12.君はここにいる
一之瀬が映画館の受付でペアチケットを渡している間、彼の横に立っているだけの真は手持ち無沙汰に辺りを見回していた。
ん?あれはもしや……
この映画館のすぐ隣には7階建ての百貨店がある。買い物のついでに映画を観に来る客が多いため、そこで売られている商品の宣伝もされている。真は、明らかに映画の宣伝とは関係ないであろうポスターに目を奪われた。いや、目を奪われざるをえなかった。受付のおばさんから半券を受け取った一之瀬は忽然と姿を消した真に気づいて後ろを振り返る。
「真さん、どこに行くんで……あっ!」
真が近づきつつあるポスターを見て、顔面蒼白状態になった一之瀬は怒涛の勢いで、ポスターの貼られている壁と真の間に割り込んだ。その表情は切迫している。
「何で隠すんだよ。それ、また新しく出たやつだろ?あたし見たい」
ひょいっと頭を動かして覗き込もうとするも、一之瀬に肩を掴まれて阻まれる。不満げに見上げると、彼は言葉で言い表せないくらい、非情に複雑な顔をしていた。この前、一之瀬の載っている雑誌を買おうとした時と同じ反応を見せる彼に、真が頬を膨らませる。
「だから笑わないって言ってるだろ。あたしはただ、一之瀬君がどんな仕事をしているのか知りたいだけなのに」
「すいません。どうか怒らないでください。これだけは流石にちょっと……」
申し訳なさそうな様子で諌め、シアターに行きましょうと促す一之瀬。納得のいかない真は好奇心に任せて行動に出た。
「減るもんでもないだろ!いいから大人しく見せやがれ!うりゃ!」
一之瀬の長い腕を押さえ込んで抱きつく。爪先立ちで首を伸ばして横から覗き見ると、ポスターの全容が明らかになった。
「おお、これはまた……」
ため息とともに零れた呟きは賞賛。
だが彼はそうとは捉えられなかったようだ。何とかして真の視線をポスターから外させようと試みるも、がっちりとホールドされていて叶わない。そこではっとした。
彼女の重み、温もり、柔らかさ、匂い。それら全てを今、自分は一身に受け止めている。
急に意識して顔だけでなく全身がかっと熱くなった。足場の不安定な彼女を支えようと、咄嗟に腰に回した手が気になって落ち着かない。
潤んだ瞳で彼女を見下ろしても、当の彼女はポスターに釘づけだ。自分を見てくれてはいない。高揚した感情に、水を流された気分になった。
僕は、ここにいるのに
強行突破で見ることのできたポスター。それは口紅の宣伝だった。可愛らしいピンクと色気のあるレッドの2種類に分かれており、横長のポスターの左半分には唇寄りの右頬にピンクの口紅でキスマークをつけられた一之瀬が写っていた。ウインクをして、やんちゃな表情を見せている。右半分は打って変わって前髪をかき上げて大人の表情をしている彼。ボタンを外してはだけさせたシャツから露になった鎖骨に、真っ赤なキスマークがつけられている。背景も白と黒に分けられ、どちらも魅力的な雰囲気を醸しだしている。
やっぱり凄いよなぁ
今あたしがこうしてしがみついてる一之瀬君は紛れもなく、あのポスターと同一人物なわけで。人気モデルなわけで。CMにも出てるわけで。
……ん?しがみついている?誰に?誰が?
………
真は電光石火の如く身を離した。ようやく自分のしでかしたことの重大さを自覚して爆発した。何がって?あたしのガラスのハートがだよ!
「ご、ごごごごごめんっ!他意はない!悪気はなかったんだ!」
今にも土下座しそうな勢いだったが、周囲の好奇の目に晒されていたので思いとどまったようだ。
まずい。バレて騒ぎになる前にシアターに逃げなければ
そう考えた真が一之瀬の手を掴み、早足で歩きだす、が立ち止まったままの彼につんのめった。
「一之瀬君?」
小声で呼んでも返事はない。さっきから俯いて黙っている。
こういう時に役に立つ身長の低さを生かして下から彼の顔を伺うと、何と言うか、大きな子供が不貞腐れたようだ。
「どうして怒ってるんだ?無理やり見たから?そんなに嫌だった?」
優しく問いかけた真を、視線を上げた一之瀬がじっと見つめる。
「僕は──」
途中で言葉を切ってしまった彼を真っ直ぐ見上げる真。冷静さを取り戻しつつあった真は、目の前にいる相手が抱えている想いを感じ取ることができた。きゅっと握った手に力を込める。
「あたしの知ってる一之瀬君は、今ここにいる君だよ。ちんちくりんで可愛くないあたしを好きだって言ってくれて、礼儀正しくて優しくて、些細なことですぐ笑う。モデルとしての君はまだよく分からないけど、素の君も、舞台の君も、全部ひっくるめて君だから、あたしは知りたいんだ。そしたらもっと好きになれる気がする」
一之瀬は目を見開いた。息だけで真の名を呟き、堪えるかのように唇を引き結んだ。
「泣くなよ?泣き虫は苦手なんだから」
嫌い、ではなく苦手と置き換えた彼女の優しさに心が緩む。朗らかな笑顔が胸を締めつける。
力の限り抱き締めたい。そんな衝動に襲われても踏み止まれるのは、彼女の言葉が脳内で再生され続けているから。
『そしたらもっと好きになれる気がする』
「ほら、映画始まっちゃう。行こ」
きっと無自覚に紡いだ言葉なのだろう。自分が望む意味とはまだ少し違うのだろう。
それでもあなたの隣にいられるなら、僕は何度だって言おう
あなたと繋いだ手を引き寄せて、耳元で甘く囁くように、
「大好きです」
と。