8.今はただ、その笑顔を
『おい、ゴミはゴミ箱に捨てろ』
真っ直ぐ伸びた背筋。威風漂う端整な横顔。風に揺れる短い黒髪。紡がれた言葉は迷いがなく、恐れや戸惑いなど微塵も感じさせなかった。
僕はあの時、彼女を初めて目にした。僕が通う、華里大学の英国庭園の花壇で。
その日は仕事も無く、同じ学科の友人達に休んだ分のノート写させてもらったり、好きな講義に出席することができたりと良い一日を過ごせていた。
ところが
「あ……」
午前の講義を終え、自宅に一度戻ろうとキャンパス内を歩いていた僕は眉をひそめた。前を歩いていた男子学生が、飲み終えたジュースの紙パックを無造作に花壇に放り投げたのだ。そこは僕のグループが担当している薔薇の花壇だと分かって、尚更嫌悪感を抱いた。その男子学生を注意するために意を決して足を速めかけた時、どこから出てきたのか、男子学生の前に颯爽と彼女が現れた。僕はなぜか咄嗟に、近くにあった生垣に身を潜めた。隠れてから自分は何をしているのだと思い立つやいなや、彼女はこう言い放ったのだ。
「おい、ゴミはゴミ箱に捨てろ」
周囲には誰もいないと思っていたのか、ゴミを捨てた男子学生は、いきなり目の前に立ちはだかった彼女に面倒臭そうな顔をした。
「なんだよ、お前。女のくせにサルみたいな面して。どけよ、邪魔だ」
彼女を押しのけて立ち去ろうとした男子を、すかさず彼女が腕を掴んで引き戻す。小柄な彼女からは予想できない力だったのか、男子学生は一瞬、怯んだ目をした。
「放せよっ、このサル女!」
「へえ、そう。あたしはサルか。それはどうでもいいけど、誰かが手間隙かけて世話をしている花壇にゴミを捨てるのは、サル以下がすることだ」
「んだとっ!」
涼しい表情で辛辣な口調で言ってのけた彼女を、男子学生が荒々しくその胸倉を掴み上げ、腕を振り上げた。
危ない!
声を出そうと口を開いた僕を遮ったのは、この場には似つかわしくない、とても緊張感の欠片も無く呑気なもので、そして聞きなれた声だった。
「ふぁ、ねみぃ……あ?そこにいるのシンか?お前何やってんだよ」
欠伸をしながら教科書を片手に姿を見せたのは神城圭。僕と出身高校が同じで、遠慮せずに遊びに誘ってくれる、ビジネスライクを抜きにした、僕の数少ない友人のひとりだ。
良かった。彼がいれば、もう安心ですね
ほっと肩を撫で下ろした一之瀬が見守る中、
「げっ!こいつ、神城の知り合いなのかよ!」
瞬く間に顔面蒼白になり、彼女の胸倉を掴んでいた手を放して後ずさった男子学生に、親しげに肩を回した神城は、にやりと笑う。
「まあな。桐原と坂本のお気に入りだし。ついでに言っておくと俺、園芸の奴らと仲良いんだよね。そこのゴミ、お前のだろ?どうするべきか、当然分かるよな?」
まるで獲物を狩るような目つきで囁いた神城。「ひぃっ!」と恐れをなした男子学生は、素早くゴミを拾い上げ、ついでに落ち葉も片して走り去っていった。その惨めな後姿を見送りながら乱れた襟を正していた真は可笑しそうに、
「さすが、華里の最強姉弟と恐れられるだけはあるな。虎の威を借りた狐の気分だわ」
「この馬鹿。何度も言ってるだろ、気をつけろって。俺がたまたまここに来てなかったらどうなってたことか。また怪我なんかしたら、桐原に大泣きされて連行されんだぞ」
丸めた教科書で頭を叩かれた真は思い出したように顔をしかめた。
「ああ、そんなこともあったな……」
実は以前も同じようなことがあり、神城と桐原が騒ぎを聞きつけて駆けつけた頃には既に取っ組み合いの喧嘩をしていた。真の腕や顔には無数の引っかき傷、頬は殴られて腫れていた。相手はもっと酷い有様になっていた。そんな光景を見た桐原がわんわんと泣きだし、止める間もなく真を、神城たちの母校であり、隣接している付属高校に引きずっていったのだ。携帯を取り出して電話をかけた桐原は、受話器の向こう側の人物に泣き叫びながら『天使の真ちゃんが、真ちゃんのベビーフェイスが……!』とか支離滅裂なことを言っていた。その後、真を待ち構えていたのは黒いオーラを漂わせた不良養護教諭。そして喧嘩の相手の男子を待ち構えていたのは、神城と坂本蓮実、大学のOBの月島姉弟による非情な制裁だった。今でも、その事件を思い出すと苦いものが込み上げてくる。自分のことではなく、再起不能にまで叩きのめされた男子学生が可哀想で申し訳なくて。
「マジ勘弁してよ。あの無愛想な養護教諭のとこにはもう二度と行きたくない。『お前がコイツを泣かせたのか』とか物凄い形相で睨まれてさ、怖いのなんのって。なんで高校の保健室に連れて行かれたのか分かんなかったけど、未亜の彼氏だったとはなぁ。いやぁ、驚いた驚いた」
「茶化して話を逸らすな。いい加減、お前も女としての自覚持てよ」
「へいへい。後ろ向きに検討させていただきやす」
相変わらずな対応の真に、神城は呆れたようにため息をつき、知り合いと約束があるからと去っていった。残された真は花壇の前にしゃがみ込み、まだ蕾の硬い薔薇をぼんやりと眺めた。
そんな彼女の横顔を目で追っていると、
「綺麗に咲けるといいな。楽しみにしてるよ」
ふわりと笑った。それはとても優しくて、春の穏やかな陽光のようだった。
強くて優しい人だと思った。彼女のことをもっと知りたいと思った。
それから、キャンパスで彼女とすれ違うことは何度かあった。いつも目で追っていた。自分から話しかける勇気は無く、彼女が僕に関心を持つことは無く。『モデルをやっているからといって、この世の女が皆、お前に興味があると思うなよ』と高校の養護教諭に鼻で笑われたのはいつだったか。
彼女が守ろうとしてくれた、あの薔薇が綺麗に咲いたのを見て、真っ先に彼女のことが思い浮かんだ。
彼女も見ただろうか、あの日と同じ、あの笑顔になってくれただろうか。
授業の間も、仕事の間も、家でくつろいでいる時も、気がつけば彼女のことを考えている。このままではいけないと、意を決して彼女と仲の良い神城に聞いてみると、
『シンの好きなタイプ?あー……あいつ恋愛とかに興味無いと思う。可愛いものが好きで、女子には紳士で……男、男なあ……俺と剛、バイト先の人とくらいしか親しくしてんの見たことないし……あ、可愛い女の子とかだったら、あいつも興味持つんだけどな。ははっ』
その冗談を僕は真剣に考えた。考えて考えた結果、女装をして告白するという行動に出た。
そもそもモデルを始めたきっかけが、母が幼い僕に女の子用のワンピースを着せていたことにあった。どうしても娘が欲しかった母は女装をさせた僕を外に連れまわし、そこに運悪く、母の親友で、芸能事務所のマネージャーをしている永守和希に、某有名な子供のファッションブランドのCMに出演して欲しいとスカウトされたのだ。
レースやらフリルやらで満載の衣装を着て、僕は言われるがままカメラの前に立った。女の子の衣装だけではなく、男の子の衣装も着た。宣伝効果は大成功。僕は所属モデルとして契約し、永守さんが専属マネージャーとしてつくことになった。
彼女に告白した時に着ていた服や、ウィッグは永守さん経由で世話になっているヘアスタイリストさん達が面白がって協力してくれたものだ。メイクも然り。
だから女装が趣味というわけではない。彼女の気を引けるなら何でも良かったのだ。ずっと女装したままでも、彼女のそばにいられるなら、と思っていた。
けれど
「今度、天気が良い日にあの薔薇の写真撮ってもいい?綺麗に咲いてるから、残しておきたいんだ」
寮の玄関前、別れ際に彼女は言った。僕は勿論了承する。すると彼女はあの日と同じ笑顔で、
「ありがと。そんじゃ、気をつけて帰れよ。また今度、遊びに行こうな!」
手を振って去っていく彼女に気づかれないように、振り返って見られないように、僕は黙ったまま顔を手で覆った。
顔が、体中が、熱い
こんな僕を、僕の抱える熱を、彼女は受け止めてくれるのだろうか。今じゃなくてもいい、いつか。
今はただ、その笑顔を
守りたいんだ
懐かしい人物が出てきました。回想での登場ですが。