第1話 処刑台の魔女
私が最後に見たかったものは、空ではなかった。
焼きたてのパンでも、花でもいい。
この世界には、牢の壁より綺麗なものがたくさんあると、昔は知っていたはずなのに。
「顔を上げろ」
背後から肩を押され、私は石の台に膝をつかされた。
両手をつなぐ鉄の枷が鳴る。
空は、腹が立つほど青かった。
十三年ぶりに外へ出た日に、死ぬ。
それは少し、神様の意地が悪すぎるのではないだろうか。
広場を囲む柵の向こうで、人々がこちらを見ていた。子供を背に隠す女の人。
胸元の護符を握る老人。私と目が合う前に顔を背ける誰か。
酷いことをされているのは、私なのに。
立ち上がることさえ、もう難しいのに。
枷の内側に刻まれた文字が、また青く光った。
指先から肘へ、冷たいものが這い上がる。朝から何度も繰り返されているそれに、胃の底まで力を抜かれた。
魔力を奪う枷だと、牢番は言った。
魔女を弱らせてから首を落とせば、安全なのだと。
「魔女、ロゼ」
黒い法衣の男が、巻物を広げる。
「汝は神託において、王の命を奪う者とされた」
私は、男の靴の先を見ていた。
くすんで傷ついた靴は、石畳の砂埃がついていた。
7歳の春、神殿の神官の前で名を告げた。
祝福をもらえると聞いていた。
母が結んでくれたリボンを、人にも見せたかった。
けれど神殿の鏡が映したのは、炎に包まれた王城だった。
倒れた王のそばに、成長した私が立っていたという。
私自身には、光が眩しくてよく見えなかった。
その日、額に黒い紋様が浮かんだ。
その日から、私は家へ帰してもらえなくなった。
「二十歳を迎え、災厄の成就が迫る今、陛下の御名において刑を執行する」
誰も殺していないのに…
喉の奥で、言葉だけが動いた。
何度言っただろう。
最初の数日は、毎日のように訴えた。
そのうち、答えが返ってこないことを覚えた。
「首を」
肩をつかまれた。
逆らう力はなかった。石の上に頬を押しつけられ、乾いた埃の匂いを吸い込む。
もう、いい。
そう思っていたはずだった。
けれど、刃が鞘を離れる音を聞いた瞬間、身体が勝手に逃げようとした。
枷が鳴った。
誰かが私の背を押さえた。
いや────!!
唇だけが、そう動いた。
「執行を止めろ!」
蹄の音が、広場へ飛び込んできた。
背を押さえる手が緩む。
顔を上げることもできないまま、私は近づく足音を聞いた。急いでいるのに、少しも迷わない足音だった。
白い布の裾が、視界の端に入る。
次いで、剣の鞘が私と処刑人の間へ差し入れられた。
「刃を下ろせ。執行は停止された」
「フィデル卿。すでに王命が――」
「新たな王命だ」
頭の上で、紙の広がる音がした。
赤い封蝋。王冠の印。
黒い法衣の男がそれを受け取り、黙り込んだ。
私は石に頬をつけたまま、白い外套を見ていた。
裾には泥が跳ねている。
どこか遠くから、急いで来た人なのだろうか。
「……なぜ、今になって」
「事情が変わった」
「魔力は十分に奪っております」
「魔女を殺すと国にさらなる災厄が広がると、神官から忠告があった」
処刑人が言葉に詰まった。
国の災厄が広がる。
それを聞くと、無理に通すわけにもいかない。
処刑人は、間違いでもさっさと首を落としておくんだったと
密かに思った。
「魔女を殺せば、その身に留められていた災いが地へ放たれる。古の記録にも記述がある」
「そのような言い伝えを、閣下はお信じになるのですか」
「王命に背くつもりはない」
声は静かだった。
押さえつけられ、地面を見ていたエリスの耳にも聞こえていた。
助けに来たというより、間違ったことを正しに来ただけの人の声。
それでも、処刑人の背中を押さえていた手が離れた。
舌打ちもかすかに聞こえた。
「身柄は私が預かる。枷を外せ」
「危険です。移送には見張りが必要かと」
「移送する前に死なせてどうする」
白い外套の人が、私の前に膝をついた。
顔を見られると思って、反射的に目を伏せる。
「聞こえるか」
私は小さく頷いた。
「レオン・フィデルだ。王国騎士団を預かっている」
騎士団…
逃げれば剣で斬られると、牢番が何度も言っていた。
この人達に連れて行かれたら、いつ斬られるかわからない。
でも、今ここで首を切られるよりはいい。
「これからお前を移す」
「……どこへ…移されるのですか…」
掠れた声を、必死で出した。
「私の屋敷だ」
屋敷…
次の牢の場所だろうか。
尋ねようとしたところで、枷が外れた。
突然、体が自分のものではなくなったように軽くなる。しかし、身体が傾いた。
地面に倒れる寸前、受け止められる。
何をされるか恐れたが、騎士の手は動かなかった。
「歩けるか」
「…はい……」
そう答えるべきだと思った。
迷惑をかければ、処刑をやり直されるかもしれない。
膝を立てようとするが、震える足が地面を滑った。
もう一度、試そうとしたが。
「分かった。もういい」
返事をする前に、体がふわっと浮いた。
地面が遠ざかる。
怖くて、私は騎士の服をつかんだ。
柵の向こうの見物人がざわめく。
「殺さないのか!」
「王の災いをどうするんだ!」
魔女を抱いている、と誰かが言った。
彼はそちらを見なかった。
「閣下」
法衣の男が、階段の前を塞いだ。
「引き受けられた条件を、お忘れなきよう。万一の際には、貴家の責任となります」
「承知している」
「その娘は、陛下を殺すと予言された魔女です」
私を支える腕が、わずかに固くなった。
やはり、怖いのだろうか。
彼は私ではなく、男を見た。
「だから、王宮へは近づけない」
それだけ言って、階段を下りた。
私は、彼の胸元へ顔を伏せた。
救われたのではない。
殺すには都合が悪くなったから、別の場所へ運ばれるだけだ。
分かっている。
それでも、処刑台が遠ざかるのを見ていたら、つかんだ服から手を離せなくなった。




