2階から降りてきた白石辰也が、己の携帯電話を取り出した。高倉の状態を説明し、救急車の出動を依頼するが、声はふるえ、同じことを繰り返して説明する様子に、動揺が見て取れた。
その間、先に室内にいた榊宗佑が高倉を起こそうとするが、彼はぐったりしており、目も閉じたままだ。腹部とのど元を中心に血が溢れ出ていた。榊は必死に高倉の名を呼びかけ続けるが、いらえはない。
これは、果たして助かる見込みはあるのか。猿渡の脳裏に己の部下の死のイメージが浮かび上がるが、そのイメージを打ち消すように首を振り、電話越しに状況を伝えている白石に頼む。
「白石さん、もし、応急方法があったら教えて貰ってください」
「は、はい!」
榊の足下にはサバイバルナイフらしきものが落ちていた。ナイフの歯の部分は血液で覆われており、床をも汚していた。
高倉は、これで刺されたのか。
空調が効いていない室内の中、じわりと汗ばむのを感じながら、猿渡は混乱する頭を整理しようとする。
これは、殺人事件だ。
では、誰が、高倉を刺したのか。
この中にいるのか。それとも、外部の者の仕業なのか。
目の前に横たわる血まみれの人物から目を離し、数歩後ろに下がる。所沢と榊が必死に高倉に声をかけているが、今の自分は、ただ、救急車を待つことしかできない。
心臓が早鐘のように打つのを抑えようとする。
冷静になれ、よく考えろ。
犯人は誰だ――――
***
今日、猿渡らが青海公民館に集まったのは、大型店舗開発に伴う打ち合わせのためであった。
猿渡は、土地開発事業も行う不動会社を経営している。今回開発する大型店舗の建設地域に市の所有する不動産が隣接していたことから、市の職員とも事前に打ち合わせをすることになったのだ。
会議に参加したのは、猿渡と市の職員である白石辰也・榊宗佑、建設を請け負う丸藤建設会社の社長である丸藤徳朗と社員の所沢俊一郎、地主の蒲田良文の計7名だ。
午後からの公民館の利用は猿渡らのみであり、同館内にいたのはこの7名と公民館の管理人である吉永文恵だけであった。
会議は午後1時から始まり、1時間が経過したところで、15分ほどの休憩を入れることになった。
その休憩時間に悲鳴が響きわたったのだ。
「高倉さんは何故こんなところに……」
丸藤が喘ぐようにつぶやいた。若干肥満傾向にある彼は、手をふるわせながらポケットからハンカチを取り出し、額から頬に流れる汗をふき取る。
猿渡の部下である高倉は、彼の扱っている別案件を終えてから会議に参加する予定だった。
猿渡は自社の開発事業の請負を丸藤の会社に受注することが多く、その窓口となっている高倉とは馴染みが深い。高倉が遅れてくることも、猿渡が事前に伝えていたので知っている。
だが、猿渡らがいる2階の会議室ではなく、1階の小会議室にいたことに疑問を覚えているようだ。
「今日の会議は、もともとはここでする予定だったんです。高倉にもそう伝えていました。ただ、なぜか今日は1階の部屋のエアコンが効かなくて。急遽2階に変更したのですが、高倉にはまだそれを知らせていませんでした」
高倉が公民館に着いて小会議室に誰もいないのがわかれば、管理人の吉永に聞いてすぐに2階に上がってくるだろうと、特に伝える必要性を感じていなかった。場所の変更を知らなかった高倉は、そのまま小会議室に来てしまったのだろう。
猿渡は、改めて室内を見渡し、隣の第2小会議室に続くドアが半開きになっていることに気づいた。
そのドアから第2小会議室に入った。第2小会議室には誰もいない。特に異常も見られない。もう一つのドアから廊下に出る。第2小会議室のすぐ隣は、正面玄関だ。今日は雨が降っているので、ドアは閉め切ったままだ。今も外は雨が激しく降りしきっている。
猿渡が小会議室に戻ると、室内は重苦しい雰囲気に包まれていた。
電話越しに教えられた方法で高倉の怪我への応急措置がなされており、他になすすべもない状況下、誰一人一言も発しない。
救急車を呼んではいるものの、高倉は助かる見込みはないのではないか。
大量に流れる血液と高倉の状態から、その場にいたほとんどの者がそう考えていることが手に取るようにわかった。
「いったい、誰がこんなっ」
榊が沈黙を破った。ぴくりともせず横たわる高倉を見て、榊が悔しげに床を叩く。
市役所の職員である榊と高倉は、高校時代の同級生だった。今回の開発事業に関して市役所に交渉にあたった高倉は、偶然この級友と出会ったらしい。榊は、学生時代を共に過ごした級友が殺されるという事態を目の当たりにして、そのショックを隠せないようだった。
「ここに一番最初に来たのは誰ですか」
猿渡の冷静な声が室内に響きわたった。
「私だ」
丸藤が答えた。
「そのときにはもう高倉は倒れていました?」
「ああ、こんな感じで血塗れになって倒れていて……」
「私たち以外の人を見たりは?」
「いや……」
今度は、他の者達にも尋ねる。
「誰か私たち以外に不審者を見かけた人はいますか」
その質問に誰もが首を横に振った。
猿渡は皆の回答を待った後、語り始めた。
「あと数分もすれば警察がくるでしょう」
その言葉に、皆が猿渡に注目した。彼がこれから何を言おうとしているのかと不審げに見やる。
「これは殺人事件です。私たちは、犯行当時のことについて警察に事情を聞かれるので、そのつもりでいた方がいい」
「もしかして、私たちが犯人扱いされるのか!」
「状況からして、そうなるでしょうね」
興奮した状態の蒲田に、落ち着きを払って猿渡は答えた。
「私と白石さんと蒲田さんは2階の会議室で男の悲鳴を聞きつけて階下に降りてきました」
「私もたばこを吸っていたら、このあたりから叫び声が聞こえてここに来たんだ」
丸藤も同意する。周りを見回すとほかの者も男の悲鳴を聞いてかけつけたと猿渡らと同じような説明をする。
「悲鳴のする場所にかけつけてみたら、高倉が倒れていた。とすると、あの叫び声は高倉のものだということになります。そして、あのとき、高倉は犯人に刺されたのでしょう。警察からは、犯行当時、どこで何をしていたのか聞かれることになるでしょうね」
「声が聞こえたとき、私は、正面玄関で喫煙していたんだ」
己の身の潔白をはかろうと、丸藤はまっさきに言った。
「そのことを誰か証明できますか」
「いや……」
「先ほど言った通り、私と白石さんと蒲田さんは2階の会議室で、悲鳴を聞きました。ちょうど所沢さんもトイレから出てきたところで、一緒にここにきました」
「所沢君、まだ調子が悪いのか」
「どうも、まだいまいちみたいで……」
丸藤の質問に所沢が気まずそうに答えた。昼食に食べた貝にあたったようで先ほどの会議中、所沢は顔色が悪かった。途中トイレで吐いて少し落ち着いたと言っていたのだが、それでもまだ完全によくなったというわけではなかったようだ。体調が悪かったことに加え、高倉のこともあり、所沢の表情は、青ざめたままだ。
「榊さんと吉永さんは?」
「私は、管理人室で休憩していました」
「私は談話室で課長に電話を……」
榊も吉永もお互い一人で別の部屋にいたようだ。
「ちょっと待ってください。そもそも、犯人は私たち以外の者という可能性もあるんじゃないですか」
白石が、榊の考えに異論を差し挟んだ。
「勿論、その可能性もあります。丸藤さんが最初にここに駆けつけた時、すでに誰もいなかった。ということは、犯人は、そこのドアから第2小会議室に移動して、私たち全員がここに集まるのを見計らって逃げたと考えられます。ここから逃げるとすると玄関かその向こうの部屋の窓かドアからしか手段はない。しかし、今日は土砂降りで横雨だ。ここの公民館の玄関は庇が狭くて、今日のような日にドアを開けたらすぐさま床は濡れてしまう。でも、床はぜんぜん濡れていなくて、開けた形跡はありません。ほかの窓やドアもそうです。それに……」
猿渡の説明を遮るように、外から救急車の音が聞こえてきた。ようやく救急車が来たようだ。猿渡が壁の時計を見ると、2時15分だった。ずいぶん救急車が来るのが遅く感じたが、白石が電話をしてからまだ10分ほどしか経過していなかった。もっとも、救急車の全国平均到着時刻が6分であることを考えると遅い到着ともいえるかもしれない。
猿渡は話をいったん切り上げた。白石と吉永が玄関に行き、誘導する。猿渡らは、救急隊員が救助しやすいように場所を空けた。
程なくして、制服を着た警官もやってきた。
彼は、近くの派出所からかけつけた警官で、猿渡らに現場から離れた談話室に移るよう指示を出し、本部と連絡を取る。
彼の指示に従い、猿渡らは談話室へと移動した。
「所沢くん、ちょっと飲み物を用意してくれないか」
「わかりました」
手近なソファに座り、丸藤は、己の部下に頼んだ。彼の額からは汗が流れている。もともと丸藤は暑がりの体質である。エアコンが効かず、雨が降っている中窓も開けられない状況に耐えきれなかったのだろう。談話室には扇風機があるものの、それほど暑がりの体質でない猿渡も平静ではいられない。
「あ、私がお茶を用意します」
慌てて吉永が立ち上がるが、所沢がそれを制した。
「いえ、大丈夫ですよ。吉永さんも、ゆっくりされてください」
事件が起きてから言葉少なで青ざめた様子の彼女に何かを頼むのも酷だと考えたのだろう、彼女を気遣うそぶりをみせ、所沢は給湯室に向かった。
猿渡は、丸藤の斜め向かいのソファに座り、窓際で落ち着きなく歩き回る白石を見ながら今回の事件について顧みた。
高倉を刺したのは一体誰なのか。
先程皆の前で述べた通り、この雨の中、窓やドアを開けた形跡がないことを考えると、外部の者の仕業とは考えにくいだろう。とすると、ここにいる7人のうちの誰かと言うことになる。
事件当時、一人でいたのは、談話室で電話をしていた榊、玄関横の喫煙所にいた丸藤、管理人室にいた吉永の3人だ。この3人のうちの誰かが犯人ということになるのか。
しかし、彼らのうちの誰かが高倉を刺したと考えるのは信じがたかった。榊と高倉は同級生同士であるが、この開発事業にとりかかるまでお互い会うこともない関係だった。この事業をきかっけにプライベートで頻繁に会ったりしている様子もなく、殺害にいたる動機がわからない。丸藤にしてもそうだ。高倉は、丸藤の会社との交渉の窓口となっているが、社長の丸藤と特に懇意にしているわけでもない。公民館の管理人に過ぎない吉永にいたっては、なおさら殺害動機が見いだせない。
そもそも、なぜこのように人が複数いる場所で殺害を試みたのかすら疑問に残る。
犯行当時、猿渡達は休憩をとっており、各々公民館内の各場所にいた。一歩間違えば、殺害状況を目撃されるかもしれなかったのだ。しかも、ナイフで刺そうとするとなると、高倉とて反抗したであろうし、物音を聞きつけた人たちによって取り押さえられた可能性もある。このような危険を犯しての犯行というのがどうしても腑に落ちなかった。
もし、自分が犯人の立場であれば、人気の少ない場所と時間を狙って、確実に殺せる方法をとるだろう。
これは、計画的なものではなく、衝動的な犯行だったのだろうか。
しかし、凶器となったサバイバルナイフは、あきらかに公民館にもとからあった備品とは思えない。犯人が持ち込んだ品のように思える。それに、誰にも見つからずに現場から立ち去り、悲鳴を聞きつけて駆け寄った風に装うのは、とっさに考えたにしては冷静過ぎる判断だ。
猿渡は、犯行手口の杜撰さと犯人の冷静な対応に違和感を覚えた。
敢えてこのような犯行手口を取ったのには何か理由があったのだろうか。
猿渡は、複数台のパトカーの音を耳にした。いよいよ、本格的に警察がやってきて、現場検証や事情聴取がされるのだろう。
「すぐには帰れそうにないようだし、市役所の方に連絡をしておいた方がよさそうだな……」
室内をうろうろと落ち着きなく歩いていた白石が、時計を見て年下の榊に確認をした。
「そうですね……」
級友の状態にショックを隠しきれない榊の様子を見て、白石は自分の携帯を取り出す。
「俺が課長に電話をしておくな」
「私も、妻に電話を……」
蒲田も懐に手をやり携帯を探す。
「丸藤さんは会社に連絡をされなくて大丈夫ですか」
「そ、そうですね」
慌てて丸藤も携帯を取り出す。殺人事件という大事件に気をとられ、すっかり失念していたようだ。
だが、それは猿渡も同様だった。彼自身は、冷静に行動をしていたつもりであったが、素人の自分が犯人探しをするよりも先に、社への連絡をするべきだったことを考えると、やはり動揺していたのだろう。
所沢が麦茶の入ったグラスを盆にのせて持ってきた。丸藤は、それを真っ先に取ってごくごくと一気に飲み干した。所沢は、白石や蒲田らにも渡す。
「私たちにまで、わざわざすみません」
恐縮しながら白石は榊の分もグラスを受け取った。
猿渡も携帯を耳にあて会社にいる名倉に事情を伝えながらグラスを受け取り、所沢に軽く頭を下げ礼をする。普段は、この手のものは殆ど口にしないのだが、非常に喉が渇いていたことから無意識に受け取っていた。そして電話を終えるとそのままグラスに口をつけようとした。
エアコンが効いていない上、このような事件まで起こり、腔内が無性に乾きを覚えていた。
普段なら手をつけることのない飲み物――――。
コップに口をつけた猿渡はその手を止めた。
そして、無言で立ち上がり、そのままグラスを手にしたまま談話室を出ようとした。
「猿渡さん、どうしたんですか」
丸藤の問いかけを無視し、部屋を出たところで、恰幅のいい男と鉢合う。
「刑事課の畑です。皆さんに事情を伺いたいのですがよろしいでしょうか」
畑の肩越しに廊下の先を見ると、複数の警官らしき者たちが殺人現場と言うべき場所に向かっている。刑事ドラマでよく見かける光景が繰り広げられており、いよいよ捜査が開始されるようだ。
「ちょうどよかった。今警察の方を呼ぼうと思ったところです」
猿渡は、畑を談話室に迎え入れた。
「ちょっと、これを見て貰えませんか」
彼は、他の者たちが注視している中、窓際に寄った。窓際の棚には、小さな水槽があった。水槽には金魚が泳いでいた。
猿渡は、左手に持っていたグラスの中身を水槽に注いだ。グラスに入っていた麦茶が水槽の水に混ざり薄茶色になる。泳いでいた金魚は口をぱくぱくさせた後横転し、浮き上がった。劇的な変化だった。動かなくなった金魚に一同呆然とする。
「所沢さん、高倉を刺したのはあなたですね」
猿渡は、無表情で立っている所沢に向かって言い放った。
「所沢君が高倉さんを刺したって!? ど、どういうことなんだ、猿渡さん」
丸藤は、猿渡と高倉を見比べ困惑して問いかける。
所沢は、手に持ってい盆の上に残ったグラスの一つを掴み、口につけ、一気に飲み干そうとした。
「飲ませるな!毒だ!」
沢渡は、所沢の意図に気づいて彼を止めるために駆け寄ろうとしたが、その行動は遅すぎた。しかし、咄嗟に叫んだその言葉に反応してすぐさま彼からグラスを取り上げた者がいた。
ほとんどの者が状況が飲み込めていない中、意外にもどっしりとして機敏とは縁のなさそうな畑が、所沢の服毒を防いだ。
「くそっ」
畑が他の警官を呼び、所沢を取り押さえる。所沢が落ち着いたところで、畑は部屋にいる白石らを見渡したあと、猿渡に向かって言った。
「今回の件について、詳しくお話を伺ってよろしいでしょうか」
白石が119番通報をしてわずか20分間の出来事だった。
***
「所沢が自白をしましたよ」
猿渡の会社を訪れた畑は、応接室のソファーに座ると、さっそく高倉殺害事件について話をはじめた。
所沢の行った供述の内容について、猿渡に改めて確認をとりたい、と畑は猿渡を訪ねたのだ。畑の隣には、彼の同僚の佐倉が座っている。
「所沢は、会議が始まる前に1階の主要場所のエアコンの配線を切断しています。そして、高倉さんにいつ頃公民館に来られそうか確認をして、その時間にあわせ会議の途中で抜け出しました。1時半にやってきた高倉さんを背後から置物で殴った後、首と腹部を刺したそうです」
畑は供述調書と思われる書面を見ながら、説明をする。
「刺す前に殴っていたんですか」
「正面からナイフで向かえば、さすがに高倉さんも反抗して簡単には殺害できませんからね。検死結果からも頭部への殴打の跡が報告されています。倒れた高倉さんを確実に殺害するために、ナイフで刺したそうです。その後、30分後に悲鳴が再生されるようにセットして会議に戻ったと」
猿渡らが悲鳴を聞いてかけつけたとき、玄関付近の床は濡れていなかった。そのため、犯人は玄関から逃走したのではない、と猿渡は判断した。だが、そこで猿渡は疑問を抱くべきだった。
なぜなら、高倉が公民館を訪れている以上、玄関の入り口は高倉がドアを開けたときに雨が降りこんで濡れているはずである。
雨が降り始めたのは、猿渡が休憩に入る15分ほど前。少なくとも15分以上前には高倉は公民館に来ていたのだ。高倉の衣類が全く濡れていないことを考えても、雨が降る前に公民館に訪れていたのは確かである。
警察らが来る前、猿渡は、白石らに、悲鳴が聞こえたときが殺害時刻であると断定した。
だが、15分以上前にはすでに公民館に来ていたのに、2階に上がらず、1階の小会議室に居続ける理由はない。小会議室に誰もいないことがわかれば、管理人室にいる吉永か猿渡に電話をして、会議のある場所を確認するだろう。したがって、殺されたのは、猿渡らが悲鳴を聞きつけた時ではなく、それよりももっと前と考えるべきであった。あらかじめ、高倉を殺害し、2時頃に男の叫び声を録音したものを再生させれば、あたかも、その時刻に高倉が刺されたかのように装うことはたやすくできる。
事件直後に猿渡がこの点に気づいていれば、高倉殺害の犯人が誰か容易にたどり着けただろう。
なぜなら、少なくとも悲鳴が上がる15分以上前にアリバイがなく、悲鳴が聞こえたときにはアリバイがある人物は、会議中腹痛で抜け出した所沢ただ一人だったから。
「猿渡さんは、普段は外では飲食物は口にされないそうですね」
「全く口にしていなかった、というわけではなかったのですが。出された物を無碍に断るのも失礼にあたりますしね。少しは口にしていたので、周囲には気づかれるほどのことではないと思っていたのですが……」
これは、猿渡らしい自衛の方法であった。仕事柄、人に恨まれる場合も多々ある彼は、できる限り外での飲食を控えていた。
もっとも、空腹時には完食することもあったし、常に用心をしていたというわけではない。
「ですが、あなたを毒で殺害する機会をうかがっていた所沢は、あなたの習慣に気づいていた。そして、猿渡さんが確実に飲食する機会をつくりたかった」
エアコンが効かず、じんわりと汗ばむ暑さと殺人事件による動揺が走る中、汗っかきである丸藤が部下の所沢に飲み物を頼むのは必然である。そして、それと一緒にほかの者たちへも冷たい飲み物を配ってもまったく不自然ではない。
普段は用心を重ねる猿渡も、非日常的な事件による動揺から冷たい麦茶に手を出す可能性は十分にあった。
その可能性にかけて、あえて人がいる公民館で高倉を殺害したのだ。
「所沢は、自分が犯人として逮捕されることを覚悟していました。ただ、高倉さん殺害後あなたが服毒するまでは、自分が犯人だということを感づかれないように、『悲鳴』を使った簡易なアリバイ工作をした、というわけです」
高倉殺害の方法の不自然さ、故障中のエアコン、所沢が持ってきた麦茶。咄嗟に殺害時刻への疑惑が浮かばなければ、猿渡は、彼の持ってきた麦茶をためらうことなく飲んでいただろう。
「殺害の動機も話しましたよ」
「うかがってもよろしいですか」
「猿渡さん、富山リークス株式会社の社長一家が自殺したのをご存じですか」
「ええ。確か、多額の負債を重ねていたとか」
「猿渡さんの会社は、富山リークスに融資をしていたそうですね。その返済ができずに、担保として提供していた不動産一切を富山リークスは失った。そのため、会社そのものの経営が成り立たなくなってしまったそうです。あのとき、猿渡さんたちが返済時期を延ばしくれれば、会社が破綻することもなかったと」
「確か、富山リークスへの融資には、高倉が担当をしていました」
「所沢は、富山の家族とはずいぶん親しくしていたようですから、それであなた方に恨みをもって……というわけのようでした。富山一家は、服毒によって自殺をしていたので、同じ方法であなたを殺害したかったんでしょうね」
「……そうですか。富山さんには、確かに返済期日の猶予をお願いされたのですが。こちらも大きな企業ではないので、簡単に猶予することもできませんでした。こういう結果になって本当に申し訳ないです……」
「だからといって、復讐として殺害をしてもいいというわけではありません」
沈痛な面持ちで語る猿渡に、畑は励ますように断言した。猿渡を見やるその表情は痛ましげである。
畑は、その他細かい点について確認をして程なく立ち去った。
畑らを応接室の外まで送ったあと、猿渡はソファにゆったりと腰を下ろした。
富山リークスの融資の件については、よく覚えている。
あの当時、富山リークスが所有する土地の近くに、新しく駅が建設される計画があがっていた。猿渡は駅付近で立地のよい土地をビル建設のためにどうしても手に入れたかった。
そのため、富山工場に新たな機械導入による規模拡大を持ちかけ、融資をした。そして、富山リークスには気づかれないよう、製品の販売ルートの妨害をし、返済を滞らせ、富山リークス所有の不動産を手に入れた。
富山リークスがこれによって経営不振に陥り、破綻することも十分想定できた。
猿渡が、富山一家を死に追いやったというのは、過言ではない。畑らの同情も無用のものと言えよう。
この手法が強引で、他から恨まれる類のものであることは重々承知している。しかし、猿渡にとってはよくある手段にすぎなかった。
猿渡は懐から煙草を取り出し、口にくわえ、窓辺に立った。
自社ビルの5階からは、街一帯が見渡せる。
この会社は、猿渡が30代前半に立ち上げ、今の規模まで独力で広げてきた。わずか2名の従業員からここまでの規模に広げるまで、さまざまなことをやってきた。他人を陥れたことも、脱法まがいのことも行ってきた。だが、後悔はしていない。これからも、さらに会社を発展させるため、あらゆる努力を惜しまないつもりである。
猿渡にとって、他人を陥れることなど些末なことにすぎない。
畑の話を聞く限り、所沢は、高倉が返済の猶予を許さなかったことを恨みに思っていたようだ。それ以前の所業については気づいていない。
――もし、所沢が、俺が富山社長を陥れたことを知っていたら。
殺人事件に浮き足だった状況に紛れて猿渡が麦茶を口にするのを待つ、などといった天に運を任せるようなことなどせず、もっと確実な殺害方法をとっただろう。
猿渡は、丸藤建設会社との取引の際、常に丸藤社長に従っていた男の、優しげな面差しを思い浮かべた。
終
■登場人物一覧■
猿渡宗一(さるわたりそういち):不動産業を営む。38歳
高倉弘樹(たかくらひろき):猿渡の部下。今回の被害者。33歳
丸藤徳朗(まるふじとくろう):丸藤建設会社社長。63歳
所沢俊一郎(ところざわしゅんいちろう):丸藤建設会社社員。28歳
白石辰也(しらいしたつや):市役所職員。42歳
榊宗佑(さかきそうすけ):市役所職員。33歳
蒲田良文(かまたよしふみ):地主。大型店舗開発予定地の所有者。72歳
吉永文恵(よしながふみえ):青海公民館の管理人。62歳
畑(はたけ):刑事。 43歳
改めて登場人物を確認したら、おっさんばっかりだった。