11.Tu as faim?
約束した時間よりも20分早く本屋に来た僕は、他の客の目につかないように静かに2階へと上がった。
ここの本屋は1階は週刊・月刊の漫画や雑誌、小説や文庫本が置かれており、2階には子供向けの絵本や児童書、学生の参考本やビジネス本が揃っている。
階段を上がった僕はレジの店員が俯いている隙を狙って前を通り過ぎ、語学コーナーからフランス語の本を手にとって眺めた。パラパラとめくって日常会話の例文を流し読みする。第2外国語はフランス語を選択しているので、なんとなくは頭に入ってくる。
事務所の社長や永守マネージャーに「今後の仕事のためにもフランス語を勉強しておいて」と言われて渋々受けていたが、10月から始まる後期の授業にある、全学部共通の応用フランス語という講義の教室で彼女を見つけたときは、二人に猛烈に感謝した。おかげでほぼ毎週、彼女と顔を合わせる時間ができたのだ。
桐原と坂本、神城の3人は中国語を、同室の奈緒子はドイツ語を取っている。真は兄二人がフランスと縁深いこともあり、ひとり、フランス語を取ることにしたらしい。応用フランス語の授業は選択制のため、真は知り合いがいなくて孤立状態だった。最初は気にしていなかったが、カリキュラムの説明で発音練習や会話のトレーニングの際に近くの席の人とペアになって行なってもらうと教授から言われ、知らない男子と組まなければならないのかとげんなりしていた頃に、仕事で遅刻していた一之瀬がやってきた。
教授に侘びを入れてまばらに埋まっている席を見渡した彼は、口をあんぐりとさせている真を見つけて驚き、そして、満面の笑みを浮かべた。女子生徒達が黄色い歓声を上げたのは言うまでもない。履修登録のカードを教授に渡した一之瀬が迷うことなく真の隣の席に着き、それからは彼とペアワークをすることになった。
自分が自主休講したら他の男子生徒が真とペアを組むことになるかもしれないため、一之瀬はこの講義だけは絶対に欠席しないと密かに決めている。
黙々とノートに教授の説明を書き写す真の真面目な姿を近くで見られるのは嬉しい。
練習の時、rが上手く発音できて喜ぶ無邪気な姿はとても微笑ましい。
「真也お兄ちゃんがフランス語オンリーのメール送ってきてさ。チャットで、何て書いてあるの、って聞いたら『辞書で調べてごらん』とか言っていきなり授業始めたんだよ。夜中に勘弁して欲しいよな」と面倒臭そうに、でも嬉しそうに話す彼女に、つい嫉妬してしまったことさえある。
そうしてしばらく時間をやり過ごし、1階に下りた僕は小説の棚に向かった。店員お勧めの本をチェックしていて、不意に目に入ったタイトルと作者名に足を止めた。
今日観る映画の原作だ。
僕は原作を読んだことがない。映画のあらすじはヘアメイクさんからざっと聞いたが、泣けるヒューマンドラマらしい。ペアチケットをもらった時、そういえば真さんとの会話の中で、この映画のタイトルを耳にしたと思い出した。彼女は原作を読んでおり、映画化されたと聞いて、時間があったら観たいなと話していた。千載一遇のチャンスだとばかりに、すぐに彼女に連絡して約束を取りつけた。念願の映画デートができるのだ。気合は十分。仕事にも集中できた。
そして今現在に至るわけだが──
「お、おは、よ」
ぎこちない動作で右手を上げた真。その頬は一刷毛赤い。
僕は言葉を発せない。
緩くパーマのかかった短い黒髪で、薄ピンクとゴールドのアイシャドウに目を上品に縁取るアイライン、影を落とす長い睫毛、血色の良さそうな頬。艶やかな唇はローズピンク。
襟元に黒レースがあしらわれた白の柄シャツに、グレーのボレロカーディガンを羽織り、赤のキュロットスカートで色を引き締める。すらりと伸びた細く華奢な脚は、黒猫の模様のタトゥータイツで飾られ、黒のエナメルパンプスが女らしさを一層引き立たせていた。
胸の前で組んでいた手を解いた真はショルダーバッグの紐を弄びながら俯く。
静か過ぎて、自分の心臓の音が五月蝿い
ちゃんと呼吸をしているかどうか自分でも分からず、口を手で覆う。微かに開かれた口から生暖かい息が零れ、ようやく我に返った。
「お、はようございます。その……今日は、いつもと違いますね」
しどろもどろに、目線も合わせられず言うと
「……やっぱ、似合わない?」
ひどく気の落ちた声で呟き、更に俯いた彼女に、僕は慌てて首を横に振る。
「いえ、そんなことありませんよ。とても似合っています」
「嘘。変なんだろ。そんなの自分でも分かるよ」
不貞腐れた表情の真はくるりと背中を向けて棚に並ぶ本と睨めっこをする。僕は言葉を紡ぎかけて、まだ自分たちは本屋にいるのだと気づき、身を屈めて彼女の耳元に口を寄せた。
「嘘じゃありません。カジュアルも良いですけど、そういうフェミニンな服も可愛らしくて似合っていますよ。僕は好きです」
最後まで聞くや否や、真の耳が赤く染まった。ぎゅっと目を閉じた彼女は肩を震わせ、深呼吸を繰り返す。
体調でも悪いのかと顔を覗き込もうとした瞬間、真がこちらにぱっと顔を向けた。至近距離で目が合ってびくりと赤面する真と、目を見張りつつも初々しい反応に愛おしさを覚える一之瀬。真から漂う芳香に気づいたようだ。
「真さん、もしかして何か香水とかつけています?さっきから甘い匂いが」
「ああ、これ未亜達がくれたんだ。あたし使い方も分からないのに……一之瀬君、香水の匂い駄目なの?」
「大丈夫ですよ。香りが強いものは苦手なんですが、これは好きです。良い贈り物を貰いましたね」
にっこりと言われて安堵し、不安で強張っていた表情筋がふやっと緩む。
「そ、そっか。それは良かった」
「はい。花の蜜のように甘くて、食べてしまいたいくらい美味しそうです」
「へ?」
ポカンとする真に対し、
「上映時間までまだ時間はありますが、そろそろ行きましょうか。映画、楽しみですね」
更に笑みを深めて言った一之瀬。恥ずかしげもない様子に、真は頭を捻る。
「え、食べ……冗談なのか?いやいや、冗談に決まってるよな。人間喰ったって美味しくないもんな。はははっ」
からりと笑って後についてくる真に聞こえないように、一之瀬が小声で
「本気ですけど」
と呟いた。
Tu as faim?
フランス語で、意味は「お腹空いた?」です。




