最后のラッパ その二
コウコウケイまで三キロの地点に至ったが、電燈の灯ひとつ見られない。部隊先頭から送り伝令が後尾の我小隊に到達した。
『満軍の暴動あり、依って部隊はノン江岸に出、コウコウケイを迂回する』
部隊命令通りノン江岸に出ると、始めのうちは砂地だったのが、進むにつれ段々と泥地になってきた。
初年兵達は應召時に着てきた服や靴等を此処まで持ちこたえて来たが、とうとう捨てなければならない状況に至った。
自分の前で動いているのが誰かも判らない闇の中で、膝まで泥にはまると胸にまで泥が飛び、重いやら空腹やらで目眩がする。
今迄、命より大切にせよと言われてきた銃も、今は煩わしかった。
今、負けているという実感から歩みを進める胸に、限りない不安が空腹の底から湧き上がってくるようだ。
漸くチチハル軍用道路へ出ると、此処から一番近いのは野砲隊だ、と誰かが言った。
我々が憶測した通り、部隊は真暗闇の野砲隊へと入ると各中隊は指揮官の声を頼りに、暗闇の兵舎に一夜を明かすべく宿舎をとった。
フラルギを出てから何一つ食を取らずに退却したので、空腹を満たすよう営内各倉庫を巡って食料を見出せ、と言う中隊長からの指示があった。
幸いにも一本のローソクを手にした私は、初年兵三名を連れ各兵舎を見廻ると、この野砲隊も『ソ連軍越境し、来る』の報に接し、慌しく退却したものと見え、食卓上の散乱たる光景は見られたものではなかった。
だが、食べ残しの物には毒物が入っていないとは限らないから手を付けることはならぬ、と私は初年兵に固く言った。
散々歩き回って食糧倉庫を見付けることが出来た我々は、扉を破って中へ入ると直ぐ乾パンに目を付け、砂糖を見付け出し、皆で夢中になって空腹を満たすことにした。
私は我班員の夕食にと、田代二等兵に持てるだけ持たせて一足先に戻らせた。
それから当分欠かせない、煙草、米、乾パン、砂糖等を皆で持てるだけ持ち、帰ろうとしたときにはローソクは終わりだった。
身動きも出来ない程、抱え持った我々は自分達の班はどの辺かも見当がつかないまま三十分も歩き回ったが、幸いにして田代が小隊長を連れ、迎えに来たのと出会った。
小隊長は私や他の二名の身体を手でさすりまわしながら、
「何としたことを」
と、叱りつけた。
私は闇の中で小隊長の面が見えないのを幸いに、
「現在の状況から考えたら、我々は敗戦でないでしょうか」
と言うと、小隊長は、
「馬鹿者めッ」
と雷のような声で叫んだ。
その大きな声に、私は両脇に抱え持っていた食料を落としてしまった。
私は「これはしたり」と落とした物を拾い、暗闇の中を田代に案内され班へ戻り、全員の空腹をしのがせ一夜を明かすことが出来た。
翌朝、雲一つない空を見上げて、
「今日は焼けつく暑さになりそうなのに、腹が冷え冷えするようだ」
と、私は傍らに居た初年兵の田代と渡辺に向かって言った。
田代と渡辺は青々と澄み切った空を見上げていたが、田代が変な顔をしながら、
「営外には満人の影一つ見られませんね」
と首をかしげて言った。
田代が言う通り、確かに日中も夕方もチチハル近辺は静かすぎた。
上空を群がる黒羽烏と朝鮮烏の乱れ飛びも、今日ばかりは何か不気味なように感じられてならなかった。
何の命令も無いまま更に此処で過ごす一夜は、とても永かった。
次の日の夕方、軍司令部には偉い方々は一人も居ない、という噂が部隊に広まった。
だから命令系統が絶たれていたのか、と思った。
翌日には不安が高まり、部隊の統制も混乱に入らんとする折、東満北満から急報が来ていたらしかった。
『守備隊の友軍危うし援軍頼む』
これに依って緊張した我々は、援軍に応じるべく銃弾受領に営庭に集合すると、そこで部隊長の訓示があると伝えられた。
「本日正午、陛下のラヂオ放送がある。その結果如何に依って部隊は行動する」
と、言う事であった。
このとき、午前十時二十五分だった。
我々はどうなることかと刻々と迫る正午を息を飲み待った。
各人は不安を隠しきれないで憶測の誠がましい噂話をしていたが、時計の針が正午十分前、五分前となるとぴたりと止んだ。
いずれこのまま居たら、ソ連軍の思うがままにされるだろう。
捕虜となり、軍人として恥を忘れた者のみの生きる道か。それとも否応なしの銃殺にされるか、道は二つしかない。
我々が生き永らえるか、死を選ぶことになるのかは陛下のラヂオ放送で各人が考え決めることだと、私は思った。
時計の針が正午を指した。
カラカラに渇いた咽喉に幾度か唾を飲むうちに、陛下の放送は、
『朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し、其の共同宣言を受諾する旨、通告せしめたり』
八月十五日、我が国は無条件降伏に終わった。(※)
日本は夢を見ていたのか、耐え切れない情けなさに営庭いっぱいにすすり泣く声が溢れ、涙と共に止まることが無いように、泣き止んだと思うとまた泣き出した。
陛下のラヂオ放送・・・玉音放送のこと。昭和天皇の終戦の詔勅 。
無条件降伏・・・玉音放送の内容は日本がポツダム宣言を受け入れたと
いう内容だった。ポツダム宣言には日本の無条件降伏
が含まれていたため、敗戦を意味した。
このラジオ放送で国民は初めて、天皇陛下の声を聞いたそうです。それまでは国民に聞かせることさえ許されなかったとか。
それでもこの放送はそのままの肉声ではなかったようですが・・・
玉音放送にはたくさんのエピソードがあるようです。興味のある方は調べてみてください。
現代文に訳してあるサイト様、音声を流しているサイト様、動画がUPしてあるのも見かけました。
昭和天皇が詠まれた和歌も多数ありますので、そちらも興味のある方は調べてみてはいかがでしょうか。
それにしても当分欠かせない物の筆頭に煙草が挙がるのは、爺ちゃんらしいというか・・・
最期に入院するまでタバコは吸い続けていました。
ハイライトと太田胃散は欠かせないアイテムでした。
<追記>
食料を見付け出せと命令を受けていたにも関わらず、なぜ祖父たちは小隊長に怒られたのか分からないという質問を受けたので、想像ではありますが追記しておきます。
部隊は一夜を明かすためだけに野砲隊の宿舎に入り込んだだけですから、その場の空腹を凌ぐ分の食料を調達せよという命令だったのではないでしょうか。
それが敗戦を見越したかのように、祖父たちが食料を抱え込んでいる姿を見て、軍人にあるまじき行為であると叱ったのだと思います。
気持ちが先走りすぎて詳しい描写が削られている部分が多く、わかりにくいかもしれません(汗)
作中の「これはしたり」という台詞ですが、これは方言になるかもしれないので補足させていただきます。
こちらの意味は「しまった!」・「失敗した!」ということです。