4.可愛いあの子(2)
真、頑張れ。お前なら完璧に任務をこなせるはずだ。まずは笑顔だ。某ファーストフード店のスマイル0円を見習うんだ。よし、いける。いくぞ。
テーブルに水の入ったグラスを置き、にっこりと
「ようこそ“Un chat noir”へ。ご注文は決まりましたか?」
滑り出しは快調。この勢いを逃さない。
「うん。具沢山のオムレツと苺パフェに決めた。夏ちゃんは決まった?」
気のせいではなく、明らかに、にやついている未亜に営業スマイルを崩さない。言葉の代わりに目で圧するが、当の本人はしれっとメニューを眺めている。表情筋が通常運転の機能を停止する前に注文を取ろう、そう考えた真は夏を見た。
当然のごとく目が合う。
長い睫毛、澄んだ瞳、綺麗に整った顔。今日も完璧に女装している。
本当、どっちが女か分からないな……
思わず真がため息をつくと、
「真さん、疲れているんですか?顔色が良くないです」
「何でもな、ありません。お気遣いありがとうございます」
心配そうに伺う一之瀬に丁寧に返した。そして「ご注文は?」と再び問いかけると少し納得のいっていなさそうだった一之瀬は淋しげに目を伏せ、だが何も言わずにメニューを開いた。
メニューのページを捲っていた細く長い指が、髪を耳にかけるのを見守っていた真は露になった一之瀬の耳のピアスに手を伸ばした。ほとんど無意識にだが。
「へぇ、意外とシンプルなのつけてるんだね」
青色の小さなリングピアス。てっきり可愛らしいチャーム付きのピアスをつけているのかと思っていたが、随分と男らしい。あ、男だったか。
指の先が耳たぶに微かに触れた瞬間、一之瀬の肩が大きく跳ねた。
あ、やべ
「ごめん。勝手に、」
触ったりして、そう言いかけた真は言葉を切った。いや、切らざるをえなかった。
なぜなら、
「むっ!ふががっ(誰だ)!?」
背後から現れた手に口を塞がれ、羽交い絞めにされたのだ。軽くパニックに陥っている真に、
「戻ってくるのが遅いよ、真ちゃん。勤務中は私語は謹んでね」
「むがっ(オーナー)!」
あちこちで黄色い歓声が飛び交う。傍から見れば、今の状況では男同士がじゃれついているようにしか見えないはずだ。そこのお嬢さん、店内は撮影禁止ですよ。
他の従業員達が騒ぎの収束に向かう一方、ようやく解放された真は眉間に皺を寄せてオーナーを睨みつけていた。
「オーナー、表では止めて下さいって言ってるじゃないですか。あたしが女だって知らないお客さんもいるんですから、配慮して下さい」
真の苦言に見目麗しいオーナーは薄い唇に弧を描かせ、顎に手をあてた。測り間違えば美女に見えなくもない。なんか腹立ってきた。
「これでも配慮してるつもりだよ。それに──」
ちらりとオーナーが視線を寄越したのは一之瀬だ。表情は何ら変わっていないのにも関わらず、彼から漂う空気は冷たく、張り詰めていた。オーナーを見返す目には、真に向けるものとは全く違う異質な輝きがあった。
しばしの睨み合いの後、オーナーは息をついた。
「知らない間に変わった趣味を持ったみたいだな、夏。まあ、今に始まったことではないけれど…」
「趣味じゃありません」
ばっさりと切り捨てた一之瀬は嫌そうに顔をしかめた。趣味ではなかったのかと驚いた真が首を傾げ、「じゃ、何でそんな格好してんの?」と尋ねると
「それは……」
言葉を濁した一之瀬に真は手を打ち、
「分かった。変装のためだったんだな。でもここらへんだったら、そこまでしなくてもサングラスとか帽子で良くないか?」
また首を傾げた真の肩にオーナーの手が置かれた。
「まあまあ真ちゃん。こいつはこいつなりに考えがあってやっているんだよ。ここは任せて、他のテーブルに行ってくれる?」
背中を押され、「はいはい」と大人しく去っていった真の姿を目で追っていた一之瀬の前に白い壁が立ちはだかった。上を見るとオーナの爽やかな笑顔が。
「夏、僕らの天使は手強いだろ?もう諦めたら?」
「言っている事がよく分かりませんね。僕は彼女のことを諦めるつもりはありません」
「諦めるつもりがないなら、正々堂々と勝負したらどうなんだ。自分のアドバイスの所為で取り返しのつかないことになるんじゃないかって圭も心配していたよ」
真剣な言葉に一之瀬は僅かに目を見張った。
今まで黙っていた未亜が「夏ちゃん、ごめんね……」と話し始めた。
「真ちゃんの問題は、真ちゃん自身が何とかするしかないと思う。だからこそ夏ちゃんはありのままの自分で、ぶつかっていって欲しい。その方が、きっとお互いのためになるよ」
「桐原さん……」
「一度じっくり話し合ってみたらどうだ?間違っても自分を偽るなよ。そんな格好で告白されても冗談にしか思えないのは無理もない。真ちゃんに正直に話せ。本当のお前を」
そう言って少し乱暴に一之瀬の頭を撫でたオーナーは微笑み、メニューを持って「モデル用のメニューにしておいてやるよ」と厨房に戻っていった。
二人の料理を運んできたのは真だった。
「へいお待ち」
お洒落なカフェには似つかわしくない接客に、「シン、ここは寿司屋じゃないぞ」と通りかかった明石先輩にたしなめられた。
「あー……お待たせ致しました。具沢山のオムレツとマカロニグラタンのサラダ付きです。グラタンは熱いので火傷をされないよう、召し上がって下さい」
「あ、あの!」
柔らかな物腰で頭を下げ、厨房に戻ろうとした真を、一之瀬が呼び止めた。
「はい?」
「僕と、デートしてください」
お盆を床に落とさなかったのを褒めて欲しい。いや、褒めろ。
最早営業スマイルなどお空の彼方へ飛んでいった。どうやら本気で言っているようだ。僕の事を知ってほしいとかなんとか言っている。
可愛いあの子はどこへ行った。今、あたしの目の前にいるのは誰だ。一之瀬夏だ。いや、一之瀬夏って誰だ。
その時、真は今更気づいた。
自分は彼について何も知らないと
モデルをやっているとか、女装が似合うとかそういうことではない。もっと知らなければならないことがたくさんあるのではないか。彼自身のことを。
「……分かった。いいよ」
ほっと安堵した表情を浮かべる一之瀬に、未亜は「良かったね、夏ちゃん」と声をかけた。
踵を返して二人から離れた真は笑みを消した。オーナーに一言詫びて休憩室に直行し、パイプ椅子に腰掛ける。深く吐き出された息は虚しく響き、背もたれに寄りかかり、軋んだ音を立たせて蛍光灯を見上げた。目を細めた真は口を硬く引き結ぶ。
彼の目には迷いがなかった。真っ直ぐに自分を見て、はっきりとした口調で。逃げることはできなかった。
「このままじゃ、駄目だよな……」
真にも言わなければならないことがあった。彼に伝えなければならない。
自分が抱えている、重大な問題を──。
ということで、次回は初デートです。