収容所入り
敵軍の捕虜を見張ることもあったんだな~と知ることができた一枚。
このときは自分や中隊全てが捕虜になるなんて、想像もしなかったでしょう。
満州のハイラルを過ぎてから十四日目、目的地だと下車を命ぜられた。駅頭に立てば、それさえ困難な、どうしようも無い程のだるさを感じた。
身体が元通りになるにつれ、此処が目的地なのかと思うと何か淋しいものが胸の底に湧き出した。
「ウラル山脈というのは、あの山だよ」
と、教員だった橋本が自信ある口調で、駅の西側に見える山々を指差して教えた。
遥かに望む連峰にはまだ雪影は見られないが、北極から吹き寄せる風は冷たく頬を打つ。
四方を山に囲まれた盆地で、大工場を中心に出来ている都市だということが一見して判った。
南に面した丘は、上から下まで空き地が見えぬ程、家が建て詰めになっている。
又、北東の丘の頂上には目新しい柵板を張り巡らせた、学校のような建物が見えた。
誰が見ても我々部隊、千六百名が今から入る収容所であることが悟れた。
やがて工場服を着たソ連の男の案内で、先頭が動き出した。
そして駅前の通りへ出ると、ソ連の子供たちが我々の列に悪口を投げつけてきた。
「ヤッポン、バンザイ」
「ヤッポン、バンザイ」
町の軒並みの家々は日本では見たことのない、本式の防寒組上式建築物ばかりである。
我々が戦争中に、この国は危うかったと見え、荒れ放題の家々を見回しながら歩む。
坂を登りきると、三メートルものバタ板で柵を巡らした我々の檻があった。
数名の歩哨が柵の角々にある高い槍上から、自動小銃を小脇に抱え我々を見張っている。
そして時々、威嚇射撃をして警戒を怠らない。
「馬鹿な事を。十四日も汽車で来た此の地から、誰か逃げる者がいるかってよ」
田代が口から唾を飛ばしながら、歩哨櫓を見上げて叫んだ。そう言いながらも田代の面は辛味走っていた。
この田代こそ私の伴侶として最後まで支えてくれた人物だったとは、当時の私には判ろう筈がなかった。
一時間後、各班の割当てが決まった。
掃除を済ませ、部屋の窓越しに市街を見下ろすと南面の山に沿って延びる鉄道路線が、一線を描いたようにくっきりと見える。
「いやはや、とんでもないところまで引かれ来たもんだ」
そう愚痴をこぼし始めたのは石井だった。
「お前たちは満州に家族を置きっ放しの筈だ。終戦と判ったとき、今晩か明日かと心の中で願っていたが、誰も家族の元へ逃げ帰った者は居なかったね。
軍人の私は、どうせ命は始めから無いものと覚悟して来た。何処で死んでも同じことさ」
と私が笑いながら言うと、横合いから山本が、
「だってあの時、中隊長が逃げる者がいたら切るって抜刀したんだもの」
と泣きべそ顔で言った。
「軍の偉い方々や憲兵巡査迄もが終戦三日前から、南満へ南満へと逃げ去っていたと満人から聞いていたよ」
私はそう言いながら一枚の毛布の上へ横に寝そべると、
「何がソ連軍の鉄道工事援助の目的だ。三ヶ月で帰国させる条件を付けるって、よくも上手い騙し方をしたものだ」
私は毛布を掴み切る程、両手で握りしめた。
「本当だ。俺達はてっきり三ヶ月、辛抱さえすりゃ妻子の処へ戻れると思って汽車へ乗ったもんだ。ひどい偽りに乗ったもんさ、そんな口車に命なんかやれるものか」
と巡査あがりの渡辺が、相手が居るのなら出て来いと言わんばかりの剣幕で言った。
するとその勢いにつられるように小出が毛布の上に立つと、拳を叩いて何やら叫んでいたが、急に、
「いけねい、忘れてた。班長殿が気分が悪いからって」
「なんだって!!」
私は急いで飛び起きると入り口へ走った。
「たぶん便所へでも行ってるんでは・・・」
と言いながら走る私の後に続いて、田代が部屋から出てきた。
私は此処まで来る貨車の中で二度も反吐を吐いた班長のことを思い出して、
「だいぶ胃が悪いらしいね」
と言ったが、それも聞こえぬように田代は懸命に幾つかの便所の戸を開いていく。
「何処へ行ったんでしょう、まだ着いたばかりで医務室は始めていないのに」
そう呟きながら右側の柵辺りを見回りに行った田代が、便所から二十米程離れた塀際の窪みに蹲っている班長を見付けると、大声で私を呼んだ。
私は班長を抱え出した田代と両脇を抱え合って班内へ戻ると、急ぎ本部へ小出を連絡に出した。
だが、医務室はソ連軍の方で店開きするまで待てという、素っ気ない返事だった。
私は一寸、苛立った。
腹を抱えている班長を放っておけるわけもなく、そのまま待てずに本部へ走った。
すると、福田兵長が奥から私の姿を見て、
「なんだ、お前んとこの下士官だったのか」
と言うと、下田軍医に診断を願ってくれた。
早速、班長を連れ行き診断は受けたが、入室はさせたいがソ連軍医の許可がなければ出来ないから今日中にとは言えない、と伝えられた。
しかたなく班長を背負い、班へ戻ろうとすると下田軍医に呼び止められる。
「とりあえず薬を一服飲ませて仮入室させよう。だが身の回りの事や食事は班でやってくれ」
と言ってくれて、私はほっとした。
私は無言のまま頭を下げた。
一人班へ戻ってみると、ソ連へ来て始めての夕食が待っていた。
私は皆に、
「遅くなってすまん、班長は仮入室だから食事は届けてやってくれ」
と言って食事を始めようとしたが、各人が飯盒の前に黙って座っている。
どうしたことかと一同を見回しながら飯盒の中を箸でかき回しすくい上げてみると、馬糧のコウリヤンの粒が箸の先に幾つか引っ掛かった。
これには私も思わずびっくりしたが、
「贅沢を言うな」
と汁を吸うと、渋たい味が口中に広がって堪らなかった。
班員達は私の顔を見るなり横を向いて、くすくす笑い出した。
「病人には持って行けませんね」
と、田代は沈んだ面持ちで言いながら、私と一緒にコウリヤン粥をすすり始めた。
「馬と間違ったんでないのか」
と言う者も居たが、やがて仕方なく一同は空腹をこれで凌いだ。
我々は夕食を済ますと、着のままで一枚の毛布にくるまり、収容所初めての夜を迎えた。
敗戦後の憂い話は夜半まで続いた。
誰もが満州に居る妻子のことが気掛かりで眠りつけないのだろう。更に親兄弟の話に移ると、国は故郷はと憂いが高まるばかりだった。
だが悲しみか諦めなのか、段々話も途切れ、やがて旅の疲れも出たのか、あちらこちらから鼾が聞こえ始めた。
中には寝言を語る者もいて、なかなか寝付けない私は床の上に起き出すと、改めて班員達の寝顔を見廻した。
入隊して僅か一ヶ月そこそこで終戦になり、捕虜として連れて来られた妻子ある者ばかりだった。
軍の階級こそもぎ取られ只の地方人と同じにはなったけれど、なぜか私にはこの初年兵達を見てやらねばならぬ責任があると思えて、深い溜め息をつく。
一寸寝入ったかと思うと目を覚まし、それを繰り返して私にとっては暗く長い夜を明かしてしまった。
今朝も昨日と同じコウリヤン粥が上がった。
班員達はもう、誰一人馬糧だなどと言う者は居なかった。勿論笑い出す者も居ない。
こうして我々捕虜の第一歩が今日、只今から始まるのだった。
朝食の分配をしてみると、昨日のより量が少なく、副食にトマトの塩漬けが二つ。それも随分と酸っぱいものだ。
あまりにも少量の食事なので、中隊週番の平山兵長の所へ駆けつけると、平山兵長は頭を掻きながら、
「一班、二班のを見てきてくれよ。それでなくとも、お前の班へは余分にやったつもりだがなー」
と、情けなそうな顔をして言うので、私は心の中で「すまなかった」と詫びながら逃げるようにして班に戻った。
朝食を済ませて一息入れていると、
「我軍隊の二段式寝台を作るから、古材を支給する。本部前へ集合しろ」
という指令があった。
午前九時頃、古材を積んだ馬車が到着する。各班で必要な材料を分け合って、班へ持ち帰り作業に掛かると、
「今日中に完成させろ」
と言われ、昼食も交代で取り作業を続け、夕食時まで休まずに、やっとのことで完成した。
我国の軍隊式寝台そのものに、班員達は苦笑いをした。
床筵一枚と、持ってきた毛布一枚が我々の寝具のすべてである。これでこの冬を越せと言うのだろうか・・・。筵を寝台に敷きながら、笑っている班員達を見て、とても不安に思えてならなかった。
生きるも運命、死ぬも運命とやたら簡単に言うが、我国の軍隊時の兵営生活の記憶が蘇ってくる。
「生きて虜囚の辱めを受けず、死して護国の鬼となれ」
班員達を見ながら私が呟くと、
「なんのなんの・・・そんな言に惑わされてた今迄が、まるで夢のようでならない」
などと話す者もいた。
私は無意識のうちに思わず、
「馬鹿野郎ッ」
と叫びたてると、班員達は全員総立ちになり、目を白黒させていた。
誰がため重いノルマの食い稼ぎ
甲斐なしと知りつ送る日またもまた
増配のパンはノルマに追いつけず
出まかせで通せば食飼の量は減り
───抑留讃歌より───
ソ連領に入って収容所に到るまで地名などしっかり記憶していた祖父が、収容所の名前や駅の名前を記していないのが気になって、あちこちで調べてみました。しかし一部の人間にしか知らされていなかったようで、自分がどの収容所にいたのか知らない元抑留者の方が多いようです。
最近になって見付かったというロシアに残されていた名簿が厚生省にあるそうなので、もしかしたらどの収容所だったのか判るかもしれません。
とはいっても、ロシア軍の聴取はいい加減だったらしく欠けていたり重複していたりで判明に至らないことも多いそうですが・・・
───もしご家族の中に元抑留者の方がいて、収容所の名前や場所が知りたいという方のために───
問い合わせ先は「厚生省 社会援護課 資料調査室」です。
身上調査書を請求することができます。請求するには三親等以内の親族である必要があります。身上調査書自体は無料だそうです。
必要な書類
◯本人の名前、生年月日、本籍、亡くなっている場合は死亡日、最終軍歴を記入。用紙はなんでもいいそうです。
◯請求者の免許書や保険証のコピー
◯14日以内に取った請求者の住民票
◯本人と請求者が三親等以内の親族であることを証明する書類(戸籍謄本等)
戸籍謄本等と簡単に言われましたが、孫と祖父という関係を証明するのは結構面倒なもので、
1:自分の戸籍謄本もしくは抄本を取る。
2:親の改正原戸籍を取る。
3:祖父の改正原戸籍を取る。
これでやっと証明できるようです。改正原戸籍にする必要があるのは、電算化によって、結婚して戸籍を抜けたり死亡した人の名前が表記されなくなったためです。
戸籍を抜けた人のみが表記される除籍謄本もあります。
軍歴がわからない場合は県庁に問い合わせることになります。この場合も関係を証明する必要が出てくるわけですが(汗)
軍に召集された当時の住所がわかっていると書類が届くのは早いようですが、こちらは少し費用がかかります。
茨城県庁だと400円の郵便小為替が必要でした。
直接、県庁で閲覧してコピーをもらうこともできます。(無料)
必要な書類を集めるだけでも数千円かかりますが、請求することができるのは孫の私達の代までです。ここまで調べることもできたことですし、のんびり手続きをしていきたいと思います。