3.可愛いあの子(1)
金曜は午前しか講義が無く、空いた午後に万年金欠のあたしは当然バイトに勤しむ。
バイト先は大学から徒歩で行ける距離で、制服あり、まかない付き、という上等な物件。多くの学生達が見過ごすわけがないと思うだろうが、その門は狭く厳しい。
「お疲れ様です。佐伯入りま……ぶっ!」
店の裏口から入った真は開け放たれた部屋の奥に声をかけた。そこにはパソコンに向かって売り上げ確認の作業をしている経営管理者がいる。だが、顔を覗かせた瞬間ものすごい速さで体当たりするように抱きつかれ、真は後ろによろめいた。
「やっと来てくれたのね。会いたかったわ、シンちゃん。もう目が腐るかと思って死にそうだったのよ」
そう言って真に頬ずりをするのは月島蘭、“Un chat noir”の経営管理者だ。
華里の美の女神と謳われる彼女は無類のイケメン好きとして知られる。この店は本来男しか雇われないのだが、真だけは特別枠で雇われている。なんでも真が未亜たちと初めてこの店に来た時に豪快にオムライスを頬張る姿を見初められたようで、即日バイトとして働くことになった。従業員は男ばかりだけれど、むさくるしくはない。
なぜなら──
「バイト希望で履歴書を送ってきた子達がいたんだけど、どれも合格基準に満たなくてねぇ。全くどいつもこいつもあの程度の面で……」
「そ、そうだったんですか……」
黒い。黒いよ、この人
かいつまんで説明すると蘭さんは顔が整った男子がお好きなようで、従業員は全員ハイスペック。同じ大学に通う2年の明石学先輩を例に挙げると、明石先輩は成績優秀で運動も得意。大学では硬式テニス部のキャプテンも務めておられるほどだ。ここまででもう十分に凄いのだが、蘭さんが明石先輩をバイトに採用したのは『顔と性格が良いから』だ。お客さんの間でも一、二を争う人気の高さを持つ明石先輩は確かにとても良い人。この前も空腹で死にかけていたあたしに裏で『シン、これやるよ。皆には内緒な』ってメロンパンをくれた。その場で食べた。美味しかったし、何より先輩が慈悲深過ぎて仏様に見えたもんな。思わず拝んでたわ、うん。
ちなみにあたしがここで働いていることは限られた人たちしか知らない。たまにミーハーな女の子達にバレて問い詰められることもあるけど、あたしのバイトしてる姿を見たら皆顔赤くして走って行ったよ。あれは何だったんだろうな。あ、話ずれたわ。
とにかくこの店は“あらゆる意味で美味しい”ようだ。(従姉妹の文月お姉ちゃん談)
蘭さんに弄ばれまくった後、更衣室に行ったあたしは自分のロッカーを開けて制服を取り出す。白いシャツに黒いベストを身につけ、黒いパンツに腰掛けエプロンを装備して着替え完了。
え?着替える男女別に部屋は分けられていないのかって?
そんなの心配ご無用。気にしてないから。それに『不埒な真似をしでかす馬鹿な男なんか雇わないに決まってるでしょう』って蘭さんが言い切るほどだし。なんかもうこの店で一番凄い人は言わずもがなですね。
更衣室を出たあたしは厨房に入る前に手を消毒し、オーナーの月島琳のところへ。
「オーナー、お疲れ様です。……また女の子と遊んでたんですか」
「ご名答。仔猫ちゃんたちとお喋りしてきたよ。いいストレス発散になるね」
接客をして戻ってきたようで、その表情は清々しいものだった。従業員が男ばっかだもんね。そりゃ仕方ないわ。
「良かったですね。あたしみたいな男か女か分からないようなんじゃオーナーのお役には立てませんし」
苦笑して言った真の顔をじっと見て、オーナーは少し怒ったような口調で
「そんなことはないよ。真ちゃんは僕たちにとって癒しの天使なんだから。君がいてくれないと駄目だ」
「うぐっ……!」
そんな奇麗な顔で見ないで下さい。頭を撫でないで下さい。アタシのライフはもうゼロに近いんです。
「あ、そうだった。真ちゃんの友達が来てくれてるよ。未亜ちゃんと、もう1人──」
「え?」
カウンターに飾られたローズマリーやスペアミントの小鉢の向こうに、未亜と髪の長い女の子がいた。真からは背中しか見えていなかったが、振り返った彼女の顔を見た瞬間、表情を変えた。
「おいおい、マジかよ……」
短い前髪のために剥きだし状態の額にぺちん、と手を当てる。そんな可愛げのない様は誰がどう見ても男にしか見えないのはしょうがないことである。
真に気づいた未亜は手を振って可笑しそうにしている。
「偶然会ったから一緒に来ちゃった!驚いた?」
「お久し振りです、真さん」
遠慮がちに頭を下げた人物。それは他でもない彼女、ではなく彼、一之瀬夏だった。