If…-another ending-
暇だったので、もし「ぼく」が酒巻氏を殺さなかったら…という話を考えてみました。この部分は文学賞には出していないところなので、まあ、楽しんで頂ければ幸いです。(2016/07/15改稿)
ぼくは、酒巻氏を刺そうと振り上げた、右手を、下ろした。ゆっくりと、空気を乱さないように。体温が下がっていくのが感じられた。殺意はもう、なかった。酒巻氏はあいかわらず奥さんの写真に夢中だったが、どうでもよかった。彼の背中を見つめながらそろりとあとずさりして、部屋を出た。
短剣を逆手に持ったまま、客間へと戻る。そしてカーペットの上に崩れ落ちた。体中から一気に力が抜けたのだ。
どうしてあんなにたぎっていた殺意の炎が消えてしまったのだろうか。ぼくの中に善の心でも芽生えたのだろうか。口から息の抜けるような笑いが漏れた。
頭の片すみでは、酒巻氏を殺すべきだと言っている自分もいた。そうすれば、自分の望む生活を手に入れられる。
ちがう。ぼくに欲しい人生などないのだ。ただ、空腹や寒さがなければいい。ハテ様に食べられれば、きっとそんなものは感じなくなるだろう。天国に召されなくても、母親のもとへ逝けなくてもかまわない。
仰向けになったまま、短剣の切っ先を自分の目の前に持ってきた。部屋の明かりで鈍く光っている。
持ち手を両手で祈るようにしてにぎり、のど元に突きつけた。刺そうと思った。が、がくがくと震えていた。もう死んでもいいと強がっていても、心の奥底では恐怖を感じているのだ。
ぼくはハテ様の言葉を思い出した。皮膚をちょっとかすめさえすれば。
また気の抜けた笑い声が出た。左の手のひらに短剣を近づける。ほんの少しだけ力を入れて、刃を右にすべらせた。ひゅ、と切れて血が滲んだ。徐々に、表面に現れる血液の量が多くなって、手の上を流れ始める。同じように、ぼくの目からも涙があふれ、こめかみを伝う。自分は死んでしまうんだという喪失感や虚無感が、ぼくの胸を締めつけていた。自分の選択したものだとしても、やっぱり悲しいんだ。
どくん、と心臓が大きく脈打った。
あまりの苦しさに胸元を押さえて体を丸めるが、痛みは増すばかりだ。悲しみにくわえて、激痛から涙の量が増える。意図せずうめき声が漏れる。意識が混濁してくる。視界がぼやけてくる。息ができなくなる。右手から短剣が離れた。
酒巻氏を刺さなくてよかった。人を殺さなくてよかった。
最後の涙が一筋の線を描いて、カーペットに染みを作る。ぼくは深い眠りについた。
「任務放棄、か?」
ハテ様のけわしい表情が目の前にあった。
「どういうつもりだ?」
ぼくは足元を見た。何もない。今ぼくは魂だけの状態なのか。
「ごめんなさい」
とりあえずぼくは謝った。
「ははあ。謝ったということは悪いことをしたと思ってるんだな、お前は」
ぼくはうなずく。実際ぼくは魂なのだから、そんな動作は表現できないはずだが、なぜかハテ様はわかる。ふふん、と鼻で笑った。
「お前以外にもいるよ、やっぱりやめた、という人間がな。それなら最初からやるなんて言うなよ、って不満が倍増するんだが。魔力の無駄遣いだ。でも――」
ハテ様はほほえんだ。嫌らしさが全くない、普通の人みたいな笑い方だった。
「大好物だよ。初めは自分の幸福のため、殺意にまみれるが、なんだかんだ言って、やっぱり人殺しはよくないなんて善人ぶる人間。本当に、人間らしくて、ああ、美味そう」
くくっ、とのどから声を出すハテ様は、親指でよだれをぬぐうしぐさをする。
「ぼくは、ハテ様に食べられても構わないと思っています。だから、自分で自分を殺すことにしました」
ハテ様は興味深そうに、ぼくをのぞきこむような格好をした。ぼくはその視線を正面から受け止めた。何もうしろめたいことなんてないのだ。今のぼくの言葉が本心だ。心を見透かしても、同じ答えしか出でこない。
「食べられたいのか、お前は。おもしろいやつだな」
いよいよ、ぼくの人生が永遠に終わってしまうときが来たんだ。思わずうつむく。
「だけど、残念だが、食べねえよ」
「え?」
ぼくは驚いてハテ様を見た。おどけた笑みを浮かべている。
「天下の魔女、ハテ様からのご褒美だ。特別に生き返らせてやろう。これはお前のようなやつ限定だ。過去にもこういう形で生き返らせた人間はいるからな。お前が思う以上の最高の人生をプレゼントしてやるよ」
いつのまにか辺りが白い光であふれていた。
「じゃあな、元気で。まったく、母親似で困っちまうよ」
「え、今なんて――」
ぼくはその問いを最後まで言うことはできなかった。
でも、光のなかである場面を見た。
ついさっきまでいたハテ様の塔の部屋に、黒い椅子に腰かけるハテ様と若い女の人がいる。その女性はハテ様の向かいに座り込んで泣きじゃくっていた。
「やっぱり私には人殺しなんてできません」
嗚咽混じりに告げる女の人を眺めながら、あきれたようにハテ様はため息をついた。
「うじうじしてんなよ、めんどくせえ女だな。あーあー、泣くな泣くな、いいものやるから、私の塔をそのきたねえ鼻水で汚さないでくれ」
「いいもの……?」
泣くことを制止され、涙をぬぐうと女性は首をかしげた。
「そう、いいもの」
自慢げで傲慢な笑顔を向けると同時に、女の人の手元に立体的な光が現れた。光が引いていくと、それはおくるみに包まれた、赤ん坊だった。生まれたばかりのようでしわしわの顔をしている。女の人の華奢な腕のなかですやすやと眠っていた。
女性はさすがに驚いたようで、涙もすっかり乾いた目を丸くしている。
「私はお前みたいなやつを特別に生き返らせてやってるんだ。最高の人生とともにな。お前には子どもをやるよ。お前には家族もいないだろうし、ちょうどいいだろ。ちゃんと育ててやれよ」
嬉しいはずの贈り物に、女の人は戸惑った様子で赤ちゃんとハテ様を交互に見つめている。でも、とか細い困惑の声を漏らした。
「なんだ、いらないのか。じゃあ、お前の魂も私が食べてやるよ。私の言うこと聞けないんだったら、生き返らせてやる資格もないからな」
「ちがうんです、いらないんじゃなくて……」
歯切れの悪い返事に、ハテ様は早くもいらいらしてるのか、台座の手すりのところを人差し指でたたいている。
「無事に育てられるのか、不安で……」
「はあ? そんなの死ぬ気でがんばれよ。一回死んでるんだし。お前の子どもなんだからな、お前の命より大事だろ?」
女の人はしばらくの間再び泣き出しそうな顔で赤ちゃんの顔を見つめていたが、決心したのかたくましい表情でハテ様のほうを振り向いた。
「この子のことを守ってくれますか?」
予想外の質問だったのか、手すりをとんとんとたたくのをやめ、引きつった顔で女の人をにらんだ。
「何言って――」
「もし私に何かあったら、この子はひとりになってしまいます。そうなったら、守ってくれますか?」
いや、と女の人は首を左右に振り、一段と強い口調で言った。
「守ってください! お願いします!」
立ち上がると、勢いよく頭を下げる。だが、ハテ様は虫を追い払うように片手をひらひらと振る。
「魔女なんかが、そんな人間臭い約束するかよ」
「でも、この子はあなたが授けてくださったじゃないですか! そうだ、名前は――」
「『でも』じゃないだろ。お前やお前の先祖の遺伝子から私の力で作ったんだ、私の子どもじゃないからな。名前なんて私のいないところで決めろ」
嫌悪するハテ様に、女の人はすがすがしい笑顔で告げた。
「北渡! この子の名前は、北の果てを統べるハテ様の申し子だから北渡!」
ぼくの名前だ。
忌々しそうに首を振るハテ様が指先を軽く振ると、女性の周囲に光が溢れ出す。
「さっさと私の前から消えてくれ」
ありがとうございました、と精一杯のお辞儀をすると母親の姿は見えなくなった。そして、ぼく自身の視界ももう一度白くなる。
次のまばたきのときには、ぼくはあの喫茶店の前に座っていた。そして、いつか見た麻で編んだかごをかかえた女の人が、ぼくの前にしゃがんで言った。
「ぼうや、もしよかったらうちで働いてみないかい




