9.遠くて近い
午後7時半過ぎ。“Un chat noir”のバイトが終わり、寮に戻った真は通りかかったロビーのソファで談笑する女子学生達の中に同室の友人を見つけた。
「奈緒子」
名前を呼ばれ、振り返った菱田奈緒子はウェーブのかかったショートボブがよく似合う、背の高い細身の女子だ。160センチ以上もあるなんて真にとっては羨ましい限りで、よく背の低いことで愚痴を零す真の慰め役になっている。男勝りの真に負けず劣らずさばさばした性格の持ち主である奈緒子は自販機で炭酸飲料を買ったついでに友人に遭遇したようだ。
「シン。今バイト帰り?お疲れさま」
「どうも。奈緒子もう風呂入ったんだ?髪濡れてる」
「うん、もう入った。まだ温かいから真も早く入ったら。今日は薔薇の入浴剤にしたからいい香りだよ」
「薔薇ってアンタ……あたしからそんなファンシーな匂いしたら笑いもんじゃんかよ。せめてヒノキとかさ」
真が顔をしかめて言うと、顔見知りの友人達が「シン、可愛い顔しておじいちゃんみたいなチョイスは止めてよ」「あんたから薔薇の匂いなんかしたら間違って襲っちゃいそう」など訳の分からないことを言い出す。なぜだ。ヒノキ、いいじゃないか。そしてなぜ薔薇の匂いで襲われるのか。薔薇マジックか。
首を傾げつつ、部屋に戻ろうとした真は突如上がった歓声に足を止める。
「一之瀬くんCMに出てる!超格好いい!」
「これって人気ブランドが新しく発売した香水じゃない?アンバサダーに選ばれたんだ」
盛り上がっていたのはロビーに設置されているテレビの前のソファに座る女子達だった。
画面に目を向けると、黒のスーツに身を固めた一之瀬がシリアスな表情でとある会社の廊下を歩いている。そこへ目も見張るような美しいOLが前方から現れ、彼とすれ違った直後、彼女は目を見開いて振り返った。彼は気づかない振りをしてそのまま歩き続ける。曲がり角を曲がる寸前、彼はまだ自分を見つめている彼女に妖しく微笑み、姿を消した。
〈誰もが振り返りたくなる、魔性の香り〉
そんなキャッチコピーとともに彼は自分のデスクに香水を置き、ネクタイを緩め――人気ブランドのロゴで締めくくられる。
「………高そ」
第一声はそれだった。いや、入れ物とか綺麗だったし、なんか有名ブランドみたいだし。
「格好いい!」とか「惚れちゃう!」とか興奮してる女子達を静観している真の肩を、奈緒子が軽く叩いた。
「うぉっ!?」と奇声を上げて飛び跳ねた真に最初は不思議そうにしていたものの、やがて何かを理解したのかにやりと笑って
「シンちゃん何よ?もしかしなくても彼氏に見惚れてた?ドキドキしちゃった?」
悪乗りした友人達が口を揃えて「ktkr!」と拳を突き上げ、それに真が割って入る。
「お前ら五月蝿い!ドキドキなんかしてないわい!こちとら至って通常運転だよ!それと彼氏じゃなくて友達だ!」
はっきりと否定した真に、奈緒子は「顔真っ赤だけど、シンさん?」とからかう。四方から向けられる興味津々の眼差し。さっきまで一之瀬談議をしていた女子達も真に気づき、聞き耳を立てている。
あの衝撃的な公開告白は瞬く間に華里学生の間に広まり、一之瀬ファンならず隠れ真ファンにもショックを与えたらしい。真はファンの存在自体知らないが。
真のバックについている最強男子の神城圭と、最恐姉弟の月島蘭・琳のおかげで嫌がらせを受けることはないが、人気モデルの一之瀬の彼女なんて資格は自分には絶対無いと真は思っている。有り得ない、相応しくない。月とスッポン、動物園の孔雀と野生の山猿だ。
なんか虚しくなってきたな……
途端暗い顔つきになった真に、鋭く勘づいた奈緒子が明るい口調で「シン、早くしないとお風呂冷めちゃう。急いで急いで」と背中を叩いて急かす。
「あ、ああ……。先に戻ってる」
とぼとぼと去っていく小さな背中を見送っていた奈緒子はため息とともに呟く。
「まったく、皆の天使はかなりの大物を釣り上げちゃったなぁ。なんか悔し淋しい」
「一之瀬くんも見た目によらず案外粘り強いよね。あの超鈍感娘、あんだけ分かりやすくアプローチされてるのに全然気づきもしなかったし。見てるこっちはコントでもやってるのかと思ったわ」
「まあまあ、男に興味ないんだから仕方ないじゃん。だから一之瀬くんもあんな強行突破に出たんだろうし」
それから奈緒子達の会話は、主に真と一之瀬のことで埋め尽くされた。
風呂から上がった真は1番目の兄のお下がりのスウェットに着替え、濡れた頭をバスタオルでがしがし拭きつつベッドに腰掛けると、携帯が点滅していることに気づいた。
誰だ……
携帯を取り、頭にバスタオルを被せてベッドに寝転ぶ。受信メール1件。差出人は一之瀬からだった。内容は〈こんばんは。今電話大丈夫ですか?〉だ。
メールが届いていたのは数分前なので、真はすぐに通話ボタンを押した。呼び出し音が2回鳴った後〈はい〉と彼の声がした。
〈こんばんは。今休憩中で、真さんバイトが終わって寮に戻った頃かなと思ったんですけど、すいません〉
「ううん、ちょうど風呂上がったところだし。それで?何かあったのか?」
〈あの、この前真さんが話していた映画なんですけど、知り合いのヘアメイクさんがペアチケットを譲ってくれたんです。それで、もし良かったら、今週末に……〉
たどたどしく、尻すぼみになっていく言葉。機械越しにでも一之瀬の動揺と不安が感じ取られた。思わず笑いそうになるのを堪えて「いいよ」と答える。
「今週の土曜日はバイト無いし、予定も入ってなかったから暇だったんだ。一之瀬君は仕事大丈夫?」
〈あ、はい。日曜の早朝から撮影があるので土曜の夜には東京の方に行くことになっていますが、問題ありません。午前中に映画を観て、その後どこかでお昼を食べませんか?〉
嬉しそうに弾んだ声に、真も無意識に口元を緩める。
ついさっきまで遠く離れた世界にいるんだと思っていた彼を、今だけは近くに感じられる。
「そうだね、楽しみにしてるよ。ごめんな、なんか。わざわざ覚えててくれて、誘ってくれて、ありがとう」
感謝と申し訳ない気持ちをごちゃ混ぜにして伝えると、一之瀬は「いえ……」とどこか様子を伺うような相槌を打ち、黙り込んでしまった。舞い降りた沈黙に気まずさを覚えた真が別れの挨拶を切り出そうとしかけたのを遮り、彼は迷いなく言った。
〈僕が真さんと一緒に観たかったんです。それに、好きな人の願いを叶えたいと思うのは当然でしょう?こちらこそ、僕の誘いを受けてくれて、ありがとうございます〉
最後に彼が〈髪はちゃんと乾かして寝ないといけませんよ〉と締めくくって通話は終わった。
真は携帯を枕元に置き、起き上がって洗面所に向かう。奈緒子と共同で使っているマイナスイオンのドライヤーの電源を入れ、温かい風に髪をなびかせた。
目を閉じるとロビーで目にした、CMの一之瀬が浮かんでくる。まるで別人のようだった。雑誌の彼とはまた違う、見たことのない顔をしていた。
ドライヤーの電源を切る。鏡に映った自分は、ぼさぼさの髪で間抜け面。
──ああ、
大きく息を吸って、再び目を閉じた。
『好きな人の願いを叶えたいと思うのは当然でしょう?』
そんなこと言うな
あたしは変だ。おかしい。
だって有り得ない。どう考えたって、天と地がひっくり返ったって、あるはずがない。
「好きだけど、好きじゃない。好きになったら、駄目だ。駄目なんだ」
呪文のように自分に言い聞かせる真。鏡に映る困惑に満ちた目から逃げようと、洗面所を飛び出した。奈緒子はまだ戻ってきていない。
ベッドにダイブして毛布を被り、息を潜める。ゆっくりと目を閉じれば、闇の中に一之瀬の姿が現れる。
表情豊かで、無邪気に笑う彼。
妖艶な魅力を漂わせる、大人びた彼。
遠くて、近い。けれど、近くて、遠い
真の唇から零れた息が持つ感情は、最早、真自身の手には負えないものだった。




