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友は待っている  作者: 秋やん with かのんべびー
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はじめに


 第二次世界大戦後、65万人とも70万人ともいわれる民間人を含む日本人兵士などが捕虜となり、強制労働に従事させられた「シベリア抑留」。犠牲者は6万人にも上ると言われていますが、ソ連崩壊後の資料公開によって徐々に実態が明らかになってきています。

 調査結果では107万人が収容され、4年間で37万人以上が死亡したとされています。

 しかし、当時のことはあまり語られることはありません。


 飢えや寒さ、過酷な労働に耐え、生き抜いて帰国を果たした彼らは祖国で差別を受け共産主義に洗脳された赤色分子と危険視され、監視されたこともあったそうです。(赤色とはソ連の国旗の色に由来します)

 なかには元抑留者であることを隠して生活していた方もいらっしゃったと聞きます。

 私の祖父の元にも、何度か所在確認に役人が訪れたそうです。

 このような経緯も証言の多くない理由のひとつかもしれません。


 100万人以上の抑留者がいたのなら、100万通り以上の証言があるでしょう。

 この手記も当時を振り返った証言のひとつです。


 執筆致しましたのは15年前に亡くなった私の祖父です。筆を執ったのは七十九歳か八十歳のときでした。

 日頃から収容所にいた頃の話はしてくれましたが、戦後五十年を迎えるにあたって、なにか思うことがあったのだと思います。

 当時のことが祖父の心に深い傷として残っていることは、家族は皆知っていることでした。

 この手記も自ら出版社に持ち込んだものの残念ながら出版には至らず、仕舞い込まれたままとなっていました。

 そして祖父も亡くなり15年も経った現在、ふとしたことから原稿のことを思い出し、インターネット社会を迎えた現代ならば少しでも多くの方の目に留めてもらえるだろうと代筆で投稿することになりました。


 作中にあります「抑留讃歌」は、苦しみを分かち合った仲間たちを讃える祖父の自作の詩です。

 誠に勝手ながら、筆者が既に亡くなっていることから評価は受け付けておりません。又、旧仮名遣い、誤字脱字、方言に関する事その他、修正が必要な部分には手を加えてあります。

 更に手記の冒頭に「戦後五十年」とありますが17年ほど前の手記ですので、こちらもご容赦ください。

 

                     ◇


 2010年5月、シベリア特措法が可決しました。これはシベリアやモンゴルで強制労働させられた元抑留者に対し、手当が支給されるというもの。

 それまで賃金の支払を拒否してきた国が、やっと支払ってくれるのです。

 戦争が終わって65年。

 どれだけの方がご存命でおられるのでしょう。しかし既に亡くなっている方や日本国籍を持たない方は対象となりません。

 支払ってもらった賃金で仏壇に団子でも、といきたいところですが叶わないのが残念でなりません。

 15年前の2月17日、祖父が息を引き取ったその日は、海沿いの町には珍しく大雪が降りました。

 最期に家族へ遺した言葉は


「ロシアを忘れるな」



 時代が残した傷跡で生涯苦しみ続けた人間は、一体どれだけいるのでしょうか。

 

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