ノルマ制作業 その一
作中に祖父が耳で聞いて覚えたロシア語の単語が含まれています。文脈を頼りに調べましたが、一部わからないままになっている単語があります。(スコリコなど)
もし心当たりのある方がおられましたら、メッセージなどくださると有難いです。「ノルマ」という言葉がロシア語だったことを初めて知りました・・・。
そして毎話の始めを飾っている葉書の画像ですが、収容所の生活に入り、ほのぼのした内容の葉書を飾るのも躊躇われるので今後は「みてみん」への投稿にしようと思っております。
読みにくい文面の内容も少しずつ訳してみたいと思います。
「みてみん」 かのんべびーのページ
http://2151.mitemin.net/
収容所入りしてから三日目の朝、朝食が済むと間もなく、
「本部前へ集合」
と、平山兵長が叫んで回った。
「鉄道工事援助の作業かい」
と、田代は独り言を言いながら、私と一緒に本部前の広場へ向かった。
初めての作業だけに誰もが不安そうだ。
広場には第一中隊、第二中隊と順に列が作られていった。
赤くなる鼻の頭をさする者、両耳を摩擦する者、足踏みをしている者も居る。
そうしている内に我中隊も整列が終わった。
今日の作業とは、田代が言っていた通りの鉄道関係の作業だった。まだ内容は判らないが、我々に振り分けられたのは若者が多いと見られたからに相違ない。
数人のソ連将校の見ている前で歩哨兵が人員点呼しているのだが、四列縦隊の数取が困難らしく、何回数え返したか知れない。
田代が「トリツチ トリー(30と3、33人)」と叫ぶと、歩哨はウフーンと納得した面を見せた。
やっとのことで点呼が終わると、順々に収容所の門から繰り出されていった。
歩哨兵は一ヶ班に一名ずつ、付いて行くらしい。
我中隊は他の隊と別れると工場へ向かった。
工場を一巡りするようにして正門から入ってみると、丘の上から見て予想していた工場とは全く別の大工場であると知った。
やがて工員姿の男が来て我々にスコップを渡すと、工場の奥へと案内した。
後に続いて行くと、そこには石炭を満載した貨車が列を連ねて待っていた。
監督らしい男が手真似で貨車卸しを説明し終えると、一人の工員が付け加えるように、
「カンチャイ ダモーイ(終わったら帰る)」と言った。
田代は「ポニマイ(わかった)」と返事をすると、ずらりと並んでいる貨車を見回しながら力抜けしたように、
「全部卸し終わったら帰れるんだって」
と、私の顔を見て言った。
「ソ連では何をするにもノルマ制だというのを聞いてましたよ」と、田代は言う。
私が不審そうな面をすると、田代は直ぐ一人の工員を呼んで貨車を指差し、
「ヤッポンスキー(日本人)、ノルマ、スコリコ」
と、問い正すように言うと、工員は貨車全部だと大手を広げて説明した。
それを聞いた田代は呆れ果てて口を開き、ぽかんとして立ったままだった。
コウリヤン粥を湯呑み一杯とトマトの塩漬け二ケでは作業どころではない。
「仕方あるまい」
私は気抜けしている田代の肩を、気を落とさないようにと叩いて言った。
正午のサイレンが鳴っても半数交代で作業をすることにした。だが今のままではとても終わりそうにない。腹が減っても、水を飲んで満腹にするしかなかった。
ソ連の秋は日が短い。太陽は水っ腹の我々にお構い無く、駆け足でウラルへ沈む。
既に夕闇が迫っているというのに、気ばかり焦って身体が思うように動いてくれない。
空にきらきら星が光る頃、やっとの思いで作業が終わった。
空腹で冷え込み、腹の底から足の爪先まで寒さが襲う。昼間と夜間の温度差が激しいとは聞いていたが、満州より遥かなものだ。
歩いていると足の指先がぢくぢく痛む。昼間は厚着かと思えた服も、夜は背筋が深々と冷え、唇までも震えだした。
道は暗くて見えはしないが霜柱が立っているらしく、軍靴で踏むたびに しゃりっしゃりっと音が響いてくる。前を行く者も、かすかにしか見えない。
収容所へ戻って部屋へ入ると、薄暗い電燈が唯ひとつ灯いてるだけだ。
静かだ、 静かだ。
この世界から全ての音が消え去ったかのように静まりきっている。
班員達も疲れて言葉を発せられないでいるようだ。
ペーチカ(ロシア風暖炉)は有りながら使用禁止の札が下がっている。
寒さに震えながらコウリヤン粥をすすり込む。
直ぐ寝床に入ったが震えが止まらない。私は起き上がって班員達を見回していると、田代が一枚きりの毛布を叩きながら、
「寒いやら空きっ腹で寝入るもんか」
とだけ言って、毛布にくるまった。
誰も寝付けなく、もそもそと動いているのを見て、
「皆んな起きろ、二人一緒になれ」
と叫ぶと、班員達は飛び起きて気の合った者同士で、背合わせしたり抱き合ったりして「毛布二枚ならなんとか」と寝ることになった。
待望のペーチカが許可されたのは一週間ほど後のことだった。
工場の帰りに各人が隠し持ち帰る石炭で、どうにか寒さを凌ぐことは出来たが、空腹で眠れないのはどうしようもなかった。
戦争中、命をかけた戦いでも、死なずに帰ったら食うのに事欠くことはなかった。
だが今の我々には、それがない。
ノルマを越したら増配のパンは出るが、然し今の状態では、とても追い付かない。
工場増設の整地作業でノルマを上げ増配のパンを貰ったが、百グラムほどの一片のパンの為に労力を消耗するのは、釣り合いが取れているように思えなかった。
無理の出来ない身体で無理して得た増配のパンは、空きっ腹の何処へ入ったのかもわからない。
それでもやらねば増配のパンにはありつけない。
深夜に聞こえる飢えと疲労の呻き声は、日が経つにつれ激しさを増していった。
班員達の頬骨は突き出て、目は窪み、ソ連へ引かれ来た時の面影は失ってしまった。
まるで餓鬼の様相を呈してしまった。
私が日記を書く手を休めて、班員達の変わり果てた面をつくづく眺めていると、
「兵長殿、まだですか」
と、田代に呼ばれた。
その声に我に返った私は、涙を拭って、
「もうすぐ終わる」
と、髭の濃い、目だけ大きな田代の青ざめた面に返事をした。再び鉛筆を握ると、氷の柱かと思えるほど鉛筆の冷たさがひしひしと伝わってくる。
凍るような指先を両手で摩擦していると、
「おい、氷を取ってくれるか」
「岩塩をかじりながら食べるのさ」
と、ひそひそ声で話しているのと、飯盒から氷を取り出す音とが静かな部屋に響いた。
空腹のヘソから痛む寒さかな
騙された国境越えは誰の命
来てみればコウリヤン粥に明け暮れる
空腹のヘソをつねって泣き笑い
───抑留讃歌より───
ペーチカ・・・石造りの暖炉。建物の一部として天井までレンガや粘土で築き上げ、火を燃やすようにしたもの。
祖父の在籍していた三中隊は、新人が多かったのかなぁと想像しています。
日本陸軍は県ごとに隊編成がされていたようですし、満州の開拓団を招集して編成した中隊なら若者も多かったでしょう。
その中でも祖父の班は40代の班員が殆どのようでしたから、若者の力をアテにした仕事に振り分けられたのは辛かったと思います。
祖父が日記を付け始めたのは、軍隊で作業日報などを書くようになってからだと聞きました。
50年以上に及ぶ日記の束を自慢気に見せてくれたことがあります。
最後まで使い切ったノートは針を使って糸で縫い付けられて、20cmほどの厚みになるまで重ねられていき、辞書のように厚くなった幾つもの日記の束は、自ら増築した家の小部屋に置かれていました。
軍事郵便の葉書も同じように糸でくくられていたのを見て日記の束を思い出し、思わず笑ってしまいました。
祖父に日記は大事なものだと教えられ、祖母も家計簿と合わせて日記を付けています。こちらは現在も続いており、もうすぐ60年になりそうです。
にんじん一本、二銭 などと記されている家計簿も、当時を知る貴重な資料かもしれません。