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3 黒い羊

「律子さんが夕食の準備をする間、風呂にでも入ってきたらどうだい?」

 残りのカナッペは酒巻氏が食べて、しばらくした後だった。「もういらないのか?」と訊くだけ訊いて、結局自分が空っぽにしたのだ。その間ぼくはぼく自身のことを考えていて、酒巻氏はぼくに時々話を振りながら、でも大した答えが返ってこないので、最終的にはお互い無言になった。律子さんはやはりずっと黙って入り口付近に立っていて、酒巻氏のコップが空になるとすぐお変わりを淹れた。

「その前にまず部屋に案内しないとな。律子さん、もう夕食の支度は始めるよね? お風呂に入ってもらおうと思うんだが、沸かしといてくれ。あと、サキも呼んで来てくれ。家を案内させるんだ」

「わかりました」

 律子さんは会釈して早足で出て行った。一、二分ほどして『サキ』が現れた。相変わらず俯いている。

「……何?」

「お客様を部屋までお連れして。あと、軽く家の中も案内してくれ」

「……わかった。――こちらです」

 そこでようやく顔を上げた。一瞬彼女の目に恐怖の色が浮かんでいるように思ったが、もう歩き出したので背中しか見えなくなった。

「ここがお風呂、これは律子さんの部屋。あなたの部屋はこっち」

 廊下を玄関とは反対の方向に進んで、奥の部屋を指差し、さらに進んで階段を上っていく。

 階段に一番近いところは襖で、和室のようだった。他に三つ扉があるがそれらは全て洋室だろう。廊下は明るくて壁にはリビングにあったような額が数枚飾られていた。

「これがお客さん用の寝室。その隣はお父さんの。その向かいがわたしので、客室の向かいがお兄ちゃんの部屋」

 説明している間『サキ』はぼくの斜め前に立っていて、まるでぼくが視界に入らないようにしているようだった。

「荷物は部屋に置いてあるだろうし、布団もご飯のときに律子さんが引いてくれると思うから」

「あ、あのっ」

 自分の部屋に戻ろうとする彼女を慌てて呼び止める。特に意味はなかったが、ぼくは怯えられているのかという疑問がそうさせた。『サキ』はゆっくりとぼくを振り返る。

「……何」

 前髪で隠れて表情はよくわからない。

「えっと、三階は何があるの?」

 ぼくは戸惑いながら後ろを指差した。階段は二階では終わっておらず、まだ続いていた。

「物置き」

 短く答えて踵を返して行こうとする。ぼくは彼女の背中に言うだけ言った。

「案内してくれてありがとう。しばらくの間よろしく」

 後から考えれば、しばらくってどれくらいなのだろうか、ぼくが決める期間であるはずだが訊きたくなった。

 ぼくがお礼を伝えると、『サキ』はやっとぼくと目を合わせてくれた。そこに恐怖は滲んでいなかった。純粋に綺麗だなあと感心してしまう。このままだとぼくがどうかしてしまいそうだったので、「じゃ」と早々に部屋に飛び込んだ。

 確かに畳の上にはぼくが持っていたスーツケースが壁際に置かれていた。中を開けると、何日分かの服と寝巻きが入っていてどれも高そうだ。ぼくはジャケットの中から紫色の布を誰かいないか、誰も来ないか確かめながら取り出して、スーツケースの一番下のほうに仕舞った。そして、着心地良さそうな洋服を手に取るとお風呂場に向かった。階段を下りる前に、襖の横の絵画を見てみると、草原の上に羊の大群が描かれていて、単に上手いとしか言いようがない。ぼくにはそもそも絵を見る目なんてないのだけれど。

 一階に着くと、ちょうど律子さんが風呂場から出てくるところだった。

「あ、用意できてますよ。ごゆっくりしてくださいね」

 軽く一礼して控えめに中に入る。広い脱衣場で服を脱いで棚の隅に小さく固める。さらにガラスの引き戸を開けると暖かい空気が全身を包み込んだ。でもそれは蕎麦屋や銭湯のものとは比べ物にならないほど高級な感じ。木材で作られた大きな浴槽は真新しそうだ。傍にあった風呂桶でお湯を掬い、恐る恐る体にかけると少し熱めだったが、湯船にゆっくりと浸かっていくと体の芯まで清められるようだった。

 鼻の下に水面が来るまで深く沈む。お金持ちの人は皆毎日こんないいお風呂に入っているのだろうか。うらやましい。もしも暗殺が成功すれば、こんなお風呂をお願いするのもいいかもしれない。

 視界は白くぼんやりしている。ぼくが今いる世界は現実味のなく、夢みたいだ。死んだことも生き返ったことも実は全部幻で。

 ぼくはろくに体も洗わずに出た。慣れないと落ち着かない。長い間いたつもりではなかったが、少し逆上せたようで頭がガンガンする。脱衣場に元々あったタオルで水気を拭き取って新しい服を着る。いつの間にか脱いだ服はなくなっていた。きっと律子さんが洗濯してくれるのだろう。タオルも同じように丸めて棚に戻す。

 お風呂場を出たところで部屋に戻ろうか迷っていると、タイミング良く応接間から酒巻氏が顔を出した。

「おお、ちょうどよかった。夕飯はこっちで食べるよ。せっかく君が来てくれたんだから特別にご馳走を作ってもらったんだ」

 おいで、と手招きする。

 応接間のテーブルにはまるでパーティーで出されるような料理が並んでいた。七面鳥の丸焼きとか皿に多く盛られたポテトサラダとかミートスパゲティとか。どれも見たことしかない。

「たくさん食べておくれ。サキももう手を付ければいいよ」

 昼と同じ位置に彼女は座っていた。でもさっきより、雰囲気が柔らかだ。ぼくはもうあまり怖がられてないのだと、そうだったのかも不確かなのに勝手に安心した。律子さんの姿はない。他のところでするべき作業があるのだろう。

 ぼくも同じように向かい側に腰を下ろす。相変わらず酒巻氏は隣。『サキ』は自分の取り皿にパスタをよそおうとしていた。スプーンとフォークがくっついたみたいな道具を持って大きく腕を伸ばす。辛そうだった。それを横目で見ながらぼくはまずどれを食べようか迷っていた。

「あっ」

 細い声がしたかと思うと、トングがテーブルで跳ね、彼女の膝に不時着し、カーペットの上に鈍い音を立てて墜落した。鮮やかな赤茶色のソースが、テーブルクロスやふわふわの絨毯に飛び散っただけでなく、もちろん『サキ』の白いワンピースも汚れてしまった。青い顔をして横たわる銀色の姿を見つめている。ぼくはそんな彼女の姿を眺めていた。すると、隣で何かが動く気配がした。

「この、馬鹿者!」

 酒巻氏が立ち上がって『サキ』を罵倒したのだ。

「なぜお前はいつもそういうことをするんだ! できないなら、律子さんを呼んで頼めばいいじゃないか! 無理するから失敗するんだ! そんなんじゃ、お兄ちゃんみたいになれないぞ!」

 怒号の中に細い嗚咽が混じり始める。

「おまけに、こんなに汚して! 洗っても完全に落ちそうもないのはお前にだってわかるだろう? お客様にかかっていたらどうしていたんだ! それとも、そんなこともわからないほどお前は馬鹿なのか!」

 しゃくり上げていたのが大きな泣き声に変わった。小さい彼女の涙を流す姿は本当に居た堪れない。何かフォローをしてあげたかったけど、言うべき言葉は見つからなかった。

 罵声と号泣の声が聞こえたのか、律子さんが慌ててやってきた。現状を理解すると、急いで出て行き、濡れた布巾を数枚持って戻り、辺りを拭き始める。目を手の甲でこすりながら、尚も泣き続ける『サキ』の洋服の汚れを布巾でトントンと軽く叩いて取ろうとする。しかし、色が薄くなっただけで、酒巻氏の言うとおり、本来の白さには戻らない。その一方で、トングを拾い、テーブルや床の汚れを拭っていく。でもきれいに消えないことは、ぼくにもわかった。悲しみの波はひとまず去ったのか、『サキ』は鼻を啜っていた。

「とりあえず、お洋服とテーブルクロスは今すぐ洗いましょう。着替えてきてくださいね。カーペットは後で頑張ってみますので。あ、これ替えてきますから、ちょっと待っててください」

 律子さんは早口に言うと、テーブル掛けを抱え小走りで部屋を出る。酒巻氏は大きくため息をついてようやく腰を下ろした。『サキ』は、再び少し泣きながらよろよろと立ち上がり、去って行く。きっと、服を新しいものにするのだろう。

「本当に今日はすまないねえ。恥ずかしいところを見せてしまってばっかりだ。サキもお兄ちゃんみたいにしっかりしてくれればいいんだが。お兄ちゃんがサキくらいのときには、もう何も言わなくてもいいほどだったんだ。大学にも入ってほしいから勉強もちゃんとやってほしいが、なかなか成績が上がらなくてね」

 そう言ってまた息を吐く。ぼくに何か返答を求めているのだろうか。それなら残念ですが、期待どおりのようなことや気の利いたことは言えない。それに、あんなに叱らなくてもいいんじゃないか、と酒巻氏には否定的な意見しかない。沈黙の空気にどうも耐えかねて、

「ぼく、ちょっと様子見てきます」

と、酒巻氏の返事も待たずにその場を後にした。

 駆け足で階段を上ると、ちょうど『サキ』が部屋から出てきたところだった。目元や鼻の頭が微かに赤い。ぼくを見ると、ばつが悪そうにちょっと笑った。クリーム色のふんわりとしたワンピースが可愛いと思った。

「えっと……大丈夫?」

 羊の絵の前でぼくらはちょうど向かい合った。

「うん……ごめんなさい」

「ううん、君が謝ることないよ。たまたま手が滑っただけなんだし。君のお父さんは少し怒りすぎだったと思うから、気にすることでもないし」

「――そのたまたまが毎日だったらどう思いますか?」

 その意味がよくわからなくて、ぼくは「えっ」と思わず聞き返した。

「毎日毎日、何かを落として、何かを汚して、何かを壊して。そんなだったら、お父さんが叱るのも無理はないんです」

「でも――」

「私のお兄ちゃんは、頭も良くて真面目で、学校の先生達からもいつも褒められてて。お父さんにとっては自慢の息子だし、私にとってもすごい誇りなんです。だけど、そんな出来のいい兄弟を持つと辛いんです。――あなたには、何人かいますか?」

「……いないよ」

 今のぼくがどうだか知らないが、少なくとも生前はそうだった。

「母も」

 父も、と付け足そうとして慌ててやめた。現にさっき、一応ぼくのお父さんからちゃんと電話があったじゃないか。

「そう……。私と一緒ですね。寂しいでしょ。お母さんがいてくれたら、と何度も思ったこともあります。でも、あなたはきっと私のお兄ちゃんみたいに勉強でも何でも出来て、お父様からの期待も大きくて、その代償に悲しい思いをする妹や弟もいないから、幸せでしょう」

 幸せだなんてお母さんが死んでから一度も思ったことないし、嘘もついていたから心が少し痛かった。

「これ、見てください」

 ふと、『サキ』が羊の絵を指差した。

「とても残酷な絵でしょ? 誰が買ったのかは知らないけど、とても悪い趣味をしていると見るたび笑っちゃうんです」

「残酷? どこが」

 黄緑色の草の上に真っ白な羊が中心に集まって大きな丸を作っているのを上から描いた図だ。

「ここです」

 整えられた爪の先、小さい一匹の黒い羊が群れから離れて端っこにいた。額縁のすぐ横で、遠くから白いものたちを見ているようだった。

「黒い羊毛なんて誰も買わない。おまけに質も悪い。だから、飼い主にとって何の価値もない。この子もきっとそのことを感じているんでしょう。だから、離れて彼らの姿を眺めているだけ。自分とは違う真っ白な毛を持っているのを羨み、自分だけ用なしなのを恥ずかしく思ってるんです。飼い主はさっさと肉用に出荷するつもり。『いらない』から。でも高くは売れないでしょう。肉用の育て方はしてないし、実は出荷する当てもない。『いらない』のに」

 そう語る彼女の姿はあまりにも痛ましかった。違うよ、と言ってあげればよかった。違う、それは君の想像だよ。

「そう……かな。く、黒いのも欲しい人いるんじゃないかな。そ、それに、これは絵、だから。描いた人がどんなつもりだったのかなんてわからないよ」

「まるで私みたいですね」

 ぼくの言葉に答えたわけではないのはすぐにわかった。というよりも、『サキ』には届かなかったのだろう。

「まるで私みたい」

 また言った。

「お父さんはお兄ちゃんだけいればよかったのよ。将来はお兄ちゃんが家を継ぐんだから。でも、世間体があるから私もちゃんと育てなきゃいけない。迷惑ばかりかけて手に負えなくて、何回注意しても同じことする私を。律子さんも呆れてるはずよ。お兄ちゃんは私みたいなことしなかった。服も汚さないし皿も割らない。私みたいな駄目な子は、本当に黒い羊――」

 綺麗な指が表面のガラスを引っ掻く。一瞬だけ嫌な音がした。それで彼女は我に返ったのか、はっとしてぼくを見た。

「あ、……すみませんでした。取り乱してしまって」

 申し訳なさそうに俯くと、髪がぱらぱらと顔にかかる。

「い、いや。……夕飯食べようよ?」

「そうですね。これからは気をつけます」

 軽く一礼し、ぼくの横を通り過ぎて階段を下りていく。彼女の足音が聞こえなくなると、ぼくはもう一度その絵を見た。

 あれだけ一気に話せるのだから、『サキ』は十分頭いいのではないか。無責任にもそう考えていた。それに、ぼくはきっとこの草一本だ。羊たちに踏み潰される役回り。

 でも。

 彼女は、自分で言ったとおり「黒い羊」だろうとぼくも思ってしまう。そういう意味では、この絵は確かに全く残酷だ。多分、魂を喰らう魔女よりも、ずっと。

 ぼくは踵を返して彼女の後を追うように、足早に歩き出した。

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