第八章 小学生編 外伝②
誰でも苦手があるものそんなエピソードです。
私は、小学生の時はスポーツ万能で周りに認知されていました。
しかし、スポーツで苦手なものがあります。
※実はスポーツ万能ではない。
まず第一に、球技が苦手。
当時、小学生は、地区ごとにチームを作り、球技の大会があった。
大体5月くらいから練習があり、校区から勝ち残り選抜されたチームが市の大会にでるというものだった。
男子はソフトボール、女子は、フットベースボールと決まっていた。
私は友達の誘いもあり、1年生から通っていた。
当時は、親が迎えにくることなどなく、自分の足で練習場に向かい、自分の足で帰るのだ。
練習前には、カブトムシやクワガタを探したりと、楽しかった。
小学生低学年は、グランドのすみで、対戦形式の練習をしていた。
その時は、大きな実力差もないと思っていた......。
高学年になり、レギュラーを目指す練習が始まった。
私のポジションはライト、打席は9番しかも、補欠だった。
ここで私は悔しくなり、練習をしたが、特に変化はなかった。
そして、最高学年の6年生になり、お情けで、ライト、9番打席のレギュラーになった。
私はフライが苦手で、こっちに球がこないことを祈り練習を続けた。
ある日転機がおとずれた。
友達とピッチャーの投球練習を遊びでしていたのだ。
それが監督の目に止まり、急遽ピッチャーに指名された。
元々ピッチャーと決まっていたのは小学4年生の子だった。
私は、「ウインドミル」投法で、彼は、「スリングショット」だった。
紅白戦では、紅白に別れ、ピッチャーをした。
また、期間中に他の地区の子達と練習試合をするのだが、
途中からから彼にかわってリリーフピッチャーをやる機会も増えた。
そして、試合本番の日、先発メンバーが発表された。
私は、6年生最後とうこともあるだろうが、先発ピッチャーでの出場になった。
4年生の子は納得いかないで監督に詰め寄ったが、「君にはまだ2年の猶予がある」と言われ、
納得したようだった。
ピッチャーというものは重責である。
4球ストライクゾーンを外せば、フォアボールである。
たった、1ヶ月程度練習した私には自信がなかった。
しかし、最後の試合ということもあり、
なぜかうまくボールを投げることができた。
初戦は、なんとか勝利した。
第二戦目も先発でピッチャーに指名された。
ピッチャーは無難にこなせたが、
バッティングでヒットを打つことができたのだ。
球技が苦手な私にとって嬉しい経験だった。
2回戦は結果的に負け、私たちの球技大会は終わった。
球技が苦手な私でもピッチャーができたのは、
おそらく守備面でピッチャーに球が飛んでくることがなかったのが幸いだったのだろう。
第二に苦手なのはマラソンだった。
※この人すポート万能じゃないでしょ。
小学1年はケガで欠場、2年生は200人中30位。
3年生では、44位だった。
44位は褒めた成績ではないが、
大体4分の一の上位にいる。
友人達にそれおり、順位が引い子達がいたのですが、
4年の大会では私について行くというのです。
そして大会はスタートしました。
先ほども話しましたが、長距離は得意ではなく、
低学年の順位が良かったのは、集団登校の先輩方が、
私たちを引っ張って毎日登校してたからなのです。
私は、先輩方が卒業して、練習など一切してませんでした。
そして、4年生の大会では、頼ってきた友人の方を借らなくてはいけないほど、
全くは知れてませんでした。
結果は67位。今までの最低順位に愕然としました。
マラソン大会は、公道を一時的に封鎖して行われます。
当然学年が上がるほどに距離は長くなります。
小学5年6年になって私は気づいたのです。
長距離は私には向いてない。
「マラソンをみんなでゆっくり走ろうね」と
一致団結する人たちもいる。
私はその中に入ることにしたのだ。
当然マラソン大会の日には、それぞれの親(昔は母のみ)が応援にくる。
そこで手を抜くなど、失礼千万である。
しかし、私はゆっくり走った。
それが私での長距離での処世術のように。
結果、小学5年生で77位、小学6年生で80位だった。
近所の友達に1度だけ休日に練習に参加させてもらったことがあった。
彼らは少年野球の選手だったが、その子達の父親も付き添い、
とんでもない坂道と距離を走らされた。
それを平然とこなす彼らを見て、練習をしていな私ですが、
長距離は無理だと実感した。
幸い、中高ともにマラソン大会はなかったので、
これ以上惨めな思いをすることはなかった。
結果的に過去を思い出しわかったのは、兎に角反骨心がないこと。
なにもしていないのに、それが苦手であると思い込むことにより、楽な方向に逃げています。
これらが、鬱を発症する前のトリガーの一部になったとも考えられました。




