17.彼の優しさ(1)
その日は14時からバイトがあって、あたしはいつものように制服に身を包んで厨房とお客さんの間を行ったり来たりしていた。祝日ということもあり、家族連れや友人同士など多くの人々が“Un chat noir”にやってくる。閉店して後片付けが終わる21時まで気合を入れて臨む。
注文を取りに行く時4、5才くらいの子があたしにぶつかってきた。どうやら料理が来るのを待っている間に暇になったのか、両親が目を離した隙に席を立ってしまったらしい。あたしにぶつかったその男の子はビックリした様子で、あたしを見上げた。手には電車の玩具が握られていた。
「大丈夫?」
しゃがみ込んで尋ねたあたしに男の子は怒られると思ったのか肩を震わせて俯いてしまった。男の子の線の細い髪が陽光に反射して煌くのを眺め、そういえば彼も同じ髪をしていたなと思い、手が勝手に動いた。
「危ないから気をつけようね。その電車、格好いいじゃん。どこの?」
頭を撫でられた男の子は澄んだ瞳をあたしに向け、そしてふにゃりと笑った。男の子が教えてくれた電車の名前は聞いたこともないものだったけれど、誇らしげに話す姿が微笑ましかった。男の子の父親だろうか、1人の男性が近づいてきた。
「こら颯太。勝手にどっかに行くなって言っただろう。お母さんも心配して待ってるぞ」
父親は息子を叱り、手を引く。あたしに気づいて、苦笑しながら「すいません。ご迷惑をおかけして」と頭を軽く下げた。
「いえ、気になさらないで下さい。今日は混んでいますので長い時間お待たせすることになり、申し訳ありません」
「いやいや。ここの料理は美味しいから。たまに来て食事をするのを家族皆で楽しみにしているんだ」
朗らかに笑う父親に、あたしは営業用ではなく心からの笑顔とお礼を返した。なんとも和む光景が繰り広げられたのだが、やはりオチはつくようで。
「颯太。お兄さんに〈ごめんなさい〉と〈ありがとう〉って言ったか?まだ?じゃあ、早く言いなさい」
「ぶつかってごめんなさい。ありがとう、お兄ちゃん」
うん、こうなると思ったけど
背後で微かに笑い声を上げているバイト仲間を完全無視し、あたしは「どういたしまして」と穏便に事を済ませたのであった。
更衣室で着替えていると、「なぁなぁ」と神城から声をかけられた。あたしは制服のシャツを脱いでいたところだったのだが、問題はない。インナーシャツを着ているからだ。下はどうするのかって?それも問題ない。高校の体育の授業の前と後の着替えのように、丈の長いスカートを履いた状態でいるからだ。スカートはロッカーに前もって入れてある。これを身につけて制服を脱げばいいだけだ。そうやって着替えている最中に声をかけてくるのは大抵、神城だ。ロッカーが隣で近いが今までに意識したことは全くない。一度もない。
「何だよ」
「今さ、一之瀬店の裏口の方にいるらしいんだけど」
「は?なんで?」
「今日シンと同じシフトに入ってるって休憩中にメールしたら、ちょうどオフだし暗くなって危ないからシンのこと寮まで送るって返事来てたんだよ」
「もっと早く言えよ、そういうことは」
「メールに気がついたのがさっきなんだから仕方ないだろ。今日は忙しかったんだし」
ロッカーのドアを閉め、3wayの鞄をリュックにして背負う。一応自分の携帯を確認してみたが、一之瀬君からのメールは無かった。きっと、あたしが断るのを見越してのことだろう。神城も帰る準備ができたようで、並んで裏口まで歩く。途中、厨房で打ち合わせをしているオーナーと月島さんに挨拶をし、管理室にいる蘭さんに別れの挨拶という熱烈なハグを受け、前を歩く神城に続いて外に出ると、一之瀬君が塀に寄りかかって立っていた。
ライトブラウンのPコートを羽織ってはいるものの、マフラーをしていない首もとが寒そうで思わず駆け寄った。
「一之瀬君、いつからここで待ってたの。風邪引いたら大変だろ」
「遅くまでお疲れさまです。そんなに待っていませんよ。僕、寒いのは平気なんです」
照れくさそうに笑った彼はいきなり来たことを詫び、実は神城に用があったのだと言った。
「神林寺先生から僕への資料を預かってもらっていたんです。真さんを送るついでに受け取りに行こうと思いまして」
「成程な。どうせ俺の家に行くまでに大学通るし、いつもより遅くなったから良かったじゃん」
なんとも鼻がむず痒くなる。マフラーに顔を埋めて言葉を濁していたら、あたしを挟むように一之瀬君と神城が並んで歩きだした。捕らわれた宇宙人か、と心の中で突っ込みを入れつつ、大人しく従うことにした。ひとりで帰れるのに、と呟きでもしたら一之瀬君の口からどんな言葉が飛び出てくるか分からない。
他愛もないことを3人で話し、大学の敷地に入ってから間もなくして、
「ここでいいよ。後ちょっとだし」
あたしがそう言うと、一之瀬君は緩く微笑んだ。
「寮まで送らせて下さい。構内といっても絶対に安全とは言い切れませんから」
「でも、わざわざこっちまで来てもらうのは悪いよ。あたしは大丈夫だから。仮に何かあっても走って逃げればいいだろ」
元陸上部を侮るなよ、と意気込んでみせる。しばらく不安そうな表情でいた一之瀬君に、大丈夫だと念を押すと、渋々納得してくれた。
「くれぐれも気をつけて下さいね」
「分かってるってば。一之瀬君は心配性だな」
「シンが呑気にしてるからだろ。寄り道すんなよ」
「へいへい。分かりやしたよ」
後ろ手に手を振って足を一歩前に踏み出しかけ、元の位置に戻す。振り返って一之瀬君の前に立ったあたしは首に巻いていたマフラーを外して、彼の首に巻きつけた。
「えっ、ちょっと、真さん」
「いいから黙って巻かれなさい。見てるこっちが寒い。鼻水出るわ」
神城が可笑しそうに見守る中、首周りをきっちりとマフラーに防御された一之瀬君は目を細めて「有り難うございます」と言った。
こうして二人と別れたあたしは、寮に向かって足を進めた。




