黒パンの重み
葉書の画像は「みてみん」に掲載しました。
「みてみん」かのんべびーのページ
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十一月に入ってから栄養失調者が激増し、収容所の医務室は患者で満員となった。
十一月末、医務室では重症患者を町外れの病院へ移送を始めた。
患者が増えるにつれ作業の効率は低下を辿り、益々ノルマを越すことができず、増配のパンなど到底獲得できない状態に至った。
今迄の食事と、毎日の労働から考えてみても、それは来たるべき時が来たまでの事であった。
気候も追い討ちをかけてくる。
先日も粉雪が降り二、三日晴天が続いたかと思うと、今朝も収容所から作業へ向かう頃になって粉雪が降りだした。
列は工場へ向かっているが、先頭の一中隊などは粉雪で見えはしない。我々の列が工場近くに迫った頃から、雪の降る量は激しさを増した。
列の後尾を行く我々は、前を行く者に踏み固められ氷の様になった道を歩いているので、栄養失調でよろめく足を更によろめかせ、前へのめり、後ろへ滑り倒れの光景としか言いようがない有様だった。
それでなくとも凍った防寒単靴の弾む音が、脳天を突くかのように響くのだ。
突然、列の動きが止まった。
十分間ほど足踏みして待ったが、列は一向に進む様子はない。
骨を射すような寒さの中で待つ十分間は非常に長く感じる。
道路両脇に建ち並ぶ家々から、スープを炊く匂いが風と粉雪に乗って、嫌というほど鼻を突いてくる。
「先頭は何をしているッ」
と、足踏みしている靴音の中に混じって、苛々しているらしい大声が聞こえた。
その直後、
「三名の犠牲者が出た」
と、列の前方から送り伝言があった。
私は両手で頬の両脇をつまみ、感覚のあるのを確かめると大きく息つきをした。
一片のパン欲しさに、虜囚は日々を追われる。
ようやく工場へ着くと、マダム達が夜間作業で焚き火した石炭の残り火があった。
手先を焚き火にかざす間もなく、中隊は三ヶ小隊に分散され、更に小隊は三ヶ班に分けられて班毎に持ち場へと向かった。
我が班はクレーン車台のコンクリート土台にする、基礎根堀りの番割りを受けた。
土は凍り、硬さはコンクリートと全く変わりはなかった。
田代も橋本も鶴嘴を振ってはみたが、刺さりもしない事に呆れ返って、腕組みをして土の上を眺めていた。
そんな時、粉雪が俄に小降りになり西の空が青々と見えてきた。
「まあ、あせらず考えよう。窮すれば通ずとか・・・どうかね、掘る箇所へ焚き火をしてみては。これより他に幾ら考えてみてもありはしまい」
と私が言うと、傍らに居た橋本と田代は顔を見合わせて、ニコリと笑った。
「確かに、今はその方法しかない」
と、頷きながら言うと田代は急に活気づいたように橋本の肩を促すように押すと、右と左に別れて、
「薪を集めろッ」
と、班員達に叫び立てた。
田代と橋本に追い立てられた班員達は四方へ散っていった。
その後にただ一人、石井だけが取り残された格好をして、うろうろしていた。
日頃から他の者より直感に鈍い石井であることは、よく分かっていたつもりだったが、これ程迄もとは思ってもいなかった。
特に目を掛けねばと、この時、心に誓った。
そこへ橋本が血相を変えて駆け戻ってくるなり、口からツバを飛ばしながら、
「兵長殿・・・服装格好からして、我中隊長らしい人が一中隊の者達に袋叩きにされてます」
「何ッ、場所は何処だッ」
余りに突然の出来事に驚き、橋本が指す機械工場を目指して駈け出した。
人垣のある処へ着くなり、私は人の囲みの輪を破り、中へ飛び込んだ。
見ると、紛れもない中隊長の姿だった。
橋本が言っていた通り、中隊長は向こうへ突き倒され、こちらへ蹴り返されの有様だった。
身体の弱い小隊長でなくて良かったと内心思いながら、覚悟を決めた私は、
「何をしたか判らないが、話し合いで済むことなら、それで許してくれ」
と中隊長を自分の後ろに庇い、取り囲む一同に頭を下げて頼んだ。
すると、その中の一人が、
「おい皆んな・・・お客様のお出ましだよ。折角の話だから、どうしようか。黒パン二本で手を打つとしようでないか」
と、他の者達に言った。
そして彼等は私を見て、一斉にけらけら笑い出した。
話し合いで済むならとは言ったが、今の私には黒パン二本の要求は思いもよらない事であった。
だが私は条件を飲んだと言う風に頷くしかなかった。
すると、待っていましたとばかりに、
「但し、明日の夕食時迄に、『一中隊の二班様、誠に申し訳ないことを致しました』と言って持って来い」
と、これも付け加えて、また笑い出した。
私がぐったりとした中隊長を抱え、取り巻く輪から抜け出ようとすると、
「そいつは三中隊の中隊長さんだってなや。俺達の飯盒から盗み食いしたんだ。兵隊同士の仲だから黒パン二本で手を打ったけど、そんな事で済まされない事だぜ」
と言うのを背に聞きながら、思わず唇を噛んだ。
私が中隊長を自分たちの作業場へ抱え帰ると、
「やはり中隊長だったんですか」
と、私の帰りを待ちわびていた様子の田代は、私を手伝って焚き火の傍らへ中隊長を寝かせた。
「中隊長は一中隊の建築見学に行き、足場から落ちたところを彼等に救われたのだ。命拾いした謝礼に明日の夕方、彼等の宿舎へ行こうと思っている」
と皆にそう飲み込ませ、歩哨と交渉させるために、何時も腹巻の中に隠し持っていた腕時計を取り出し田代に渡した。
田代はすぐ近くに居た歩哨兵を呼び私の言った事を通訳すると、歩哨兵は大喜びで急いで工員食堂へ向かって去った。
心の中で二キロパン三本と交換できればよいがと思っている矢先、歩哨兵は黒パン三本を両脇に抱えて戻ってきた。
私はそれを見た瞬間、私が應召で出発する前日に妻が探し廻って買い求めた時計であると思うと、目頭が熱くなった。
じっと堪えながら歩哨兵の手から黒パン三本を受け取る。
その中の一本を田代に渡し、
「全員で分配しろ」
と言い残して、二本の黒パンを抱えて一中隊の作業現場へ戻ろうとすると、田代と橋本と渡辺の三人が声を揃えて、
「一中隊へですか」
と呼び止められた。
「今晩か明日かと思ったが、せっかく手に入ったのだから早いほうがいいだろう」
と言うと、
「そんなに沢山・・・」
と、誰かの声が耳に入った。
黒パン二本が人一人の命だと思えば安い物と思ったが、全員でノルマをあげて貰う分より、だいぶ量が多かった。
だからといって、あのまま中隊長を見て見ぬ振りをしていたら死に至ったかもしれない。
班員達が見ているのを尻目に、一中隊の作業所へ駆け走った。
私が建築足場の中を潜り回っていると、
「おいおいッ、此処だよ」
と、声をかけた者がいた。
直ぐに先程の一人が私の前へ来ると、
「いやはや、これはようこそ」
と大声を張り上げた。
すると声を聞きつけた数名が、待ってましたとばかりに私を取り囲んだ。
「今晩持って行こうと思ったが、今手に入ったので約束通りお詫びに持って来た」
と黒パン二本を差し出すと、
「少し切れる兵長とか聞いていたが、成程ね。帰ったら言っておきな、こんな事ならまたやってねって」
と言い、一同は手を叩いて笑った。
その笑いの渦の中で、私の胸の中は今にも沸騰しそうだった。
だが、日本人の中にもこんな馬鹿も居るのだと思い直して我が作業場へ走った。
現場へ戻ってみると、焚き火しての土掘りは予想以上に進んでいた。
傍らには中隊長だけが取り残されたように、焚き火の側で横になっていた。
その前には先程の二キロパンを分配した二人分のパンが、誰かのシューバー(ソ連製の外套)の上に並べ置かれてあった。
「中隊長殿」
と声をかけてみると、やおら片肘で体を支え起き上がったので、無言で私はひとり分の分け前を差し出したが、
「面目ない、俺の咽喉には通らない」
と、涙ながらに言った。
あのパンは、私の妻の心がこもった時計だったと思い返すと少し腹が立ち、
「今のこの食糧難のとき、人の命に勝る食べ物を盗んで食うとはッ」
と私は思わず大声で叫んでしまった。
中隊長は私の前に膝まづくと、身体をぶるぶる震わせているだけだった。
生きなければという今の我々にとっての、一片のパンの重みをしみじみと知らしめてくれた出来事であった。
「いざという時は食べ物ほど尊い宝はない」
ひとり呟きながら作業現場へ行くと、今日こそはと班員達は懸命の努力をしたものの、増配のパンにありつけないと知ってか誰も彼も顔色が悪かった。
「やるだけやったんだけど」
と言う田代の声も気抜けしていた。
とうとう薄闇が迫り収容所へ引き上げる時間になったが、足取りは重く、凍った道に単靴の音が痛々しく響いた。
今日も行く パンにありつく工場へ
栩の並木路 雪を踏みつつ
頬も落つ寒さに石と土凍る
ノルマめげずに今日も暮れ
───抑留讃歌───
抑留者同士のリンチも起きていたようです。
「暁に祈る」と呼ばれたリンチ事件は有名ですが、元の隊長が亡くなって真相がわからなくなってしまったそうです。
助け合おうとする人間ばかりじゃなかったんですね・・・ちょっと残念ですが、極限の状態になると心理状態も狂ってしまうんでしょうか。